第十一話「硝煙の香」

 先述したとおり、仙台は伊達家の領地である。
 江戸中期には六十万人の人口があったという記録もあり、奥州最大級の大都市である。
 藩祖独眼竜政宗公を初め、何度か名君を輩出している土地でもあるため、統治がよく行き届いており、領内の治安はよい。
 そのお陰で道中危険なこともなく、五人は仙台城、別名青葉城の城下にやって来た。
 「ほほう…これは見事な。」
 神尾が笠を持ち上げて感心する。
 国之崎も無言で頷いた。
 いやはや全く見事な城である。最近改修したばかりの城郭は遠目にも輝いて見える。
 一方、違うところに目を向けている者もいる。
 「わあ…結構雪が多いね。」
 「若松は結構融けちまったからな。」
 「じゃあ、雪も持って帰ろうよ。」
 「止めないが、あまりいいことはないと思うぞ。」
 「……?」
 首を傾げる名雪をよそに、祐一郎は神尾に声を掛けた。
 「神尾様、それでどなたに連絡なさるのですか?」
 「とりあえず、前に言った星恂太郎殿に書状を送っておく。」
 「え…? 神尾様、面識があるのですか?」
 「いや、ない。」
 「それでは、いきなりというのは…」
 「いや、誰一人として面識がない以上、直接本人に送るのが一番だ。」
 「……」
 呆然とする祐一郎。
 だが、確かに墨人から直接指導を受けたような男だ。
 そういう男との交渉には、型破りな交渉こそ似合うのかもしれない。
 祐一郎も神尾案に頷くことにした。
 「向こうにも都合があろう。旅籠に宿を取り、連絡を待とうではないか。」
 「では、書状は拙者が…」
 そう言って、国之崎が神尾から書状を受け取る。
 「屋敷はどこにあるのかはご存じで?」
 「うむ、だいぶ前に来たときに描いた地図がある。それを…」
 「いえ、結構でございます。」
 「…そうか?」
 「はい」
 普通なら役に立とうものを、国之崎は神尾の地図を断った。
 これには名雪と祐一郎が首を傾げた。
 国之崎の方は、振り向きもせずに城下の武家街へと向かっていく。
 「どうかしたのでしょうか?」
 「いや、わからんな…」
 神尾が分からないのだから、祐一郎たちに分かるはずがない。
 「それより、とりあえず宿を取るとするか。」
 「そうですね。」
 考えても分からないことをどうこう言ってもしょうがなかった。

 「おっきな城下町…」
 城下に入ると、真琴は妙に感心していた。
 「なんだ、お前が活動していたところは田舎ばかりだったのか。」
 「なによぅ、活動って。真琴は生粋の会津生まれだって言っているでしょ!」
 「言ってないぞ、そんなこと。」
 「あれ…? そうだっけ?」
 「ああ、そうだ。記憶喪失の人間の言葉なんて、当てにならないよなあ?」
 「あう……で、でも、真琴は会津生まれなのは確かよ! そうよ、間違いないわよ!」
 何やら必死である。
 確かに真琴の言うとおり、会津訛らしき響きがそこここに見られる。
 だが、生粋の会津人だったらもっと訛が強いのではないか…
 「根拠もないのに、えらく自信はあるんだな。」
 「会津は大好きな所だもの、自分の故郷くらい分かるわよ。」
 (確かに…)
 そう言われてみると、真琴の言っていることが正しいような気がしてきた。
 「分かった、生粋の会津の殺し屋ってわけだな。」
 「誰もそんなこと言ってない!」
 「二人とも、あまり往来で騒ぐな。よその城下なのだからな。」
 そこに神尾が注意を入れる。
 気が付けば、周囲の町人の何人かがさも面白そうに眺めていた。
 たとえ会津若松の城下でも往来で騒ぐべきではないが…
 「あ…はい、申し訳ございません。」
 「なによぅ、ちょっと騒いだくらいであんな目で見るなんて、ここの人間は…」
 「…その先は言うな。」
 かろうじて祐一郎が制する。
