第十九話「仙台より一風」

 仙台の町は騒然としていた。
 突如現れた奥羽鎮撫総督と、その配下にいる参謀たち、薩摩・長州・筑前といった総督府付の藩兵。
 これらの存在は、当然ながら町人たちに不安を与えずにはいられなかった。
 毎日のように馬が町中を走り、物々しい兵士が各所を往復している。
 そしてこれらの根元は、全て彼らがやってきた時に出された命令なのであった。
 
 「何!? 4月7日までに会津藩境まで軍勢を進めろだと!?」
 先回、参謀の世羅修蔵から出された命令の前に、次席家老久瀬に詰め寄った佐幕派藩士は、この期限付きの命にはさらに衝撃を受けた。
 しかも、総督ら一行が到着したのは3月23日、二週間しか間がない。
 「ああ…どうやら鎮撫総督の九条様から殿に下されたらしい」
 「そんな無茶な…」
 「会津がどんな悪いことをしたというのだ!」
 佐幕派の面々は、頭を揃えて話し合うため、城中の奥まった一室に集結している。
 星や吉崎も当然この場におり、また、この後の話に関わる者としては、軍監の柿歯武之進や参政の瀬上主膳といった大物もいる。
 彼ら集まった一同、感情の高ぶりを押さえかねているようだ。
 それは世羅の傲慢な態度に対する憤慨もあったが、一方では藩内にいる勤皇派がにわかに活発化してくることの恐ろしさによるものでもある。
 もしも彼らが総督府と結託して佐幕派の追放にかかれば、総督府の兵は少数とはいえ、どうなるかわからない。
 「こうなれば、我ら一同結束して、総督の九条様に直談判を申し込もう」
 「そうだ、世羅などと話していては埒があかんぞ」
 数名の藩士がそう提案したが、また数名の藩士が首を振る。
 「そうしたいのはやまやまだが………果たして聞き届けられるか? いや、聞き届けられる以前に、面会できるかどうかも怪しい」
 「だが、やるだけの価値はある」
 「やるだけやって、ありもしない尻尾を掴まれるような羽目になれば、それこそ危ないぞ」
 「我々は何もしていない。罪に問いようがないではないか」
 世羅たち参謀をすっ飛ばして奥羽鎮撫総督九条道孝に直接意向を伝えようとする者と、その参謀による策謀を恐れる者とで激しい議論となった。
 佐幕派とはいえ、尊皇の思想は日本国民が普遍的に持っているものである。
 帝をたぶらかしている薩長という奸賊が諸悪の根元だとする以上、総督の九条道孝は決して敵ではないのである。
 九条道孝の同意さえ得られれば、世羅たち参謀などおそるるに足らないというのが積極派の考えだ。
 双方の間で激論が交わされる中、藩の参政である瀬上主膳が口を開いた。
 「まあ、待て。これは我ら伊達家家中全体の問題にとどまるものではない」
 「…それはどういうことでしょうか?」
 「先ほど知ったのだが、官軍は他家にも軍勢を出すように使者を既に送ったらしい」
 「会津追討となれば、確かに我らだけで行われるはずがありませぬな」
 「拙者が聞いたところでは、二本松や福島といったようなところに使者を送ったことは分かっている」
 「そうなると………どうなるとおっしゃるので?」
 「我らが抵抗しても、他藩の動き次第ではどうにもならなくなる。ここはもっと上手い策を練ろうではないか」
 「上手い策…でござるか」
 「そうだ、何はともあれ、会津攻めを阻止することを第一に考えねばならぬ」
 「そうですな。会津攻めさえ止められれば、何とかなりそうだ」
 「よし、そうとなれば、一同小利を捨てるのだ。しばらくは総督府の言うことに従い、早まった行動はとるのでないぞ」
 「承知した!」
 
 仙台藩の佐幕派はもとより、勤皇派の中でも反感を抱かれている参謀世羅修蔵であるが、彼の動向は仙台藩の未来を占うのに重要である。
 この日、世羅は軍勢の準備をするように命じ、さらにその後、同じく参謀の大山格之助と話し合っていた。
 二人は総督府本営が置かれている仙台藩藩校「養賢堂」にいる。
 仙台藩士の思想を作り上げた藩校が、世羅の宿営場所になっているというのも、仙台人には腹立たしかったかもしれない。
 「…世羅殿、伊達家家中の者にえらく強気な発言をしたとのことだが…」
 話が一区切りしたところで、大山が世羅に対して何気なく言い出した。
 「あまり連中を刺激しない方がいいだろう。分かっているとは思うが」
 「これは大山殿も妙なことをおっしゃる。我らは帝から下されし命に従って動いているのだ。何故に奴らにへりくだらねばならぬ」
 「何も、へりくだれとは言っておらん。連中から恨みを買って、よからぬことになりはしないかと言っておるのだ」
 「ふん、奥羽の腰抜けどもに何ができる。所詮、山奥で震えていた連中ではないか」
 「それをやめろと言っておるのだ。この先、ここを統治することを考えたらどうだ」
 「統治? 左様、統治するためには新政府の威信を見せねばならぬ。揺るぎなき威信のため、京都で刃向かった会津や鶴岡(庄内)のような連中には、譲歩などする余地はない」
 「そのようなことを言っていては、進むものも進まぬではないか。第一、拙者が言っているのは仙台のことだ。会津のことではない」
 「奥羽人などどこも同じよ。たとえ少しばかり抵抗できたとして、新政府の前には何ほどのものか」
 「………仕方ない、そなたが考えるのは勝手だとしてもだ、決して連中から恨みを買うような真似をするな、よろしいな」
 だが、大山の言葉に、世羅は心底不満げな顔をした。
 「拙者は威信を見せるべきだと言っている。それでは矛盾するではないか」
 「威信を見せるのと愚弄するのとは全く違うのだぞ、分かっておられるのか?」
 「大山殿、そう拙者を甘く見られるな」
 世羅は冷ややかな笑いを見せた。
 薩摩人の大山には、書生上がりの長州人たちをあまり好きにはなれなかったが、庶民上がりのこの男、世羅修蔵という男はさらに扱いにくかった。
