第十八話「雪兎の弧軍」
さて、久しぶりに話を会津に戻そう。
この日は3月9日、舞と佐祐理さんが再起へ支度をしているころである。
一説にはこの日を3月7日ともしているようだが、ここでは「戊辰戦争見聞」に従って9日としよう。
やはりこの日も、祐一郎たちはいつもと変わらずに旧式装備で訓練を行っていた。
いや、実際には少し様子が違っていた。
………
もう何度目か、火縄式青銅砲の轟音がだだっ広い調練場に響いた。
やがて着弾する音。
「………」
「………」
「………」
「おい、次の弾を…」
次弾を装填しようとしない砲手に向かって振り返った祐一郎は、そこで思わず口をつぐんだ。
何やらどんよりとした空気が漂っている。
いや、正確には数名の周囲だけ空気が重い。
「………はぁ」
装填しようとしない砲手、香里が溜息を吐いた。
「どうかしたのか、香里?」
「どうもしないわよ…」
そう答えながら、子弟の一人と気がのらなそうに丸弾を詰める。
だが、詰め終えるとまた溜息を吐いた。
「………」
祐一郎ならずとも、どうもしないようにはとても思えなかった。
「……なあ、香里の奴、何かあったのか?」
祐一郎は堪らず、隣の名雪に尋ねる。
「うーん…わたしもよくわからないよ」
「そうか………」
まあ、いつもこんなんだと言えばそうかもしれないが、それにしても今日の空気は重い。
「はぁ………」
今度は香里の溜息ではない。
祐一郎が振り返ると、そこには人生に疲れたように座り込む北川がいた。
「…お前がこうだから、空気が重いんじゃないのか」
「……知ったことか」
北川はまともに答える気力すら失せているらしい。
揃いも揃って鬱屈している二人に、祐一郎の方が溜息を吐きたい気分になってきた。
「何があったか知らないが、お前も一応責任者だぞ」
「お前は城からの発表を聞いていないのか」
「発表? なんだ、そりゃ」
「何!? 脳天気な…」
「悪かったな」
ここへきて、ようやく北川が立ち上がった。
「本当に知らないのか? 明日、軍制を改革するとかいうやつだ」
「………名雪は知っているのか?」
「うん、一応」
「……まあ、たまたま知らなかったんだな」
「会津武士が、見苦しいぞ」
「そんなことはどうでもいいんだ。で、その軍制改革ってのはどういう…」
と言いかけて、祐一郎は思いだした。
仙台へ行く前に神尾が語った、洋式部隊を創設するという話である。
槍組、弓組を廃し、洋式兵学に沿った編成に変えるというのが先述した概要だ。
歴史上、この改革を「三月十日の軍制改革」とそのまんまに呼んでいるが、
これこそ会津戦争の顔を作ったと言ってもいい事件である。
「だが、どうしてお前が落ち込むんだ」
「何をいう。俺が鉄砲組頭になったのを忘れたか」
「………」
忘れていた。
「…覚えているさ」
「なんだ、その間は」
「会津藩士が、いちいち細かいぞ」
「会話しにくい奴だな…。とにかく、このまま編成の変更などされたら、組頭を罷免されるだろうが」
「そりゃ、そうだ。だが、組頭は皆そうだぞ」
「再任される保証がないんだぞ。他人事だと思って呑気なことを…」
「何も、再任されない確証があるわけじゃないんだろ。弓組頭に比べたら、よっぽど再任されやすいだろうが」
「む…確かにそうかもしれんが」
北川が考え込む。
やがてその口元に、段々と笑みが浮かんできた。
「そうだな。再任される可能性の方が大きいよなあ」
一人頷く北川。祐一郎はそれを苦笑して眺める。
「……ダメだよ。変な期待を持たせちゃったら」
名雪が小声で咎めてきた。
だが、祐一郎は気にする様子もない。
「なに、その時はまたその時だ」
「その時って、明日だよ…」
「まあ、そうだが。でも、いざとなったらこの予備隊の責任者でいいじゃないか」
「でも、予備隊だと俸給が出ないかもしれないし…」
「なに、家禄があれば生活は大丈夫だ」
祐一郎は名雪の不安を笑い飛ばし、さっさと明日の改革へと思案を移した。
名雪は不満そうだったが、今さら期待を打ち消すわけにもいかず、結局祐一郎に続いた。
「…だが、軍制改革となると、俺たちはどうなるんだ?」
「うーん、多分正式な編成を受けると思うけど…」
「でもなあ…」
祐一郎はそう言いながら、辺りを見渡す。
装備は旧式、兵員は未熟な子弟、差配は若造数名。
(一体、戦力に数えられているのか…?)
祐一郎は口にこそ出しかねたが、それが気にかかってしょうがない。
神尾が仙台に同行させたことを考えれば、祐一郎には期待をかけているかもしれないが、一体部隊としてはどうなのだろう。
と、そこで再び溜息を吐く少女が目に入った。
「………」
香里はこちらの会話には興味なさそうに、砲の傍らでかがみ込んでいる。
その他の子弟たちは、おのおの休憩体勢に入っている。
祐一郎はそれを止めることはせずに、香里へと見入っていた。
理由は分からなくとも、気にならないわけがない。
「……やっぱり、香里にただごとならぬ何かがあったんじゃないのか」
再び名雪に尋ねた。
「そんなこと言われても、わたしは………あ」
「どうした、何かあるのか」
「うん、関係ないかもしれないけど、昨日香里のお父さんが帰ってきたみたいだよ」
「へえ、親父さんが。でも、それでどうして溜息を吐くんだ」
「それがわからないんだよ〜」
「それもそうか。だが、何か手がかりがあるだろ。親父さんはどこへ何しに行っていたんだ」
「詳しくは知らないけど、他国へ行っていたらしいんだよ。香里がそんなことを言っていたから」
「そうか、香里が言うなら確かだな」
と、祐一郎は納得顔で頷く。
が、これでは納得どころか何も分かっていない。
「じゃあ、香里に直接聞けばいい。よし、そうしよう」
「ダメだよ。今、香里に聞いてもきっと答えてくれないよ」
「そういうものか?」
そういえば、さっきも一度香里本人に尋ねたような気がする。
「香里はいつもそうだからね。長年付き合っているわたしが言うんだから、間違いないよ」
祐一郎も、名雪の言葉を聞いて、とりあえず今は詮索しないことにした。
「でも、気になるな…」
「大丈夫、そのうち香里から話してくれるから」
名雪は自信たっぷりにそういうが、悪いが祐一郎にはとてもそうとは思えなかった。
まあ、香里のことは香里のこと。
分からないままでも、それはそれでよかった。
「だけどな…」
そういいながら、再び見回す。
「この雰囲気で、これ以上の訓練をするというのも無駄だな。…よし、ここで休息をとるか!」
既に各人休憩気分ではあったが、祐一郎がそういうと、
雰囲気に耐えかねていた子弟たちにもようやく笑みがこぼれた。
「しかし…軍制改革か」
祐一郎が何気なく城の方に目を向けたときだった。
「おっ、あれは…」
「どうしたの? 祐一郎」
「いやなに、あそこにいるのはひょっとして…」
祐一郎が指さす方向、侍姿の男が一人、これもまた疲れた様子で座り込んでいる。
「どうして今日はこんなに萎えた気分の連中が多いんだ…」
「たまたまだよ。とりあえず、国之崎さんに直接聞いてみたらどうかな」
「別に理由まで聞かなくてもいいだろ…」
「わたしが気になるもん」
「じゃあ、お前が聞けばいいだろ」
「んー…でも、折角だから祐一郎も一緒に聞こうよ。どうせ暇なんだし」
「まあ…別にいいけどな」
何か怠惰な雰囲気の中でぼーっとしているのも空しいと思えたのか、別にいやがる気配もなかった。
