第十五話「水瀬騒動」

 思いがけない源助の喜々とした声に、やや祐一郎は面食らった。
 それは真琴も同じ様で、やや呆然としている。
 屋敷の中は使用人たちが慌ただしく動き、何事かの大事を予感させるのに十分だった。
 まるで春の陽気に土から這い出た虫たちを思わせるような光景である。
 だが祐一郎の心中など知る由もない源助は、しわの多い笑顔で頭を下げただけである。
 「お帰りなさいませ。……どうかなさいましたか?」
 「いや……」
 単なる杞憂であれば、祐一郎もそれに越したことはない。とりあえず、笑ってみた。
 「気のせいだったのかな…」
 真琴の方は、勘が外れただけに、悔しそうな表情をしている。
 しかし、二人の様子は逆に源助の方を不安がらせた。
 「やっぱり、何かあったんじゃございませんか?」
 「はは、何もない、何もない。心配かけて悪かったな」
 「いえ何の、私も嬉しいですからね。こんな目出度いことは久しぶりでございますよ」
 「何? めでたい?」
 全く正反対の展開に、さらに面食らう。
 「そうじゃございませんか。ご主人様が亡くなられたり、お殿様が登城を禁止されたりと、嫌なことばかり続いてましたでしょう?」
 「いや、そうじゃなくてだな…」
 「?」
 ここにきて、ようやく首を傾げた源助だったが、別に詮索する様子もない。
 「悪いが、俺たちには、めでたいような報せは一つも届いていないぞ。一体何があった?」
 「ははあ、これは失礼を。てっきり聞いているものとばかり思っておりましたので…」
 源助は己の浮かれ具合を謝ると、屋敷を騒がす元凶について説明しだした。
 「今日、折島様が正式に祝言の手はずを整われまして」
 「祝言? 折島様が?」
 祐一郎に記憶によれば、折島はだいぶ歳もいっていたはずである。
 もちろん再婚の可能性はあろうが、別に折島が独り身だという話も聞いてはいない。
 まあ、単に耳に入っていないだけなのかもしれないが…
 「いえいえ、折島様が仲立ちしていただいたということで…」
 「仲立ち?」
 嫌な予感がした。
 「一体誰が…」
 「へ? そりゃあ、名雪お嬢様に決まっているじゃございませんか。旦那様が亡くなられたばかりで、奥方様なんてことがあるわけございませんよ」
 「あ…いや…」
 源助の言葉はもっともだったが、祐一郎の耳は既にそれを聞いてはいなかった。
 (祝言だと…? 一体、何がどうなっているっていうんだよ…)
 不覚にも、鼓動が早まった。だが、それにすら祐一郎は気づいていない。
 「祝言…」
 隣の真琴は、「祝言」というものが判らずに、さらに呆然としている。
 だが、隣にいる祐一郎は既にそれを尋ねられる状態ではなくなっていた。
 「…祐一郎?」
 「……あ、ああ」
 「いやあ、めでたいめでたい。これで水瀬家も安泰だあ」
 源助が、心の底から喜んでいるのを照覧させるかのように、天を仰いで言った。
 「安泰…」
 源助の何気ない言葉に、祐一郎は重要なことに気づかされた。不覚にも、この一月全く気づいていなかったと言ってよい。
 (そうか…水瀬家には跡取りがいないんだったな…)
 どうして、こんな簡単なことに今まで気づかなかったのだろうか?
 水瀬家の雰囲気が、それを微塵も感じさせなかったからだろうか。
 それとも…
 「ちょっと源助さんよ!」
 祐一郎の思案を遮って、年増の女中が廊下から声を掛ける。
 「あ、祐一郎様、お帰りなさいまし。…で、源助さん、気が早いんじゃないのかね」
 「なんでえ、この期に及んで何をいいやがんだあ」
 「まだ祝言までいっとらんじゃないの。祐一郎様にぬか喜びさせちゃまずいよ」
 「なに? まだ決まっていないのか?」
 「へ、へい、すみません。ちょっと、先走りすぎたみたいで…」
 源助が再び謝る。萎縮してしまった源助の代わりに、女中が説明した。
 「今日から明日に、お嬢様がお見合いなさるんですよ。祝言まではまだまだ…」
 「なんだ見合いか…」
 ほっと胸をなで下ろす。
 なで下ろしてから、その自分の無意識の行動に狼狽した。
 (どうして俺がここで安心するんだ…)
 自問するが、答えてくれるものはなかった。
 「……それで、一体どこの誰とやるんだ?」
 質問とその矛先を変えてみる。
 「はい。御先手組の斉藤様の御子息で七郎左衛門様、なんでも槍組頭だそうですよ」
 「七郎左衛門…」
 どこかで聞いたような気がする名前だった。
 そうなると、本来は記憶力が程々にはある男だけに、その折の描写まで思い出してきた。
 (確か名雪と調練場で見た男だな…)
 そう、訓練が始まってしばらくした頃に、すさまじい形相で訓練をしていた男である。
 当時は真琴のことでややこしいときだったので、すっかり忘れていた。
 しかし、まさしく荒武者のような男だったとは記憶している。
 「あの男が…」
 「おや、祐一郎様、ご存じなのですか?」
 「いや、遠目に見ただけだ。会ったことはない」
 「それでは、見た目にはどんな御仁でしたかい?」
 ひょっとしたら主人になるかもしれない男に、源助は興味津々だ。
 「どんなって…」
 問われて、祐一郎は少し考えた。
 勇猛なもののふ、槍の達人、会津藩士の手本…そんな言葉が思い浮かんだ。
 だが、
 「槍は上手い男だそうだが、人物はどうだかな…」
 「へい?」
 思いもよらぬ言葉が、無意識に口をついて出てしまっていた。
 源助も女中も、そもそも見合いを理解していない真琴を除いて、驚いて固まってしまった。