 実際、長州の庶民上がりの者達には、ぱっと見、ロクな者がいない。刑死されている者も結構な数に上る。
 ともすれば、狂人に分類されかねないような輩も中には居るのである。
 「まあ、大山殿、今はやることが多くありますゆえ、些細なことに気を煩わせますな」
 大山には些細なこととも思えなかったが、当人がこの様子では何を言っても無駄なようだった。
 「そのようなことよりも、仙台の勤皇派の者でござるよ」
 「………」
 大山は、溜息を吐くだけであきらめた。
 しかし利口なこの男は、直ちに世羅の話題へと耳を傾ける。
 「我らが来た以上、仙台藩内も勤皇派の者で要職を占めねばならぬ。しかも征討の前にやっておかねばな」
 「………世羅殿、簡単に言うが、仙台は佐幕派ほぼ一色である。それは無理でござろう」
 「何を言っておられる。何度も言うが、我らは奥羽鎮撫総督付の参謀であるぞ」
 「…そなた、まさか藩内の人事にまで干渉するつもりではあるまいな」
 「当然のこと。佐幕派の連中になど任せてはおれぬ」
 「世羅殿! 連中の恨みを買うような真似はやめるよう言ったばかりではござらぬか!」
 「これは、大山殿こそ甘うござろう。このままでは佐幕派に好き勝手やられるばかりではないか」
 世羅の思考はあまりに堅牢で、大山の意見を微塵も容れようとしない。
 仕方なく、大山も再び妥協を余儀なくされた。
 「…世羅殿、そなたの意見は分かった。されど、我々が直接動くことはならぬ。あの男を使うのだ」
 「あの男ですと?」
 「我らを迎えに現れた町奉行の男だ。確か、久瀬とか申したな」
 「ああ、あの男か…まあ、腰抜けの奥羽人でも、勤王の士ならば使えような」
 「………」
 大山はまたも苦々しげにこの男を見る。その心中、この男は短命だろうと密かに思った。
 「…次席家老の父親の方ではなく、こちらの息子だけに手を回す。父親は無傷で家老職に残しておいた方がよい」
 「だが、息子が失態を犯せば父親もただでは済むまい」
 「その為に、もう一つの手駒を使う」
 「ほう、どの男を使う」
 「我々と共に仙台に帰ってきたという男がいたであろう」
 「はて、そのような者がおったか」
 「三好監物(けんもつ)という男だ。覚えておろう」
 「存ぜぬな」
 「…まあ、いいか。この男が尊皇攘夷に思想を転換し、会津討伐を主張しておる。要はこれに力を与えておけば万事上手くいく」
 「なんだ、やはりそなたも人事に干渉するつもりではないか」
 「人事ではない。総督府として、討伐時の指揮を執らせておくのだ」
 「なるほど…藩政ではないからいいと。だが、指揮を執るにはそれなりの地位がいるぞ」
 「それはよい。京都では重臣に数えられていたそうだしな」
 「…まあ、佐幕派の連中が聞けばいいのだがね」
 この三好監物という男、もとは藩主の上洛を主張して尊攘派と対立していたが、大政奉還後には奥羽鎮撫総督と共に故郷へ帰ってきたという男である。
 京都で時勢というものを目の当たりにしたのであろう。
 今では会津討伐を主張する、いわゆる討会派の一人となっている。歳は五十を過ぎたほどである。
 「ところで遠藤はいかがいたす」
 「遠藤か」
 遠藤とは以前吉崎が祐一郎たちに話した勤皇派の首魁、遠藤文七郎のことで、現在失脚して閉門中である。
 「あいつは…まあ、機会があれば考えておくか」
 「拙者は大山殿の一存に任せよう」
 世羅は二度頷いて立ち上がった。
 「ああ、世羅殿」
 そこを大山が呼び止める。
 「久瀬への連絡は、与力の男…そうだな、津田とかいう男がいい。その者を通じて行うようにする。よいな?」
 「それはまた面倒なことだな…まあ、俺は連中と深く付き合うつもりはない。そちらも大山殿に任せよう」
 世羅はそう言って、そのまま部屋を出ていってしまった。
 「………」
 大山だけが取り残される。
 いや、別に取り残されたわけではない気がするが、何となく大山にはそれに似た感情が起こっていた。
 彼はしばらく思案するような表情をしていたが、やがて一つ舌打ちをすると、筆を取った。


 所変わって、仙台の町中、裏通りである。
 寂れた長屋が並ぶ、日の当たらない通りを二人の男が行く。
 一人は編み笠をかぶった侍、もう一人は町人姿の男である。
 長屋の住民も、「何事か」と、戸板の隙間から覗いていた。こんなところに、浪人以外の侍が居るというだけで驚きなのだ。
 「…こちらでございます」
 「そうか、ご苦労」
 町人姿の男の言葉に、二人はその長屋にある一軒の前で立ち止まった。
 見たところ、何の変哲もない貧乏長屋の一間である。
 「政吉、そなたはここで待っておれ」
 「へい」
 侍の言葉に顔を上げた、上げられた町人男の顔はまさしく目明かしの政吉である。
 その政吉、戸を開けようとする侍に、一言声を掛けた。
 「…津田様、ご用心を」
 「…わかっておる」
 そう言いながらも、与力津田は手の竹刀だこを少し隆起させてから、戸を開いた。
 「………御免」
 その中は薄暗い。
 ただでさえ薄暗い長屋の中で、その一軒はさらに暗い。
 外からの光がわざと遮られているのだろうか。
 「…ほう、客人かね」
 その闇の中から、一人の男が返事をした。
 暗くて何をしているかまでは分からない。
 「そなたを、勤王浪士の興(おき)五郎蔵と見込んで参った」
 「けっけっ…俺を、勤王浪士として、見込んだか」
 嫌な笑いを立てながら、男は暗闇から薄暗闇へと現れた。
 明らかに危険性を感じさせる容貌に、古びた衣服、それはかえってこの暗さに適応しているかのようでさえある。
 だが、津田はそれに対して何ら反応を見せず、言葉を継いだ。
 「そうだ、そなたの腕前は我が上司も認めている」
 「あんたの上司が認めようと認めまいと、俺には関係ねえよ。依頼があるならあるとはっきり言いな」
 「…依頼、か」
