第十四話「水瀬騒動前夜」
祐一郎たちが仙台から武器弾薬、そして西洋兵学知識を持ち帰ってくると、にわかに神尾の「新兵制案」の現実化が進み出した。
旧来の編成を固守しようとする者もいたが、石橋他、家老たちはこぞって「新兵制案」を支持したため、直ちにその具体的な方針を決める相談が始まった。
その相談が進む間、祐一郎はまた旧式装備の訓練へと戻っていた…
祐一郎が、仙台製歩兵服を着て、ぼうっと前の方を眺めている。
その側には、久しぶりの北川や香里の姿もある。
「…どうしたの? 祐一郎。」
名雪が心配そうに尋ねる。
今はちょうど砲術訓練が一段落付いたところである。
「いやなに…いつになったら俺たちの砲は変わるんだろうかな、と思ってな…」
そう言って、傍らの骨董品を見る。
「空しい夢は抱くものじゃないわよ。」
香里が忠告する。
「そうは言ってもな…」
自分たちの手で持ち帰ってきた武器(しかもそれで訓練もしていた)だけに、今になって戦国の大筒で訓練するのは、祐一郎には、結構辛い。
名雪にはそうでもないようだが…
「ふふふ…」
一方、北川は一人でにやけている。祐一郎とは対照的な表情だ。
名雪は北川の顔を見たが、どうやら祐一郎の発言ににやけているわけではないらしい。
と、そこは気になったらじっとしていられないのが名雪である。
「北川君はどうかしたの?」
「ん? 聞きたいか?」
「聞きたくない」
「俺は水瀬殿に聞かれているんだ。」
祐一郎に水を差された北川は少しむっとした。
「言いたいなら、自分から言えばいいものを…」
「ものの情緒というものを解さない奴だな…」
これを「ものの情緒」と言っていいものかは大いに謎だが、まあ、北川なりの奥ゆかしい表現なのだろう。
「実はな、鉄砲組頭の役を仰せつかったのだ。」
「え? 鉄砲組頭?」
「………」
名雪のはそれなりだが、祐一郎の反応は薄い。
「なんでも、新規に足軽を徴募したのでそれを束ねる組頭が欲しいというわけで…」
要するに、未熟な新兵(おそらく火縄銃装備だろう)を北川に管理させようというわけだ。
だが、それはいい。
祐一郎の反応の薄さは別にある。
「戦を前に一隊を任せられるとは名誉だと思わないか?」
「それはそうだと思うけど…」
北川はこう言っているが、祐一郎から見れば、これは空しい名誉になる。神尾が進める「新兵制案」が進められれば、北川が指揮する予定の鉄砲組も廃止されるのだ。
…つまり、戦を前に解体させられることになる。なんと不名誉な。
もちろん、その時に別の隊を任されるかもしれないが、その保証もない。
「どうだ、俺も晴れて足軽頭だ。今日は祝杯でも挙げるぞ。」
「でも…この隊はどうなるの?」
名雪が心配そうに尋ねる。北川はこの予備隊の責任者の一人でもあるからだ。
「なに、心配するな。俺がまとめて指揮をしてやるぞ。」
そう言って、豪快に笑う。
だが、香里も祐一郎も、名雪までも笑わない。
…いや、香里が苦笑していた。
「ま、この隊は予備隊だからな。直接戦闘に参加するかは分からないからそう心配するな。」
北川の言葉では安心できないと見たか、祐一郎が名雪に付け加えて話す。
「別に心配じゃないよ…」
名雪は妙に不満そうだ。祐一郎は少々その心中を量りかねたが、それを遮るものが現れる。
「わぁーっ! 弾が詰まってる!」
「どこにだよ…」
真琴がゲベール銃を手にして四苦八苦していた。
無理もない。仙台で使っていたのはミニエー銃なのだから…といっても、装填作業はさほど変わらないが。
…その前に説明すると、
祐一郎は神尾の命令通り、真琴を自分が管理する隊(いつの間にかそう決定しているが)で訓練している。
隊内の編成というのもいい加減なもので、名雪や香里が砲兵、北川が歩兵指揮ということ以外は、特に決まっていることもない。
若い子弟たちは、ただ銃をもって歩兵をやったり砲兵をやったりとしている。
真琴もその点は変わらない。
祐一郎も真琴の扱いには悩んだが、国之崎が勧めるので、歩兵にしている。
だが、国之崎は妙なことも祐一郎に言った。
………
「相沢殿、真琴殿に隊の者を数名指揮させる訓練をさせてはどうだ?」
「はあ? 真琴に?」
「いやなに、真琴殿には隊長としての才があると思ってな。」
「…本気で言っているのか?」
「俺はいつだって真面目だ。」
「(質の悪い冗談か…)」
「ん? まあ、そう変な顔をするな。洋式戦闘には武士も百姓もないのだぞ。」
「…聖人と殺し屋の差はあると思うぞ。」
………
…と、実りのない会話だったが、どうも国之崎がわざわざ冗談を言いにきたとも思えない。
(だがよ…)
目の前にいる少女は、ゲベール銃一丁にも手こずっている。何十の人間を鮮やかに操る可能性などあるのだろうか?