 妙な沈黙。
 言ってから、祐一郎自身もはっとした。
 「祐一郎様、今のは…」
 「ああ、いやなに、人格は、直に会ってないから、分からないって意味だ」
 「へ、へい、そうですよね」
 源助は頷いたが、祐一郎の言葉への疑問、そして次期主人への期待のわずかな喪失が残った。
 女中の方も居づらそうに、奥へと引っ込んでいってしまった。
 「まずかったかな…」
 源助が庭の奥へと消えた後でぼやく祐一郎自身が、何故そんなことを口走ったのか分かっていない。
 「なにかまずかったの?」
 真琴が隣で聞いてきたが、
 「いや、何も」
 祐一郎はそう答えた。

 玄関を上がった。
 「ただいま戻りました」
 奥へと声を掛けるが、返事はない。
 ただ、使用人たちの慌ただしさが聞こえるだけだ。
 「留守か…」
 おそらく、名雪も秋子さんも折島の所へと行っているのだろう。
 仕方なく、二人で自室へと向かう。
 「真琴、秋子さんたちが帰ってくるまで、部屋でおとなしく寝ていろ」
 「なによぅ、それ」
 「今日は夜まで長引きそうだ。明日も訓練があるから寝ておくのも悪くないだろう」
 「だって、続きを読むって…」
 「…お前なあ、状況を考えろ、状況を。こんな時に、呑気に三文小説なんぞ読んでいられるか」
 「読んでもないのに、三文小説というなんて無責任」
 「俺の勘は当たるんだ」
 「真琴の勘も当たるの」
 「だがさっき…」
 と、言いかけて、渋い顔になる。
 「………?」
 「…いや、まあいいか。どうせ俺は寝るわけにもいくまい」
 「うん、そうして。どうせ祐一郎や真琴にはあんまり関係ないんでしょ?」
 「……そうだな」
 真琴は別に深く考えて言ったというわけでもないだろうが、祐一郎には重くのしかかってくる言葉だった。
 (そうだよな、俺や真琴は部外者じゃないか…)
 祐一郎には、従兄弟でこそあれ、それは祝言の宴席に並べばいいだけのことで、それ以上関わるべきことではないはずだった。そのはずなのだが…
 またも真琴の思い通りになろうとしているが、祐一郎はそれを気にする様子もない。というより、何となく疲れているように見えた。
 その様子を見て、真琴が気になっていたことをおずおずと尋ねる。
 「……祐一郎、秋子さんのことだけど…」
 「ん? どうした」
 祐一郎は障子に掛けた手を止めて、真琴のうつむき顔を見た。
 「…秋子さん、あまり楽しそうじゃなかった」
 「………」
 それはさっき聞いたことだ。だが、今改めて聞くと、その様子にも何か特別な意味合いが感じられる。だが、源助たちの様子を考慮するまでもなく、疑問の方が逆に深まるのもまた事実。
 「真琴はよく判らないけど…さっきのことが原因なのかな」
 「さあ、でもそれは変な話だぞ…」
 周囲の目からすれば当然のことで、何一つ秋子さんが損することはないように思える。それとも、折島から変な条件でも出されているのだろうか。
 (…だが、折島様はそんな様子でもなかったけどな)
 それに不快な条件なら蹴ればいいことだ。折島は別に藩内の実力者ではないし、見合いの相手だって、特別偉い人間の息子というわけでもない。
 「…祐一郎なら、分かると思ったんだけど」
 「どうして」
 「祐一郎も、源助さんたちみたいには、あんまり楽しそうじゃなかったから」
 「…気のせいだろ」
 祐一郎は真琴の顔から目をそらした。そして、障子を開く。洋書の山が目に入った。
 「…気が変わったら、寝てていいんだぞ」
 「真琴は子供じゃないわよぅ」
 真琴の抗議の声を背に、自室へと入った。無言で畳の上に座る。
 そのまま、障子の隙間から、東の空を見た。まだ、日が落ちるまでには時間がありそうだった。

 それから祐一郎は、真琴と畳に寝っ転がりながら、鯛野屋から買った書物を読み上げた。
 江戸にいた頃には、想像もし得なかった姿である。他の武士が見れば無論のこと、使用人でも、見られたら相当恥ずかしいことになろう。
 しかし…祐一郎はそれすらも意に介する様子はなかった。
 この状況を、昔どこかで見たような気がしていたからか…
 「…祐一郎?」
 「え?」
 いつの間にか、真琴の横顔を見ていた。
 「早く、続き。もう少しでしょ」
 「ああ、わかった…『…然からば今生の尽く待ち続けん』」
 「……」
 「『諾なり。必ずや帰りて迎えに参らん。其の折こそ 居を共にすべし。祝言を挙げん』…」
 「………」
 「『然らば 其の折まで 長き別れなり』…と」 
 パタリと書物を閉じた。
 「はぁーっ…」
 真琴が深々と息を吐いた。
 「そうか、俺も同じ気分だ。全くもって、金の無駄だったな」
 「まったく違うーっ!」
 「何? 違うのか?」
 「すんごくいいお話だったじゃないのよ! 祐一郎の感性は腐っているの!?」
 「腐っているとまで言われて、『はい、そうです』とは誰も言わないだろ…」
 「そんなことを聞きたいんじゃないの!」
 読み終わるや否や感想戦が巻き起こったが、しばらく交戦したところで、突如真琴が黙った。
 「……」
 「……」
 祐一郎も、真琴が反撃しなければ、攻めるところがない。
 「…祐一郎」
 「今度はどうした」
 「祝言って、素晴らしいことなんだよね?」
 既にその目は、祐一郎ではなく、手の中の書物を見ていた。
 思えば、真琴はこの書物で「祝言」を知った(結婚は知っていたが)。ということは、金の無駄でもなかったのだろう。
 「ああ、そうだな………本来はな」
 「じゃあ、どうして秋子さんは…」
