第十話「怪に遭いて、奇を知る」
翌日、秋子さんからいろいろと渡されて、二人は水瀬家の屋敷を出た。
荷物はやや重いような気もしていたが、祐一郎にはさして問題でもなかった。
一方、名雪にとっては藩領から出るのは初めてではないだろうか?
「いってらっしゃいね。」
それでも秋子さんはいつものように微笑むばかりであった。
やがて二人の姿が角に消えると、秋子さんは玄関へと身体を向ける。
「奥様…」
「どうかしましたか?」
源助が心配そうに尋ねてきた。
「真琴様が起きてきませんが…」
素性不明の居候にさえ、様を付けるというのはやや滑稽にも思える。
水瀬家の人間らしいと言えば、らしいのだが…
「ああ」
秋子さんは表情をそのままに反応する。
「大丈夫ですよ。」
「はあ…」
やはり何が大丈夫なのかは分からない。
相変わらずの秋子さんに、源助の方もそれ以上尋ねることはなかった。
「………」
祐一郎はどうも妙な表情で城下を外へと向かう。
名雪の方は対称的に楽しげな表情で歩いている。
いつも通りと言えば、いつも通りではある。
これもまた、水瀬家の日常だ。
「……仙台は祐一郎も初めてでしょ?」
「ああ…」
「楽しみだね。」
「…なあ」
「ん? どうしたの?」
「お前は後方のわざとらしい動きをしている物体に気が付かないのか?」
「え? なんのこと?」
「…いや、なんでもない。」
「?」
祐一郎はこの場での追求は避けることにした。
神尾と会う前から気づいていたことがばれては、具合が悪いとでも思ったのだろう。
(この場で追っ払った方がいいのか…?)
そうとも考えたが、祐一郎には気乗りしない選択であった。
結局、祐一郎もそれ以上は考えるのをやめ、まだ見ぬ仙台の地を想像することにした。
………
そして、落ち合い場所である。
街道の茶店に、二人と同じ旅装束の男が二人。
その一人が二人に気づいたようで、手にしていた茶を傍らに置き、手を挙げた。
二人も頭を下げる。
だが、向こうのもう一人は相変わらず茶を飲んでいた。
「神尾様、お早うございます。」
「うむうむ、天候もよく、幸先がよいわ。」
そう言いながら笠の前部を押し上げ、青空を見上げる。
確かに空は澄み切った青空であり、出立の日には最適であった。
「まるで夏空のようだね…」
「冬の空も澄んでいるものだ。」
三人が他愛ない天気の談笑をする。
そこに、もう一人がいつの間にか現れる。
「昨日は夕焼けだったからな。」
「そういえば…確かに。」
「まあ、迷信らしいが、な。」
ニヤリとする。
「はあ…」
(自分で言いだしておいて…)
やはりよく分からない男だった。
「さてと。関所の手間もあるし、早いうちに出かけたいが…」
そう言いながら、神尾は会津若松城こと鶴ヶ城の方を見る。
いや、正確にはその方角の木陰を見ていた。
「あの娘…そなたの連れであろう?」
「おお!? いつの間に!」
「わっ、びっくり。」
二人の驚き(の落差か)に神尾の方が驚いた。
「…名雪殿はともかく、祐一郎殿はわざとらしいな…」
国之崎が冷静な分析を言う。
(余計なことを…)
祐一郎は心中苦々しく思った。
まあ、事実だから仕方ない。
「相沢、一体どのような…いや、そんなことより何者だ?」
「いやはや、俺には全く気づく余地も…ではなくて、あいつは…」
と、そこで祐一郎は少し考える。
「水瀬家の居候ですよ。」
「居候…それではそなたとさして変わらぬことになるぞ。」
「そうなるでしょうか。」
「名雪殿、それに相違ないか?」
問われた名雪は平和なもので、
「うん、私の屋敷で預かっている子だよ。」
と言う。案外本気でそう考えているのかもしれない。
「まあ、それなら心配ないが…」
神尾はそれほど気にはしていないようだが、
「神尾様、それでどうなさるのです。」
国之崎がもっともなことを言う。
「ん? …相沢、どうするのだ。」
「え……ちょっと、聞いてきます。」