…実はある。
長州の大村益次郎、百姓出身で刀の抜き方も知らないと言われたほどだが、何千という洋式百姓兵を指揮して何倍もの幕府軍を潰走させた。
だが、そんな会津には不快な事例など、祐一郎の説得には役に立つまい。
(まあ、もう少し慣れたら戯れにでも…)
と、祐一郎も祐一郎でいい加減な事を考えていたが、ここで北川の声が響く。
「よし! 今日は訓練をここまでとする! …いいな? 相沢。」
「聞いてから宣言しろよ…」
「気にするな」
兎にも角にも訓練はここで終了である。
北川が組頭就任の祝いの宴を持ちかけたが、祐一郎は止めた。
何も後から来る悲しい衝撃を増長させることはないのである。
と、訓練の終了を見計らったか、そこに思わぬ来客があった。
「水瀬名雪殿はいらっしゃるか!」
調練場の入り口の方から声がする。
一同がその方向を見ると、軽装の侍が駆けてくるのが目に入った。
それは段々と近づき、最終的には祐一郎たちの前で立ち止まった。
「……水瀬名雪殿ですかな?」
息が少し切れている。ずっと走ってきたのかもしれない。
「ああ、こいつがそうだ。」
祐一郎が最初に答えた。
「…私は香里よ。」
「なに! いつの間に入れ替わったんだ!」
「相沢君の足の向きが変わってからだと思うわよ。」
「なるほど、盲点だった。」
「…ということは、こちらが名雪殿ですな?」
「うん、そうだけど…」
名雪が不審そうに見る。無理もなく、確かに見たことない顔である。
そしてその侍は一回頭を下げた。
「名雪殿、折島様より名雪殿を連れてくるように言われて参りましたが、ご都合はよろしいですかな?」
「ええっと…」
名雪が祐一郎を見る。
「ああ、大丈夫だ。」
「うん…じゃあ、行くよ。」
「承知致した。では、すぐに。」
侍はせっかちなようで、名雪の手荷物を早速持とうとしてきた。
「大丈夫だよ、重くないから。」
名雪もマイペースに帰り支度をしながら断った。
「それじゃあ、またね。」
名雪は三人に挨拶すると、侍と共に入り口へと遠ざかっていった。
「……」
「どうしたのかしらね、急用みたいだったけど。」
「こんな折に、水瀬殿に急用とは…」
「相沢君は何か知っているの?」
「いいや、知らないな。」
「ふーん」
三人ともその用件は何か分からなかった。
これもまた無理もない。
折島は半ば秘密裏にこの計画を練っていたのだ。
それは三人が予想しうる範囲を超えたものだったからなおさらである。
だが、祐一郎も他の二人とは違ったことに気が付いた。
(俺には荷物を持たせるのに、あの侍には持たせなかったな…)
他家の人間に持たせるとは思えないが、祐一郎はそこが妙に気になった。
案外、心が広くないのかもしれない。
「…どうしたの?」
そこに真琴が、事情が分からずに尋ねてくる。
「ん…いや、名雪が折島様に呼ばれてな。」
「折島様? 秋子さんとよく話している人?」
「さあな。俺はよく知らないが、多分その人だと思うぞ。」
言ってから、祐一郎はふと不安になる。
前に水瀬邸の前で折島と会ったときの名雪の様子が頭に浮かんだからだ。
別に様子がおかしいわけではなかったが、いつもの名雪とは違った気がしていた。
一体、折島は何が目的で水瀬家に足を運んでいるのだろう…
「真琴、折島様が秋子さんとどんな話をしているか、少しは聞いていないか?」
「ううん…秋子さん、あまり楽しそうじゃなくて、何も教えてくれないし、聞いても答えてくれないと思う…」
「…そうか。」
秋子さんが楽しくなさそうなどという、三毛猫の雄の誕生のように珍しい状況を知れば、
このことが良からぬ事態だというのは祐一郎にだって分かる。
だが…秋子さんが明らかに楽しくなくなること、
(そんなものがあるのか…)
曲がりなりにも折島が持ってきている話である以上、そこにまず謎が出てくる。
秋子さんが不快感を表面に出すというものは、これもまた白亀のように貴重なものではないか。
「まあ、秋子さんのことだ。いざとなったら話してくれるさ。」
それに、名雪だってこれからそのことを聞かされるのだろう。
「ふーん………あ、えっと、その、祐一郎はこれからどうするの?」
「これからか…」
真琴は別に心配しているわけでもないので、行動も日常的だ。
祐一郎は暫し考えたが、
「久しぶりに街をうろつくか…」
と、言ってみた。
「そうなの?」
「お前はどうするんだ?」
「えっと…真琴は…」
「用事がないなら、一緒に連れていってやってもいいぞ。」
真琴に用事など、あるはずもない。
「えっと……うん…」
「じゃあ、さっさと行くか。それじゃあな。」
と、香里と北川に片手を挙げる。