 真琴も、周りに気づいたか、素直に言うとおりにする。
 独り名雪は真琴の言おうとしていたことを想像していた。
 …だが、その情景を冷ややかに見ている者もあった。
 町人姿の、いかにも柄の悪そうな男である。
 その男は祐一郎と真琴が黙るのを見るや、駆けだした。
 当然、四人は気づかない。


 所変わって、仙台城下の町奉行所である。
 門には暇そうな門番が二人、その門番が欠伸をついて空を見上げる。
 今日はやや雲が多い。空を飛ぶ黒い鳥もやや背景に紛れているように見える。
 と、そこに先ほどの男が駆け込んでくる。
 門番が見咎める様子もない。
 どうやら町奉行所の関係者のようだ。
 男が駆け込んだ先、町同心の溜まり場でも同様に暇そうな光景があった。
 「なんだ、政吉か。そんなに急いでどこへ行く?」
 その暇町同心が駆け込んできた男に尋ねる。
 「へい、御奉行様のお耳に入れたいことが…」
 政吉と呼ばれた男は曖昧な作り笑顔で、言葉尻を濁す。
 同心の方も深く聞こうとする様子もない。
 「む…政吉ではないか。こんな刻限に何事だ。」
 そこに三十歳ほどの町与力が現れる。
 二の腕が太く、剣を持たせればかなりの腕を見せそうな男である。
 「ちょいと妙なものを見ましてね…御奉行様はいらっしゃいますかね?」
 町与力に対する口振りとも思えない。
 やはりこの男、ただの町人ではないようである。
 「聞く価値があるのなら、御奉行は奥だ。」
 「へい、ありがとうごぜえます。」
 急に卑屈な態度になった男は慣れた手順で裏へと回る。
 そこは縁側であった。
 こぢんまりとした庭があり、それを前に一人の男が刀の手入れをしていた。
 「津田か? 何事だ。」
 「お奉行、政吉が申し上げたき儀があると。」
 津田と呼ばれた先ほどの与力が伝える。
 「うむ…聞こう。」
 刀の手入れを止め、男が庭を見た。
 その目つき、剃刀のような鋭さがある。

 ここで、町奉行所の職制について解説しておこう。
 江戸には町の治安維持組織が二つ存在した。
 大岡越前守や遠山金四郎で知られる、南と北に分かれている町奉行所と、「鬼平犯科帳」の長谷川平蔵で一躍世間の注目を浴びた、火付盗賊改方である。
 ここは仙台の町奉行所だが、構造的には江戸の町奉行所と似通っている。
 すなわち、町奉行をトップとして、その下に「与力」と呼ばれるものがいる。
 規模によってまちまちだが、江戸には南北合わせて50人の与力がいた。
 与力は組下を指揮して自分に割り当てられている仕事を務めるのである。
 その組下にいるのが「同心」である。
 同心は与力付となっており、与力の仕事の手足となる。
 さらに町同心が私的に雇っているのが「目明し(岡っ引き)」であり、これは公職ではない。
 与力と同心は組屋敷と呼ばれる屋敷群に住んでおり、基本的にひとまとめに扱われている。
 だが、奉行は短期間でころころ変わる。
 一方、与力と同心は奉行が代わっても引き続き自分の職務を続ける。
 町与力たちは町奉行の組下ではないのだ。
 これに対して、火付盗賊改は、御先手組などの組下を付けられている者が、
 本業とは別に仰せつかる役職である。
 従って、与力と同心は自分の御先手組としての組下の者である。
 一方で、町奉行所のような特別の役所はない。自分の屋敷がそのまま役所となる。
 費用も(特別手当はあるが)自費負担となるため、正直かなり辛い役職なのだが、
 町奉行所が規則に縛られざるを得ないのに対して、火付盗賊改は結構独断で務めを遂行できるという利点がある。
 この辺りは、新選組が浪人部隊ゆえに自由な活動ができたのに対して、京都見廻組が旗本子弟で組織されていたため行動が制限されたところに似ている。
 そういうこともあり、火付盗賊改より町奉行所の上下の結びつきは薄いと言えよう。