「あ、私も行くよ〜」
ということで、二人はその木へと向かう。
………
「わっ、奇遇。」
「この期に及んで、そんな馬鹿げた科白が通用すると思っているのか!」
真琴の前に現れるや否や、祐一郎の怒声が飛ぶ。
「あ、あたしは別に…」
「俺の寝首を掻こうという算段だろうが、この時点で気づいている以上、失敗だな。とっとと帰れ。」
ビッと、祐一郎は鶴ヶ城の方を指さす。
「城なんかに入れるわけないでしょ、無茶なこと言わないで。」
「誰が城と言った! 屋敷に帰れと言ったんだ!」
「真琴はたまたまここに来ただけだもの、帰る筋合いじゃないわよ。」
「はあ………とにかく、俺たちは仙台に行くんだから、これ以上は付いてくるなよ。」
「別に付いていってなんかないわよぅ。」
「ああ、そうかい。」
祐一郎は足音も荒く、真琴に背を向ける。
それを見た真琴は何やら慌てた様子だが、祐一郎は気にもとめない。
一方、いつの間にか第三者になっている名雪は困惑顔だ。
「祐一郎…」
何か言いかけるが黙る。
「………」
祐一郎は沈黙。
「あ、あの…」
真琴も何か言いかけるが、それ以上は出てこない。
妙に青空に映える沈黙がしばらく続いた。
そして、神尾たちの方を祐一郎がちらりと見たときだった。
「はあ……お前を放っておくと、道中何をしでかすかわからんからな。神尾様たちに説明するだけしておく。」
「え…何を…」
「ほら、とっとと神尾様たちの所へ行くぞ。」
「う、うん…」
………
「ほう……忍びの類か。」
神尾が感心する。
無論、祐一郎が言ったことだ。
「はい、何かの役にも立とうかと思いますので、お連れ願いませんか。」
「よかろう。この辺りの忍びとならば、仙台のことにも多少通じておろう。」
「はは、それが記憶喪失でして…」
「なんと…」
つまり役に立たないのではないか、と言われそうだったが、この際体裁など気にしていられない。
「私、別に殺し屋じゃ…」
と、一方真琴は言いかけたが、不利になるだけなのでやめる。
国之崎は非常に怪しんだ目で見ているが、祐一郎は気づかぬ振りだ。
「まあ、よかろう。旅は多い方が楽しいと言うからな。」
そう言って、神尾はにははと笑う。
忍びの類を居候としている時点で「すごく怪しい」のだが、神尾は気にする風もなかった。
いや、気が付いていないだけかもしれないが…
「だが、食料と路銀は大丈夫なのか?」
「ええ、それは心配ないと…」
そう言いながら、真琴を見る。
「あ…う、うん…」
真琴もおずおずと頷く。当初持っていた一朱銀以外も今は持っているはずだ。
「御飯も大丈夫だよ、お母さんが三人分入れてくれたからね。」
「何!?」
聞き捨てならなかった。
(秋子さんは知っていたんじゃないか………)
どうして秋子さんがこのようなことをしたのかは謎だが、とりあえずは助かった。
心中感謝する。
「さて、茶店に銭を置いてくる。待っておれ。」
そう言って、神尾は先ほどの茶店へと向かった。
その姿はとても上士のそれとは思えない。思えば、供の者も国之崎一人というのは妙だ。
同時に、その国之崎が祐一郎へと寄ってくる。
「どういうつもりだ? 嘘八百並べ立ててまで弁護するとは。」
「おや? 嘘は言っていないつもりだが。」
「ふっ…まあ、いいか。だが、忍びなどと、下手なことはあまり言わないことだな。」
国之崎はそれだけ言い残して離れていった。
特に悪意はなかったように思える。
無難に事を済ませることができ、祐一郎は安堵した。
「祐一郎」
息を吐く間もなく、今度は名雪だった。
「祐一郎、真琴ちゃんを助けてあげたんだね。」
「いんや、あんな危険な奴を監視外に放っておいたら、道中百鬼夜行になっちまう。だから監視内に取り込んでおいた方が安全だと思ったからこうしたまでだ。」
「うんうん」
名雪は聞いていないのかと思うほど、笑顔で頷いた。
「やっぱり祐一郎は優しいもんね。」
