第十二話「仙台霧海なり」
その屋敷は至って普通の門構えであった。
とてもアメリカ人から直接指導を受けた西洋兵学のスペシャリストの屋敷とは思えない。
まさしく、普通の藩士のそれである。
「ここが星殿の屋敷か?」
「はい、そうです」
神尾は特に気にする様子もなく、吉崎の勧めるままに門をくぐった。
「星殿、会津の方々をお連れ致した」
吉崎が屋敷の奥へと声を掛ける。
すると、突然奥から歩兵服を着た男が現れた。
顔に硝煙のあとが黒々とある二十半ばの強面である。
「わ…」
「いきなりだな…」
殺伐としたものである。
吉崎は慣れたもので、その悪鬼のような歩兵に尋ねる。
「星殿はおられるか?」
「隊長は今少しかかるそうで」
顔に似合わず、男は丁寧な言葉遣いである。
「まだ来ていないのか…」
「国之崎さんはなんて言われたの?」
「俺は、星殿が留守と聞き、屋敷で待つように吉崎殿に言われただけだ」
「客が来るのを知っていて、待たせるなんて非常識よ」
知ったのがついさっきだというのに、非常識とは少々、いや大分酷な気もするが…
「それはお前のことだろうが。そもそもこちらから頼みに来ているんだぞ」
「え…そうなの?」
「そうなのって…お前は何を考えて付いてきたんだ…」
「そ…そんなの、祐一郎の首を取ることに決まっているじゃない!」
「何を今になって…素直になれ、楽になるぞ」
「余計なお世話よ!」
「…だから二人とも、人の屋敷で騒ぐなと言っておろうが」
神尾がひんやりとした視線を送る。
「あ……これは、また…」
「さっき言われたのは街の中だもの。ここは屋敷よ。別物だわ」
「……お前、やっぱり普通の生活送ってきていないだろ」
神経の図太い祐一郎も、赤の他人の屋敷で、しかも歩兵服の人間の前で、恥をかくのは遠慮したかった。
…一方、仙台町奉行所では、
吉崎に一喝されて引き返すしかなかった一行が空しく足を休めていた。
小役人どもは全く気にする風もなく談笑しているが、同心、与力の衆は渋い顔である。
声高く談笑する小役人とは対称的に、ひそひそと語り合っている。
あまり見てくれのいいものではない。
と、その時、与力の一人が立ち上がった。
既出の男、津田である。
向かう先は、これもまた前回と同じ奉行がいるであろう縁側である。
果たして、それはいた。
今度は縁側から庭をぼんやりと見つめている。
「…津田か」
「お奉行、この度のことは…」
「……」
奉行である久瀬主水本人が、かなり痛手を負っているようである。
もとよりプライドの高い男ゆえ、吉崎に他家の者の前で罵倒されたのが効いたのだろう。
「あの者どもが良からぬことを考えているのは必定、何とか阻止を…!」
「それができれば苦労はせぬわ」
「しかし、あのように危険な佐幕論者を放置して置いては…」
「策は打つ」
久瀬は視線を外に向けたまま言った。
これは案外、ぼんやりしていたのではなく、策を練っていたのかもしれない。
「しからばいかように…」
「他国のことに詳しいものを探せ。あの連中のことをできる限り詳しく調べよ」
「承知いたしました」
津田は一礼して去る。
一人残った久瀬は、何気なく呟いた。
「もしもの時は…力ずくでも…」
無意識のうちの言葉ながらただならぬ発言である。
だが、当人にはそんな風はなく、いつも通りにぴしゃりと扇子を閉じた。
「いやあ、お待たせ申した」
神尾のたしなめから間もなく、祐一郎たちの前に一人の洋装男が現れた。
それを見た神尾が頭を下げる。
「星殿であられるか、お初にお目にかかる」
神尾の挨拶に続き、祐一郎たちも頭を下げる。
この男こそ、神尾が会津の運命を賭けている男、星恂太郎である。
鼻立ちの整った男であり、いかにもエリート才子という雰囲気である。
だが、そこには同時に軍人特有の威圧的雰囲気がある。
余人の評を借りれば、「欧州の軍人」という感じか。
だが、彼は紛れもない佐幕派の「奥州の軍人」である。
それを認識させるものは、それもまた日本人の持つ顔であった。
「突然の訪問、ご容赦下され」
「いやいや会津の方々の獅子奮迅の御働き、我ら感服しておりましてな」
「お心遣い感謝いたす。しかしながら我らは江戸詰にて、京に行った者達のような働きは…」
「いや、私が言っているのはそれだけではない」
「と、おっしゃると…?」
「会津の方々の忠義の心、たとえ戦場にあらずとも心に深く刻まれ申した」
と同時に星が軽く頭を下げたが、それに呼応して、庭に並ぶ歩兵服の男たちも続く。
構図上囲まれているわけだが、やはり気圧されるような迫力を感じる。
「何の、主君の務めを助けただけのことでありますよ」
「いやはや、京都守護職の務めというのも大変であろうに」
…という感じで、しばし互いの労をねぎらうような会話が続く。
一方、一段後ろにいる祐一郎たちは、こちらはこちらで話し合いを始めた。
「お前、会津出身というのは確かなのか?」
「うん、間違いない」
先ほどから真琴はいやに自信たっぷりである。
「じゃあ、何で俺に恨みなんてあるんだ」
「それはわからないけど…」
「とにかくこれでお前の勘違いがはっきりした。とっとと帰れ」
「祐一郎、そんな言い方、真琴がかわいそうだよ」
名雪が例に倣って真琴を擁護する。
「そういうが、これでお前がいうような江戸での素行不良説は否定されたぞ」