 いずれにせよ、百万人都市の江戸が600人にも満たない人数(しかも日常の治安維持は町奉行所単独であることを考慮すれば)で治安が保たれていた(しかも世界最高水準で)ということは、驚嘆に値することである。

 話を戻す。
 奉行が政吉の方に目を向けた。
 「政吉、申してみよ。」
 「へい、実は先ほど町で妙な連中を見かけやして…」
 「妙な連中…とな?」
 「お武家様が二人、これに武家の妻女と思われるのが一人、そして妙な小娘が一人」
 「侍が二人か。」
 これだけなら別に懸念すべき事態でもない。怪しげな小娘がひっかかるだけだ。
 だが、二人の目つきはゆるまない。
 「それで…何をしておった。」
 「お武家の一人が小娘と何やら騒がしく口論を。それを町人が見ているという次第で。」
 「ほう…」
 「どうにも妙な一行だったので、念のためにお耳に入れておこうかと。」
 「うむ、殊勝な働きであった。誉めて遣わす。」
 どうやらこの政吉という男、与力の津田が雇っている密偵のようである。
 その為、奉行も熱心に耳を傾けているわけだが、確かに浪人ならともかく、立派な武士らしき男が妙な小娘と口論をしていれば怪しかろう。
 だが、二人が懸念していたのはそれだけではないようである。
 「新手の芸人かのう?」
 「さて…それにしては妙なことで。」
 武家が二人というのが解せないのだ。
 「仮に町人ふぜいが侍の格好をして路銀を稼いでいるのであれば、由々しき仕儀だ。」
 「左様でございますな。」
 「私が直接行こう。いくらか人数を用意しておけ。」
 町奉行が与力津田にそう命じる。津田も当然の如く頷いた。
 だが、妙である。
 何故このように大げさな警戒を見せるのだろうか…
 それにわざわざ奉行が赴くというのも妙だ。
 与力たちに任せておけばいいようなことではないか。
 やはり、この男たちには何か別に思案があるようである。
 「お奉行!」
 そこに、若い同心が駆け込んでくる。
 「どうした?」
 「星様の屋敷に見慣れぬ客人が、とのこと。」
 「何!?」
 町奉行の反応は尋常ではない。
 「それで、どのような男だ?」
 駆け込んできた同心は落ち着いた声で答える。
 「何やら郷士のような格好をしており、目つきが悪い男で前髪を垂らしていたとのこと。」
 郷士は藩士ではない下級武士であり、足軽よりも下とされていた。
 「怪しいな…」
 「はい、怪しいですな…」
 津田も同調する。
 町奉行はしばらく考えていたが、ふと顔をあげて言った。
 「予定を変える。これより星殿の屋敷へ…」
 と、言いかけたところで止める。
 「待て…政吉、先ほどの一行の様子を詳しく教えよ。」
 「へい、二人のお武家は中堅藩士のような様子で腕はさほどというほどでもなさそうでございました。」
 「女の方は。」
 「武家の妻女らしきものは、妙に眠たげな仕草をしており、何者か判別できませんでして」
 「こいつも怪しいな…」
 町奉行が唸る。
 名雪たちが聞いたらなんと思うだろうか…
 「そして小娘、これが騒がしく、ただの武家奉公とは思えませぬ。」
 「もしや囮…もしくは偽装工作か…」
 「すると、お奉行は何か関係があると?」
 「かもしれぬ。」
 大当たりである。
 が、明らかな考えすぎであろうこともまた明白である、
 「よし、とりあえず星殿の屋敷を引き続き見張れ。その男が出てきたら付けろ。」
 「承知いたしました。」
 「私は手の空いている同心たちで、妙な連中を尋問する。」
 「では、早速手配を。」
 「うむ」
 奉行が頷く。
 その顔には、野心と自信が表れていた。


 「では、夕刻にまたお待ち申しております。」
 「うむ」
 主人に見送られ、旅籠から祐一郎たち四人が出てくる。
 とりあえず旅籠に宿を取り、その後で国之崎、もしくは星からの連絡を待つのだ。