 真琴は、「祝言」という結婚を知らしめる儀式を知ったばかり。その純粋な知から浮かぶ疑問もまた、同じ所に行き着いた。
 「本来は、だ。、必ずしも幸せになるわけじゃない。それどころか、婚姻は非情な世界の証でもあるぞ」
 どうやら祐一郎は政略結婚のことを言っているらしい…
 「…秋子さんがやろうとしているのもそうなの?」
 「……さあな。折島様と秋子さんに聞いてみないことにはな」
 といって、そっぽを向いたものの…
 (待て…そういえば、俺はどこかで…)
 もう一度、真琴の手にある書物を見た。
 昔、どこかでこんなことがあった…ような気がする。
 それも、この会津若松の地で。
 (考え過ぎか…)
 書物そっくり、などということはないだろうが、似た状況の発生は十分にあり得る。
 だがしかし、たとえあったとしても、それは七年以上前の話。
 (子供の戯言じゃないか…)
 馬鹿馬鹿しいと、祐一郎は考えるのをやめた。
 「とは言ってもな、非情な世界での結婚も、普通の世界での結婚も、実際には大して変わらないぞ」
 「え? そうなの?」
 「結局の所、人生に張りを失い、ただ家のしがらみに取り憑かれて、蝋燭の火のようにしょぼしょぼと蝋の上だけで燃え続けるようになるんだ。結婚は有る意味での死だな」
 「…不必要に、真琴の夢を壊そうとしていない?」
 「全然そんなことないぞ」
 「はぁ…祐一郎はきっと家族を不幸にするわね」
 「お前は慎ましく暮らしていた青年を不幸にしたけどな」
 「何が不幸なのよ!」
 「お陰で夜な夜な命の危機が及ぶ羽目になりやがった」
 「それは自業自得よ」
 「お前…記憶喪失のくせに、よくそんなこと言えるよな」
 …「否定の証明は悪魔の証明と申しまして、そもそも不可能なものなのです」、豊臣政権下で殉教したキリスト教徒が言った言葉である。
 祐一郎の罪科を立証する証拠は何一つなしに、祐一郎は真琴から怨恨を買う。思えば、真琴の記憶がないから一切の証拠も無いという、とことん都合の悪い状況である。だが、同時に、
 (真琴の記憶喪失も証拠なんぞ無いじゃないか…)
 という、どっちもどっちな具合で互いに非難し合い続けている状況であるのだが、考えてみれば、決着の付けようがないのである。
 「祐一郎も、いい年して、祝言の一つも挙げなさいよ。説得力まるでナシね」
 「え、偉そうに…」
 どうも今日は祐一郎に分が悪いような気がする。精神的な余裕の差か。
 まあ、真琴の言う通りではあるが、たった今祝言を学んだ真琴に言われるのは、どうも癪にさわるらしい。
 ふてくされてしまった。
 「あれ…怒った?」
 「俺にだって、当てがないわけじゃない。馬鹿にするな」
 「………」
 「…なんだよ」
 「惨めなものね…」
 「黙れ!」
 と、騒いでいるうちに、だいぶ時が経っていたらしい。いつの間にか日が暮れようとしていた。
 障子から差し込む薄暗い光を感じ、ふとその影の長さを気にする。
 「暮れてきたか…そろそろ、明かりを灯すか」
 そういうと、祐一郎は部屋の障子を開いた。夕暮れ時の寒気が吹き込む。
 「待ってろ、今蝋燭に火を…」
 「あ、お帰りなさいまし!」
 遠くから聞こえた声に、祐一郎は振り向いた。声は玄関の方からしたようだ。使用人たちの動きの流れが変化する。
 だが、それは祐一郎に発せられたものではもちろんない。
 「帰ってきたか…」
 何故か、手のひらに汗が吹き出てきた。障子を開けた手を下ろすのさえ、何やらためらわれた。
 祐一郎はとてつもない圧力をその背中に感じ取ってはいたが、それでも、
 「真琴、玄関に行くぞ」
 その台詞を言うのは祐一郎の義務であった。


 「奥方様、お帰りなさいませ」
 祐一郎が玄関に着いたとき、ちょうど源助が頭を下げているところであった。
 「ご苦労様」
 秋子さんは笑っていた。だが…
 「源助さん、明日の用意は…?」
 「へい、万事整えてございますよ」
 「そう…」
 どこか、いつもの秋子さんとは違っている。真琴が感じたのも同じものだろうか。
 「秋子さん」
 「あ…祐一郎さん、お帰りなさい。ご苦労様」
 「一体全体、何がどうなっているんですか?」
 「御覧の通りよ」
 と言って、使用人たちを示す。
 「………いえ、質問を間違えました。一体、何がきっかけでこういうことに…」
 「それは後で話しましょうね」
 秋子さんは穏やかに微笑むと、真琴に二言三言声を掛け、奥へと消えた。
 しばし呆然とそれを見送る。
 「やっぱり、変…」
 真琴が呟いた。
 「そりゃ、一人娘の見合いだからな。きっと緊張で疲れているんだろう」
 「それだけならいいんだけど…」
 その時、ふと背後に気配を感じた。
 「名雪…」
 「……」
 玄関に、名雪が立っていた。
 「お嬢様、お疲れでございましょう。ささ、早く中へ」
 女中の一人が名雪を迎え入れる。
 名雪は無言で雪駄を脱いだ。
 「……」
 祐一郎も、無言。
 「どうかしたの?」
 真琴が尋ねる。だが、やはり無言。
 「奥で奥方様がお待ちしております。祐一郎様もお早めに」
 「ああ…」
 女中に先導されて、名雪は俯いたまま奥へと消えた。
 後には、祐一郎と真琴。
 「…真琴も行くの?」
 「ん? そうだな…」
 しばし考える。本来なら一番無関係な人物である。だが、今は何やら心強い心持ちがした。
 「ああ、そうだな、お前がいた方がいいかもしれない」
 「……」
 「どうした」
 「…なんか、祐一郎も変」
 ぽかっ!