「うー、そうだけど…」
「ましてや七年間ここに帰ってきていないんだ。七年前の真琴から買う恨みなどあるか」
「でも、祐一郎は…」
「俺は…どうした?」
名雪が言葉に詰まった。このような名雪は珍しい。
「…なんでもないよ、ただ記憶がないのに断定できるはずないよってこと」
「断定などできなくても、常識的に考えて当然だ」
「祐一郎の常識なんかで、私のことを判断しないでよ」
「そりゃ、子供だからな。大人の常識は通用しないか」
「そんなこといってない!」
毎度のことながらムキになって、真琴がつい声を大きくした。
歩兵服の視線が一斉に注がれる。
…かなり気まずい。
「お前たち…そんな話題をこんなところでしていいのか?」
国之崎が視線を向けもせずに言った。
(確かに…)
信用を逸するような話題だったと言われても仕方ない。
「ま、とりあえず、俺を襲撃するのが不可能な以上、お前がただで居候するというわけにもな」
「何よぅ」
祐一郎にしても、どうして不可能かと言われると明確な返答はしかねる。
この辺りは強引さだ。
「ちょっとは秋子さんや水瀬家の為になるようなことをしろってことだ」
「ちょ、ちょっとはしてるわよぅ」
当人からどもりつきでちょっとなどという言葉が出ては、なにもないに等しい。
「ま、俺が親切にも考えてやるから安心しろ」
「あう…」
真琴にもそれなりの自覚はあるらしく、敢えて抵抗もしなかった。
「……」
名雪は不安そうに見つめており、国之崎も沈黙していた。
だが、その口元に笑みが浮かんでいた…と、祐一郎はそんな気がした。
…会談の方も進んでいる。
「なるほど、会津候は左様にお考えで…」
「朝廷もこれ以上戦を望むとは思えませぬのでな、いたずらに戦をするわけにも」
「しかし…薩摩は陰険ですぞ」
星も薩摩が今までどうやってきたかは重々承知している。
薩摩の動きは世論では計ることはできないのだ。
だが、徳川の領地を大部分召し上げることも可能になった今、薩摩とてわざわざ一つの藩に拘るとも普通の考えでは思えないが…
「それに備え、星殿の協力を仰ぎに参った次第で」
神尾が力を込めて言った。
ここに来て、ようやく本題に入ったということか。
「協力…と、おっしゃいますと?」
白々しくも、星が神尾を試すような目で訊いた。
「当家の者も伏見で薩長の力を知り申した。恥ずかしながら、当家の軍備は旧態依然のままで、とても戦えるものではございませぬ。しからばと、星殿が学ばれたという洋式兵学を御教授願いたいと思った次第で」
神尾は肝心の所である新式銃のことを話題に出さなかった。
先ほどの吉崎と久瀬との会話が気になったのであろう。
「ははあ、それで神尾殿自ら出向かれたと。いや、熱心なことで」
星が改めて感心する。
どうやら神尾のことを気に入ったようである。
「いいでしょう。当家の洋式部隊の様子を実地で御覧下さい」
「おお、承諾していただけると。ありがたい」
神尾が頭を下げる。
祐一郎たちも当然それに続く。
「しからば明日にでも早速やりましょう」
「それはありがたい、では明朝の辰の刻に…」
「承知致した。この屋敷にお出でいただければ、屋敷の者に送らせましょう」
「ご厚意感謝いたす」
「何の、我らも同じ志を持つ会津の方のためなら労を惜しみませぬぞ。御家老方も期待されているようなのでな」
(……え?)
祐一郎ははっとして星の顔を見た。
「御家老方も薩長憎しで統一されているようで、一戦も辞さない覚悟で…」
星は自信たっぷりに言っており、本気の発言のようだ。
(妙だな…)
先ほど吉崎が家老たちが無関心だと嘆いていた。
それに対してこれは明らかに相反する見解である。
同じ立場のはずの星と吉崎で、何故に見解が異なるのだろうか…
(うーん…性格の違いか…?)
他、色々な要因が考えられるが、
とにかく、これが幸となるか災いとなるか、祐一郎にはよく分からなかった。
もう一度、星の顔を見る。
(笑ってるが…)
星本人はわかっているのだろうか。
それとも問題にもならないことだと考えているのだろうか…
その日の夜、
祐一郎が旅籠の一室で独り洋書を読んでいたときであった。
「祐一郎」
という声を聞いたのは襖が開く音がしたあとであった。
「おまえな…せめて伺いくらいたてろ」
「つまんないこと気にしないの」
「仮に俺がよくても、神尾殿たちがいたらどうする!」
無遠慮な真琴に祐一郎が一喝する。
が、いつも通りに聞く耳持たず、ずけずけと中へ入ってくる。
「はあ…何の用だよ」
「暇つぶし」
「お前なあ、仮にも俺の命を狙っておいて、当人の部屋で暇つぶしか?」
「他国の旅籠で人殺しはしないわよ」
「随分と都合のいい…」
それならば、居候先で殺すのは許されるのだろうか?
「とにかく、暇つぶしになるような物はない、危険だから帰れ。」
もちろん危険なのは祐一郎だ。
「あ、これ面白そう」
「聞いちゃいねえ…」
「? …何、これ」
「何だ、本も知らないのか? やっぱり殺し一本稼業って訳か」
「……」
祐一郎も祐一郎で律儀に答える。
さすがは会津藩士というところか。
だが、哀れにも真琴は反応していない。
自室で蚊帳の外にされる祐一郎、空しさが漂う。
「文字がいっぱい書いてある…」
(まさか本当に初めて見るのか?)