「馬鹿言え。優しい人間だったらとっくに屋敷に追い帰している。」
「祐一郎はやっぱり祐一郎だよ。」
祐一郎には意味の分からない言葉(会話か)だったが、とりあえず墓穴を掘ったということだけは理解した。
その会話の最中、真琴は一人呆然と立ち尽くしていた。
「祐一郎…あの…」
祐一郎は真琴の方に向き直る。
「真琴、神尾様に迷惑をかけるような真似はするなよ。」
「う、うん…」
こうして、奇妙な五人道中が始まった。
「戊辰戦争見聞」において、このくだりは実に間延びした調子で書かれている。
そこには神尾と名雪の浮世離れしたような会話が細切れに描かれているが、まさかこの一行が軍事的に重要な用件を持っているとは到底思えまい。
それだけにこの日に起こった事は、仙台でのことを除けば、道中もっとも大きなことと言えるだろう。
だが、その内容は奇妙で不可解な会話の羅列である。
一体この日、何が起こっていたのか。
どうやら会津若松を発って二日後のことのようである。
正確な地名が記述されていないので、どの辺りかなどは何とも言えないのだが、一人のどうってこともない男が街道に居たのだ。
「あの男…」
祐一郎は、何とはなしに気になっていた。
「どうしたの?」
「いやな…あの男がどうも気になって。」
「あの人?」
名雪がまじまじと見るが、別に何か気づいたということはないようだ。
その男は道端でうずくまっていた。
古びた笠に顔を隠しており、その表情を伺い知ることはできない。
普通ならば、単に居眠りしているだけと捉えられたかもしれない。
だが、この時の祐一郎は漠然と別の判断を下していた。
「よし、ちょっと一息入れるとするか。」
祐一郎の思惑とは別に、神尾がそう言った。
懸念していた名雪と真琴は予想以上の健脚で、予定よりも早く仙台に辿り着けそうだった。
そう急ぐ必要もなかったわけだ。
「………」
祐一郎は無言でその男に近寄る。
その光景を名雪は首を傾げて見守っていた。
「もし、そこの方。」
祐一郎は念のために丁寧な言葉を掛けた。
男は少しばかり反応したが、笠の下の顔を上げる様子もない。
「………」
沈黙しているが、反応した以上、耳には届いているはずだ。
では何故返答しないのか…
「やはり…」
これは祐一郎の声ではない。笠の下から聞こえた声、のようだ。
喋れないわけではないらしい。
「………?」
放っておけばいいものを、祐一郎は離れようともせずにその続きを待つ。
やはり何か気になるのか。
「お侍様、何故感づきなすった?」
「……は?」
言っている意味が分からない。
「やはり本物か、それとも私が未熟なのか…」
「待て待て、何を言っているのだ?」
「いや、お気になされますな、こちらで勝手にやったこと。」
そう言って、立ち上がる。
まだ笠の下の顔は見えない。体格は若い小男というところか。
「何やっているの、祐一郎。」
そこへ、真琴が現れる。
「いや、なに…」
当の祐一郎もどう答えていいのか分からない。
別にこの男がどうということもないのだ。
「む…」
男がふいに声をあげる。
笠に隠れてその反応の矛先は見えない。
「誰?」
真琴が祐一郎に尋ねる。
当然、
「知らない」
の答えが返ってくる。
「…なんか怪しいわよ、この人。」
「お前ほどじゃないけどな。」
「真琴は『沢渡真琴』だもん。何も怪しくないわよ。」
「偽名などで信用が増すとでも思ったか?」
「偽名じゃない! 何度言えばいいのよ!」
真琴が再び食ってかかる。
男は沈黙を保ってその光景を眺める。
だが、微かながら反応も見せた。
「……り…ふん、そうか。」
「何?」
真琴を制して、祐一郎が男に顔を向ける。
だが、それだけである。聞き取ることはできなかった。
「ここまでは…気づかれなかったか。」
「だから、さっきから何を一人で言っている?」
流石の祐一郎も不機嫌そうな声をあげる。
「そなた何者だ? 顔を…」
といいながら、手を出しかけたとき、
ザザッ!