二人は国之崎の方へと足を踏み出した。
既に雪はなく、二人の歩を妨げるような物はない。
雪が解けてみれば、心地よいまでに広い調練場であり、さらに反射炉の普請現場もよく見え、本来なかなか居心地もよい。
国之崎がここで座り込んでいるのも、案外そういうところがあったのかもしれない。
「国之崎殿、こんなところでいかがなさった」
「ああ…祐一郎殿と名雪殿か」
相変わらずの悪人的な目を向けるが、質問に答えるわけでもなく、再び顔を落とす。
国之崎は、時代錯誤しているのではないかと思うような、異様な拵えの太刀を抱きかかえるように持ち、さらにもう一振りの小刀は傍らに置いている。
と、祐一郎は今まで気が付かなかったが、その手にはまだ新しい書簡が握られていた。
「国之崎殿、どこからか書状ですかな?」
「どこから? 誰から?」
名雪はこの素性も不明の男宛の書状というものがひどく気になるらしい。
それは祐一郎も同じだが。
「なんだお前たち…そんなことを聞きに来たのか」
「別にそういう訳じゃないがな」
「……まあ、いいか。これは神尾様宛に送られてきた書状だ」
「何!? 神尾様宛の書状を何故国之崎殿が読んでいるのだ」
「…ちゃんと承諾は得ているに決まっているだろ。内容が内容だけに、借り受けてきたのだ」
「内容………?」
「ああ………」
国之崎は呟きながら、その書状を祐一郎に手渡す。
その書状は、以下の文で始まっていた。
三月三日 信州下諏訪にて赤報隊一番隊相楽総三以下八名斬首 罪状は 官軍の名を騙り 民より金穀を強奪せし件なり…
以下、関東や京における近況を克明に知らせる内容が書かれ、最後に「秋月登之介」という署名で締めくくられている。
秋月は会津藩士の江戸残留組である。
「…江戸からの報告書か。しかし、どうしてこれが国之崎殿と関係あるのだ?」
「この相楽総三という男、知っているか」
「相楽総三? ああ、江戸で新徴隊の人間から名前だけは聞いたことがあるが…」
「国之崎さんの知り合い?」
「ばか、こいつは薩摩の指示で江戸を荒らし回った大悪党だぞ。知り合いでたまるか」
「………」
が、国之崎は何も答えない。
まさかと祐一郎も思ったが、その時再び神尾家での出来事が頭に浮かんだ。
あの時、国之崎は「信義」をとうとうと弁じたが、それと同時に、勤王志士であったことを否定することから避けていた。
別に勤王志士らしいそぶりを見せたことは一度もないのだが、北川が言った疑いとて晴れたわけではないのだ。
あれ以降、それを深く考えることはなかったが、改めて考えてみると疑わしいこと限りない。
だから、祐一郎は言った。
「…国之崎殿、相楽とどこかで知り合っていらっしゃるのか?」
国之崎は口元に一瞬笑みを浮かべ、すぐにそれを消した。
「ああ、確かに俺と相楽は知り合いだ。しばらく世話になったこともある」
「…まさか、江戸で盗み働きを働くのに荷担していたわけでは…」
「馬鹿、その時には既に神尾様に仕えていた。そんなものに荷担するわけないだろ。………なに、相楽とは昔ちょっとな」
どうやら、あまり堂々と話したくはないらしい。
それに、国之崎にとっては知り合いが刑死を遂げているのである。
あまりそのことを深く尋ねるべきではないと祐一郎は考えた。
「…それで、斬首されたということですが、一体どういう子細で?」
「この書状だけでは何ともいえんが、俺にはわかる。相楽は不条理な略奪をする男ではない」
「でも、江戸を荒らし回ったって…」
「確かにな。だが、奴にいわせればそれは『尊皇攘夷、倒幕』に欠くべからざる行為なのだそうだ」
「詭弁だな…」
「俺もそう思った。だから連中には荷担しなかった。だが、それでも奴は『尊皇攘夷』の大義だけは捨てていない男だ。民から金穀を強奪するなんてするわけがない」
「しかし…それならば一体…」
祐一郎は一瞬、疑問を口にするのを止めた。
国之崎の口調にはどこかしら怒りがこもっている。相楽を斬首した薩長への怒りだろう。
もし国之崎が薩長の陰謀だと察しを付けているのなら、そこには何らかの事情がある。
そしてそれを国之崎は知っているのだ。
「何故…相楽は死なねばならなかったのだ」
国之崎は呻くと、それっきり黙り込んでしまった。
「………」
祐一郎と名雪は顔を見合わせたが、それ以上言うべき言葉も見つからず、三人で黙る。
五分ほどそうした頃だったか、後方から声が聞こえた。
「相沢! そろそろ訓練を再開するぞ!」
妙に元気になったように見える、北川だった。
日が改まる。
いつもの如く慌ただしい朝を迎え、水瀬家の屋敷から冷気を押しのけて三人が出てくる。
「名雪、俺はこれから登城するから、お前は真琴と二人で調練場に…って、寝るな!」
「眠い…」
「んなことは見ればわかる。くれぐれも真琴から警戒を解かないようにしておけよ」
「なんで警戒なんてしなくちゃいけないのよう」
「殺し屋は皆、獲物に油断させているんだ」
真琴の騒ぎ立てる声に、やがて名雪も七割くらいは目覚める。
祐一郎だけは軍隊関係者として登城しなくてはならないが、しばらくの道は同じである。
「…やっと、わたし達も正式な会津勢になるんだね」
名雪がしみじみと、そして嬉しそうに口にする。
「まだ決まったわけじゃないけどな」
「そうなると、真琴も会津勢にされるの?」
「不本意ながら、だけどな」
「ふーん…」
真琴は感情を言葉に表さなかったが、どことなく真琴も嬉しそうにも見える。
真琴が会津人だというのが真実だとしたら、郷土の英雄になるかもしれないのだから、さもあろう。
「…あれ?」
広い往来に出たときだった。
祐一郎が前方に人影を見つけて声をあげた。
「どうかしたの?」
「いや…あの後ろ姿、見覚えがあるような気がして…」
祐一郎の指さす先、羽織姿の背中が向こうへと歩いている。
いや、それよりもその背中には堂々と背負われたゲベール銃。
見まごうはずがない。
「あいつはまだ性懲りもなく背負っているのか…」
「祐一郎、知っているの?」
「ああ、まあな。おーいっ、あゆ」
「え………あっ! 祐一郎君!」
祐一郎の姿を確認すると、あゆは元気よく手を振って答える。
ただでさえ目立つ銃をもっているので、町人たちの視線は揃いも揃って集中している。
「よお、見回りか?」
「違うよ、今日はお城に行かなくちゃいけないからね」
「あゆも行くのか? そりゃまたどうして」
「何でだろうね」
「………」
祐一郎は聞くのをやめ、予想してみることにした。
まあ、大体の予想はつく。
町同心とて一応藩に仕える侍である。あゆたち町方も隊に組み込まれるのだろう。
「祐一郎君もお城へ行くの?」
「ああ、俺は何しろ一隊を預かる身だからな」
「いったい? あずかる? 何のこと?」
「まあ、気にするな」
祐一郎が悩み始めるあゆを制止すると、そこで名雪が口を開いた。
「えっと…」
「あ、こいつは町同心の月宮あゆだ。己の身の保全のためなら、どんな不正でもやってのける肝のすわった同心だぞ」
「うぐぅ…そんな悪いことしてないもん…」
「まあ、遠からずってとこだな」
「とっても遠いよっ!」
「いや、捕らえた男を勝手に解放するのは重大な不正だぞ」
「仕方ないときは仕方がないんだもんっ!」
「そんな無茶苦茶な…」
「わたしは水瀬名雪だよ。祐一郎の従姉妹」
名雪は祐一郎の台詞を無視してあゆに話しかけた。
「ちなみに弓組頭の水瀬忠兵衛様の娘さんでもある」