 津田が、一瞬沈黙した。
 政吉が、外からちらりと津田を見る。
 「依頼じゃないのか?」
 「…まあ、依頼だな」
 「そうだろう。俺のところに依頼もないのに来る物好きはいねえさ」
 五郎蔵という男は、にやりとすると、津田を薄汚い部屋へと招き入れた。
 津田は躊躇することなく足を踏み入れる。
 そして政吉を表に残したまま、戸板は閉まった。
 「…先に言っておくが、俺はもう興五郎蔵じゃねえ。蛇の目の五郎蔵と呼べ」
 「いや、拙者の用向きから言えば、興五郎蔵で呼ぶ方がふさわしかろう」
 津田は五郎蔵の台詞を遮る形で言った。
 この男は元勤王浪士の興五郎蔵。様々な武術、それもあまり一般的なものではない武術に通じ、狂人的な勤王浪士達から崇められた。
 だが仙台での勤王活動をやがて捨て、その恐るべき腕を殺し屋へと使い始めた。
 偽武士のため、興の姓は偽名だろうが、結局この姓も捨てて、今では蛇の目の五郎蔵という名で裏世界に通っている。真琴とは違い、正真正銘の殺し屋である。
 「…面倒くせえ仕事はお断りだぜ」
 五郎蔵は言葉通り面倒そうな顔をしてかび臭い畳に座った。
 それを見てから、津田も話し出した。
 「まあ、聞け。そなたは仙台に奥羽鎮撫総督様がおいでになられていることを知っておるな?」
 「ああ、知っているともよ」
 「実は、我が上司は城下にいる勤王浪士を集め、総督様を密かに護衛させておられる。どうだ、そなたもその一人として加わる気はないか」
 津田は目の前の下卑た男に、丁寧な言葉で言った。
 だが、五郎蔵は一つ舌打ちをして返答とした。
 「俺は蛇の目の五郎蔵だ。勤王浪士なんかじゃねえよ」
 「いいや、勤王浪士興五郎蔵だ。よいか、そなたは我が上司直々の指名なのだ、頼む、受けてくれ」
 津田は軽く頭まで下げた。
 「だから、あんたの上司は関係ねえと言ったはずだ。俺に依頼をしたいなら、金を出すんだ」
 「ならば五両出す。しかも、働き次第で上乗せいたそう。どうだ?」
 「五両! 総督なんて、誰に恨まれているかもわからねえ、得体の知れないもんの為に命張って守り、たったの五両か? とっとと帰りな」
 「待て、総督は帝から直々に指名されたお方である。この身辺を守ることは、この上ない名誉であるぞ」
 「あんた、何度も同じ事を言わせねえでもらいてえな。俺は勤王なんて代物に興味は失せたんだよ」
 「我々もそなたの腕が必要なのだ。…よし、上司に掛け合って、十両出してもらおう。これでどうだ」
 「三十両は、出す気はないのか」
 「………」
 五郎蔵の言葉に、津田が言葉に詰まった。
 その反応に、五郎蔵は薄ら笑いを浮かべて頷いた。
 「そうかね。そりゃ、俺一人のために三十両だそうとはおもわねえわな」
 五郎蔵は、いつの間に手にしていたのか、焼酎を口に傾けた。
 「帰りな。俺は殺し屋稼業だ。あんたの情に付き合う気はねえ」
 これもいつの間に手にしたのか、火打ち石を手のひらで転がしながら言った。
 「………」
 津田は無言で立ち上がった。
 その顔には侮蔑がある。
 元勤王の志士がこのような姿に成り下がっているのを、ひどく軽蔑しているのであろう。
 だが、五郎蔵はそんな表情にも薄ら笑いを浮かべるだけだった。
 「三十両出す気になったら、また来るんだな」
 五郎蔵の言葉に、津田は憤懣やるかたない様子で長屋の戸を開け放った。
 「あ、津田様」
 政吉が、音に驚いた様子、だが「予想通り」というような表情で、津田の仏頂面を見た。
 「…やっぱり、駄目ですかね」
 「あのような男、もはや放っておくに限る」
 「しかし津田様、あの男を放置しておいては何をしでかすか…」
 「我々が何をしようと、奴は金次第で動く。どうしようとかわらんよ」
 五郎蔵に聞こえるような声で言ってから、津田は振り向いた。
 「五郎蔵」
 「…なんだ」
 「三十両出せば、役目を仰せつかるのだな?」
 「津田様、かような男に三十両など出す必要…」
 政吉が小声で止めようとするが、津田は視線を五郎蔵から離そうとしない。
 五郎蔵は一升瓶を畳に置き、しばらく考えていたが、やがて再び口を開いた。
 「ああ、やってやるとも」
 五郎蔵の言葉に、津田は今日一番の凄みを持った笑みで頷いた。
 「その言葉、忘れるな」
 津田はそう言い捨て、戸を閉めた。
 閉めるやいなや、津田はさっさと歩き出す。
 しばらく長屋を眺めていた政吉も、それに引きずられるように歩き出した。
 既に夕暮れである。
 「…しかし津田様、どうしたわけで今さら、あんな男をお奉行様は…」
 「敵が強ければ、こちらも強い手駒が必要なのだ、政吉」
 「…もしや、あの折のことで?」
 「そうだ。敵の正体が分からぬ以上、こちらは可能な限りの備えをしておくに限る」
 「………しかし…」
 政吉は言いかけて、黙った。
 目明かし風情が町奉行の考えに口出しすべきではない。
 「まあ見ておれ、編み笠どもめ…必ずや正体を…そしてその首を………」
 黙った政吉に替わり、津田が呟いた。


 さて、仙台で会津征討を巡って大騒ぎになっているとは露ほども知らない会津の祐一郎たち。
 晴れて正式な予備隊「雪兎隊」となった彼らであったが、別段何か変わったということはない。
 ただ、時折神尾が顔を見せるようになっただけである。
 そんな中、訓練の合間に祐一郎が反射炉の普請現場を見に行った折のことである。
 ………
 「…しかし、随分と早いな」
 祐一郎が、既に半分ほど出来上がっている反射炉を見上げて言った。
 まだ普請開始から三カ月も経っていない。
 「ふっふっ、拙者の立案と指揮が見事であるからな」
 隣で、祐一郎の上司である、三木本九郎が誇らしげに言った。
 「…確かにすごいですね。神業的です」
 「そうであろう。これからは『奇跡の三木』と呼べ」
 「…機会がありましたら」