「な!?」
「わっ…」
男が後方へと飛び下がった。
それだけなら大したことでもなかったが、その飛び方、飛んだ距離、尋常ではない。
(怪しい…)
国之崎に続き、二人目の怪しい奴と出くわしてしまったのだろうか…
いや、真琴を加えれば、三人目となるか。
(これも乱世か?)
祐一郎はそう判断したが、真琴は乱世型の人間ではなかろう。
考えてみれば、この男もいい加減な男である。
「……」
男は相も変わらず笠に顔を隠し、身構えている。
祐一郎も真琴も流石に警戒心を持たざるを得ない。
見かねた名雪が飛んできた。
「祐一郎! 一体、何!?」
こう書くと、相当慌てているように見えるが、実際にはそれほどでもない。
だが、その向こうで休息をとっていた二人は驚いたようだ。
怪訝そうな顔をして神尾が立ち上がるのと同時に、国之崎がこちらに駆けてくる。
「…何事で。」
冷静な声で尋ねる。ある意味怖いものだ。
「いや…」
やはり祐一郎にもどう答えたらいいのか分からない。
何がどうなっているのかさっぱり理解できないのだ。
「ああ、お待ち下され。」
と、また別の声がしてきた。
見れば、男の後方の林から、また別の笠をかぶった男が現れた。手には山伏が持つような錫杖がある。
「何だか話がややこしくなりそうな気がするぞ…」
祐一郎はふと呟いたが、その根拠は男の後ろに大量の笠があったからだ。
もちろん笠だけではない。下には人間がいる。
揃って顔が見えない上に、林から現れ、しかも先頭の男以外林から出てこようとしない。
これを怪しいと言わずして何と言おう。
祐一郎たち五人は、もはや呆気にとられているしかなかった。
「いや、我が手の者が御無礼致した。謝り申す。」
そう言って、先頭の男は意外にもあっさりと笠を取った。
何のことはない。普通の男である。ただそのたくましい肉体が並の者ではないことを示すのみだ。
「いや、別に非礼を働かれたわけではないが…一体?」
「はは、私が承諾してやらせたこと、あの者に責はございません。」
「はあ…」
目の前の男も怪しさという点ではさっきの男とさして変わらない。
だが、話慣れた口調で喋る点は、幾分か警戒心を緩ませるものであった。
それでも男は祐一郎が聞きたい肝心なところを答えようとしない。
また、それを許さぬ雰囲気でもあった。
「害はないようだな…」
楽観的な神尾はそれを確認したことで安心する。
こんな怪しい男たちと、道中喧嘩働きをする愚行は冒せないのだ。
「ところで…相沢祐一郎殿でございますな?」
「!」
唐突としか言いようがない。
目の前の男の発言には、祐一郎のみならず驚いた。
「……何故俺の名を知っている?」
「いえいえ………風の便りに聞いたまでのこと。」
「俺はそこまで有名な男ではない。本当のことを申せ。」
「申し訳ありませぬが、こちらとしては話しておきたいことがございまして…」
奇妙な話の運びようだ。
これでは、さっきの男が道端にいたのはまるで意図的であったかのようである。
それどころか、祐一郎が話しかけたことまでもが計算ずくであったようにさえ思える。
しかも、一方的である。
「ほらあ、やっぱり怪しいわよぅ。」
真琴が祐一郎の袖を引っ張る。
「怪しいが、お前のような害はない。」
「あう…」
「相沢様、今の世で、怪しくない者が必ずしも信用できますかな?」
口元に微笑を浮かべ、その男は言った。
「いや、そうは言わないが…」
「旗本は臆病風に吹かれ、御大名様は寝返り、将軍様は将兵を見捨てなさる。」
「………」
祐一郎は苦虫を噛みつぶしたような顔になった。
つい先日、将軍たちが大坂城から脱走したという事実を聞いたところだったのだ。
しかもその中に自分の主君が入っていたとなれば、気も滅入ろう。
だが、幸いにも江戸屋敷から来た連絡は「主君に戦意有り」という希望的なものだった。
懸念は将軍の動向だけである。
「実際に志を持つ者は、薩長土肥、浪士、偽武士、田舎学者、筋目の怪しい旗本御家人…」
筋目の怪しい旗本御家人とは、御家人株を買って武士になったような者のことであろう。
この男、予想外にも事情通のようだ。
祐一郎も疑惑の目を少しずつ解き始めた。
「…そなた、随分と世情に通じておるな。」
「おそれ多いことで。」
軽く頭を下げる。
「お判りいただければ我が意は大方通じたも同じ。感謝いたします。」
さらに下げる。
「……?」
祐一郎は逆に首を傾げる。
そんなことを言いに、わざわざこんなことをしたのだろうか。
そもそも、それで何を言いたいのかが分からない。
「何を言いたいのだ?」
神尾が堪らず尋ねる。
「いえいえ……お心の片隅にでも覚えていて下さればそれで結構でございます。」
つまり、真意は言えないということか。
あまりにも意味不明、矛盾の多すぎる会話に、祐一郎は頭が痛くなりそうだった。
「要はですな…信義というものを出自不明の方も持っているということで…」
言ってから、男は少し言い過ぎたかという顔をした。
「出自不明の者も、か。」
「はは、まあ、要は、ですがな。」
苦笑しながら男は釈明でもするかのように言った。
だが、結局言いたいところははっきりとしない。
出自不明…
祐一郎はちらりと真琴を見た。
真琴は、奇妙な生き物でも見るかのように、男と笠の群を祐一郎の陰から見ている。
(こいつにも、信義があるというのか…?)