「じゃあ、祝杯は日を改めてな。」
「やらないと言ったはずだが…」
「つれないことを言うな。」
「違うな。俺はお前のためを思って言っているんだ。」
「……どういうことだ?」
「……」
この事実を教えてやることの方がつれなかった。
「さ、行くか。」
「こら、何事もなかったかのように行くな!」
「何事かあったさ。だから俺は真琴と街へ行くんだ。」
祐一郎は強引に話を打ち切ると、真琴の手からこれまた強引に銃を取り上げて、北川の方に投げた。
「うわっ! 何をしやがる!」
「い、いきなりなにするのよぅ!」
「お前に銃を持たせておくわけには行かないからな。俺の身が危ない。」
「…そう言う相沢君も、銃は置いていきなさいよ。」
「なにっ!? 俺も駄目なのか!?」
「当然でしょ」
「つれないことを言うな。」
「武器を無断で持ち出すと、銃殺されるわよ。」
「…置いていこう。」
祐一郎が武器たちに背を向けると、のどかで新しい建物群が目に入る。
後ろと前とでは別世界のような光景が広がるというこの調練場の光景を、何となく祐一郎は気に入っていた。そしてその近くでは、反射炉の普請が進んでいる。戦に間に合うか、それだけが不安だった。
「…しかし、どこに行くかな。」
街を歩きながら、祐一郎は思案する。
会津藩士たちは戦争対策に大わらわだったが、街の者達の様子はさほど変わっていない。また、これが祐一郎の理想でもある。
(戦は武士の仕事だ。戦で民衆が生活を脅かされるわけにはいかない)
これもまた、維新後の「国民皆兵」と相反する思想である。
だが、これは兵農分離が完了して以来、江戸期の国民全体が当然の如く考えている思想でもあり、また、後進的な思想でもない。素直な感情で見れば、誉めるべき事だろう。
「あれ? 人だかり…」
その時、真琴が前方に群がる黒山に気が付いた。
「そうだな。何だろう。」
祐一郎と真琴は、興味本位で近づいてみる。
近づいてみると、その人だかりが武士ばかりだということに気づく。それも、一応身分ある部類に入りそうな身なりである。
「おや、ここは…」
祐一郎が、少し上げた視線の先にある、表札に気づいた。
「鯛野屋」 …そう、書いてある。
「おや、これは相沢様。お務めご苦労様です。」
相変わらず物腰の低い男だ。主人の鯛野屋好太夫が店先から祐一郎に挨拶する。
「鯛野屋、随分と繁盛しているようだが、何かあったのか?」
「いえいえ、実は私どもが江戸に一度帰ることとなりまして…」
鯛野屋は江戸商人だが、のれん分けをした支店が会津にもある。
ここがその店である。
「そうか、そろそろ一月半になるからな。」
「それで、御家中の方々から武具の注文を…」
好太夫の言葉を聞いて、祐一郎は苦笑する。
今になって武具などを揃えようとしている、同家の武士たちが滑稽に思えたのだ。
「相沢様は、何か御入り用なものはございませんかな?」
「いや、俺は別に…」
「あ、これ面白そう。」
突如、真琴が店先で端に追いやられている商品に興味を引かれた。
押し掛ける武士たちを横目に、真琴はその元へと駆け寄る。
「なんだ…それは?」
「……」
真琴が手に取ったのは、一冊の書物であった。
「ああ、それはさるお旗本より売っていただいた小説でございますよ。」
「ほう、小説…」
いやはや、鯛野屋が何屋だったかわからなくなるほど、様々なものがあるものだ。
「清国のものだと聞いておりますが、結構新しゅうございましょう?」
鯛野屋が誇らしげに説明しながら、手の指でその値を示す。祐一郎はそれに対してかぶりを振り、手で暫し待つように示した。
真琴は、暫く読もうと努力していたが、すぐに「あうーっ」と、情けない声をあげる。
それというのも、先日貸した洋書は日本国内で訳された和文体のものだが、これはどうも漢文体で作られたものらしい。
「……ねえ、祐一郎」
「なんだ」
「これ読んで」
「はあ? どうして俺がお前のために、興味もない書物を読まなくちゃいけないんだ。」
「いいじゃない、どうせ暇なんでしょ?」
「まあ、用事があるわけじゃないが…」
そう言って、暫く書物を見ながら考えていたが…
「仕方ない、冒頭だけだぞ。」
「やったっ」
結局、折れる。いつからこうも甘い男になったのだろうか…
祐一郎はその表紙を改めて眺めてみる。
「常恋唐突」と書いてある。人情ものか…
「なんだ、この手のものは苦手なんだが…」
「つべこべいわないの。」
いつの間にか、真琴の態度が大きくなっていた。
「仕方ない奴だな…なになに、『常に恋は唐突なり』…」
「うんうん」
「…『下痢も又之に同じ』」
ぼかっ!