 「いたいーッ、何するのよ!」
 真琴が非難したが、祐一郎はそのまま無言で歩き出した。
 妙なことだが、どこかしら浮き足立っていたようにも見える。
 「ちょ、ちょっと待って…!」
 真琴も、首を傾げつつ、後を追った。

 それから、奥の一室で水瀬家一門の秋子さんと名雪、縁者に当たる相沢家の祐一郎、そして何故か(他称)職業暗殺者の真琴、この四人だけで話し合いがなされた。
 とはいっても、秋子さんの口から経緯を祐一郎に説明するというのがほとんどであり、名雪は折島の屋敷で子細を既に聞いていたようだった。
 秋子さんによると、その経緯はこうだ。
 話はもちろん折島の方から持ってきた。自分の部下である水瀬忠兵衛が、嫡子もおらず、かといって養子を取ることもなく、主君に従って京都へ上ったのは既に六年ほど前のことだ。あまりに急な話だったので、養子を取る暇すらなかったのである。
 忠兵衛は、京都へ行く際、折島に「妻子のことを頼み申します」と言い残していった。そして、伏見で戦死。
 折島はその約束を果たすことを六年前から考えていたらしい。婿養子とする人物に大方目を付けていた。
 そして白羽の矢が立ったのが、斉藤家の部屋隅にして、槍組頭でもあるという斉藤七郎左衛門だった。
 組頭ならば、結構規模がある水瀬家を養うことはできる。庶子(嫡子ではない子)で、役職持ちで、人格もまともとなると、それほど数があるわけではない。
 そういうことでは、七郎左衛門はまさに打ってつけの人物だったと言えるだろう。
 そして、折島は秋子さんを訪ねた。家の断絶、そして一人娘名雪の今後、様々な課題を一挙に解決できるものとして。
 それでも、秋子さんは渋ったらしい。名雪の意志には無関係の場所で話を進めることが耐え難かったのだろう。いつもの秋子さんを見ていれば、それが当たり前だ。
 だが、やはり折れざるを得なかった。すぐそこに戦が迫っているのは明かであり、これから先、状況がどうなるかわからなかったからだ。そして秋子さんが折れたのを機に、早速折島は名雪を呼んだ。折島もまた、戦が近いのを感じていたのかもしれない。
 名雪はその話を聞くや黙った。その話に乗り気ではないのは明かであった。だが、折島は秋子さんを説き伏せた理屈をとうとうと名雪に言い聞かせた。
 折島は、「とりあえず会うだけでもどうであろう。会えば気に入りましょうぞ」と言って、今回の見合いだけでも取り付けた。この先は押し切るつもりなのだろう。祐一郎にもそれがわかった。だが、それを非難する気にもなれない。折島のやっていることは全て、水瀬家のためにやっていることなのだから…
 「明日の見合いは折島様の屋敷で行います」
 秋子さんは真剣な表情で言った。
 これには、祐一郎が参加する資格はない。もちろん、今聞いているしかない真琴も。
 「祐一郎さんも、覚悟はしておいて下さいね」
 「はあ…」
 秋子さんの声には必死さがないが、逆にあるのも不気味である。まあ、もともと見合いにも乗り気ではないのだ。結果オーライなのかもしれない。
 「折島様は紹介してもいいとおっしゃっていますよ」
 「って、そっちの覚悟ですかっ!?」
 「冗談よ」
 こんな状況にも冗談を飛ばす余裕があるらしい。祐一郎は舌を巻いた。
 「明日は早いですから、よろしくお願いしますね」
 秋子さんはそういうと、名雪にも就寝を促した。
 名雪は黙って頷き、襖を開いた。
 「……」
 何かを待つようにしばし間をおき、廊下へ出る。その間、座した三人は言葉を発することはなかった。
 「それじゃあ、俺も…」
 その空気に耐えかねたか、祐一郎がいち早く腰を上げる。
 「祐一郎さん、ちょっといいですか?」
 「はい、なんでしょう」
 祐一郎は再び腰を落ろし、正座した。
 それを確認した秋子さんは、さらに真剣な顔つきになり、手を膝に置いた。
 「私としては…名雪の自由にさせてやりたいのよ」
 秋子さんが、ここにきて本音を口にする。なぜ祐一郎にそれを言う気になったのか、それはわからない。
 「名雪には、自分の意志を第一に考えるように言ってあります。ですから…」
 「名雪は、折島様の屋敷では、何と言ったんですか?」
 「何も言っていません。ただ、受け入れようとはしているようでした」
 名雪も、自分の置かれている立場というものが以下に微妙なところか、それを知っているのだ。だから、何も言えない。何か言ってしまえば、それは自分のことだけでは済まない結果を呼ぶことにもなろう。
 「名雪が話を断りたい真意はどこにあるのでしょう?」
 「真意?」
 秋子さんが意外そうな顔で聞き返した。
 「それは私にも分かりませんよ。名雪に直接聞いてみて下さい」
 「……」
 できない相談である。だが、ここで秋子さんが一言付け加えてきた。
 「ただ…」
 「?」
 「折島様が、屋敷を出るときに言ってきたんです。『名雪殿は、もしかしてそういう手合いがおるのではないか?』と。」
 「え…」
 折島は名雪の態度に疑問を感じたのだろう。確かにこの状況においては、そう疑うのは当然のことだ。
 だが、それならば、名雪の態度の真意は…
 その時、祐一郎の脳裏にある光景が浮かんだ。
 それは、七年前。国許を発つ寸前のことだった。
 元服仕立ての若侍と、その前に立つ少女。降りしきる雪の中、その二人はいた。
 だが、そこにわき上がるのは酷く不快な感情、そして悲しみ。
 その時、若侍が少女の手にあるものを払いのけた。思わず、祐一郎は目をそらす。
 …とはいっても、自分の脳裏の映像から逃れることなどできないのだが。
 「…祐一郎さん?」
 「え? …あ、はい」
 我に返った祐一郎は、努めて平常を装いつつ、顔を上げた。だが、その額にはじっとりと汗がにじんでいる。
 「大丈夫ですか? すごく辛そうでしたけど…」
 「いえ、大丈夫です。何でもありません」