しばらくの間、眺めてみる。
馬鹿馬鹿しい。
祐一郎はそう呟いた。自分を殺しに来た人間に信義があるとしたら、それは好ましくない信義だ。
だが…
だが、名雪やあゆの言った言葉が、妙にこの時は気になった。
どの言葉が、というわけではない。
妙に真琴を信用しきっているようなあの会話全体である。
二人にとっても、真琴は全く知らない存在のはず、なぜ、あのようなことが言えたのだろうか…
二人の性分といってしまえばそれまでだが(現に浮世離れした二人だけに)、
もしかしたら祐一郎に見えていないことがあるのかもしれない。
それは祐一郎には否定も肯定もできないことではあったが。
「さて…皆様の足を引き留めるわけにも参りません。そろそろ我々も失礼…」
男は唐突に切り出した。何から何まで先の読めない男である。
「あ、ああ…」
呑まれたような雰囲気で、五人はそれを呆然と見送る。
男は笠をかぶり直し、手の錫杖を軽く突きながら笠の群へと戻っていく。
ふと、男が立ち止まった。
「おっと…相沢様」
「何だ?」
「相沢様は、奇跡を起こしてみたいと思ったことはございませんかな?」
「何?」
またまた唐突である。
「世には、奇跡を起こしてみたいと思う者が大勢おりましてな。」
「……」
「その願いは、大方叶うことはありませぬ。ですが、その限りでもありませぬ。」
「ふむ…」
「…ある者が、その強い思いを叶えようと奇跡を願ったとすれば、それが届くことはなきにしもあらず。」
「さもあろうな。」
「ある者が、奇跡を願いましてな。幸いにもそれは叶おうとしております。」
「そうか…それはよいことだ。」
「もしも…もしも、その者が相沢様の近くにおれば、相沢様はその者の願いの叶うことにご協力なさいますかな?」
「無論のこと」
「それを聞いて安心いたしました。」
「うむ、それは結構………って、それだからなんだというのだ。」
祐一郎には全く関係ない話に思える。
そもそも話の内容すらよくわからない。
「相沢様は、戦場に立たれるのですな。」
「そうだ。」
「私が思うに、相沢様は奇跡というものに近い所にいるお方のようですな。」
「何故、そう言える?」
「先ほど、あの者に話しかけられましたな。」
「俺は話しかけただけだぞ。」
「それで十分なのでございますよ。私にはよく分かり申しました。」
「………」
この男に分かっても、祐一郎たち五人にはさっぱりわからない。
とりあえず、深くは追求しないことにした。
「相沢様は、戦場で奇跡を願うことでしょう。」
この情勢では、である。
「戦場では誰もが奇跡を願うものです。相沢様、決してあきらめなさいますな。相沢様には………はは、少々出過ぎたことを申しましたな。」
またも男は釈明でもするような笑みを浮かべた。
「また、お会いすることとなりましょう。その時には、我ら共に戦う所存でございます。」
男はそう言いながら、再び林に顔を向けた。
「待て」
「はい?」
祐一郎は呼び止めていた。
「そなた…名は何と申す?」
言ってから、愚問と気づいた。
「名前でございますか……霧島…霧島乃太夫、と覚えていて下さりませ。」
「…そうか」
聞いたところで、偽名が返って来るに決まっていた。
だが、戦陣を共にする男の名前を知ることは必要でもあったのだ。
「先ほどの男の名は、悪猫軒広助(あくびょうけんひろすけ)、この者もお見知り置き下さい。」
「それはまた…」
源平時代の武士のような名前である。
しかも、顔も見せない男の名に、「お見知り置きを」はないような気がする。