 祐一郎は視線を下に戻し、人夫たちが働く光景を視界に入れた。
 「…これなら、戦までには間に合うかもしれませんね」
 「もちろんそうしなければならん。お前たちにも会津製の大筒を与えてやるぞ」
 「本気で待ちますよ」
 祐一郎は、火縄を持って日々あくせくしている名雪たちの姿を思い出しながら言った。
 「…それでは、俺はこれにて」
 「おお、相沢も訓練を抜かるな」
 三木も現場へと戻っていき、祐一郎も反対側へ一歩踏み出しかけたときである。
 祐一郎はその足を止めた。
 祐一郎からすぐ近くに、同じ風に反射炉を見上げている人物がいた。
 無論、祐一郎にはその姿に見覚えがあったから、足を止めたのである。
 「よお、また会ったな」
 その人物へと、前の時と同様、片手をあげる。
 その人物も、やはり前の時と同じ様に、
 「あ…」
 と、声をあげて祐一郎を見た。
 「…確か、栞だったよな」
 「はい、祐一郎さんですよね」
 仙台最終夜に出くわした、美坂家の娘だった。
 「また会えて嬉しいですー」
 「別に何もくれてやるものはないぞ」
 「いえ、約束通り雪合戦ができますから」
 「………」
 栞式雪合戦の条件を、祐一郎は思い出す。
 雪玉に詰められた擲弾が直撃して、己の腕が空を舞う光景が目に浮かび、祐一郎は一人ぞっとした。
 というより、そもそも………
 「…雪がないじゃないか」
 「それが残念です…」
 栞はそれを承知の上での発言だったらしい。
 「…それじゃあ栞は、どういう算段で雪合戦をするつもりだったんだ」
 「山の上にはまだあるかもしれませんから」
 「山の上にはあっても、城下にはないな」
 「じゃあ、山へ集めに行きましょう」
 「行っても、大した量はないな」
 「それは擲弾を中に入れて………」
 「まあそれはいいとして、どうしてこんなところにいるんだ」
 「約束は守らないと、駄目ですよ」
 「………」
 どうやら、あゆのようにはいかないようだった。
 というより、そもそも………
 「…約束していないじゃないか」
 「え? そうでしたか?」
 「そうだ」
 「それは惜しいことをしました…」
 栞が言うと、本当に惜しいのかどうなのか、祐一郎には判じ難かった。
 何はともあれ、期待通りに、擲弾直撃の危機は回避できたようだ。
 「…で、もう一度聞くが、どうしてこんなところにいるんだ?」
 いつもここにいるので忘れかけているが、ここは砲術調練場であり、歴とした軍用地だ。
 武家娘とはいえ、祐一郎が知る限り、栞のような普通の女性がいるべき場所ではないだろう。
 「今日は人に会うために、こっそり屋敷を出てきたんです」
 「なるほど、人に会うため………って、だったらこっそりでなくてもいいじゃないか」
 「一応は病人ですから、本当は外に出てはいけないと言われているんです」
 「…まだ、治っていなかったのか?」
 仙台で会ってから、もう一月は経つ。
 ただの風邪がこんなに長引くのはさすがにおかしかった。
 「あはは…仙台で別の風邪をもらってきてしまったみたいなんです」
 「………」
 栞は笑っているが、それにしたって一月以上経過していることになる。
 しかし、祐一郎の難しげな表情とは逆に、栞はあくまで笑顔だった。
 「私、きっと治りが遅い方なんですよ」
 「まあ、見たところひどくはなってなさそうだから、いいとするか…」
 医学に対しては素人の祐一郎には、仙台でかかったという蘭学医以上の事はできそうになかった。
 そもそも、蘭学医の話も本当の話だったかはっきりしていない。
 それでも仙台で会った時に見た父親の表情がふと祐一郎の頭をよぎったが、目の前の栞を見ると、それも杞憂のような気がした。
 「…それで、誰に会いに来たんだ?」
 祐一郎は聞いていないが、美坂様も何らかの隊に所属されているのかもしれない。
 当たり前だが、ここは祐一郎たち「雪兎隊」以外の諸隊も訓練しているのである。
 「それは秘密です」
 「秘密って…御父上殿ではないのか?」
 「残念ですが、はずれです」
 「しかしそうなると………」
 思えば祐一郎は、栞のことは父親の顔と身分以外、何も知らなかった。
 「難しすぎるぞ、なにか手がかりはないのか」
 「私、別に謎かけなんてしていません」
 「…まあ、そうだけど」
 しかし、どうも詮索せずにはいられない。
 「秘密と言われると、どんなことでも気になるものだ」
 「それはそうですね」
 栞も心得顔で頷いた。
 「…でも、祐一郎さんは、どこかの隊の関係者なんですよね?」
 「ああ、そうだ」
 「それでは、やっぱり教えられません」
 「どうしてだ?」
 「私が屋敷を抜け出していると、あの人に知られたくないですから」
 「………やはり、同じ屋敷の人か」
 「あっ、もし分かっても、私がここに来たとは言わないで下さいね」
 栞が、少し慌てた様子で、祐一郎に釘を差した。
 しかし、もし目的の当人に会ったら即バレてしまうのでは…
 「言われたくなければ、素直に教えておいた方がいいぞ。何しろどこでこのことを漏らすかわからないからなあ」
 「…そういうこと言う人、嫌いです」
 「まあ、それは冗談だが、実際こんなところにいると危ないし、誰かに咎められるかもしれないぞ」
 「大丈夫ですよ、町の人も、こっそり入り込んで見物しているそうですから」
 「………そうだったのか」
 こんなにオープンでいいものかどうかは分からないが、洋式調練などという絶好の見せ物を放っておくのも、町民にはもったいないのかもしれない。
 「だんだん反射炉が完成に近づいていくのを毎日見ていると、なんだかわくわくしてきませんか?」
 「さあ…俺には別に」
 「さっき祐一郎さんと話していた方も、きっとそう思っていますよ」
 「三木様がか…?」
 祐一郎はそれほど歳をくっていない上司の顔を思い出してみた。しかし、別に何も感じるところはないようだ。