 「そう。でも、身体には気を付けるんですよ」
 「はい、すみません。…それで、折島様が言っていた…」
 「ああ、そのことならもういいですよ」
 「え? もういい?」
 思わず問い返す。たった今、話題にのぼったばかりではないか。
 「ええ。もう安心しましたから」
 「???」
 祐一郎にはまるで理解できない展開であったが、悪い展開ではないということは分かった。とりあえずはそれでよしとする。
 「それでは祐一郎さん、よろしくお願いしますね」
 「ええ、こちらこそ…って、何を頼まれているんですか? 俺」
 「大変なことです」
 秋子さんは微笑みながらそういい残し、するりと部屋を出ていってしまった。去り際に、「おやすみなさい」と、忘れずに付け加えて。
 祐一郎は、その台詞を置きみやげに、取り残された。
 (何がどう大変なんだ…)
 まだまだ水瀬家には慣れきっていないということに、改めて気づかされた。
 「ねえ…今は何の話をしていたの?」
 「どわっ! なんだ、まだ居たのか、お前」
 「なによぅ、自分が連れていったくせに」
 「……そうだったか?」
 「いつも都合が良すぎーっ!」
 真琴がわめく。結局、祐一郎には何一つ役に立っていなかった。
 (判断を間違えたか…)
 まあ、危害があったわけでもない。
 「ねえ…明日、祝言があるの?」
 「違う、明日は見合いだ。なんだ、気になるのか?」
 「祐一郎は気にならないって言うの?」
 「……」
 思わず黙る。
 「……そうだな、気になるかもしれない」
 「やっぱり。ねえねえ、真琴も見てみたいんだけど、いっちゃ駄目かな?」
 「そりゃあ………」
 真琴は祐一郎の発言の意味には気づいていなかったが、真琴のそれに対する発言は大いなる意義があった。祐一郎の沈黙がそれを示している。
 だが、本来はその場にいるべき人間ではないのは明白である。それをやるということは、忍び込むということに他ならない。
 他ならないのだが…
 「よし、明日折島様の屋敷に行こう。真琴に見合いというものを見せてやる」
 「やったーっ!」
 「ただし、静かにしていることが条件だ」
 既に祐一郎にはある決意が生まれていたのかもしれない。
 祐一郎は、意気揚々と襖を開け放った。

 真琴は部屋に戻り、祐一郎はただ一人部屋に向かう。
 既に屋敷の中は火が落ち、闇に包まれていた。
 虫の声音と月明かりを頼りに自室の前へとやってきたとき、その人影はあった。
 「……?」
 ほのかな月光に照らされ、何とか確認できるその人影は、祐一郎の存在に気づくとゆっくりと近寄ってきた。
 「祐一郎?」
 「名雪か…」
 警戒ははなからしていなかったが、名雪の声だと確認すると、祐一郎も近寄っていく。
 「寝たんじゃなかったのか? どうした」
 「うん…ちょっと尋ねたいことがあって」
 「俺に尋ねたいこと?」
 「うん……えっと、祐一郎は、あの話に、賛成なのかな」
 「賛成かって…それは…」
 それはお前が決めることで、俺がどうこう言うべきことじゃない。
 以前の祐一郎ならこう言っただろう。だが、今の祐一郎にはこの月並みな台詞を口にする気は起きなかった。
 「どう…かな?」
 「……俺は………俺は勧めないな」
 それは、本来言うべき言葉ではなかったのかもしれない。だが、言わないでいることはさらに許されないような気がしていた。
 「え? 勧めない?」
 名雪の声は驚いていたが、その声には喜びが混じっている。
 しかし祐一郎は、努めて気が付かないふりをした。
 「ああ、お前の意志に反する話だったら、それは受けるべきじゃない。たとえ、水瀬の家のためであってもな」
 祐一郎はきっぱりと言い切った。
 「水瀬の家が路頭に迷っても、姻戚の相沢家はちゃんとあるんだ。使用人全員とまではいかないが、名雪と秋子さんを庇護するだけの余裕はある。だから心配するな」
 「祐一郎………うん、ありがとう。やっぱり祐一郎は頼りになるよ」
 「俺がじゃない。相沢の家が、だ。礼を言うなら親父に言ってくれ」
 祐一郎はぶっきらぼうに言って顔を背けたが、いい足りないことがあったのか、再び向き直る。
 「それに…名雪には嫁入りしてもらっては困るからな」
 「え…それって…」
 祐一郎の目には、七年前の雪の日が映っていた。だが、それを目の前にいる少女には口にしない。
 することはできないと祐一郎は考えた。だから…
 「…人妻を砲兵差図役にしたら、旦那に殺されるからな」
 こう言うことにした。
 「うん…そうかもしれないね」
 名雪の声からは、心の底までを伺い知ることはできない。だが、この際それは問題ではない。
 「だけどな、さっきも言ったとおり、結局は名雪の意志次第だ。もし七郎左衛門殿を気に入ったなら、遠慮せずに話を受けていいんだからな」
 「うん、わかったよ」
 名雪の声は、いつもの元気な声に戻っていた。祐一郎の意志は、一応通じたのだろうか。が、祐一郎とて、自分がどうすればいいのかを明確に悟っていたのではない。
 とりあえずは、祐一郎は満足した。これが、今できる精一杯のことだと。
 「恋は常に唐突なり、だ」
 ふと、思いつきで祐一郎が言った。
 「どこから始まり、どこから進み出すのか、そんなことはわからないからな」
 祐一郎は、名雪に言っていながらも、自分が誰かから諭されている気もしていた。
 「また、気が付かないから唐突に感じるときもある、と」
 「気が付かないから…」
 「なに、書物の中の文句だ。あまり深く考えるな」
 言ってから、かなり恥ずかしいことを言っているような気がした。
 「…つまり、気が付けば、まだ息を吹き返す。潰えたわけじゃないんだね…」
 名雪は神妙な面もち(予想)で、その言葉について色々と考えていた。どのような結論に行き着いたかは、結局言葉に出ることはなかったが、しばらくして発せられた名雪の声は、さっきよりもさらに活き活きとしていた。