「そうなんだ…」
「えっと、あゆちゃんって呼んでいいのかな?」
「うん、あゆちゃんでいいよ」
町同心に「あゆちゃん」はないような気もするが…
「わたしのことも、なゆちゃんでいいよ」
「…なゆちゃん?」
「それは駄目だ」
祐一郎、即答する。
(予定上)隊の砲兵差図役がさすがに「なゆちゃん」ではまずかろうし、また紛らわしい。
「…うん。やっぱり名雪さんって呼ばせてもらうよ」
「残念…」
名雪は本当に残念そうだが、まあ、仕方がないことだ。
「………」
もう一人、後ろにいた。
「…あ、忘れていたが、こいつは水瀬家の屋敷に居着いている記憶喪失の暗殺者だ。会っているから承知しているな」
「…暗殺者?」
「だから違…何度も同じことを真琴に言わせないでよ!」
「俺も何度も言うが、いつ、その事実が否定された?」
「見ればわかるでしょ!」
「…えっと、『真琴』って言ったけど…」
口論を遮り、あゆが困惑気味に尋ねる。
「気にするな、ただの偽名だから」
「偽名じゃないーっ!」
「じゃあ、『真琴ちゃん』でいいね」
こちらも祐一郎の台詞を無視して真琴に話しかけた。
「あ…うん…」
よく考えてみれば、あゆと真琴が会ったとき、真琴の名前は教えていなかった。
「名雪さんと真琴ちゃんもお城へ行くの?」
「ううん、わたしと真琴ちゃんは調練場だよ」
「…調練場って、少し前にできた広いところかな」
「うん、そうだよ」
「さっき言ったように、俺たちは藩の予備部隊を任されているわけだ。その訓練を調練場でやる」
「へえ…それで体力勝負って言っていたんだね」
「……まあ、その通りだ」
そういえば、前にそんな会話をした気がする。
だが、祐一郎にとってはあまり思い出して欲しくない会話だったような気も…
「ボクもそこに参加するのかな」
「さあ、なにぶん御城の方で決めることだからなあ…」
「祐一郎、どうして急に目をそらすの?」
「気のせいだ」
「祐一郎君、前に会ったときに…」
「さて、刻限までそんなに余裕はないぞ。ほら、急げ!」
自分の台詞も言い終わらないうちに、祐一郎は城へと走り出す。
「あっ、待ってよ〜」
「うぐぅ…祐一郎君、またそらしたあ!」
「何で真琴が走らなくちゃいけないのよーっ!」
仕方なく、三人も続いた。
名雪たちと走りつつ別れた後、祐一郎は鶴ヶ城の大手門へと駆けてきた。
そこからだいぶ離れて、あゆが懸命に追っている。
「そろそろ止まってやるか…」
非道な会津藩士、祐一郎は登城する侍でごった返した大手門から少し離れたところで立ち止まった。
やがて、へろへろになりながらあゆが近づいてくる。
「うぐぅ、ひどいよ祐一郎君…」
「ちょっとあゆと同じことをやってみたくなってな」
「絶対に嘘ついているよお…」
「嘘かどうかなんてどうでもいいじゃないか。俺もあゆにイヤと言うほど走らされたんだしなあ」
「うぐぅ」
あゆは先ほどの件を問い合わせる気力もなく、よろけながら付近の土塀によりかかる。
祐一郎も、しばらくそんなあゆを見守りながら自分の息も整える。
「…そろそろいいな」
頃合いを見て、祐一郎が言った。
「…まだ、ボクはよくないよ」
軽く息を切らせながら、あゆが言う。
「大手門の人混みの頃合いがよくなったんだ」
「うぐぅ…祐一郎君、ひどいよお」
「悪い、悪い。冗談だって」
「冗談になってないよお!」
非難しているうちに、あゆの呼吸の方も落ち着いたので、二人は大手門をくぐった。
さて、大広間。
祐一郎にとっては帰郷時に来て以来の大広間である。
中級以上の藩士たちは皆ここに集まり、それぞれ腹に持った不安やらを押し込めようと会話に没頭している。
「よお、相沢」
祐一郎の姿を見つけ、北川が声を掛けてきた。
祐一郎も手を挙げて応じる。
「さて、どこに任じられるかねえ」
北川は自信満々に言うが、祐一郎からすれば、今日だけは北川の隣にはいたくなかった。
別に必ず北川が再任されないというわけでもないが、昨日気休めを言った手前、そうなったときが気まずい。
「…どうして腰が浮きかけているんだ」
北川がめざとく指摘する。
「人が多いから、将棋倒しにならないようにするためだ」
「大広間だけなら、そんなに多くないぞ」
「念には念を入れなければな」
「まあ、いいが………それで、その隣の方は誰だ」
北川が、反対側のあゆを指さして言う。
あゆは笑顔で応じた。
「ボクは月宮あゆ、町奉行所の同心だよ」
「町方の同心殿か。だが、町方の方は別間に集まるんじゃなかったか?」
「えっ!?」
あゆが突然慌て出す。
無理もない。何をしに城に集まっているのかも知らなかったのだから…
「ボ、ボク、行ってくるよ!」
「え…あ、おい!」
祐一郎が呼び止めたが、あゆはそのまま人混みを突破…しようとしながら走り去っていった。
「…あゆの奴、どこに行くのか知っているのか?」
「さあな。だが、まあ、大丈夫だろう」
全く根拠はなかったが、あゆの力を信じることにした。
………
しばらく座ったまま時が過ぎる。
以前、藩士たちの会話はやむことはない。
「…相沢」
「どうした」
「知っているか? 二月中に既に新隊が編成されていたらしいという話だ」
「二月中に…?」
「ああ、そんな話を聞いた」
「そうか…やはりもう戦は覚悟していたのか…」
「少なくともよそではそういう気分になっているらしい。その証拠に、城下に密偵も多数入り込んでいるらしい」
「官軍の密偵か?」
「官軍だけじゃない。周辺の藩からも送り込まれているようだ」
「敵か味方かも判別できない状態ってわけだ…」
「念のために言っておくが、仙台藩もご多分に漏れずだ。ゆめゆめ城下でも油断するなよ」
「………そうか、仙台もなのか」
祐一郎は、自分たちの状況は分かっていたとはいえ、やはり顔つきも暗くなる。
いつ賊として討たれる日が来るか、怯えているのは会津だけではない。新徴隊を抱える庄内藩も怯えている。
敵味方入り乱れる各奥羽諸藩、情報収集に躍起になっているのだ。
ちなみに、二月に新隊が編成されている噂は事実である。
民衆から兵を徴募する動きが始まっており、既に山伏で構成された修験隊ができている。
他に二月中に編成された諸隊としては、力士で編成された力士隊など、この時点の改革では地域や職種別に諸隊が構成されている。
「一同、静かに!」
突然、上座の方から声が上がった。
筆頭家老の石橋釆女である。
一同、たちまち水を打ったように静粛となる。
その静寂を見て石橋が座ると、続いて威風堂々とした男が小姓を連れて入ってくる。
他でもない、会津藩主松平容保である。
祐一郎たち藩士は平伏し、それを迎える。
「皆の者、大義である」
「ははっ!」
そして容保は藩士たちの最近の苦労をねぎらい、改めて藩の立場を一同に述べた。
一同わかってはいたことだが、改めて言われるとやはり緊張が走る。
その緊張の中で容保が話し終わると、続いて石橋が口を開いた。
「方々、既に聞き及んでおられると思うが、当家ではこの度軍制を一新させることと相成った」
誰一人驚きの声をあげることなく、話は進む。
そして、いよいよ具体的な編成へと入る。
「協議の結果、年齢別に士分の者を分け、四隊の洋式部隊を創設することとした」
「おお…」
ここで、初めて驚きの声が上がった。
「具体的には、十八歳から三十五歳までの者を『朱雀(すざく)隊』として軍事奉行下に直属せしめる」