 国之崎とは別れたところにあった茶店で落ち合うことになっており、
 とりあえずそこへ向かわねばならない。
 「あいつは仕事は速い。早いところ茶店へ行かないと、星殿の機嫌を損ねるやもしれん。」
 「いくらなんでもそこまで早いことはないと思いますけど…」
 国之崎と別れてから、半刻ほどしか経っていないはずである。
 「まあ、早いに越したこともあるまい。仕事は早く済ませて、今宵はゆっくりと休もうではないか。」
 「左様でございますな。じゃあ行くぞ、二人とも。」
 「ねむい…」
 「お前は寝ていろ。」
 「私も行く…」
 「はあ…真琴、名雪を支えているんだぞ。」
 「う、うん…」
 一度旅籠に入ってしまうと、疲れが出てくるのだろう。
 少々酷であったが、これも藩のためである。
 四人は元来た道を戻りだした。
 ………
 茶店の近くにさしかかったときである。
 「おや、向こうから何者か…」
 神尾の視線の先、人間の集団がこちらへ向かってくる。
 先頭には陣笠をかぶり騎乗した男。身分の高い藩士だと思われる。
 その後ろには二十人ほどの役人たち、いずれも捕り方の格好をしている。
 「随分物騒な格好ですね。何事かあったのでしょうか?」
 「さてな。」
 「何か嫌な臭いがする…」
 真琴が不快そうな顔をする。
 だが、誰もこの集団の用事が自分たちに対するものだとは思っていなかった。
 それに気づいたのは、茶店に近づいたところでお互いに歩みを止めたときである。
 「町奉行所の者である! そなたら何者だ!」
 馬上の武士が大声で尋ねる。
 非常に傲慢な態度である。
 祐一郎は不快だったが、ここは仙台である。事を荒立てるべきではなかった。
 「名をおたずねでござるか?」
 神尾は逆に慇懃な礼をした。
 「左様」
 「おそれ多いが、いやしくも拙者とて主君がいる身、少々非礼ではあるまいか。」
 「何を言う! ここは伊達家の領内であるぞ。」
 後ろについてきていた与力らしき男が声を荒げた。
 「であるからなんとする。武士は常に礼儀を知らねばならぬものではないか。」
 「ひとまずそちらの名を名乗られよ。どこの馬の骨とも知れぬ者に卑屈な態度をとれば主家の恥である。」
 馬上の武士が言った。
 別に祐一郎たちが卑屈な態度を要求しているわけではないが、
 あまりややこしくするのは得策ではない。素直に神尾が応じる。
 「しからば…拙者、会津松平家家中の者で、神尾鈴之助と申す。」
 「会津…!」
 捕り方たちがざわめく。
 彼らは偽武士とでも思いこんでいたのだろう。
 だが、馬上の武士は陣笠を取るどころか、下馬すらしない。
 「こちらは同じく相沢祐一郎殿、そちらがその従姉妹で水瀬名雪殿、その後ろがその居候で沢渡真琴殿、何かご異存がおありですかな?」
 与力も流石に言葉に詰まった。
 だが、馬上の男は動じない。
 それを見た祐一郎が一歩前に出た。
 「こちらが名乗った以上、そちらも馬を下りるのが筋だろう。違うか?」
 「拙者は伊達家に仕えておる者だ。よその人間に指図されるいわれはござらん。」
 「何!」
 祐一郎がさらに踏み出す。
 危うく左手は刀の鯉口を切ろうとしていた。
 「なによこの男! さっきから偉そうに!」
 真琴も踏み出す。
 「え? え?」
 名雪もつられて踏み出す。
 馬上の男は鼻を鳴らして見下し、
 「ふん、会津の連中か…一体、仙台に何のようだ。」
 不快感を露わにそう言った。
 「そんなこと、あなたに教えるわけないでしょ!」
 「これが騒がしい小娘か…なるほど、政吉の言うとおりだな。」
 「小娘!? どこ見てんのよ、あなた!」
 「いや、それは間違ってないぞ。」
 「あう…祐一郎まで…」
 ようやく真琴はひとまず下がった。
 それにしても、何故に会津という言葉に不快感を示したのだろうか?