大体、何故この男の名を知らねばならなかったのか…
「それでは…失礼いたします。」
男が丁寧に頭を下げると、林の中にいる笠の群も、一斉に頭を下げた。
やはり何とも言えない怪しさがある。
というより、ここまで書いて、理解することすら不能な部分が多々ある。
「戊辰戦争見聞」の著者もどこまで解釈できていたのだろうか…
そうこうしているうちに、男たちはするすると林の中に消えていった。
やはり並の人間どもではないようである。
「怪しかったな…」
「うん…」
呆然とそれを見送る五人。
「何なのよぅ、あの人たち。あんな怪しい人たちに祐一郎は知られているの?」
「んなわけあるか。あんな連中、見たこともない。」
「本当は知り合いなんでしょ?」
「俺じゃなくてお前がだろ。どうも忍び臭いところはあったぞ。」
「私は忍びじゃ…!」
と、言いかけてやめる。
「あ、あう…なんでもない。」
「そうかい。」
あまり神尾たちの前で素性を混乱させることは言うべきではない。
真琴には不利な条件であった。
「でも、あんな人たち、私だって見た覚えないわよぅ。」
「記憶喪失らしいからな。」
「う、うん…それは…そうだけど…」
「一人も見覚えなかった?」
名雪が問う。
「顔を見せなかった連中に、見覚えがあるとはおもえんぞ。」
「それがそうでもなくて…なんか、さっき言っていた、あく…えっと、あく…」
「悪猫軒広助という奴か?」
「そうそう、その男。私、あの男とどこかで会った気がする。」
「ほう…」
「でも、顔も見てないから、多分勘違いだと思うけど…」
真琴が困惑気味に話す。
それを聞いて、少し思い出そうとしてみた祐一郎だったが、すぐにやめる。
何一つ、印象に残るようなことがなかったのだ。
「でも、向こうが知っているんだったら、声くらい掛けてくると思うよ。」
名雪がもっともなことを言う。
「そうだよなあ。やっぱり、勘違いじゃないのか?」
「うん、私もそう思う…」
そこに神尾が入ってくる。
「しかしあの男、なかなか面白いことを言っていたな。」
「まあ、確かに。何だかよく分かりませんでしたけど。」
「奇跡か…私も、よく考えるのだ。」
「何をです?」
「この空に奇跡を司る者がいて、我らの願いを気まぐれで叶えてくれるのだとな。」
「気まぐれでですか…」
「奇跡とは、そういうものかもしれん。」
「いえ、奇跡でもなんでも、己の力で努力せねば手には入りますまい。」
「そうか…まあ、それもそれで面白いことと言えるがな。」
神尾は楽しそうに笑う。
「ふん…」
国之崎は、結局一言も発することはなかった。
何か、己で考えていたのだろうか…
「祐一郎は、頑張ればできるからね。」
名雪が嬉しそうに言う。
「そんな話はしていないぞ。」
「同じことだよ。きっと、奇跡に近い所っていうのもそういうことだと思うよ。」
「それは違うと思うぞ…」
とは言ってみたものの、祐一郎もよく分からないのだからそれ以上は何とも言えない。
「あの人も、祐一郎はその気になればできるって分かっていたんだよ。」
「俺は会ったことないっつの!」
「私は知っているもん。祐一郎は本当はすごい人だもんね。」
「恥ずかしくなるようなことを言うな!」
祐一郎と名雪の会話を、神尾はにやにやしながら見ていた。
国之崎はさも興味なさそうに空を見ており、
真琴は怪訝そうな顔をしていた。
大きなことと書いてはみたが、道中が平和であることに変わりはなかった。
そして、一行は仙台へと向かう…