ちなみに軍事奉行にはあの「鬼官兵衛」こと佐川官兵衛もおり、朱雀隊の総督を務めることになる。
「さらに三十六歳の者から四十九歳までの者を『青竜隊』とし、五十歳以上の者を『玄武隊』として編成いたす」
石橋はここで一区切りおいた。
あちらこちらからざわめきが起こっている。
「相沢、どうやら俺たちは軍事奉行直属の精鋭部隊となるみたいだな」
「………はは」
北川が、意外な方針ながらも、どことなく誇らしそうな口調で言った。
祐一郎の方はといえば、とりあえず曖昧な笑いでごまかした。
「御家老、もう一隊はいかように?」
上席の方から声が上がった。
「うむ、もう一隊、十六歳と十七歳の者で予備隊を作ることにした。これは『白虎隊』として編成する」
「なんと…」
「これはまた…」
十六歳とは、まだ元服したかしていないかの歳ではないか。
戦に駆り立てるべき年齢ではないのではないかと、一部から声が上がった。
「うむ、そのため予備隊とした。あくまでも、主力は朱雀隊と青竜隊とをもってこれとする」
石橋は、こう答えた。
それを聞いた祐一郎は、まだ若輩の十六歳を戦に駆り立てねばならぬほど、この戦の様相は凄惨たるものになるのだと、密かに悟ったのだった。
予備隊…果たして予備隊が予備で済むことがあるのだろうか。
「それでは、次に隊内の編成について申し渡す」
石橋が、手にした編成案の書物をめくりながら、再び口を開いた。
「各隊、それぞれの総督から細かい指示を仰いでもらうが、基本的には各小隊長が指揮を取る。隊内の編成はまた隊ごとに異なるので、各自よく聞いておくように」
そういって、書物を閉じる。
小隊長という聞き慣れない言葉に藩士たちは混乱しながらも、何とか自らの立場だけは理解した。
藩士たち各自が動き出したので、北川も腰を上げた。
「相沢、俺たちも行くぞ」
「ああ…そうだな」
北川に促され、祐一郎も疑念を感じながら腰を上げようとしたときだった。
「相沢祐一郎と北川潤之介はおるか!」
上座の方から声がした。
「…俺たちのことか?」
「ああ…やっぱり」
「やっぱり…って、何がだ」
「行けば分かるだろう」
「そりゃ、そうだが…」
二人がそちらを見ると、石橋が立ち上がって二人の姿を探している。
北川にはその意は分からない。
「こちらに!」
とりあえず、叫んでみた。
石橋も二人に気づき、手招きをして呼んできた。
二人は素直にそちらへと参じる。
「…御家老、何事でござりましょうか」
北川が心底怪訝そうに尋ねる。
「うむ、そなたらは三木本九郎から、日新館の子弟からなる一隊を預けられていたのだったな」
「はい」
「神尾とも相談したのだが…そなたらは今回の編成には組み入れず、独立の予備隊として存続してもらう」
「………はい?」
北川には、言っている意味が分からないらしい。
「神尾の考えによると、そなたらには独立してもらっている方が都合がいいらしいのでな。その通りにした」
「あの…それでは拙者の御役目は…」
「安心せい、これまで通りにその予備隊の副隊長じゃ」
「あの、いえ、拙者の鉄砲組頭の御役目は…」
「? 何を言っておる。組頭が廃止されたのに、役目だけが残るわけがなかろう」
「いえ、その再任先と言うことで…」
「??? うーむ、そなたの言うことはよくわからんのう。まあ、とりあえずそなたは一隊を預かる身じゃ。よろしく頼むぞ」
「あ、その…」
北川の心中知ることなく、石橋はさっさと下がっていってしまった。
混乱する北川には、それを呼び止めるほどの心理的余裕はなかった。
「………」
「北川」
そんな北川に祐一郎は声を掛ける。
「………なんだ」
「お前って、副隊長だったんだな。全然知らなかった」
「俺も知らなかった…」
北川は呆然として、虚空を見つめている。
祐一郎の方は、とりあえず自分に北川からの災難がなくてホッとしていた。
「…相沢、北川と申したな」
「…え?」
その時、突然、二人に声がかかった。
もちろん二人はそちらを見る。
「あ…」
思わず、声をあげる。
二人の名を呼んだのは、主君の松平容保その人であったのである。
「そちたちが独立の予備隊を指揮することになるそうだな」
「ははっ!」
二人は膝を畳に突き、頭を軽く下げる。
「さすがは神尾が信頼できると申しておった士だ。面構えからして気骨がある」
「…は?」
意外な話の展開に、北川も祐一郎も驚いた。
「そちたちがこの会津若松の運命の一端を握るというわけだ。頼りにさせてもらうぞ」
「は、ははっ!! もったいないお言葉にござります!」
予想外の主君の言葉に、二人はひたすら低頭する。
北川の頭では、もはや先ほどの混乱など霧散しきっていた。
「殿のため、我ら一同粉骨砕身、この城を守り抜いて御覧に入れ奉りまする!」
「はっはっは、それは頼もしい。よし、石橋にそちたちの隊名を任せようかと思うたが、この際、隊名はそちたちの一存に任せよう」
「な、なんと…有り難き幸せにござりまする!」
もはや北川は畳の節目しか見ていない。
いや、もはや網膜に映ずる映像は脳へと伝わっていないのかもしれない。
その脳内は、燃えたぎる義心と戦意とで埋められているのであろう。
常に冷静な祐一郎も、この時ばかりはひたすら低頭しながら、高揚した気持ちを押さえ込みかねていた。
「必ずや、殿の御期待に添いまする!」
祐一郎の叫ぶような言葉に頷くと、容保は悠々と退出していった。
なにしろ京都の公卿の間でも人気の高かった会津中将こと、松平容保である。
会津藩士にとって、これ以上の栄誉があろうか。
二人は他の藩士たちからの視線を背に受けながらも、しばらく呆然としていたのであった。
さて、文中では書けなかったが、この日の軍制改革の特徴はまだある。
上記の文章において、会津藩の正規軍が洋式化されたわけだが、実際にはさらに正規軍は三段階に分かれることになる。
三月十日の軍制改革の特徴として、身分階級別に部隊が分けられていることが挙げられる。
すなわち、上士で構成される「士中」、中級藩士で構成される「寄合」、下級藩士で構成される「足軽」の三種である。
以上をふまえて正規軍の編成を詳しく書いておこう。
朱雀隊は中隊頭という隊長が総合的に指揮し、さらにそれを二小隊に分けて小隊頭がこれを指揮する。さらにその小隊を二つに分けてこれを分隊として分隊頭が指揮する。
これを「士中」と「寄合」でそれぞれ構成するため、
都合、朱雀隊は四個分隊ずつの二個中隊で構成され、総勢千二百名、堂々たる主力部隊である。
青竜隊は、士中が三隊、寄合が二隊、足軽が四隊の、計九個分隊が独立編成されている。総勢千名。これもまた大部隊である。
両隊ともに指導官に元幕府歩兵士官が付いており、フランス式の調練を受けることとなる。
白虎隊と玄武隊はやや小規模になり、士中、寄合、足軽に各一隊を持ち、白虎隊は三個分隊の三百名、玄武隊は四百名である。
堂々たる主力と書いてはみたが、やはり全軍で三千名では、新政府軍に長期戦を挑むには不十分である。
その為、先ほど書いたように民衆から募兵を行っている。
対象は二十歳から四十歳で、意気盛んな農民たちがおびただしい数で集まったが、これもまた先程も述べたように、地域別、職種別に分けている。
その中でも勇敢だったのが、僧侶で構成された「奇勝隊」である。
ちなみに参考までに言うと、奇勝隊は総勢二百五十名、小隊長には村役人たちが就き、幹部には代官クラスの藩士が就いた。