 「そなたら、我が奉行所で用件を聞こう。それを断るならば、即刻領内から退去してもらう。」
 「何を言うか! 我らはきちんと関所を通ってここに来た。それで何故に…!」
 祐一郎が反論する。
 この町奉行はどうやら祐一郎たちを自分の監視下におき、そのまま退去させるつもりらしい。
 関所の許可不許可に関わらず、危険人物として排除しようというわけだ。。
 「何を言っているの…?」
 「名雪、こんな連中に従うことはない。俺たちを愚弄すれば会津松平を愚弄したことになる。」
 「会津が何ほどのことがある。既に慶喜公は政権を奉還されているではないか。」
 確かに徳川が政権を返上した以上、親藩も外様もない。
 会津に何ら遠慮をする必要はないのだが、かといって、このような非礼を藩として許すはずがない。
 そんなことは分かるであろうに、この男は何を考えているのだろう…
 「我ら会津の主君は徳川家だ!」
 祐一郎が自信たっぷりに断言する。
 「ふん…時勢を読めぬ、哀れな連中よ…」
 奉行は再び嘲笑した。どうやらこの男、仙台藩には珍しい勤皇派の藩士のようである。
 となると、さっきからの傲慢な態度、佐幕派藩士の星の屋敷への警戒などに説明が付く。
 だが、そのやり方はあまりに子供じみているような気がする。
 そもそもたかが町奉行という割には過分に横柄である。これはどういうことか。
 「会津の者かも判じがたい。ともかく役所まで同行願う。」
 町奉行は手の鞭を一振りすると、捕り方たちが得物を構え始めた。
 そして、捕り方たちが踏み出そうとしたときだった。
 「主水殿、無礼であろう!」
 突如、別の声が響いた。
 「む…?」
 主水(もんど)と呼ばれた町奉行は、鞭を降ろしてその声の主を見た。
 その先には男が二人、
 一人は前髪を垂らした武士、すなわち国之崎であった。
 いま一人は平服の侍である。
 どうやら声はこの男が発したらしい。
 「このお方たちは、紛れもなく会津松平家家中の者、拙者が保証いたす。」
 「何か確たる証拠があると言われるか?」
 町奉行も対抗する。
 「これは異な事を、主水殿は同じ家中の者の言うことが信用できぬと言われるか?」
 「いや…」
 現在の仙台藩内は佐幕派が主流である。
 勤皇派が迂闊なことを言えば、自らの排斥をさせる口実を作ることになろう。
 「ともかく、会津の方々にこれ以上の『馬上の無礼』をお見せなさるな。」
 「む…」
 そう言われながらも、下馬しようとしない。
 プライドがそれを許さないのか。
 「下りられよ! 主家の恥でござるぞ!」
 「くっ……吉崎殿、他家への兵器の売却・譲渡禁止は御家老たちの相談で既に決まっておりますぞ。それは承知であろうな。」
 「誰が左様なことをすると申した。この方達は星恂太郎殿の賓客であるぞ。」
 「左様なことがまかり通るとでも…」
 「この先は既に町奉行所の出る幕ではない。下がられよ。」
 侍(吉崎という名前のようだ)の言葉に、ようやく町奉行所側が引き上げ始めた。
 町奉行所には、武士間のことには手を出すことができないのである。
 と、そこに同心が一人、町奉行に駆け寄ってくる。
 「………なに!?……そうか、やはり…」
 何やら呟きながら、町奉行は吉崎の後ろにいる国之崎を見た。
 どうやら星の屋敷を見張らせていたという同心だったのだろう。
 「やはり繋がっておったのだな…ただでは済まぬと思え。」
 町奉行はそう捨てぜりふを吐き、馬の手綱を引いた。
 「待たれよ。こちらの面目はどうなさる。せめて謝罪の文句があってよかろうものを…」
 「拙者は仙台町奉行の久瀬主水である。遺恨があれば奉行所へ掛け合いに来られよ。」
 これっきりで町奉行は背を向ける。
 結局、陣笠を取ることも、下馬することもなかった。
 こんな状況でも町奉行は悠々と元来た道を引き返していくのだが、これには神尾たちも理解できなかった。
 「いや、当家の者が御無礼致し申した。」
 「何の、大したことではございませぬ。御案じ召さいますな。」
 神尾が吉崎にそう答えた。
 「拙者、会津松平家勘定役の神尾鈴之助、お初にお目にかかる。」
 「拙者は伊達家船役の吉崎伝臓と申す。星殿とは昵懇(じっこん)の者でござる。」