「痛っ! 急に殴る奴があるか!」
「書いてないことを読まない!」
「このまま読んでも面白くないだろ。この手のものはそう決まっているんだ。」
「真琴は面白いの!」
「……あの、相沢様。」
そこに、鯛野屋が立ち入りにくそうに話しかけてきた。
「あ、ああ、鯛野屋。どうかしたか?」
「ここは店先ですので…お買いあげになられるならお早めに…」
そう言われて、祐一郎が周りを見回す。
押し掛ける武士たちが、不快そうな視線を送っていた。同じ家中の武士だけに気まずいものがある。
だが、真琴にはそんな立場も外聞もない。
「なによぅ、仙台でも会津でも、この手の…むぐぅぅぅ」
「…仙台でも言ったが、そういう発言は控えろ。」
とっさに、真琴の口を押さえる。
「あの、それで…」
「ああ、買う。いますぐに買う。」
そういって、懐から紙入れを出す。
その下で、真琴はずいぶんと満足そうだった。
(なんかはめられたような気がする…)
鯛野屋に銭を渡しながら、ふとそう思った。
「やれやれ、酷い目に遭った」
鯛野屋から出てきたところで、祐一郎が呻く。
次に登城する時を思うと気が重くなるが、ここに立ち往生しているわけにもいかない。
未だ鯛野屋の店には大勢の武士がいるので、やはり少し離れることにした。
「ね、ね、続き読んでよ」
しばらく行ったところにある茶店の店先に腰掛けると、すぐさま真琴がねだってきた。
「お前なあ、なんでこんな道端でそんなものを読まなくちゃいけないんだ」
「でも、途中かけだと気になるし…」
「わかった。帰ってから読んでやる」
「やったっ」
真琴はやはり嬉しそうだった。
(やっぱりはめられているんじゃ…)
祐一郎は不安を押し殺すように息を吐いた。もっとも、真琴にそんな策略の心得があるとも思えない。
だが、そもそも買うつもりなど無かったものを買う羽目になり、冒頭だけ読むと言ったものが、いつの間にか続きを読むことになっている。
こっちには気づいていないのか、気づかない振りをしているのか…
「恋は常に唐突なり…か」
祐一郎が先ほどの文章を呟く。
「ボクもそう思うよ」
「そうか? そうと限ったものでも…」
と、言いかけて、視線を上げる。
午後の太陽を背景に、あゆがにこやかに立っていた。背中のゲベール銃に西日が反射して眩しい。
「…何をしている?」
「ボク? ボクは市中見回りだよっ」
「…まあ、そうだろうな」
言わずもがなだった。
「…この人…」
隣で真琴が驚いたような表情であゆを見上げる。
「あっ! あの時気絶していた子だね」
「気絶…」
真琴が思い出せないでいるのを祐一郎が説明する。
「お前が俺の暗殺を最初に試みたときだ」
「すごいときだね…」