これら民兵部隊はどれも小規模であったが、勇敢な部隊も多く、各地で官軍とすさまじい戦いを繰り広げていくのである。
また、武士の部隊も当然これだけではない。
「へえ…それじゃあ、わたしたちの隊は存続するんだよね」
「そういうことだ」
いつもの調練場、名雪たち藩校の子弟たちが集まり、祐一郎と北川からの報告に耳を傾けている。
「しかも、殿のお声掛かりの独立精鋭部隊だぞ。まさしく最高の名誉!」
北川が興奮さめやらぬ様子で語る。
火縄式青銅砲を装備して「精鋭部隊」かは、はなはだ疑わしいが、とりあえず主君容保からのお言葉は頂いた。
だが…
(どうして俺たちなんかをわざわざ…)
祐一郎にはこれもまた疑わしい。そもそもどうしてあの時容保自ら声を掛けてきたのか…
確かに単なる士気高揚のためといえばそれまでだが、どうもそれだけではないような気がする。
まあ、そうであったとしても、その時はその時だ。
祐一郎は今やらなければならないことへと思惑を移す。
「…ところで、殿から隊名を自由に付けるように仰せつかったが…」
「そうだ。これも殿が我々を信頼していればこそのことだ」
北川が力強い語調で後から強調する。
「まあ、それはいいが…で、どうする? 殿からの期待が大きいということになれば、並の隊名ではまずいぞ」
「そうだ。精鋭部隊にふさわしい名前でなくてはならない」
「かといって、あまり現実からかけ離れた隊名でもいけない」
「そうだ。殿の御意志に習って創られた隊なれば、殿の御意志に背くような隊名ではならない」
「…別にそこまで殿も考えていないと思うけど」
香里が北川の台詞に水を差す。
「何を言う。殿のお声掛かりと言うことが、どれほどのことか考えてもみろ」
北川からすれば、鉄砲組頭の地位(これもそれほどの役目ではないが…)を失った代わりの隊である。主君の期待がなくては困るのだ。
「でも、元は石橋が名前を付ける予定だったんじゃない」
「…そんなこと、言っていたか?」
「ああ、言っていたな」
「………まあ、とりあえず皆で考えよう」
「それが賢明ね」
「うーん、何にしようか迷うよ…」
名雪は食べ物でも選んでいるような様子で隊名を考えている。
祐一郎からすれば、正直なところ、あまり名雪案には期待したくなかったが。
………
「仙台で洋式調練(伝習)を受けた隊、すなわち『仙台伝習隊』なんていかがだろう」
「仙台に行ったのは、俺と名雪と真琴だけだぞ。それにこの装備だからな…」
「それに俺たちは会津藩士だぞ。会津軍であることを否定されかねない隊名だ」
「それでは、隊士少数の中に砲があるということを考慮して、『独砲隊』では?」
「砲と言っても、火縄式だぞ」
「いいではないか。砲に変わりはない」
「お前はまだそんなことを…」
それなりに案は出るが、今ひとつ決め手に欠ける。
いや、正直なところ、どうでもいいようなことなのだが、いざこうなってみると、どうも拘りすぎるようなところがある。
そういう点では、石橋に任せて無難なところを当てはめた方がよかったのではあるまいか…と言ってしまっては、彼らの義心を逆なですることになるか。
さて、各自が一通り出し尽くしたところで、いったん流れが止まった。
「なかなか決まらないわね…」
「なんかこう、会津らしいものはないか」
「会津らしいもの?」
「俺たちは独立予備隊だ。折角だから会津の志を世に知らしめるような、特徴的なものを一つ」
「会津といったら、蝋と漆が…」
「却下だ」
「いや、試してみるのも悪くはないかも…」
「うーん、薩摩や長州の人たちは、暖かいところに住んでいるんだよね?」
子弟の一人の台詞を遮って、名雪が声をあげた。
「どうした、名雪?」
蝋と漆にはさほど期待していなかった祐一郎も、そちらに耳を傾ける。
「会津らしいというより、奥羽らしくなっちゃうけど…」
「奥羽らしい…なるほど、それもいいかもしれないな」
いざ戦となれば、奥羽諸藩が結束して新政府に抵抗することになるはず、いや、そうでなくてはならないのである。
その象徴的な隊名というのも悪くないかもしれない。
あまり期待していなかった名雪案にも、一つの指針を見つけることができたようだ。
「…で、名雪は何がいいと思うんだ?」
「雪兎だよ」
「………雪兎?」
「うん、雪兎なら縁起もいいし、隊名にぴったりだと思うよ」
「おいおい…いくらなんでも雪兎っていうのは…」
と、祐一郎が苦笑したとき、
「いいんじゃない? 縁起がいいし、構成員が藩校の子弟なんだから」
香里が賛同の声をあげた。
「私も賛成です。戦勝祈願のためにも縁起がいいですから」
「戦には縁起が付き物と古来より決まっておりますし」
「長沼流軍学でもそのような…」
「おいおい…お前たち、普通に縁起、縁起と言っているが…」
今度は祐一郎が突然の展開を理解できなくなった。
「なるほど、確かに名案かもしれないな。よし、これでいってみるか」
(き…北川まで………皆、何を言っているんだ…!?)
よくよく考えてみれば、江戸詰の祐一郎以外は日新館の子弟だった。
突如、祐一郎に疎外感が襲う。
「では、音読みということで、『雪兎隊』と書いて『せっとたい』としましょう」
「よし、それでは城に報告を…」
祐一郎には付いていけないところで話が進んでいく。それにどことなく語呂が悪い。
さすがにたまらず、祐一郎は香里に尋ねる。
「…なあ、どうして雪兎の縁起がいいんだ」
「え、知らないの?」
「知らないの、って…なにがだ」
「へえ…知らないんだ…」
「俺は何のことか聞いているんだ。教えろ」
「内緒」
「…なに?」
「知りたいなら、名雪に聞いてみたら?」
そういって、香里は愉快そうに去っていってしまった。
「何なんだよ、一体…」
そういえば、昨日とうって変わって香里の様子も違う。だが、それもどこか空虚だ。
こう不可解なことが重なると、一気に祐一郎の頭の中を混乱が支配していく。
「香里は名雪に聞けと言ったが…」
だが、何やら名雪に尋ねるのもためらわれる。
それがどうしてか、祐一郎にも何やら理解しかねている風であり、段々と祐一郎の顔は苦渋の表情へと変わっていった。
「祐一郎、大丈夫?」
「あ、ああ…」
俯きながら、顔から脂汗と思しきものが吹き出ている祐一郎を見て、名雪が心配そうに声を掛けてきた。
「どうかしたの?」
「………いや、何でもないぞ」
やはり、聞けなかった。
「無理しちゃ駄目だよ。祐一郎は隊長なんだから」
「はは…安心しろ。体調は万全だ………」
「?」
名雪が首を傾げる。
だが、ふと思い出したように祐一郎の顔をのぞき込んできた。
「あ、そうだね、祐一郎、おめでとう」
「………何が」
「今日で改めて、『雪兎隊』の隊長になったんだよね。そのお祝いだよ」
「うむ、その通りだ! では早速祝杯でもあげるか!」
「…つい最近も挙げた気がするけど」
「めでたいことは多い方がいいからな」
「じゃあ、百花屋にしようよ〜」
「…祝杯と言っているんだが」
深刻そうな隊長の祐一郎をよそに、副隊長以下ははしゃいでいるようだ。
まあ、何はともあれ、相沢祐一郎を隊長とする独立予備隊「雪兎隊」、ここに誕生である。
…さて、最近多いような気もするが、またも関東に戻る。
永倉たちと袂を分かった近藤・土方は、再びの再起へと即日動き始めた。
近藤は江戸である程度の人員と武器を集め、歳三は先に流山へ向かい、屯所を準備する。