 「よくわからんが…三木様は反射炉の普請監督だからな。確かに反射炉の完成は心待ちにしているだろう」
 「『奇跡の三木』さんですからね」
 「…聞いていたのか」
 「あんなに近くで話していたら、いやでも聞こえてしまいますよ」
 「それもそうか」
 「祐一郎さんだとは気づきませんでしたけど」
 「そりゃ、普通は気づかないよな…」
 とは言ってみたものの、何か寂しい。
 「…あれ? 落ち込んでいるんですか?」
 「………」
 「私…何か落ち込むようなことを言いましたか?」
 「いや…別に」
 確かに、言っていなかった、とも言える。何しろ、ほぼ見ず知らずに等しい間柄なのだから。
 いや、それとも会津藩士の誇りが祐一郎にそれを否定させたのか。
 「…『奇跡』、ですか」
 その時、複雑な感情が渦巻く祐一郎をよそに、栞がふと呟いた。
 「…奇跡とは、神様が気まぐれで起こしているのでしょうか?」
 「なんだって?」
 「…やっぱり、奇跡は起きないから奇跡というんですよね」
 「………」
 栞の発言は唐突ではあったが、祐一郎には、どこかでこんな台詞を聞いた覚えがあった。
 (そうだ、あれは…)
 仙台への道中で、霧島が突如現れたときであった。
 霧島の言った意味不明の台詞は別としても、神尾が呟いた台詞にもそんな響きがあった。
 だが、祐一郎には栞が急にこんな事を言いだした理由だけは分からない。
 しかも、その表情は祐一郎にとって妙に思えるほど明るいのだ。
 明るすぎて、むしろ空虚さすら覚える。
 「栞は………」
 「大丈夫ですよ」
 何か尋ねようとした祐一郎より早く、栞がその明るさを持つ笑顔で言った。
 「反射炉は、きっと完成します」
 「………え、ああ、そのことか。むしろ早いところ完成してもらわないと困るんだけどな」
 「大丈夫です。三木さんはきっと完成させますよ。………奇跡なんて待つ必要はないんです」
 『奇跡』、栞が口にするこの言葉には、なにか尋常でないものを感じる。
 だがそれは何か。
 (それを知ることが、栞という人間を知ることになる。)
 祐一郎にはそんな気がしたが、それを知ることが果たしてできるのか、祐一郎には自信がなかった。
 「…今日は、これで帰ります」
 笑顔の中にも虚ろさの漂う笑顔で、栞は言った。
 「誰かに会うんじゃなかったのか?」
 「今日はもういいんです。もうすぐ訓練が始まるみたいですし、それに、代わりに祐一郎さんと会えましたから」
 「俺如きでいいなら、これからも遠慮する必要はないぞ」
 「はい、ありがとうございます」
 そう言って、小柄な少女はくるりと後ろを向いた。
 「できれば、忍び込むのはやめて欲しいけどな」
 「努力します」
 「…努力もする気はないだろ」
 「それは分かりませんよ」
 そう言って、口に指を当てる。
 「屋敷が退屈かそうでないかとで決めますから」
 「医者の言うことで決めろ!」
 「ですから、努力はしますよ」
 「………」
 もはや何を言っても無駄なようだった。
 栞も笑顔のまま顔を元に戻し、祐一郎は苦笑して去っていく少女へ手を振った。
 しかしふと、その手を止める。
 「…なあ、栞」
 「はい?」
 「栞は………俺には何に対してかは分からないが、何かの『奇跡』を待っているのか?」
 三木は待つ必要がない、と言った。では栞はどうなのか。
 栞は一瞬黙った。
 しかし、それでもほとんど間を置くことなく口を開く。やはり笑顔で。
 「私はもう、奇跡を待つのはやめにしたんです。…だって、起こらないものを待っていてもしょうがないじゃないですか」
 「………」
 栞の意見は否定的だったが、何か事情の存在を臭わせてもいた。
 だが、それを追求するのもはばかられる。
 祐一郎はそれ以上問うことはなかった。
 「…そうか、分かった。とにかく身体には気を付けるんだぞ」
 「はい…それでは、これで」
 再び振り返り、栞が門の方角へ足を踏み出す。
 途中で自分の立場に気づいて蔵の裏に隠れるのを見守り、さらにその背中が敷地の外に消えるのを確認しながらも、祐一郎は反射炉の側に立っていた。
 そのうちやがて、遠くで隊士たちを召集する北川の声が聞こえた。


 「おお、相沢。やっと来たか」
 いやに上機嫌な北川が、慣れ親しんだゲベール銃を磨きながら言った。
 軍制改革以来、北川の機嫌はずっとこんな調子である。
 しかし、皆そうかと言えばそうでもない。まあ、顔ぶれを見ればわかることだが。
 「どこに行っていたの?」
 そこへ名雪が銃を背負いながら尋ねてきた。
 「ちょっと反射炉の普請現場にな」
 「三木様に会ってきたの?」
 「まあ、そうだ。三木様だけじゃないけどな」
 「え? 他の人にも会ったの?」
 「敷地に忍び込んできた、病気中の武家娘にも会った」
 「…なんだかよくわからないよ。どこかの屋敷の人なの?」
 「そいつは口止めされているんだが…」
 「口止め?」
 ますます名雪は混乱しているが、その様子を見て気になったらしいもう一人も現れた。
 「…何しているの?」
 「香里か。実はさっきそこで、調練場の敷地内に忍び込んできた輩に出くわした」
 「ふーん、それで?」
 「いや、口止めされているから、俺の口からはあまり多くは言えないな」
 「…無断侵入は公務に関わることだから、隠すのはよくないわよ」
 「約束事を違えば、会津藩士の誇りに関わる」
 「あまり意地を張っても、御家老からお咎めを受けるだけでしょうけどね。御役目は罷免でしょうけど」
 「………いや、やっぱり少しは話しておこう。公務だからな」
 「そうそう、公務よ」
 「…いいの? 話して」
 「大丈夫だろう。肝心なところさえ話さなければ」
 名雪が心配そうに尋ねるが、祐一郎は巧みに要所を隠しながら話すつもりらしい。