 「ありがとう、今日のうちに祐一郎に訊いてよかったよ」
 「そうか? 俺は居候なんだから、何でも遠慮なく言ってくれ。常に、ためになり足りない身なんだからな」
 「うん、何でも頼むよ」
 「俺のできる範囲だぞ」
 夜の闇には名雪の表情を最後まではっきりと確認することはできなかったが、声の限りでは、名雪は嬉しそうに部屋へと戻っていった。その姿が完全に闇に溶け込むのを見て、祐一郎は、障子を開いた。そして自らも自室の闇の中へと消えて行く。


 翌朝、名雪と秋子さんは折島の屋敷に向かった。付き添う者は源助だけである。
 そしてその裏で、密かに真琴と祐一郎も準備を済ませている。
 既に、使用人の一人を北川の元に送り、訓練のことは任せると伝えてある。
 明日には露見することは間違いないだろうが、この際贅沢は言っていられない。
 祐一郎は、名雪たちが屋敷を出たのを見計らい、真琴を連れて、あたかも訓練に出かける様子を装って門を出た。
 使用人たちも、別段気にする様子はない。あまりに何事もないので、逆に祐一郎が振り返り振り返り出ていくことになった。
 「なんだか…俺たち無駄な努力をしていた気がするぞ」
 「いいじゃない。損したわけじゃないもの」
 「お前は何もやっていないからな」
 「そんなことないわよぅ」
 祐一郎と真琴は、なるべく通常とは異なる経路で折島邸へと向かう。
 随分遠回りになるが、始まる前からいたってしょうがない。
 通常の1.5倍の時間をかけて、二人は目的地に到着した。
 「裏口から入るぞ。声を立てないようにしろ」
 「…ねえ、どうして刀に手をかけているの?」
 「……こうしたほうが、なんか『らしい』だろ」
 「ふーん…」
 祐一郎は「らしさ」を十分表現すると、そのまま裏木戸を突破した。
 「…庭に人はなしか」
 「あったら、すごく困る…」
 「そりゃ、そうだ」
 「先に見てから入ればいいのに…」
 結局声を立てながら、二人は庭木である低木の裏に隠れる。
 と、縁側の一室に、男が座っているのが見える。
 主催者たる折島伸十郎だ。
 本日の主役はまだ入室してはいないらしい。
 「…斉藤殿はまだ来ぬのか?」
 その時、折島が用人に問いただした。
 「はあ…斉藤家から、いま少しという使いの者は来ましたが…」
 「ふむ…まあ、刻限はまだじゃがのう」
 「水瀬家の方にはもう入ってもらいますか?」
 「うむ、そうしてくれ」
 折島家用人は、頷くとさっと廊下を戻っていった。
 手持ち無沙汰の折島は、扇子を開いたり閉じたりして、庭を眺めている。
  「…なによ、相手側はまだ来ていないの!? 失礼よ!」
  「まあ、騒ぐな。どうやらまだ規定の刻限にはなっていないらしいぞ。それに折島様に見つかったら大変だろ」
  「もう、耐えられないわよっ!」
  「……」
  自分のことでもないのに、既に真琴の忍耐は限界らしい…
 やがて、用人に先導されて秋子さんと名雪が廊下を渡ってくる。
 どうやら、用人は昨日名雪を調練場から連れていった侍らしい。
 二人はその用人に会釈すると、続いて折島に何か言いながら頭を下げた。
 「いやいや、こちらこそ待たせて申し訳ない。もうじき参るそうなのでな」
 折島が申し訳なさそうに頭を下げる。
 名雪と秋子さんは二人分の座布団が敷かれた側に座り、そして、暇になった。
 一方、案内してきた用人は、庭を一回見回すと、すぐに奥へと戻っていった。
  「…はぁ、危なかったな。見つかるかと思った」
  「屋敷は広いのに、用人の能は大したことないのね」
  「…お前、とんでもないこと言っているぞ…」
  「見つからないなら、その方がありがたいでしょ?」
  「……」
 しばらく、秋子さんと名雪と折島とで、庭の植木について談笑している。
 遠目には、名雪の様子は余裕があるように見える。
 祐一郎は少し安心した。
 …と、その時、
 「お殿様、斉藤様たちがお見えになりました」
 「よし、早いとこ通せ」
 「はっ」
 用人の声がして、屋敷が慌ただしくなる。
 談笑していた三人も、顔に緊張が走った。
  「やっと来たか…」
  「こんなに待たせるような勝手な男、結婚すべきじゃないわよ」
  「……」
 先ほどの用人に先導され、男二人に女一人が廊下を渡ってくる。
 おそらく七郎左衛門本人と、その両親だろう。
 誰が見ても武人と納得するような風貌である七郎左衛門と、その父親と言われれば、これまた誰もが納得しそうな父親らしき男、そしてしとやかそうな奥方、これこそ会津藩士の家だと言えば、やはり誰もが納得しそうな光景であった。
 「いやあ、遅れて申し訳ない。組下の者に一悶着ありましてなあ」
 父親と思しき年輩の男が、頭を掻きながら着座した。それを見て、奥方も座る。実に謙虚だ。
 そして最後に、七郎左衛門がゆっくりと座布団に座った。
 そして集った六人、丁寧に頭を下げた。
 「いや、定刻通りじゃな。それでは早速…」
  「うわぁ、あの年で、あんな若い奥さん持って…やっぱり、結婚って鬼畜…」
  「変な解釈するな! 言っておくが、あの程度なら、大して珍しくないぞ」
  「え、そうなの? じゃあ、みんな鬼畜的人間…」
  「何故そうなるっ! いいか、あの奥方、お前にはいくつに見える?」
  「え…? うーん、三十路前…かな」
  「甘いんだな、これが。ああ見えて、実は四十路を越えているんだよ、きっと」
  「うわぁ、それってすごい…」
  「だろ? 女性の年齢を見た目で判断しちゃだめだぜ」
  「…でも、祐一郎はあの人の本当の歳がいくつか知っているの?」
  「知らない」
  「……」
  「……」
  「わっ、祐一郎が真琴に鬼畜な会話をさせた…」
  「お前が変なこと言うからだろうがぁっ!」
 「おや? 何やら騒がしいですなあ」