ほとんどゼロからのやり直しであった。
「局長、お客さんですよーっ」
「なに、客?」
まだ傷が癒えない近藤は医学所におり、そこで役目をこなしている。
あの浅草弾左衛門が荷駄と人夫を出してくれたので、物資の輸送には問題ない。
佐祐理さんと舞もとりあえず江戸に残り、幕府陸軍との交渉などの雑多な仕事に追われている。
「はい、局長もよくご存じの方ですよ」
佐祐理さんは愉快そうに近藤に謎かけをする。
「ほう、俺がよく知っている男かね。江戸以来の同志だったら、もう分かったも同然よ」
近藤は一呼吸おく。
「一の奴かね?」
「あははーっ、さすがは局長ですねーっ」
佐祐理さんの笑いが止まぬうちに、入り口から三番隊組長の斉藤一が顔を出す。
「局長、再起を図るそうですね」
「おう、このまま黙ってはおれんからな。斉藤君もやる気かね」
「もちろんですよ。薩長なぞにおめおめと引き下がれますか」
斉藤が威勢良く刀の柄を打つ。
近藤も笑みを浮かべて頷いた。
「歳の奴が流山で募兵の準備をしている。武器と物資の調達が完了し次第、俺たちも流山へ向かう」
「なるほど、流山で旗揚げですか。それで現在の同志は何人おりますか?」
「いや………私の知る限りでは、手で数えられそうな数だ、残念ながら」
「それは厳しい………ですが、ご安心を」
「なに、何か名案があるのか」
「名案といいますか…同志を連れて参りました」
そういって、斉藤は入り口を指さした。
近藤や佐祐理さんもそちらを見る。
「局長! 我らも是非再起に参加させてくださりませ!」
数名の旧隊士が、玄関脇に控えていた。
思わず近藤の顔もほころぶ。
「おお、こいつは頼もしい。『誠』の隊旗も掲げ甲斐があるというものだ」
「皆さん、がんばりましょうねーっ!」
「おうよ!」
医学所に似合わぬ、健康的な叫び声が轟いた。
それから数日、旧隊士も意外な数が集まり、にわかに再起の活気も帯びてきた。
近藤・土方と行動を共にする隊士のうち、主立ったものは以下の通り。
旧監察の島田魁、元大阪浪人の平隊士で野村利三郎といった甲州戦争で陣地を共にした者、
他、歳三の遠縁に当たる松本捨助、「中島登覚書」や「新選組絵姿」の著者である中島登など。
中でも、永倉と親友であった島田が加わってきてくれたことは喜ばしかった。
その剣も、心形刀流免許皆伝の肩書きが示している男だ。
また事実、島田の存在が後世の新選組に貢献したところも大なのである。
………
準備すること三日、いよいよ近藤たちは流山へと出発した。
一部の負傷兵は先に会津方面へと送られているが、多くの面々はここに同行している。
出かける前、今は民家に移っている沖田を最後に見舞った。
沖田は痩せ細っていたが、穏やかな激励の言葉を言って、歳三たちを送り出した。
もう二度と会えないであろう、最後の見舞いであった。
松戸の宿場を通過した一行は、やがて下総流山へと入る。
当時の下総の平野はひたすらに広く、豊かな田園が広がっている。
その中に浮かぶ島の如き丘がある、おそらくそこから流山の地名があるのだろう。
と、その時、近在の村の顔利きと思われる男が、馬上の近藤の方へと近寄ってきた。
「大久保様でございましょうか?」
「いかにも、大久保大和である」
官軍が迫っている今、ことさらに新選組であることを報せることは得策ではない。
あの「誠」の隊旗も今は掲げていない。
「屯営で内藤先生(歳三)がお待ちかねでございます。さ、こちらへ」
見ると、歓迎の人数と思われる民衆が街道にずらりと並んでいる。
どうも歳三の演出らしい。
「あははーっ、さすがは副長ですねーっ」
「歳もよくやるもんだ」
「………副長らしい」
舞も、言葉少なに感想を述べた。
………
さて屯営、宿の場所は大きな酒屋である。
酒屋だけあって巨大な蔵がいくつかあり、兵を収容するのにちょうどよいのである。
ちなみに、この酒屋は今も現存しているらしく、蔵も当時のまま残っているらしい。
近藤一行が到着して間もなく、近郷の村から挨拶がぞくぞくとやってくる。
どうやらこの付近の住民からは好意的な印象を持たれているらしい。
これも歳三の地ならしがあったのかもしれない。
即日、正式な徴募に移ると、近藤の予想以上に兵が集まった。
いずれも近郷の若者である。
総勢三百、これに歳三がミニエー銃の操作法を教え、近藤が天然理心流宗主の剣を教え込んだ。
気組み第一の天然理心流、毎日のように雷のような気合いが近所に轟いていたという。
舞も流派不明の神業的な剣を兵に教えていたが、あまり兵の上達はなかったようだ………まあ、仕方がないか。
こうして訓練と徴募の(彼らからすれば)平穏な日々が続いていたのだが…。
3月15日、当初の江戸城総攻撃予定日である。
だが、前の稿で書いたように勝海舟と西郷吉之助の会談により、攻撃は無期限延期である。
だが、それで攻撃が終結したわけではない。
13日には甲州戦争で近藤たちを打ち破った板垣退助ら東山道軍が板橋に着陣、いつでも江戸城を攻撃できる体勢に入った。
一方では、前に少し触れた彰義隊が大軍を抱えたまま前将軍慶喜の護衛を名目に居座っており、これも前に少し触れた松平太郎と榎本武揚の幕府陸軍・海軍のトップが不穏な動きを見せている。
この事については後の稿で触れることにしよう。
さて、3月20日、東海道鎮撫軍の本隊に思わぬ報せが舞い込んだ。
「何? 下総の流山に幕軍がいるだと?」
板垣が思わず顔を上げた。
幕府歩兵の部隊が近郊にうろついていることはわかっているが、流山は計算外の地点である。
「はっ、密偵からの報告では、数はおおよそ三百、全て近郷から徴募した農民兵のようです」
「ほう、農民兵か」
計算に入っていないはずである。
「で、そいつらの頭は誰だ」
「大久保大和、と」
その報告に、参謀一同思わず声をあげた。
何しろ先日甲州でやり合った者、しかも武鑑に載っていない旗本、結局正体不明であった男である。
だが、その時板垣がニヤリとした。
「近藤だな」
板垣の言葉に、参謀一同頷く。
既に、日野村で近藤や土方の親戚一族に対する執拗な尋問が行われており、中でも強硬派である谷干城の尋問は熾烈かつ巧妙であった。
数日の尋問の末、ついに大久保大和と内藤隼人という男が近藤勇と土方歳三であるということが発覚したというわけだ。
「どうしてやりましょうか?」
肩を怒らせ、やる気満々の谷干城が板垣に迫る。
「まあ…今の我らにも兵力がない。今すぐ討滅というわけにもいくまい」
「ですが、このまま放っておいては、敵が増長するのみ!」
「では、総督府の方に伺いだけでもたてておこう。………それから、この作戦には、我らは指揮をとらないぞ」
「!? そんな、何故です!?」
谷が驚くのも無理はない。積年の恨みある新選組の首を挙げることこそ、彼ら土佐人の目的の一つなのだから。
「…我らはもう土佐一藩ではない。新政府の立場で物事を考えねばならん。その為には、我らでは感情的になりすぎる」
「………」
板垣の言葉に谷は黙ったが、まだ不満そうである。
「まあ、見ておれ。ここは敵の裁量を見極めようではないか」
そう言って、もう一度板垣がニヤリとした。
「しかし…隊旗がないというのは張り合いがないな」
のどかな春の陽気の中、ミニエー銃を肩に掛けて座る斉藤一がぼやいた。