その祐一郎は結構驚いた。
本当に殺し一本稼業と思ったかは分からない。
兎にも角にも、真琴は熱心に読みふけっている…ように見える。
「祐一郎、これなんて読むの?」
真琴は祐一郎に本の表紙を指さして言う。
「『砲術指南書』だ、大筒の操作法が書いてある」
真琴の反応に、ちょっと嬉しい祐一郎はやはり律儀に答える。
「へえ…」
感心なのか、生返事なのかよく分からない反応が返ってくる。
「祐一郎、他にはないの?」
「他のか、星殿から頂いた物は結構あるが…」
この『砲術指南書』もその一冊だ。
もちろん明日からの西洋兵学の訓練に対する物である。
「それでいいのか?」
「うん」
「ならいいが、お前、こんな本が面白いのか?」
「本? ふーん、これが本…」
返答の変わりに感心する真琴。
(やっぱり聞いちゃいねえ…)
内心舌打ちをする思いである。。
「ま、大体は読んだから好きなものを持っていけ。」
それでもやはり重ね重ね律儀である。
「うん、そうする」
言われたとおりに真琴は適当に数冊見繕い、
抱えるようにして自室へと持っていった。
「変な奴…」
真琴はここに何をしに来たのやら。
祐一郎は首を傾げる。
「というより先に、あいつは字が読めるのか…?」
本の選択も、とても題で決めているようには見えなかった。
本を知らずに字を知るとはまた妙な話だ。
まあ、さっきの様子や以前の様子では多少は読めるようだが…
(やっぱりわからん…)
もう一度、首を傾げていた。
翌日、約束通りに訓練が開始された。
正確な知識のない訓練ではなく、正式な訓練を受けた者による訓練である。
やはり、今までやってきた訓練とはレベルの違いを感じる。
…と同時に、名雪や祐一郎は装備のレベルの違いも痛感していた。
(これは仏製山砲か…しかも見たこと無い代物だ…)
黒光りしたその見慣れないスタイルに、祐一郎と名雪は見入る。
スタイルだけではない、その射程、命中率、操作性など全てに優れている。
「祐一郎…すごいね」
「ああ…」
「薩摩や長州の人たちはこんなの持っているのかな」
「…ああ、多分な」
「私たちの火縄式で勝てるのかな」
「聞かないでくれ…」
何だか憂鬱な気分になる二人、そこにフランス士官服の神尾がやってくる。
「なんだなんだ、浮かぬ顔して」
「そりゃ、そうもなりますよ…」
「当家もこれくらいの装備を揃えねばならぬな、これが大変だぞ」
神尾は逆に不思議なほど活き活きとしていた。
まあ、言い出しっぺが沈んでいても困るのだが…
「ほらお前たち、とっとと銃を用意しろ。操作訓練が始まるぞ」
いわれて祐一郎は背負い慣れない銃を手に取った。
これこそ渇望していたミニエー銃、今、目の前にある。
…もっとも借り物だが。
(やるだけやってやるか…)
祐一郎は、やはり手になじんでいない形の弾を手にとった。
………
そういうわけで訓練が五日ほど行われていた。
祐一郎も意外に飲み込みが早く、名雪の砲術も堂に入ってきた。
星のやり方、というより洋式訓練では、音楽、いわば軍楽を鳴らしながら訓練する。
ここから、のちに星の部隊は「額兵隊(楽兵隊)」と名付けられたらしい。
まあ、そんな賑やかな訓練が続くある日のこと、
「祐一郎!」
名雪が嬉しそうに駆け寄ってくる。
「何だ、どうした」
寝っころがって休憩中の祐一郎は首だけを名雪に向けた。
「ミニエー銃が手に入るんだよっ」
「何だって!?」
飛び起きる。
当然だろう。先述したように仙台ではあまり芳しくない状況である。
そこにこの朗報、狂喜せずにいられようか。
「星さんがいっぱい用意してくれたから、薩摩も長州も怖くないよ」
「流石…」
星の決断力、そして神尾の交渉術、色々感心すべきことがある。
「よし、とりあえず訓練場に行くか」
「うん」
勢いよく走り出す。
「しかし、具体的にはどれくらい手に入るんだ?」
「千丁はあるって神尾様が言っていたよ」
「千丁か…」
全軍に行き渡る量ではないが、それでも十分である。
「これで神尾様の言う軍隊ができるな、あとは砲があれば…」
と言ったところで、
「お、あれが例の………」
沈黙
「…って、伏せろ!」
「わっ!」
祐一郎が突然伏せる。当然引っ張られた名雪も倒れ込む。
「え? え? どうしたの?」
何がどうしたのか分からない名雪はキョロキョロ見回す。
祐一郎の方は真剣な表情で息を潜めている。
「………」
「額が痛いよ…」
名雪は額をぶつけたらしい。
それでも祐一郎は前を気にするばかりである。
しばしそうしていたかと思うと、頃合いを見て、そろそろと顔をあげ始めた。
その息づかいは荒い。
「…お前たち、急にどうしたのだ?」
視線の先の神尾が言った。
が、もちろん神尾がこの行動の理由ではない。
「自己防衛です」
「自己防衛?」
神尾が首を傾げる。
「神尾様…」
「どうした」
「何で真琴に銃なんて持たせているんですか!」
びしっと指を指しながら神尾に詰め寄る。…いや、身体は詰め寄れないが。
「な、なによぅ」
ミニエー銃を抱えた真琴が戸惑ったような顔で祐一郎を見る。
「ん? まずかったか?」
「当たり前ですよ! こんな危険な奴に銃をもたせたら私が殺されます!」
「……どうして真琴殿が危険なのだ?」
「………」
言ってから気づいた。
神尾には真琴のことを正確には話していなかった。
つまり、ここに隠れる理由など付けようが無かった。
「はい、今出ます」
この時、祐一郎は死を覚悟した。
「え? もういいの?」
名雪も額を押さえつつ立ち上がる。依然何がどうしたのか分からないようだ。
一方、真琴は引き金に手をかけることもなく不機嫌になっている。
「失礼ね! 私が鉄砲なんかでやるわけないでしょ!」
「いや、今までで一番危険な状況だったと思うぞ…」
「やる? 何を…」
神尾が不審そうな目で見る。
「う、ううん、何でもない!」