 斉藤家の父親が、ふと縁側の外を見た。
 「ああ、屋敷の者に膳の支度をさせておりますのでな。騒がしくて申し訳ない」
 「ああいえ、とんでもない。こちらこそわざわざお手数をかけて申し訳ない」
 「まあ、それはいいとして、早いところ挨拶を…」
 「そうでしたな、ええ、こちらが愚息の七郎左衛門、槍組頭をしており申す。そして拙者が斉藤頼母(たのも)、御先手組を勤めさせていただいております。そして、こちらが妻の早苗でございます」
 斉藤家側の三人が揃って頭を下げる。
 秋子さんも軽く頭を下げると、続いて水瀬家側の紹介に移った。
 「弓組頭、水瀬忠兵衛の妻で、秋子と申します。こちらが娘の名雪です。どうかお見知り置きを」
 二人が頭を下げる。
 ここから折島が間に入っての面倒くさい展開があるが、煩わしいので省略する。
 ………
  「…見合いって退屈ーっ」
  「連れてきた甲斐がなくなるようなことを言うなよ…」
  「でも、祐一郎だって来たかったんでしょ?」
  「うるさいな、お前が行くと言わなければ行かなかったぞ」
  「なによぅ、それ。ずるいーっ!」
  「静かにしろ! 見つかったらまずいだろうが!」
  「あーあ、早く片を付けてくれればいいのに…」
  「お前、自分で夢を壊しているぞ…」
 「…ところで、名雪殿は何か芸道をたしなんでいらっしゃるか?」
 七郎左衛門が、ここで名雪に尋ねた。
 「えっ、たしなむって…うーん、かえるが…」
 「…蛙、でござるか?」
 「えっ!? う、ううん、なんでもないよっ! えっと、芸道はあまりやらない方なんだよっ」
 「は、はあ…実は拙者、最近茶道を始めましてな…」
 「…茶道?」
 と、名雪の顔がひきつった。
 その脳裏に、この前起こった神尾家の屋敷での出来事が浮かんだらしい。
 「茶道…」
 声の調子を変えて、名雪がその単語を繰り返す。
 「左様、これがなかなか面白いもので…名雪殿は、茶道のご経験は?」
 「えっ!? わ、私は茶道は駄目なんだよっ!」
 「………???」
 名雪の取り乱しように、少なからず疑問を抱く斉藤家一同。
 そして隣で、秋子さんは微笑んでいた…
  「…げっ、なんか名雪が取り乱しているぞ」
  「へえ…見合いでも、ああいうことをやるんだ…」
  「念のために言っておくが、こういうことは普通やらないぞ。ましてや、名雪が取り乱すなんて滅多にないからな」
  「でも女の子を困らせるなんて、やっぱりあの男、大した相手じゃないわよ」
  「せめて事情がどうなっているかを考慮しろよ…」
  「祐一郎はそう思わないの?」
  「……まあ、適してはいないかもな」
  「やっぱり」
 「はっはっは、左様でござるか。いや、茶道とは奥が深いものですなぁ…」
 七郎左衛門が、名雪が話した神尾家の茶話を聞くと、愉快そうに笑い出した。
 「こら、見合いの席で失礼な笑いをするな」
 父親が小声でたしなめるが、七郎左衛門は気にする様子もない。
 おとなしそうな奥方は、言葉を発するわけでもなく、ただおろおろしていた。
 名雪の方は、話を読み切れていないのか、曖昧に笑っていた。
 「ふむ、芸道とは茶道に限らず奥が深いものでしてな…」
 七郎左衛門が、突然まじめな顔で喋りだした。
  「…なんだ、急にばかでかい笑い声など上げて」
  「ほらやっぱり、あの男は名雪さん向けじゃないわよ」
  「なんだその、『名雪さん向け』っていうのは…」
  「見合いの席で非礼を働くなんて、がさつよ!」
  「まあまあ、あれはあれで豪傑………!!!」
  「…あ、なんか名雪さんの手を取ってる…何する気なのかな」
  「…なんだ急に馴れ馴れしく…ああいう男は駄目だな、やっぱり。名雪向けじゃない」
  「でしょーっ」
 「…で、機を見て手をひねる、と。これが薙刀の基本でござる」
 「へぇ…」
 「御趣味が多いのですね」
 秋子さんが微笑みながら七郎左衛門に言った。
 「はっはっは、武芸は趣味ではなく生活の一部でござるよ。おっ? ちょうど長押(なげし)の上に…」
 ふと、一同が上を見上げた。
 襖の上、長押の所に薙刀がかかっている。
 講釈などで、朝帰りした放蕩息子を、母親が薙刀を持って追い回すという場面によく使われる。他、天井裏の曲者を下から突き上げるときなどにも使われ、意外に重宝される光景と言えよう。
 だが、見合いの席に薙刀があるというのはいかがなものかと思うが…
 「ちょうどいい。拙者がこの場でお見せいたそう」
 「ば、馬鹿者! こんな席上で薙刀を振り回す奴があるか!」
 斉藤頼母が慌てて、立ち上がろうとした七郎左衛門を押さえる。
 押さえられた方は不満顔である。
 もう一人慌てている主催者の折島は、慌てて用人を呼んだ。
 「何事で?」
 「すぐに膳の支度じゃ。早うせい」
 用人は、押さえられた七郎左衛門にギョッとしながらも、すぐに奥へと向かった。
 そして母親はおろおろする一方である。
 名雪は落ち着いたもので、その光景を特に驚きもせずに眺めている。
 「楽しい席ですね」
 秋子さんは独りで楽しそうだった。
  「……何やっているんだ? あの男…」
  「うわぁ、修羅場…」
  「…まだ、そこまではいっていないぞ」
 「膳をお持ちいたしました」
 「よ、よし。さ、早く」
 女中たちが、六人の前に膳を並べ出す。
 それを見て、七郎左衛門も仕方なく座り直した。
 ……しばらく膳をつつきながらの談笑、ここは省略
 と、その時、
 「いやあ、拙者、名雪殿を気に入り申した。冷静沈着、素晴らしい方でござる」
 「えっ…そんな…」
 名雪が一瞬、箸を止めた。
  「うわぁ…ついに出た…」
  「………」
  「どうするのかな、ねえ、祐一郎」
  「…名雪のを冷静沈着だと見るとは…甘い甘い、所詮素人だ…」
  「わっ、祐一郎が変な意地張ってる…」