 互いに丁寧な挨拶を交わす。
 祐一郎たちもそれに続いた。
 「しかし…随分と大きな態度でいらっしゃったが、あの町奉行、何者です?」
 「そうよ! たかが町奉行程度で!向こうが言うとおり、奉行所に押し掛けてやるのよ!」
 真琴がまくし立てるが、吉崎はそれを止めた。
 「それは敵の手中にはまるようなものですよ。」
 「え? どうして?」
 「あの男はただの町奉行ではありません。次席家老、久瀬半左衛門様の御子息です。」
 「なんと…」
 道理で、と一同納得がいった。
 だが、妙な点はまだある。
 そこの辺りは吉崎が丁寧に解説をした。
 「久瀬半左衛門様は仙台藩勤皇派の代表格でいらっしゃいました。少し前に、勤皇派が一斉に要職から退けられ、もう一人の代表であった過激論者の遠藤文七郎殿は失脚されましてね。その中で久瀬様だけは領内の商人と結びついていたために、次席家老の地位を守れたのです。今では勤皇派唯一の重役でしょう。」
 「つまり、久瀬一門しか佐幕派を押さえられないと言う訳か。」
 「ええ、だからあのような強行手段を取るのでしょう。別に弁護するわけではありませんが。」
 「だが、佐幕派から手を出すこともできないが、向こうも過激なことはできまい。」
 「ええ、そう思えるのですが、何しろ家中の者は政治に関心が薄くて…」
 先述したとおり、仙台藩の藩論は固まっている。
 佐幕派だ、勤皇派だと熱心に唱えているのは一部に過ぎない。
 そう言う意味では、先ほどの久瀬とやらもなかなかの人物と言わねばならない。
 「町奉行の職務と称して佐幕派の取締を行えば、意外に黙認される恐れもあるのです。」
 「なるほど、さっきにやり方がそうだな。」
 「拙者も星殿も藩内では地位がありませぬ。御家老たちも無関心を装っておられますし…」
 吉崎が溜息をつく。
 どうやら仙台藩も壮絶な政争が行われているようである。
 「ややこしいよ…」
 「よその家中のことだ、気にするな。」
 祐一郎たちはミニエー銃と洋式兵学を求めてきたのであり、政争に荷担するつもりはない。また、それはできないことだ。
 「まあ、ともかく領内ではあの男に気を付けることです。」
 そこでこの話は一段落付いたのだが…
 「あ…」
 暫く歩いたところで、名雪が足を止めた。
 「どうした?」
 「石碑があるよ…」
 名雪が指さす先、竹藪との境目辺りに一つの石碑が控えめに建っていた。
 祐一郎は、当初古戦場だったのだろうかと思ったが、近寄ってみるとどうもそうではないようだ。
 どう見ても、数年前に建てられたばかりの新しい石碑である。
 だが、その石碑には内容が分かるような碑文がない。
 ただ、「忠士一院残義」とある。どうやら供養のためのものに見えるが…
 「結構新しい石碑ね。何の石碑なの?」
 「いや…それはちょっと…」
 吉崎が言葉を濁す。
 「分からぬのか?」
 「いや、存じてはおりますが、事情が事情ゆえ…」
 どうやら藩内部に関わる石碑のようだが、様子を見るに、あまり目出度い石碑ではなさそうだ。
 「忠士」と明記されている割に、珍しいことだ。
 「でも、めでたそうな石碑に見えるけど…」
 「碑文の上ではそうなのですがね。」
 「あう…読めない…」
 真琴が悪戦苦闘していた。
 「『忠士一の院、義を残す』と、読むはずです。確か。」
 「意味深な碑文だな…隠すくらいならば建てなければいいものを。」
 「そもそも『一の院』って誰なのよ。」
 「それはどうかご勘弁を…」
 「日付は…ん? 文久三年…五年前か。」
 「………」
 吉崎は当初話したくなさそうな素振りを見せていたが、祐一郎たちが調査しだしたことで、少しずつ話す気が出てきたようだ。
 「…実はですね」
 暫く考えていたが、吉崎は重たげな口を開く。
 「名は言えませぬが、さる重役の御子息が切腹なさったのです。」
 「切腹を…」
 「いかなるわけで?」
 「それもご勘弁を…ですが、主家のために切腹なされたとだけは申しましょう。」
 「それならば、他の者達は助命を唱えなかったのか?」
 「唱えようにも、事情があってできませんでした。御一門の方々は必死に助命を願われましたが、それも叶わず…」