「ああ、俺も自分で言っていてそう思う」
「でも、ちゃんとお屋敷に連れて帰ってくれたんだね。よかったよ」
あゆが嬉しそうに手を合わせる。
なぜかその手は、いつのまに手に入れたものか、西洋の手袋で覆われていた。
「…この人、町中で小悪党を捕まえていたお役人さん?」
「え? ああ、そうだな。お前が俺に名前を教えに…」
と、言いかけて、あゆの顔を見る。
「どうかしたの?」
「…お前、あの時あの男を逃がしただろ」
「えっ、な、なんのことかな」
ごまかしても、しっかりと目で見てしまった以上、どうにもならない。
「いいのか、あんなことをしていると奉行所をクビになるぞ」
「うぐぅ、あの時はああしないと…」
「鯛野屋にバレても、クビになるよりはマシだろ? …というかお前、よくこの界隈をうろつけるよな」
ここは鯛野屋から目と鼻の先である。
「…ひょっとして、またも鯛野屋を狙っているのか?」
「違うよっ! もう銭は払ったから、後ろめたいことなんか全然ないんだよっ!」
「お、銭を払ったのか。そいつは上々」
「うん、ボクはいい役人だからね」
そこのところは譲れないらしい。
「…しかし、だからといってクビにならないとも限らないぞ」
「大丈夫だよ。いざとなったら祐一郎君に頼るからね」
「そりゃあ、無理だ。俺たちの仕事は体力勝負だからな」
「うぐぅ、ボクも祐一郎君と同い年…」
「年の問題じゃないだろ? それにどう見ても…」
言いかけて、視線を逸らす。
「どう見ても…なにかな?」
あゆが固めの笑いを見せていた。
「……しかしなんだな、鯛野屋もあっさりと許すとは、さすが人の好い鯛野屋だけある」
「うぐぅ、話をそらさないで…」
「でも、あゆもそう思うだろ? どうだ?」
無理矢理に話に引きずり込もうとかかる祐一郎。
「え、うん。逆にこの手袋をもらっちゃったしね。」
あゆもあっさりと引きずり込まれる。
しかし、祐一郎の方も思いがけない発言に驚いた。
まさか西洋手袋をただで万引き犯にやるとは、人が好いにも程があるのではなかろうか…
「好太夫さん、ボクがゲベール銃好きなのを知っていてくれたからくれたんだよ、きっと」
「そりゃ、ゲベール銃と『歩兵心得』を盗まれればな…」
鯛野屋好太夫、人の好さでは量り知れない宇宙の闇を思わせる男である。
しかしゲベール銃好きとはそれ以上の異常者では…
「でも、この手袋なら、銃を連発しても火傷しなくても済むんだよ」
「そうなのか?」
「うん、冬でも手がかじかまずに操作できるのも便利だよっ」
あゆが嬉しそうに語る。
(なんか悔しい…)
そもそも、あゆが町中でゲベール銃を背負って闊歩しているのが黙認されているのが悔しい。
(というか、本当にいいのか?)