「い、いいえ、何でもありません!」
「は、はい、何でもないことですよっ」
「…仲良く三人揃って、なぜ動揺する?」
「気にしないで下さい。そんなことより誰が真琴にこんなものを…」
祐一郎が改めて真琴を見る。
祐一郎が言っているのはミニエー銃だけではない。
着ているフランス歩兵服についてもである。
そんなものを祐一郎が渡すわけもないはず…
「ああ、これは」
神尾が言いかけたところで、
「俺がやった」
「え?」
国之崎がいつの間にか立っていた。
「国之崎殿が…?」
どう考えても解せない。
それは祐一郎のみならず、名雪、当の真琴までもが同様であった。
そんな三人に、逆に国之崎が意外そうな顔をした。
「何か不審な点が?」
「不審すぎだろっ!」
悠然とした国之崎に祐一郎が吠えついた。
「また、あたかも『これが会津のためだ』とでも言わんばかりに…」
「事実だからな」
やはり悠然としたまま答える。
「なに、事実?」
祐一郎の不信感丸出しの視線に、国之崎が一歩歩み寄ってきた。
「まあ、会津のためというか…」
国之崎の口に微笑が浮かんだ。
それは昨日星邸で見た気がした微笑のような気がした。
まあ、曖昧すぎて当てにならないが。
「祐一郎殿のためと言った方がよろしいか。」
と、思ったら微笑は消えていた。
「はい? 俺?」
「真琴殿はこうするべきだったのだろう?」
「待った待った。言っていることがよくわからんぞ。」
「? 自分で言っておきながら何を今さら。」
「何も言ってない…」
「いや、言った。真琴殿が水瀬家のためになるようにだとか言っていたであろう」
「そりゃ、言ったが…」
「なら問題なしだ。これで真琴殿は新隊の貴重な戦力だぞ」
「……はい?」
思いもよらぬ発言であった。
国之崎はこの素性不明の少女を新兵制に組み込もうというのか。
だが、この発言には神尾の同意も既にあるはず。いったいどういう腹か…
「真琴殿は祐一郎殿のために働きたいのだ、なあ、真琴殿」
「わ、私はそんなこと言ってないわよぅ!」
「…こう、言っているが?」
「ふっ、口で言っていようがいまいが、心意は同じ」
「思ってもいない!」
「ん? まあ、当人は思ってないかもしれないが…」
と、意味不明な発言もする。
「当人が思ってないなら無いだろ…」
「甘い、世の中そう簡単には割り切れないことばかりだぞ」
ニヤリとする。いやはや本当に何を考えているのか分からない。
(何度も言うが、油断ならない男だ…)
祐一郎は改めて国之崎の恐ろしげな目を眺めた。
しかしこれは国之崎の余興なのだろうか…
「…って、ちょっと待て。仮にそうだとして、俺のために働くのがどうして水瀬家のためになるのだ?」
「ん…? そなた、水瀬家の人間ではないのか?」
「俺は相沢家の者だ、水瀬家とは親戚だが水瀬家の人間じゃない」
「何だ、そなた名雪殿の婿ではないのか?」
「え…」
「わっ、わっ、そんなのじゃないよっ!」
名雪が取り乱した(珍しいことだが)ようにかぶりを振る。
「…何故慌てる」
「だって…」
「顔が赤いぞ」
「わっ、ち、違うよ! 本当に違うんだよ!」
国之崎の追い打ちにますます赤くなる。
「デコも赤いぞ」
「それは祐一郎のせい」
「…そうだったか?」
「そうだよ!」
無念にも祐一郎の追い打ちは失敗した。
「まあ、どうでもよいではないか。当家の役に立てば同じこと」
「いや、それは…」
違うような気がする。
だが、神尾は本心のようだ。
「そもそも私はそんなこと言ってない…」
真琴が呟くが、既に蚊帳の外である。
「でも、真琴ちゃんが協力してくれたらいいことだね」
「名雪まで…」
どういう発想からこう思うのか、祐一郎には怖くて聞けなかった。
「どうだ、水瀬家の役に立っただろ」
「おもいっきり結果論だぞ。しかも相当苦しい…」
「結果が全てだ」
「お前が簡単に割り切っているんじゃないか…」
祐一郎は溜息をついたが、既に戦況は劣勢であった。
「…わかりましたよ、神尾様にお任せします」
「さは上々。では、新編成に変えるまでそなたの指揮下に置く」
「…承知しました」
「……」
不思議と、真琴もイヤとは言わなかった。
祐一郎は横目でその表情を見たが、あながち国之崎の言ったことが当たっているのかも知れない、
何やらいつもの真琴とは違うもの、それを感じ取っていた。
「…それで、千丁のミニエー銃をどうやって運ぶの?」
「あ…」
名雪の指摘に祐一郎が声をあげた。
それもそのはず、吉崎と久瀬の会話の通り、他藩への武器売却・譲渡が禁止されているのである。
会津藩領に入れば、あとは会津の荷駄隊で運べばよいが、どうやってそこまで運ぶかが問題である。
いや、その前に、会津の荷駄隊も国境まで連れてこなければならない。
「その点に抜かりはない」
神尾が誇らしげに言った。
「何か案が?」
「うむ、星殿と相談してな。とりあえず我々の後発として、国許から蔵役の者が荷駄隊を引き連れてやってくる」
「荷駄は仙台領内に入れるのですか?」
「うむ、とりあえずはな。そこでその荷駄には代金を積んでおく」
そして、神尾は「ここからが必殺技」とでも言いたげに一同を見回す。
国之崎以外がそれに引き込まれていた。
「荷駄隊は仙台にやってくる。そこでこの銃を載せ、星殿の部下の者を数名借り、伊達家の家紋を掲げて関所へと向かうのだ」
「なるほど…」
つまり、伊達家洋式部隊の荷駄として国境まで運ぶのだ。
これならば、少なくとも関所までは久瀬一派から妨害されることはない。
「それで関所は…」
「実は伊達家の筆頭家老殿より、内密にお墨付きをもらっておる」
「なんと…」
無関心なはずの家老の一人からこのような思い切った行動が出たことは、
会津藩の祐一郎たちからすれば、喜ばしい事態である。