 あまり武人らしくない振る舞いの気もするが…
 「実は風邪にかかったという少女でな、あまりに退屈で敷地内に忍び込んだらしい」
 「考えが飛躍しすぎだよ〜」
 「…病気って、風邪なの?」
 「当人はそう言っている」
 「当人は…って? 相沢君は違うと思っているの?」 
 「そればっかりは言えぬ」
 「変なところを口止めされているのね…」
 「敷地内に関係者がいるらしいからな。知られるとまずいらしい」
 「関係者? じゃあ、その人に何か用事があってきたんじゃないの?」
 「そう言っていたんだが、なんか帰っちまったんで…って、これは言っちゃまずかったか!」
 「予想通りすぎだよ…」
 「まあ、それだけじゃわからないでしょうから、別にいいんじゃない?」
 「それもそうだな…」
 「それじゃあ安心ね。もう少し詳しく話してみてよ」
 「…どうして香里がそんなに知りたがるんだ」
 「別にいいじゃない。面白そうなだけよ」
 「まあ、いいけどな…」
 「わたしは良くないと思う…」
 三人で何かずれているようなずれていないような雰囲気の会話をしていた時である。
 あまりここへは馴染みのない、珍しい男が現れた。
 「あれ? 貴方様は確か…」
 祐一郎の後ろで、北川の声がした。
 「ん?」
 「あ…」
 三人がそちらを見ると、なんと折島が馬でこっちへ向かってきているのであった。
 名雪は決まり悪そうに前の二人の陰に隠れようとしていたが、馬を下りた折島の方は気にする様子もない。
 それどころか、少し様子がおかしい。慌てている。
 「折島様、どうかなさいましたか?」
 祐一郎が努めて平静に尋ねる。
 折島は一呼吸置くと、雪兎隊の隊士全員を集めるように言った。
 北川が言われたとおりにする。
 他の隊士も、何事かと瞬時に集まった。
 「…集まったか。それでは話す」
 折島の方も冷静になろうと努めているようだが、その興奮は隠しきれない。
 「よいか、落ち着いて聞け。伊達家の軍勢が、当家との藩境に迫っているとの報せが参った」
 「何だって!!!」
 祐一郎と北川が、あまりに突然なことに驚きの声をあげる。
 「そんな…どうしてよりによって仙台が…」
 「仙台だけではない。福島や二本松の方にも出兵の動きがあるらしい」
 「奥羽鎮撫総督の仕業ね…」
 香里が冷静な声で言った。
 「そうじゃ。総督府からの指示であるという、密偵からの報せである」
 会津の密偵からの報せならば、その信頼性は高い。
 「美坂殿の方も『間違いない』ということで、殿や御家老たちや軍事奉行の方々が城に集まっておられる」
 「父上からもですか」
 「うむ、父上殿には一月ほど前から仙台の情勢を探ってもらっておったらしいのでな。そなたも知っておろう?」
 「ええ、少しは」
 「そうか、実はそなたらにも出陣の下知が下されるようなのじゃ。直ちに準備に取りかかるようにとのお達しでな」
 「えっ! 俺たちもですか?」
 北川がこれまた予想外の展開に驚く。この隊は予備隊であったはずだから当然だ。
 「神尾殿からの意向らしい。とにかく、相沢殿と北川殿には儂と一緒に登城してもらわねばならぬ。残りの者で支度を進めよ」
 「わかりました」
 「頼んだぞ。…それでは参るぞ、二人とも」
 折島はそう言って、陣笠の傾きを直して馬にまたがった。
 「そなたらにも馬は用意してある。急ぐのじゃ!」
 「は、はいっ!」
 二人も折島に続いて駆け出そうとしたが…
 「香里、ひょっとして…」
 祐一郎がふと立ち止まった。
 「妹がいるんじゃないか? 栞という…」
 美坂家という家も会津にはそうないだろうし、仙台に絡むとなればもはや栞の美坂家しかあるまい。
 香里の家も美坂であったことに気が付かなかったことが、今さらながら不覚に思えた。
 「………」
 なぜか、香里は黙っていた。
 「香里…」
 「おい、相沢! 早くしろ!」
 「あ、ああ…」
 北川に急かされ、しかたなく祐一郎も再び駆け出す。
 しかし、祐一郎は一つのことだけは確信していた。
 (どういう事情があるのかはわからないが…)
 慣れぬ馬にまたがりながらも、祐一郎はそのことを考えていた。


 「一同、よく聞いてもらいたい。密偵より、仙台伊達家の軍勢がこちらへ向かっているとの報せが参った」
 主君松平容保の前で、筆頭家老石橋釆女が藩士たちに喋っている。
 集まっているのは会津の軍事関係者ばかりである。
 「我々は戦を望まぬが、攻められれば戦うほかない。しかし、和平の道があるならばそれを第一に進める。それについて、方々異論はござらぬな?」
 「ははっ!」
 「幸い、伊達軍の数は多くない。本格的な戦闘に持ち込まなければ、まだ和平はできる。そこで、正規軍の部隊はこの戦には送らぬ事とした。その間に他藩の仲介で和平を進めたい」
 「御家老、仲介の当てはあるのでござるか?」
 何しろ相手は奥羽鎮撫総督府の命令、いわば天皇からの命令なのである。
 それを止めるという時点でまず烏滸がましいのだ。
 会津藩と立場の似ている庄内藩ではまずいし、福島の板倉家や二本松の丹羽家は既に軍勢を動かしているから問題にはならない。しかも小藩である。山形の水野家や相馬の相馬家も小藩で仲介役には不足だ。
 秋田の佐竹家や盛岡の南部家は大藩だが、秋田は勤王色が強く、何よりも地理的に位置が遠い。
 …が、察しのいい方ならここに一つ適任の藩がある事に気づくだろう。石橋もこれを当てにしている。
 「当てはある。米沢藩じゃ」
 米沢藩、上杉家十四万石の外様大名である。上杉謙信の甥である上杉景勝を祖とし、上杉鷹山でも著名なこの藩は、幸いまだ兵を動かしていない。
 しかも、会津に同情的である。まさに適任だ。
 「我らは米沢藩と交渉を行う。その間藩境は厳重に固め、こちらからは決して攻撃してはならぬ。また、攻め込まれ過ぎてもならぬ」