だが、いまだに奉行所からなにもないって事は、いいらしい。
祐一郎もやってやろうと思ったが、銃殺されるのも怖いので考え直す。
「これならまた冬になっても薩長を追い払えるよね」
「数さえあればな」
「これでボクが祐一郎君と一緒に戦っても問題ないよ」
「おいおい、だから問題は大ありだって言っただろうが」
「どうして大ありなのかな?」
「だからそれは………」
祐一郎が逆に引きずり込まれるところだった。
「さあ、真琴。『恋は常に唐突』だからな。先が気になるから屋敷に帰って続きを読もう」
「祐一郎、意味不明…」
「うぐぅ、二度も同じ手を使うなんてずるいよ祐一郎君…」
あゆが涙目で非難していた。
「お前も、二度も同じ店で万引きするな」
「うぐぅ」
「意味不明…」
真琴もたじたじだった。
「…でも、本当にそうだよね」
「ん? 何がだ?」
帰宅体勢に入ろうとしていた祐一郎の背中に、あゆの聞こえるか聞こえないかというところの呟きが聞こえてきた。
「いろんな理由があるけど、やっぱり『常に唐突』だと思うよ」
「ああ…」
祐一郎も、あゆがこれを話題にするとは思わなかったので、少々戸惑う。
「時には気づいていなかったら唐突なときだって…」
「おい、あゆ。どうかしたのか?」
あゆの様子が微妙におかしかった。心は別にありという様子だ。
「…祐一郎君、ここでお別れだよ」
「え?」
「じゃあねっ」
あゆが唐突に駆けだした。そして…
「そこのスリ、止まるんだよぉっ!!!」
「うわ、バレやがった!!」
あゆが駆けだした先、若い男二人が駆けだした。
あゆも必死に追走を…
「うぐぅ、どいて〜」
鯛野屋の前に溜まる武士たちが、行く手を遮っていた。
スリ二人組は、スルリと人混みを抜け、逆光の中を消えていく。
「…というか、何も『止まれ』といわなくてもよかったんじゃ…」
つくづく能率の悪いお役人だった。
「気づいていないから唐突になるのを実践したんでしょ?」
「そうかもしれんが…」
(だったら、声を掛けずに捕まえた方が唐突じゃないか…)
「…わけが分からなくなるから、とっとと帰るか」
「うん…」
祐一郎と真琴も、帰ることにした。
背中に、町同心の嘆きを聞きながら…
しかし、その日はそれで終わることはなかった。
「あれ? なんか変だな…」
祐一郎が水瀬家屋敷の前で足を止める。
屋敷の空気が、何となくおかしかった。何か中が慌ただしい。
「名雪に何かあったのか…?」
折島から送られたという侍のことを思い出す。あれは確かに折島の家臣だったようだが…
「なんか、嫌な予感…」
真琴が不安そうな様子で門を眺めている。
何となく、通りたくない気分だった。
「でも、行かなきゃな」
「うん…」
そして、二人は足を踏み入れた。
「あ、祐一郎様!」
水瀬家に入っての第一声は、源助の声だった。その声、喜々としている。