「むろん勤皇派に知られれば大事、関所を通るまでは荷は米としておく。関所をすんなりと通るとは久瀬殿らも考えておるまい。そこが狙いだ」
つまり、荷を運んでいる間に荷改めを行うことがないと読んでいる。
おそらく久瀬たちは関所まで待って妨害してくるだろう。
それを逆手にとって、関所まで運べばあとはすんなり通ろうという算段だ。
「…しかし、後々問題を残すのでは?」
「証拠はない。久瀬殿が騒ごうにも、筆頭家老の前には及ぶまい」
「はあ…」
少し心配だったが、本来仙台の政局は佐幕派が圧倒的に有利である。
少々の力業でも筆頭家老のお墨付きがあればまず問題ない。
「しかし何でまた、無関心なはずの家老方が急にこのようなことを?」
「さてな。その辺りはよく分からない」
とりあえず、話はそこまでだった。
何故かこの時には筆頭家老の名前は話題に上らなかった。
後世の目から判断すれば、この時神尾も知らされていなかったのだろう。
そして訓練は続いていた。
真琴も不本意なのか本意なのか、訓練に参加していた。
その間、久瀬から何か仕掛けてくるということもなく、順調に進んでいた。
名雪は並の砲兵以上の腕を見せ、祐一郎は隊の指揮官として成長していた。
神尾はその子細をいちいち記録し、新兵制の参考にしようと躍起であった。
独り国之崎は遠目に見るばかりであったが、
神尾はそれに対して何も言うことはなかった。
そんな折、曇りがかった空の下、
「會」の字を掲げた一団が仙台にやってきた。
荷駄を引き連れて。
「いやあ、よくぞいらっしゃった」
まるで客を自宅へと迎えるかのように神尾が先頭の男に言った。
「はは、随分とまたここに慣れていらっしゃるようで…」
男は苦笑する。
星邸の前で、知人らしき二人が世間話に興じている。
その情景は、ここが仙台という他国であることを忘れさせるものであった。
屋敷にいた星たちも続いて現れる。
そのうち、しばらく言葉を交わしたところで、祐一郎も現れた。
あいにく名雪と真琴は出払っており、ここには居合わせていない。
「こちらが荷駄を率いて来られた美坂殿だ」
神尾が目の前の男を示して言った。
「相沢祐一郎です」
「ふむ、そなたが祐一郎殿か。世話になっているな」
「え…いや、そんなことは」
何が世話になっているのか祐一郎は気づかなかったが、
とりあえずここは外交辞令ととらえた。
(えっと…どこかで何か関係したか?)
祐一郎は思い当たる節を考えてみたが、あいにくとでてこない。
唯一、「美坂」という名字に何やらひっかかりはあった。
だが、そこから先に思いつくところはなかった。
「神尾殿、帰国時の指揮はお任せいたし申す。例の通りに」
「ご安心下され。しかし美坂殿も気苦労が多いことで…」
「いや…自分の子のことなれば、苦労のうちには入りませぬ」
そういって、寂しげな笑いを見せた。
その笑いも、祐一郎には何か分からなかった。
一方、その頃町奉行所では。
「調べは付いたか?」
夕日の射し込む奉行の部屋で津田と久瀬が密談をしていた。
「はっ…どうやら神尾という者、江戸では長沼流軍学の達人で聞こえた者だそうで」
「長沼流軍学…ふん、時代遅れの戦国武者か」
久瀬が鼻で笑う。
だが、津田は笑うことなくこういった。
「いえそれが、向こうで洋式化を進めている連中の筆頭があの男だそうで」
「ほう…」
久瀬は少し興味を持った。
この男も、尊皇攘夷思想を持ちながらも、それなりの開明派である。
「剣はできるのか?」
「ある程度はできるようですが、手練れというほどのものではありませぬ」
「そうか…」
少し思案する。
「相沢というものは…」
「む?」
「よく分からぬそうで、おそらく神尾同様江戸詰の下級藩士かと」
「剣は」
「名が聞こえぬ所を見ると、大した腕ではありますまい」
当たっている。目明かし政吉が観察したとおりである。
「いかがいたしましょう。」
「うむ…」
一瞬、久瀬の目が怪しく光った。
陰謀家の目である。
その光が失われぬうちに、同心が駆け込んできた。
「お奉行!」
「…野老山(ところやま)か、どうした?」
津田が落ち着いた風を装って振り返る。
「会津の荷駄隊が星の屋敷へ!」
「何!」
「いかがいたしましょう」
もう一度、久瀬に伺いがたてられた。
その目の光は一層怪しさを増す。
そして、開かれた口から出た言葉は恐るべきものであった。
「…拉致する。」
「は…?」
庭の草がかさりと動いた。
「小うるさい娘という奴がいたな。そやつを拉致する」
「げっ…」
「お奉行! 何もそのような…」
津田が慌てた様子で野老山の顔を伺った。
当然、驚愕で口を開いている。
「このような技をかけてくるからには、並の追求では容易くかわされるだろう。娘を拉致し、身柄と荷駄の交換を要求する」
「さ、されど…」
「よいか、そなたの組下の同心のうちから手練れを集めよ。口の固い者をな」
「は、はっ…」
有無を言わせぬ口調である。
それに押され、冷や汗をながしながら津田が平伏する。
津田も、ことの重大さに、かなりの動揺は隠せない。
「手練れでございましたら、勤皇派の浪人が領内におりますが…」
津田の言葉に、久瀬が凄みのある目でぎょろりと見た。
「部外者はいかん。この度は身内のみで行う。何しろ事が事だ」
「しかし、信用できる同心で、しかも手練れとなると…」
「野老山」
「は、はいっ!」
「そなた、よいな?」
有無を言わせぬ久瀬の言葉である。
野老山も、ひたすら平伏するばかりであった。
そう、ここで聞かなければ、
殺される。
「荷が武器であらば、奴らも会津松平家に救援を求めることはできまい。取引に応ずるはずだ」
「しかし、我らと知れては…」
「だからこそ、口の固い者で行う。野盗に扮して荷駄を襲うのだ」
「しかし…本当に応ずるのでしょうか?」
何しろ娘の正体は不明である。
「首尾は政吉に確認させる。娘を拉致したら、苦戦のふりをして引き上げるのだ」