この日は四月三日、江戸は戦々恐々としているが、この日もまだ、ここでは平穏な日々が続いている。
「確かにそうですね」
鉢巻を締め直しながら、佐祐理さんが同意する。舞も、少し離れたところから頷いたように見える。
この日、舞たちは流山西方に警備目的で出てきていた。
官軍が側にいると同時に、密偵も多数入り込んでおり、検問の役割も果たしているのだからそれなりに重要な役目である。
「仕方がないといえば仕方がないが、なんかこう、軍旗がないと戦をする気にならない。いやしくも幕府再建を目的とする部隊なのだから、志だけは世に知らしめにゃならん。そう思わないか?」
「こころざし…」
「はい、佐祐理もそう思います」
流山に来てから、一度も「誠」の隊旗が空にはためいたことはない。
本来なら、これが立っているだけで士気が何倍にもなるのだ。できれば立てておきたい一品である。
「幕府再興を願うってことは…っと、川澄君、どうした」
「舞?」
突然、舞が手に何かを持って二人の前に立っていた。
「………」
無言で、舞が手を広げた。
そこには…
「…そりゃ、旗か?」
コクリ
「舞、それ一人で作ったの?」
「………念のため」
舞が、誇るわけでもなく、「それ」を持って言った。
「幕府再興の志の旗」
さらにそう付け加えた。
「再興、って言うが、これは雪兎というんじゃないのか?」
コクリ
「そうか…」
斉藤が黙った。心中何となくは察しが付く。
舞が見せた物は布、さらにそこには滑らかな曲線で一匹の雪兎が描かれている。白い布に溶け込むように描かれたそれは、何やら哀愁までも感じさせる。
「あははーっ、これで隊旗ができますねーっ」
バンザーイ、と二人の手が上がった。佐祐理さんは大喜びのようだ。
そんな二人に、斉藤の方も一応、手を浮かせてはいた。
「あ、でも旗には竿がいるよね」
「…とりあえず、この木でいいんじゃないか?」
そう言って、斉藤が枯木の枝を一つ見つける。
さすがに短いが、まあ、この際それはどうでもいい。
舞は一つ頷くと、懐から取り出した紐でくくりつける。
そして、それを地に突き立てる。春風に、雪兎の旗がはためいた。
「あははーっ、『流山雪兎隊』の誕生ですねーっ」
「…勝手に隊名を作るな」
と、その時だった。
ダァーン!
一つの銃声がこだました。
「!」
「敵か!?」
「………」
三人は慌てて、従えてきた兵士を召集する。
「でも…近くに官軍がいるなんて情報は…」
「敵も狡猾な連中だ。油断できねえぜ」
舞はいち早く近くの高みに登り、銃声の方角を見る。
「………官軍がいる」
舞はそう言った。
「やはり…で、敵の数はどれくらいだ? それから交戦している味方は何人居る?」
「敵は三百から五百人くらい。味方は…多分十人くらい」
「なに、十人!?」
「大変、早く助けにいかないと!」
俄然、冷静な二人もさらに慌て出す。
警備の兵も数名ずつ集まってきたが、どれもこれも何が起こっているのか状況をつかめていないようだ。
「…待て。どうして次の銃声がしないんだ?」
「そういえば………舞、官軍は何をしているの?」
「………射程外みたいだから。反撃する様子じゃない」
「どういうことだ…」
「とりあえず、兵を集めて西側を固めましょう」
佐祐理さんの案に、斉藤と舞も頷いた。
「お前、今から屯所に走って、官軍の来襲を先生たちに伝えてこい!」
斉藤の命を受け、一人の農兵が走り出す。
突然強くなってきた風に、雪兎の旗が一層強くはためいていた。
「歳、今のは銃声じゃないか?」
「そうみてえだな」
歳三が立ち上がり、窓からその方角を見る。
だが、ここからではその姿を目視できない。
「ちょっくら、見てくるか」
「まあ待て、警戒兵からの報告があってからでもいいだろう」
「そうだな」
近藤の言葉に頷き、歳三が携帯武器を確認していると、まもなく警戒兵の一人が駆け込んできた。
「官軍です! 数は推定五百程度、こちらの兵士が発砲しましたが、敵は未だ反撃してきません!」
「そうか、わかった。誰か馬を用意しろ!」
歳三は、叫びながら部屋を飛び出した。
その後ろ、近藤は何やら深刻そうな表情で座っていた。その胸には、歳三も知らない思案があったのである。
………
馬上の歳三、流山の町中を駆けて、郊外へと向かっている。
警戒兵はそこにいるはずだからだ。
「…ん? 何だあれは」
突如、馬の足を止める。
視線の先に、見慣れぬ一本の旗が見えた。
もちろん錦旗などではないし、葵の御紋でもない。幕府歩兵の部隊旗でもない。
警戒兵がいるはずのところからは少し離れた土手に、悪く言えば貧相に、よく言えば控えめに、白地の旗が立っている。
歳三は馬の頭を巡らせ、ひとまずそちらへと向かう。
近づいてみると、真っ白ではない。
「…雪兎?」
あまりにも意外な図柄に、歳三も首を捻ったが、何はともあれ正体を確かめることにした。
…が、もちろん近づいてみればなんて事はない。
「…お前らか」
「あ、副長、どうなさったんですか?」
佐祐理さんが馬の蹄の音に振り返ったところ、歳三の姿が目に入った。
「そりゃ、こっちの科白だ。この旗は一体なんだ」
「あ、隊旗が立てられないので、舞が代わりに作ったんですよーっ」
「………斉藤君」
歳三が後方の斉藤に視線を送ると、斉藤は必死にかぶりを振っている。
歳三も苦笑しつつ頷いた。
「…まあ、今はそれどころじゃない。戦況はどうなっている」
「戦況も何も、敵は反撃も接近もしてきません」
斉藤が、理解しかねるという様子で言った。
「…でも、戦闘態勢みたい」
そこへ、舞が顔を緩めることなく言った。
「どういうわけだ」
「民家の中へ兵を入れて、こちらからの襲撃に備えてるから」
「変だな、守りを固めるくらいなら、攻撃を仕掛けてきそうなものだが」
「ともあれ、近藤さんに報せてこよう。近辺に出ている兵士を一ヶ所に集めておけ。…旗を使ってもかまわん」
「ありがとうございます」
何故か佐祐理さんが頭を下げた。
だが、これにて雪兎の旗は副長認可の代物となったのである。
歳三は再び馬の向きを変え、屯所へと駆け出した。
「………」
「…舞、どうしたの?」
「…何か嫌な予感がする」
「嫌な予感? そりゃなんだ?」
「………わからない」
「なに、敵も大軍じゃないさ。そう簡単に負けはしない」
「………」
しかし、舞の表情は険しかった。
歳三が屯所へ帰ってくると、島田魁が小部隊を集めているところであった。
「副長、前線の様子はどうです?」
「まだ戦闘は始まっていない。だが、すぐに出戦する」
「承知いたしました」
島田への命令もそこそこに、歳三は近藤の部屋へと駆け込む。
「近藤さん! ただちに出撃…を………」
叫びながら障子を開け、唖然とした。
なんと近藤は平服に着替えているのである。
「近藤さん、こりゃどういうわけだい」
「歳、俺は官軍の指揮官と会ってくる」
「なに馬鹿なことを言ってやがるんだ。今さら連中と交渉する余地なんてねえよ」
「交渉じゃない。我々が錦旗に手向かうものではないことを釈明してくる」
「!!! そりゃ、あんた………」
投降ではないか。
「あんた、正気の沙汰じゃねえよ。今さら官軍に投降して、ただで済むとでも思ってるのかい?」
「大丈夫だ、こちらが誠意を持って志を語れば、分かってくれるはずだ。…それに歳よ、もうここら辺が潮時みてえだ」
「潮時だって? 冗談じゃねえ!」
近藤の論理にも根拠はある。