 攻めずに優位を保ち続けるのはなかなか難しい。まして、相手は洋式化の進んでいる仙台藩である。
 この戦をするには何よりも練度が重要となろう。
 「この戦の指揮は、洋式兵学と長沼流軍学に長ける神尾鈴之助殿にとってもらうこととした。殿も同じ意向であられる」
 「恐れ多い事ながら、不肖この神尾が軍勢の指揮を執ることとなった。方々よろしく頼む」
 「はっ!」
 指揮を執るなら、石橋や遠野のような家老衆もいるのだが、今回の戦が本格的な戦にする気がないということを周囲に知らしめる意味でも、神尾が指揮を執るのには意義がある。
 「…して、この度の戦には、拙者の意向で以下の隊を動員したい」
 そして神尾の口から動員令が下される。
 相手は仙台だけではないので、各方面ごとに部隊が送られることになる。
 その中に朱雀隊や青竜隊の名はない。どうもまだ訓練が完了していないと見て、主力となる兵の消耗を恐れてのことらしい。
 「…そして、拙者が直接指揮を執る部隊には、『遊撃隊』と『雪兎隊』を動員する」
 「やはり、俺たちは仙台か」
 「…他の隊より訓練期間が長いからな」
 祐一郎と北川の顔も強ばる。特に祐一郎は仙台軍の強さを知っているだけに、その恐怖もある。
 ちなみに、「遊撃隊」とは遠山伊右衛門という藩士を隊長とする百八十名の部隊である。旧幕陸軍出身者も中におり、実力としてはなかなかの期待ができる。
 正式な編成としては二月に行われているので、それなりに訓練は行われているはずだ。
 「出陣は明朝となる! 各隊万全に備えよ!」
 「おおっ!」
 最後は石橋の激励で、軍議は終了した。


 それからは戦支度だった。
 初の合戦ということで弾薬や兵糧の準備でも手間取ること多く、結局日没近くまでかかってしまった。
 それでも、ようやく総勢五十名ほどの隊の編成を整えることはできた。明日の出陣に差し支えはない。
 「…しかし、たかが五十名ほどの部隊を出陣させるのにこれだけ手間取っていると、先が思いやられるな」
 「なに、慣れというものだ」
 出来上がった荷駄の様子を見ながら、祐一郎と北川はようやく一息入れた。
 「しかし…明日にはもう戦場なんだな。さっぱり実感が湧かないが」
 「そうだな………佐川(官兵衛)様も京でこんな気分を味わっていたのだろうか?」
 「さてな。佐川様ほどの方になると、初の戦だろうと落ち着き払っていそうだけどな」
 「父上は…どうだったのだろう」
 祐一郎は、久しく考えていなかった父のことを思い出す。
 結局、父が主君容保と共に蛤御門の変で長州と戦って以来、祐一郎と直接会うことはなかった。
 父がどんな気持ちで初戦に臨んだのか、今となっては知る術もない。
 しかし、いざ自分がその立場になると、どうしようもなくそれが惜しまれてくるのであった。
 「御父上殿は、俺たちの戦とは比べものにならないほどの激戦を戦われたのだ。俺たちが萎えてどうする」
 「…そうだな」
 「おお、ここにいたか二人とも」
 その時、部屋の入り口から声がかかった。
 「これは折島様、ご苦労様です」
 「いやあ、急なことでそなたらも大変じゃったろう。儂はこの老体で戦には行けそうもないが、そなたらは是非とも奮戦なされい。儂の方も儂なりに役目を果たす所存じゃ」
 「ははあ、それはよきことで。お互いに頑張りましょう」
 三人の、世代が異なる会津藩士が頷き合う。
 「しかしのう…少々困りごとがあっての」
 「何がです?」
 「実は甥から頼まれごとがあってな。その甥は越後長岡の牧野家に仕えているのじゃが…」
 「へえ、長岡にですか」
 「長岡でも鎮撫総督とやらが好き勝手なことを言っておるらしくてのう。困っているようなのじゃ」
 「新政府の連中なんて、どれもしょうもない連中ですよ」
 「まったくじゃな。甥によれば、長岡の者達もいつ新政府が理不尽に攻めてくるか気が気でないらしい」
 「長岡は新政府に恭順しないのですか?」
 「どうもそうらしい、詳しいことは分からぬがな。どうも新政府の挙動はひとえにこの会津にかかっているということで、甥たちも気にしておるらしいのじゃよ」
 「なるほど…確かに新政府が会津攻めさえしなければ、奥羽越に戦が起こることはないでしょうな」
 「甥からは会津の情勢を詳しく教えて欲しいと言ってきておるのじゃが…当家の機密を漏らすわけにもいかぬしのう」
 折島の憂いも尤もなことで、長岡藩が味方になると決まっているわけでもないし、状況から見てもむしろ長岡が味方になる可能性は低いといってもよい。
 「まあ、全てはこの度の和平にかかっていることでござれば、折島様もそう深く悩まれず、一般的な風潮をお伝えになればよろしゅうござりましょう」
 「そうだのう…今伝えることといっても、どうせ決まったことではないしのう」
 「しかし、いざというときには是非とも長岡の方々には共に戦ってもらいたいものですね」
 「それはまさしく。長岡の牧野家は譜代にして、越後兵は勇猛じゃからのう」
 「はは…」
 折島の発言に、祐一郎は苦笑する。
 それをいえば、今にも攻めてこようとしている福島藩は譜代の板倉家ではないか。
 越後兵は勇猛、それは確かに幕末でも事実であったが、その武名も上杉謙信公の時代よりの話であり、国内最強の呼び声高かったが伏見で敗れた会津兵を思えば、どこまで当てになるのだろうか、と祐一郎は思った。
 「ごもっともです。越後で尤も信頼できるのは長岡の牧野様でしょうなあ」
 しかし、北川は頷いて同調する。
 やはり北川は純朴であった。
 「拙者らもこの身尽きるまで戦い申しあげる所存。折島様、甥御殿に何とぞよしなにとお伝え下され」
 「よかろう。そなたらもこんな戦で犬死にするな」
 「はっ!」
 再び三人の会津藩士が頷き合い、戦の勝利を願った。
 一年後、いや半年後には、もう自分たちの立場は全く異なるものになっているのかもしれない。