「そこから取引を…」
かなりの危ない橋である。
だが、それほどまでに久瀬はこの会津からの来客を警戒しているのだ。
「やるしかございませんな」
「そうだ」
「………」
野老山は黙って頭を下げた。
その手が、震えている。
その日の夜のこと、出立を明日に控え、祐一郎は荷駄の見回りを行っていた。
既に旧暦二月とはいえ、雪に覆われた仙台の夜は寒い。
既に皆は最後の夜の宴の真っ最中であり、祐一郎が何故かここにいた。
荷駄の周りに人影はなく、吸い込まれるような夜空の闇が支配していた。
「うう…寒い…早く終わらせないと…」
そういいながら、提灯を向けたときである。
「…あ!」
その先に、人影を見つけたのだ。
一瞬、祐一郎はそれを幽霊の類かと思った。
そう思えるような状況でもあり、同時にそう思わせるほど儚げな姿であった。
「…そこで何をしている」
「あ…」
その影は、提灯の明かりに照らされながら、ゆっくりと振り返った。
「……」
祐一郎は驚いた。
その影は見覚えのないながらも、生身の人間の女性であったからだ。
曲がりなりにも武家屋敷の敷地内、しかもこの夜中にである。
(狐や狸かも知れないが…)
ふと、笑う。
その笑みを見たのか、女性の方も笑った。
祐一郎は刀の柄に走らせていた左手をはずし、
代わりにそれを軽く挙げた。
「なにやってんだ、こんなところで」
「あ…えっと…」
女性は少し考えるような仕草を見せ、
「夕涼みです。」
季節はずれな事を言う。
「…寒くないか?」
「ちょっと…」
「だろうな」
祐一郎は手を下げた。
「あ、でも気持ちいいですよ」
「それはよかった…」
祐一郎にはとても及びもしない涼みの達人なのだろう。
「…で、何者だ?」
「私ですか?」
再び、考える。
その姿に、祐一郎はしばし見とれていた。
「えっと…」
口に指を当てる。
「狐です」
「……」
「宴会のおこぼれを頂戴しに来たんです」
「……」
祐一郎、沈黙
「あ…冗談ですよ。」
「それはよかった…」
「こんなこと、本気にしないで下さい」
少し、怒ったように言う。
「悪い、会津藩士は純朴なんだ」
「私も会津者です」
「…そうなのか?」
「はい」
嬉しそうに言う。
だが、会津の一行で女性なのは名雪と真琴だけのはず…
「私、美坂栞です」
「美坂…」
頷く。どうやら荷駄隊に付いてきたらしい。
「なるほど、美坂殿のお母上か」
「…そういうこと言う人、嫌いです」
「冗談だ」
「分かってます」
お互いに笑う。しばし寒さを忘れた。
「…で、美坂家の娘様が仙台まで何をしに?」
「お医者様に会うためです」
「…医者に?」
祐一郎の表情がやや固くなった。
わざわざ他国まで来て医者に会うとなれば、並の病ではないはず。
だが、栞の顔は依然提灯よりも明るいままであった。
「…悪いのか?」
「そうでもないですよ」
「じゃあ、何の病なのだ?」
「それは…」
少し考える。
「風邪です」
「……風邪?」
「はい、風邪です」
祐一郎から形容しがたい溜息が漏れた。
「…もっと耳慣れない病名が出てくるのかと思った」
事実、コレラが流行している。
数年前、ちょうど土方たちが新選組となるきっかけである浪士徴募に応募する頃、
江戸をはじめ、関東一円でコレラが大流行した。
「その頃は棺桶が道を通らぬ日はなかった」と、記録にある。
余談だが、それは近藤・土方の天然理心流道場「試衛館」も同じであり、
道場のあった小石川でも流行していたため門人が来なくなってしまい、
経営難を打破するために道場をたたみ、浪士徴募に応じたらしい。
新選組の創設の背景にはこんな事情もあったのである。
…もっとも、この道場の門弟には一人たりともコレラ菌が寄りついてこなかったそうだが…
「すみません、何だかがっかりさせてしまったみたいです。」
「いや、健康に越したことはないのだが…」
祐一郎は呼吸を戻した。
「しかし、何でまた風邪くらいで仙台の医者に?」
「西洋医学を学んだ偉いお医者さんだそうです」
「なるほど…」
とは言ってみたものの、理由になっていない。
「仙台の名所を見て、目の保養をするんです」
「…それは、物見遊山と言うのではないのか?」
「そうかもしれませんね」
また笑う。
祐一郎もからかわれたかと気づいたが、不思議と不快感はなかった。
「俺たちは明日出立するが…えっと、」
「栞でいいです」
「じゃあ、栞はどうするんだ?」
「私は父上と仙台に残ります」
「ああ…そういえば、美坂殿がそういっていたような…」
神尾に荷駄の指揮を任せていた理由が分かった。
だが、同時に美坂の寂しげな笑いも祐一郎の脳裏に映っていた。
(あの寂しげな笑いは一体…?)
栞の顔を見るが、そこにはただ明るい笑顔があるのみである。
「おっと…」
そこで寒さに気づく。
「そろそろ部屋に戻らないと凍えてしまうぞ」
「宴会のおこぼれもなくなってしまいます」
「そうだな」
もう一度、笑う。
「あ、でも少し」
「どうした」
「折角の仙台最後の夜ですから、雪合戦でもしませんか?」
「どういう理由だ…」
「楽しいですよ、きっと」
「何が悲しくて、仙台最後の凍えそうな夜に、一対一で雪合戦をしなくちゃいけないんだ」
「ダメですか…?」
「国許に帰ってから好きなだけやれ、今は風邪にさわるぞ」
「でも、会津の雪は大分解けてしまいました」
「まあ、そりゃそうだが…」
雪合戦できないほどでもないかもしれない。
「あ…」
ふと、栞が傍らの荷駄に手をかけた。
「中に擲弾(てきだん)を入れたら雪が少なくても大丈夫です」
そういって、荷駄にかかるむしろの下の投擲用擲弾を手に取る。
投げ込まれた敵中で炸裂し、人馬を殺傷するやつだ。
「それは薩長相手にやれ!」
「国許に帰ったら、雪合戦、やりましょうね」
「絶対にやらん!」
「残念…」
(何故に…?)