 「かわいそう…」
 「嫌なものだな…」
 祐一郎は石碑に手を合わせた。
 武士の間の事情とは、時に悲劇を起こすものである。
 両親を亡くした祐一郎には、事情は違えども、何となくは分かるのである。
 「この事情は伊達家家中でも士分の者しか知りませぬ。しかしながらあまりにも痛ましいとして、家中の者で密かにこのような石碑を建て、せめてもの供養としたのです。」
 吉崎の言葉に、一同瞑目せずにはいられなかった。
 ただ一人、真琴を除いて。
 「せめてもの…って、自分たちが救えなかったものを、こんな石碑でお茶を濁すなんて間違ってるわよ。」
 真琴の普段からは想像もつかない過激な言葉に、一同ギョッとした。
 「な……こら、真琴! 失礼だろうが!」
 「……」
 吉崎は怒ることなく真琴を見た。
 「生半可な供養をするくらいなら、捨て置いてやるべきよ。こんなことしたら、逆に成仏できないもの。」
 「それはどうかと思うがな…」
 神尾が控えめな反論を見せる。
 世の人間の常識からすれば、この行為は当たり前の行為に思える。
 自分の恨みを忘れられる方が、よっぽど成仏できないのではないか。
 だが、吉崎の反応は意外だった。
 「…やはり、そうかもしれませぬな。」
 「え…?」
 激昂させるかと思っていた祐一郎は、真琴の発言以上に、こちらに驚いた。
 「実は、真琴殿と同じ様なことを言って、実行した方がおられましてな。」
 「実行って…」
 「いえ、単に捨て置いたということではなく…」
 ここで再び言葉に詰まった。
 「…止めましょう。これ以上は家の事情に関わることですから。」
 「気になるぞ…」
 「いや、少々喋りすぎたようですな。忘れて下され。」
 先日の霧島などと名乗った男と同じ様なことを言う。
 乱世には後ろ暗いこともはびこるのだろうか…
 「真琴殿、多少気分が晴れ申した。感謝いたす。」
 「ま、真琴はそんなつもりじゃ…」
 「まあ、ありがたく感謝は受けておけ。殺し屋も時には人のためにならなくてはな。」
 「だから違うって…!」
 「いえいえ、お気になさいますな。あのお方をあのままにしてよかったものか、皆悩んでおりましたゆえ。」
 「真琴はそんなことを気にしているんじゃなくて…」
 「あのまま…?」
 祐一郎が真琴の言葉を遮って言葉を反復した。
 「あのままとは…いまは存命ではいらっしゃらないのか?」
 「あ、いえ、生きておられますが…」
 またも詰まる。
 「いや、ですからやめにしましょう。さあ、星殿もそろそろ戻ってこられるでしょうし。」
 吉崎は無理矢理に話を終わらせると、一人で歩き出した。
 「やっぱり気になる…」
 「祐一郎、他人のことに首を突っ込むものではないぞ。」
 「わかってますけど…」
 神尾の言葉に祐一郎も頷いたが、気にはなる。
 それは神尾も同じだろう。
 「祐一郎、花を手向けていこうよ。」
 名雪の言葉にも、祐一郎は頷いた。
 名雪から受け取った小さな花を石碑の前に置こうとして、ふと手を止める。
 「…どうしたの?」
 「後ろに置くべきだろう。」
 祐一郎は、石碑の裏側に周り、目立たないようにそっと置いた。
 (これが…供養か。)
 真琴が言うのも、ひょっとしたら正しいのかも知れない。
 そう考えてみると、吉崎が言っていた『あのお方』が気になる。
 だが、気になってもどうしようもない。
 祐一郎は顔をあげた。
 「……」
 その時、国之崎が無言で石碑を見つめているのが目に映った。
 「国之崎殿?」
 「……」
 聞こえているのかいないのか、国之崎はそのまま顔の向きを変えて吉崎たちの後を追っていった。
 暫く呆然として見ていた祐一郎だったが、名雪に肩を叩かれて我に返る。
 「どうしたの?」
 「いや…早く行くか。」
 「うん。」
 二人も続く。
 (そういえば、あいつは終始無言だったな…)
 祐一郎も気にはなった。だが、それはいつものことである。
 すぐに、祐一郎は職務のことを、名雪は雪のお持ち帰り方を考えていた。

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