 「名雪殿は料理をなさる方でいらっしゃるのか?」
 「う、うん、お母さんに教えてもらっているから…」
 「ははあ、左様で。ということは、食の好みもまた似ていらっしゃると…」
 「うん、そうだよ」
 七郎左衛門が納得顔で頷く。
 「でしたら…」
 秋子さんが、傍らの風呂敷を開く。
 中には、封をされた壺が一つ。
 「これ、試していただけませんか?」
 「これ、でございますか? なんですかな、この壺は…」
 七郎左衛門がのぞき込むが、その中身が見えるはずもない。
 秋子さんも敢えて言おうともしない。
 「わっ…」
 その時、名雪が思わず声をあげた。
 斉藤家一同が、名雪に向かって一斉に視線を向ける。
 「だっ、駄目だよ、お母さん。何も今こんなところで…」
 「だけど、折角の機会だと思って」
 「と、とにかく仕舞って!」
 あたふたしながら、名雪が壺を風呂敷に戻そうとする。
 秋子さんも、残念そうな顔こそすれ、別に止めるわけでもなかった。
 「………」
 一方、斉藤家の方は謎が残された形となり、顔を見合わせる。
 「な、なんなんだあの壺…」
 「うむ、これは水瀬家に養子に入ってからの楽しみとしよう」
 「待て待て、あからさまに怪しいではないか…」
 「何をおっしゃられる、父上。怪しいものほど武人の心をくすぐるものにござる」
 「怪しいの質が違うであろうが…」
 (おろおろ)
  「今度は秋子さんが変な壺を…」
  「……」
  「……」
  何故か二人は押し黙ってしまった…
 「…ところで、名雪殿は洋式部隊に所属されているそうですな」
 頼母が突然尋ねる。どうやら聞く機会を見計らっていたらしい。
 何やら双方声を潜めることとなった今が、絶好の機会と見たようである。
 「はい、そうです」
 「念のために尋ねさせていただくが、この七郎左衛門と祝言をした折には、隊は抜けられるおつもりなのでしょうかな?」
 「えっ…それは…」
  「……あっ、名雪さん困ってる」
  「……」
  「あの人、祝言挙げたら隊を抜けさせちゃうつもりなのかな…折角、星さんから教えてもらったのに…」
  「本来、名雪は戦場に立つべき人間じゃない。そういう道だって当然あるんだ」
  「でも、生半可な情を与えるくらいなら、与えない方がマシよ」
  「だから、名雪が決めるんだ」
  「だったら、相手側は口を出すべきじゃないわよ。名雪さんは会津の為に必要なんだから。あんな事言うのは身勝手よ」
  「……」
 「……」
 名雪はしばらく考え込んでいる。
 七郎左衛門はというと、姿勢を正し、名雪からの返答を静かに待っている。
 「いかが、でござるか?」
 もう一度、頼母が尋ねた。
 その時、ようやく名雪の口が開いた。
 「私は…私の趣味は、走ること、そして祐一郎の隊で大筒を撃つことなんです!」
 名雪が、いつになく強い語調で、言い切った。
 「……は?」
 「ぐわっはっはっは!!!」
 呆気にとられた頼母とは対称的に、七郎左衛門は雷のような声で笑い出した。
 「健脚と砲術が芸道とは、さすが名雪殿にござる! ますます気に入り申した!」
 「えっ…わ、私は…」
 七郎左衛門の予想外の反応に、名雪が今度は戸惑いだした。
 「この七郎左衛門よりも名雪殿を魅了したというその砲術、是非とも同じ戦場に立って拝みとうござる!」
 「な…し、七郎、お前何を…」
 頼母とその奥方が、大慌てで繕おうとするが、もはや繕いようもない事態である。
 観念したか、折島が深い溜息をつく。
 「名雪殿!」
 「え…は、はい」
 「その祐一郎殿とやらによしなにと申していたと、お伝え願いたい。それでは、同じ戦場で会いましょうぞ!」
 そう言うや否や、七郎左衛門はすっくと立ち上がり、大笑いしながら廊下を渡っていってしまった。
 慌てて両親が、残った三人に向かって必死に謝罪しながら、七郎左衛門を追っていった。
 騒ぎを聞きつけて、折島家の用人たちは何事かと騒いでいるが、とても事情が分かるものではあるまい。
 「……」
 折島が、その喧噪の中、呆然として座っている。
 「折島様」
 「…ん?」
 秋子さんが、頬に手を当てながら、その折島に声を掛ける。
 「折角の話ですが、今回は見送るということで…」
 「ああ…相分かった」
 深々と頭を下げ、二人は席を立った。
 「名雪、楽しかったわね」
 「うん…ごめんなさい」
 「これでいいのよ。名雪が自分で決めたことなんだから」
 「うんっ!」
 水瀬家の二人もまた、廊下を渡っていく…
 後に残った折島独り、もう一度、深い溜息をついた。
  「……」
  「な…何が何だか、よく分かんない…」
  「……ったく、名雪の奴、あんな派手な真似をしやがって…」
  「祝言は、ないみたい…」
  「当然だ」
  「でも、また名雪さんは隊にいられるんだよね?」
  「ああ、そうだ」
  「でも名雪さん、あの席でわざわざ祐一郎の名前出してた。どうしてかなあ?」
  「知るか、んなこと。ほら、見つかる前にとっとと出るぞ」
  「えっ!? ちょ、ちょっと待ってってば…」
 「…ん?」
 意気消沈していた折島が、庭の物音に、顔を上げた。
 だが、そこには誰もいない。
 「祐一郎……相沢祐一郎…か」
 ふと、虚空に呟いた。

 …3月1日、東山道軍の来襲を前に、新選組と浅草弾左衛門配下の者で構成された『甲陽鎮撫隊』が江戸鍛冶橋の屯所を出発。
 この時、構成する者は三百名足らず。全員ミニエー銃の完全装備部隊である。
 対する東山道軍は、土佐、鳥取の三千名。鳥取はともかく、主力の土佐は新式装備部隊である。
 それでも近藤・土方は勝ちを信じて、五十万石を信じて、甲府城へと向かう。
 鳥羽・伏見以来の激戦が、目の前に迫っている。

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