栞は本当に残念そうに擲弾を荷駄に戻した。
その安全を確認すると、祐一郎は一つ咳払いをした。
「じゃ、異常はなかったということで帰るぞ」
「はい、ではまた国許で」
「ああ」
そこに寒風が吹き抜ける。
二人は背筋に微震を与えると、背を向けて別れた。
祐一郎の手にある提灯の明かりが遠ざかると、栞の身体は一層儚げな姿になり、夜の闇に消えていった。
「……」
暫く歩き…
「…あれ?」
立ち止まる。
「栞は一体あんなとこで何をやっていたんだ…?」
今となっては分かるはずもない。
背後の闇を振り返った。
だが、その先から足の指先が冷えてくる。
祐一郎は寒さに耐えかね、考えるのを止めて、宴席へと戻っていった。
その宴会中、ひょっとしてと思ったが、宴会に栞が現れることはなかった。
宴会の騒ぎの中、ただ祐一郎の顔だけが、曇り、酔わない酒をすすっていた。
夜が明けた。
居並ぶ仙台の洋式歩兵たちに見送られ、「會」の字とともに荷駄が出ようとしている。
その日は、いつから降っているのか、小雨が降りしきる日であったという。
仙台洋式歩兵の親玉である星恂太郎が前に進み出た。
「いやはや神尾殿たちのお陰で、有意義な時を過ごせ申した。感謝いたす」
「なんの、星殿たちから学んだこと、数限りない。感謝の言葉もござらぬ」
決してお世辞などではなく、お互い有意義な邂逅であったと思っていた。
それは祐一郎たちも、吉崎たちにとっても同じであったことだろう。
「次に会うときは…」
星がそこまで言って、笑って後を濁した。
次に会うときは、情勢がもっと悪化した中、武装して会うことになろうということであろう。
神尾も目だけの笑いで応じた。
「しいては、拙者からこれを。」
星はそう言いながら、懐から何やら取り出した。
それは、フランス製の手帳であった。
「これは珍しいものを…しかし、貴重なものであろう、受け取るわけには…」
「なんの、まことの戦となればしたためる文もござりますまい。拙者は会津という地を見たことがないが、さぞ風光明媚なところでありましょう」
そう言って、懐からもう一つ手帳を取り出し、
「おそらく拙者はこの一冊の手帳で事足りましょう。この一冊は、神尾殿のためにお使い下さい」
神尾は思わず星の目を見た。
星は死を覚悟している。
神尾の会津士魂は、その言葉に、雪解け水に触れたかのように鮮烈な刺激を受けた。
それは同様に会津の者全員にも行き渡る刺激であっただろう。
「星殿の覚悟、しかと受け取り申した」
「覚悟ではありませぬぞ、手帳でござりまする」
星は笑みを浮かべて神尾の手に手帳を渡した。
「しからば、我々はこれにて失礼申す」
「お達者で」
洋式歩兵たちが、捧筒をした。
それとともに、荷駄の重苦しい車輪音が小雨の中に響く。
祐一郎は振り返った。
星たちが見ている。
だが、そこに美坂親子の姿はなかった。
しかし、町人姿の目明かし政吉が駆けていったのは目に映った。
だが、それに気を留めることはない。
………
神尾や祐一郎はこれにて仙台行きは終わりを告げたと思っていた。
だが、実際にはまだ終わっていない。
それは、会津の荷駄隊が通ろうとしている街道を見ればわかる。
動物の皮を身にまとった怪しげな風貌の男たちがたむろしている。
いや、たむろというのは適当ではない。
彼らは街道脇の山中に身を潜め、じっと街道を窺っている。
「まだか」
「いや、政吉によると、もう荷駄は出たらしい」
「そうか…」
そう、この男たちは仙台町奉行所の手練れどもである。
彼らが狙うのは、真琴の身柄、それ一つに絞られている。
むろんのことだが、決して役人がやるべきことではない。
だが、久瀬はそれを承知で決行した。
もはや旧秩序では事の善悪を量ることはできないほど混沌としている。
いや、革命への渇望が秩序を上回っているというべきか。
ともかく彼らには、少なくとも久瀬の心には、ためらいはなかったことだろう。
この襲撃の顛末については、襲撃犯の一人、野老山久米之介が後に「戊辰戦争見聞」の著者に語っている。
ちなみに、今までの町奉行所での描写もこの野老山の口から聞いたものらしい。
以降、それを参考に書く。
襲撃犯は五人、曲がりなりにも荷駄隊を襲うにはやや手薄だが、先述したとおり、町奉行と下の役人との間の関係は薄い。
やむなく信頼できる与力津田の組下から、さらに信頼が置ける同心、しかも手練れを集めたところ、この五人が残った。
襲撃犯五人の名は、いずれも同心で、野老山久米之介(くめのすけ)、村井俵太郎、轡(くつわ)直次郎、安藤某、服部某である。
同じ同心の口から語られたにしては、名前が不詳の者がいるというのは妙な話だが、これは後の展開を見れば推察が付く。
いずれも剣の腕に覚えある連中であり、何らかの流派に属している。
さらに目明かし政吉が反対側におり、拉致後の会津方の反応を確認する。
これらの指揮を取るのは与力津田だが、当人は付近の木こり小屋におり、現場にはいない。
「む…来たか!」
安藤が会津の旗を目視したとき、野老山は奥で刀の刀身を確認していた。
野老山の前には服部がおり、安藤の隣には轡がいたと語っている。
「洋式歩兵が三人…星の手下だな。後は人足が二十人程か」
「士分と思われるのは…四人のようだな」
この際、人足は武装していないため、戦力にはならない。
従って、戦力となりうるのは歩兵三人、これらは運悪く銃を所持していない。
後は神尾や祐一郎、美坂に付いてきた者たちの、会津藩士四人、どうやら名雪たちは数に入っていないらしい。
神尾の記録によれば、荷駄は五台、先頭に神尾ともう一人の藩士がおり、脇に歩兵が三人、後尾には国之崎と祐一郎、名雪、真琴がいたようだ。
これを見た同心村井が言った。
「あの娘は後尾にいる。荷駄が通り過ぎてから襲うとしよう」
一同、頷いた。
男たちの眼下を、荷駄がゆっくりと通り過ぎていく。
襲撃犯たちは息を呑んで見守っていた。
そして、小雨が降っている。
それが少しだけ野老山に幸いすることとなった。
小雨の中、野老山がぴかりと光るのを見たのである。目の前でである。
「ん…?」
すると、空中で雨粒がはじけた。
「これは…」
野老山の目の前には先述の通り、服部がいる。
「おい、服部」
「どうした?」
「お前の首に…何か付いているぞ。蜘蛛の巣みたいな…」
「ん? そうか」
そう言って、手を後ろに回そうとする。
その時、野老山はそれが蜘蛛の巣ではなく、天蚕糸(てぐす)であることに気づいた。
だが、既に遅い。
「え…」
野老山が手をのばしたとき、服部の姿が消えていた。
物音に気づいたか、安藤が振り向いた。
「どうかしたのか…?」
だが、耳には小雨の降る音が聞こえるのみである。
野老山は答えず、とっさに上を見た。
ドサリッ!