江戸の町の警備は、滑稽なことに、彰義隊に一任されているのである。
これは西郷が勝海舟に「江戸のことは勝どんに任せ申す」と言ったことによる。
官軍には大軍に膨れ上がった彰義隊を討伐する力はなく、結局治安維持部隊として黙認している形なのである。
つまり、流山の部隊もそれと同じだといえばよい。
それならば少なくとも、攻撃される心配はない………というのが、近藤の腹だ。
だがしかし、しかしである。
近藤は一つ重要なことを忘れている。いや、忘れているのではなく、知っているはずがない。
すなわち、既に大久保大和という偽名が近藤勇だということが露見しているという事実である。
にっくき近藤勇を、長州・土佐人はただでは済まさないだろう。
「よせ、まだ戦える! 会津がある! 六十六州の四分の一の奥州がある!」
歳三にはもはや官軍に投降することなど考慮の余地もない。
だが、近藤は微笑して言った。
「これ以上やれば、朝敵だ。俺は朝敵の汚名を着たくない。もう、時勢は過ぎてしまったんだよ、歳」
「時勢なんてどうだっていい。朝敵なんてものもどうだっていい。全部一時のまやかしじゃねえか。それよりも、降伏すれば取り返しのつかねえ恥になっちまう!」
「俺は大義というのを知っている。大義のない戦はしたくない」
「大義だってまやかしよ、勝敗だって関係ねえ。俺たちは美しいもの、義に殉じる、そうじゃなかったのかい?」
歳三は、最後の武士としての意地を強い語調で張った。
だが、近藤は穏やかに、そしてきっぱりと言った。
「俺は、大義というものに美しさを感じる。それに殉じる男なのさ」
「………」
歳三の言葉が、止まった。
「歳よ、別れるときが来たようだ。最後に殉じるもののために」
「そうはいかねえよ、あんたをこんなところでくたばらせはしねえ」
「歳よ、俺の自由にさせてくれ………世話になった」
「近藤さん!」
近藤は歳三の手を振り払い、縁側に出た。
小部隊を率いる島田が、近藤の平服姿を見て驚いた顔をした。
「………島田君、今までご苦労だった。自由にしてくれ」
「局長………」
島田は何が起こったのか分からなかったが、近藤の言葉に、あらかたのことを悟ったらしい。
ただ呆然としてそれを見送っていたが、暫くして、膝を地につくや号泣し始めた。
近藤は酒蔵に駐屯している兵たちを集めて解散を告げると、部下二人を連れて屯所を出ていった。
それを目にしながらも、部屋の中の歳三は、それ以上追わなかった。
ただ、一言、
「俺はやめねえ。どこまでもやってやる」
と、呟いた。
畳だけが、涙で湿っていた。
平服の近藤が、流山の町を行く。官軍に降るために。
しかし、その剣豪としての威風はまだ失われていない。
民衆はそれに対し、敬意を持って見つめている。
しかし、それが投降の為のものとは知らない。
「………おい、あれは局長じゃないか?」
監視をしていた斉藤が、突然声をあげた。
「そうみたいですね。でも、何か変ですよ」
「………服が平服」
「え? ………あ、本当だあ」
「前線指揮を執るというのに平服とは妙だな。局長、一体どういうおつもりだ?」
「………」
舞は無言で見つめている。
舞の目には、この上なく安らかな近藤の表情が映っていた。
同時に近藤の目の端にも、微かに雪兎の旗が映じられていた。何を思ったかまでは、伝わっていない。
「敵からの使者がやってきます」
官軍部隊の指揮官、有馬藤太の元に伝令が走ってきた。
「そうか、分かった」
有馬藤太は薩摩人である。冷静な表情と声で、立ち上がった。
ちなみに有馬は本来薩摩弁だが、都合が悪いので標準的武家言葉を用いることにする。
「ふん、これで近藤勇も一巻の終わりだな」
その隣で、副隊長の香川敬三が言った。
香川は水戸人、しかし彼は中岡慎太郎が束ねる陸援隊の一員であった。
坂本竜馬と一緒に殺された中岡の仇として、新選組を憎むこと甚だしい。
しかし当人、「狐の香川」と評されるように陰険な性格で徳がなく、友人と呼べるような人間は皆無であった。まあ、有馬にとっては役目上の同志に過ぎない。
「香川殿、あの者のことは頼んだ」
「承知いたした」
有馬はそう言い残すと、敵の使者を出迎えに行った。
………
近藤は馬を下りている。
付き従う二人に頭上で刀をくるくると回させ、官軍陣地の方へと歩いていく。
その姿、微塵も臆する様子がない。
「驚いたな…近藤自ら来たか」
有馬は咄嗟にそう思った。彼は近藤を京都で目撃しているので、顔を見れば漠然とながらそれと分かる。
やがて、近藤は有馬の目の前まで一定の歩調で歩いてきた。
「指揮官殿ですな?」
「左様、大久保大和と申します。錦旗に手向かうつもりがないことをお伝えに参上いたした」
近藤は実に丁寧な口調だったと、後に有馬が語っている。
「今朝方、当方の兵が発砲いたしましたが、錦旗の菊紋を見て、官軍と確認いたしました。こちらの不手際にてご迷惑をかけ申した」
「これは軍律に関わることなれば、お聞きしたいことがござる。粕壁(現埼玉県春日部市、前日にこの部隊が宿営していた)までご同行願いたい」
「承知いたした」
近藤は二つ返事で承諾した。
「つきましては、隊の方の後始末を付けてからにいたしたいが、ご承知願えましょうか」
「承知いたした」
有馬も応じた。
近藤は元来た道を引き返す。
それと入れ違いに、二人の男が現れた。
「……どうだ」
現れた一人である香川が、もう一人現れた男に尋ねた。
「間違いない、近藤だ」
男が言った。
「よし、これで何の躊躇もなく引っ捕らえられるか …しかし有馬殿、いいのか、屯所へ帰して」
「あの男は本物の武士だ。一度覚悟が決まったら、もう違えることはあるまい」
「ふん、本物の武士かね」
香川は口元に嫌味な笑みを浮かべて言った。
この時隣にいた男は元新選組で伊東甲子太郎一派だった加納という男である。
師であった伊東は近藤・土方に殺されたのだから、その恨みは伺い知ることができよう。
また、先に分離した永倉新八も、「新選組顛末記」において近藤捕縛の次第を書いている。
この時、新選組の時代が一つ終わったのであった。
近藤はその後、遺品を小姓たちや同志たちに分け、紋服に着替えて馬にまたがり同道していったという。
その前に隊士たちを集め、今生の別れをした。
もはや、歳三が止める余地などどこにもなかった。
別れに手間取っているのを見て、有馬が本陣までわざわざ見に行ったらしく、その時の様子も後世において語っている。
有馬は近藤の最後まで堂々としていた態度を「武士」として讃えたが、薩摩武士の伝統として、投降した敗者を味方のように尊重する風潮がある。これは戦国時代の島津家から伝わるものだが、その為に近藤は一つの名誉を守ったのだった。
いや…世間的には守られなかったのかもしれない。だが、確かにそこにある武士道は残っている。
近藤は、それで満足であっただろうか…。
やがて、近藤は板橋へと送られていく。
残された歳三は、徴募部隊を、甲州徴募の隊士、安富才助に指揮させて北へ向かわせた。
歳三本人と一部の隊士は、戻るはずのなかった江戸へと向かっていた。
その心中、いかなるものか。
舞たちも、ともに無言で江戸へと向かっていた。
歳三の心中は容易に察することができたから、誰も、進んで喋ろうとはしない。
ただ、雪兎の描かれた旗だけが、風の中で音を立てていた。
この旗と共に、新たな戦争が始まろうとしている。