同時に、服部の躰が地面に叩きつけられた。
この段階で、野老山たちの全ての行動が一手遅れている。
安藤と野老山がギョッとしてそれを見た。
服部はぐったりとして起きあがらない。その生死は不明である。
「ぐあ…」
離れたところで村井の声がした。
振り向く野老山の首に、目にも止まらぬ速さで棒が突き出される。
「う…」
あまりのことの早さに、声も出ない。
「立派なお役人が、野盗に扮して娘をかどあかしですかな? 感心しませんな」
離れたところにいた轡と安藤が刀を抜く。
野老山はかろうじて後ろを確認した。
既に息は切れる寸前である。
その時野老山の目に映ったのは、笠をかぶった一見修験者のような男であったという。
だが、それも一瞬である。スッスッと立て続けに同じ様な風体の男が現れる。
一人は木の上から、どうもこれが服部を倒したらしい。
一人は奥から、こちらは村井に何かしらやったようだ。
「な、何者!」
轡がうわずった声で叫ぶ。
「野盗連れに名乗る名など無いですな。芋彦、この二人は任せる」
「承知」
野老山が記憶しているところでは、この男は
「我が名は『異邦狗芋彦(いほうくいもひこ)』である、覚悟いたせ」
と、名乗ったという。
そう言った後、形容しがたいほどに気味の悪い動きを見せたため、轡と安藤は打ちかけることもできなかったとある。
その時、野老山は背後の男にしたたかに打たれ、転がっていた。
かろうじて、起きあがる。とても一撃受けただけとは思えないほどの痛みだったという。
「気を付けろ、こやつ杖術を使うぞ!」
野老山の目に、村井が苦しげに立ち上がろうとしているのが見えた。
どうやら同じく強烈な一撃を受けたらしく、刀も抜けない有様である。
野老山も刀に手をかけるが、力が入らない。
やむなく懐の短刀を抜いた。
だが、すぐにそれも取り落とす。
それを見た笠の男が、見回していった。
「これ以上やっても、そちらが怪我するだけですぞ。上司に、やっていることの愚かさを伝えなされ」
「な、何を…!」
安藤がいきり立つ。
その時、野老山の目に遙か向こうを行く荷駄の姿が映った。
それを見た野老山は痛みに耐えるのを止め、膝を折る。
「不浄役人どもが…そなたらには馬糞ほどの価値もない『体面』というのがあろう。名を汚したくなければ、とっとと帰ることですな」
男たちはそう言って、山奥へと消えようとした。
その時、
「おのれ!」
怒りにまかせ、安藤が芋彦に斬りつけた。
「……」
ひこっ!
何とも形容しがたい正体不明の音が響いた。
芋彦は依然気味悪い動きをするままである。
ただ、安藤が倒れた。
奇妙なことに、後で見ると、安藤の刀はささらに刃こぼれしていたという。
それを見た轡も刀を引いた。いや、手が恐怖で動かなかったと言うべきか。
その様子を確認すると、芋彦も十間は飛んだかと思わせるように後ろへ飛び、小雨の中、山奥へと消えていった。
襲撃犯たちは、ただ呆然とするのみだったという。
皮の衣を、ただ小雨が濡らしていた。
………
「……」
何も言わず、国之崎がじっと荷駄から後ろを眺めていた。
「どうかしたのか?」
それを見て、先頭から神尾が尋ねた。
「いえ…どうやら関所までの道中は安全のようです。」
「それはそうだろう。何しろここは名君伊達様の領内、治安がよい」
まるで自分の領地のことのように誇らしげに言う。
「まことにその通りで…」
国之崎が頭を下げた。
その頃、目明かし政吉は全く襲撃してこない野老山たちにやきもきしていた。
政吉には悪いが、これは関所まで続くこととなる。
「にはは…」
「…神尾様、その手帳がいたくお気に入りのようですな」
先頭を行く神尾の笑顔を見て、隣の藩士が言った。
「当然のこと、こんないいものを頂いてはな」
そう言って、脇から矢立を取り出すと、さらにその中から筆を取り出した。
そして、手帳の一ページ目に、筆を走らせる。
「ほう…達筆ですな。しかし、これはまたどういう意味を…」
藩士が尋ねる。
「仙台のことを」
神尾はそれだけを言った。
その手帳の一ページ目、
「仙台 霧深し 霧海なり」
と、書かれている。一ページ目はそれで終わりである。
神尾がその時何を考えて、何のことを書いたかは、分からない。
ただ、その日は小雨が降っていたことは確かである。