 それどころか生きているかも断言できない。
 明日から始まる戦い、それがそんな道へと走らせる鞭となるのかもしれないのだ。
 それを思うと、祐一郎の身体は寒さとは違う震えを覚えた。
 そして、すっかり日が落ちた会津若松の空に、祐一郎は無意識に呟く。
 「再び…雪が見られるだろうか」
 呟いてから、その台詞にはっとする。
 主家は愛しながらも、何故かこの土地を好きになれなかった祐一郎は、独り言とはいえ、自ら雪を望むような発言をした自分に当惑していた。
 そこには、祐一郎自身も気づかない変化が、何かしらあったからなのだろうか。


 夜が明けた。
 祐一郎の身体には戦に臨む興奮が充満しており、いつもより早く目覚めてしまったようだ。
 「………」
 東側の障子に目をやると、まだどうやら陽も昇っていないらしい。
 しかしやや明るいところを見ると、朝も遠からずというところであろう。
 「…少し早いが、起きるか」
 そう言って布団から這い出てみたものの、何かすることがあるわけでもない
 「こいつは初の戦だ。荷駄でも見回っておくとするか」
 祐一郎は刀を差すと、障子を開けた。
 涼しい空気が部屋へと入り込み、同時に厨房の方から発せられる音も祐一郎の耳に入ってきた。
 「もう、支度しているのか」
 しかもそこには女中のみならず、秋子さんの姿もあるのだろう。
 秋子さんの人物を思い知らされる。
 「…わざわざ秋子さんに手数をかけさせるまでもないか」
 祐一郎はそう呟き、裏口から往来へと出た。
 もちろんそこに人影はない。
 祐一郎は朝の無垢な空気を身体に受けながら、荷駄を留め置いてある番屋へと向かった。
 そこはここからごく近い。
 もちろん、近いからこそ祐一郎も見回ろうなどと考えたのであるが。
 「………」
 やがて祐一郎の目に、違和感を思わせる番屋の姿が飛び込んできた。
 番屋には中間一人が警備と連絡役を兼ねて詰めているはずである。
 それは当然のことだ。
 しかし、祐一郎が着いたときには表口が開いていたのだ。
 中に詰めっきりのはずであるが、表に出ているとでも言うのだろうか。しかし、辺りにそれらしき気配はない。
 早朝の仕事に忙しい人々の気配はあるが、どれも忙しげである。
 「考えてもしょうがないよな…」
 祐一郎はそう思い、番屋の前へと立ってみた。
 そして、中を覗く。
 中にいたもの、それは眠っている中間、そして一人の武家娘らしき背中。
 予想外の様子に祐一郎も少々戸惑ったが、見回りは見回りらしくせねばならない。
 「…何をやっている」
 多少の威嚇をこめて、祐一郎は番屋の中へと呼びかけた。
 「………」
 祐一郎の声に、武家娘はちらりと表口側を見た。
 そして、溜息を吐く。
 「相沢君じゃないの、驚かさないでよ」
 「そりゃ、こっちの台詞だ、香里。こんな刻限でこんなところに居たら、怪しまれて当然だろ」
 「それもそうかもしれないわね…」
 香里は素直に同意する。
 しかし、それはいつもの香里を見慣れている祐一郎には違和感を感じる反応である。
 「…相沢君こそ、こんなところで何をしているの」
 「俺は早く目覚めてしまったから、暇つぶしに見回りだ」
 「そう…平和ね…」
 「何を言っているんだ、今日から戦だぞ。平和なものか」
 「仙台との戦なんて、どうせすぐに終わるわよ。あたしには、大して気にするほどのことじゃないと思えるけど」
 「そりゃ、神尾様や御家老もすぐに終わらせるつもりだが…それでも、当家の一大事だぞ」
 「一大事でもなんでも、あたしには時間がないのよ、もう…」
 「?」
 やはり香里はどうもおかしい。
 そして、それには祐一郎も思い当たる節がある。
 「なあ、香里。昨日聞いたことだが…」
 「………」
 「栞は香里の妹なんじゃないのか?」
 「………」
 やはり、何故か香里は黙ってしまう。
 祐一郎も、そこまでの理由は察することはできない。
 しかし、違うなら否定すれば済むことだ。
 「…あたしに妹なんていないわ」
 これ以上ないというくらいの間をおいてから香里が否定するが、時既に遅い。
 「今さらそんなこと言っても、否定する余地がないんだな、これが」
 「………」
 「どんな事情があるのか知らないが、どうして虚偽の否定をする必要があるんだ」
 「虚偽だなんて、あたしは…」
 「そもそも、どうして香里がこんなに朝早くここへ来ているんだ? 何かそのことと関係があるのか?」
 「あたしは、ただ荷駄の様子が気になって…」
 「それじゃあ、荷駄を見回った今、これからどうするつもりなんだ」
 「それは………」
 香里の返答はいずれも不明瞭で、的を射ない。
 しかし、その不明瞭さが、かえって祐一郎に事情を多少なりとも把握させる結果となった。
 「何か…屋敷に居づらい事情でもあるのか?」
 「………」
 「繋がりがさっぱり予想できないが、栞が関係していることなんじゃないのか」
 「………相沢君」
 「なんだ」
 「相沢君は、あの子の病のことを知っているの?」
 香里は、ようやく妹の事実を認めたようだった。
 だが、祐一郎が聞きたいのはその先のことだ。
 「病? あの仙台から頂いた風邪とかいう難病か?」
 「………風邪?」
 「ああ、違うのか?」
 「そう………そうよ、あの子が相沢君に言った通り」
 「………」
 「本当、風邪なのに屋敷を抜け出したりなんかして…困ったものね」
 「香里…今日は出陣の日だぞ。屋敷に戻らなくていいのか」
 祐一郎の頭は、香里の言葉に対して、このようなことを言わしめていた。
 香里が必死に隠す、いや堪えようとしているものの裏側が、ぼんやりとながら祐一郎にも伝わってしまうのだろう。
 「………」
 「俺への繕いはどうだっていいんだ。俺たちは戦に行くんだぞ、その意味を考えれば、香里は屋敷に帰るべきだ」
 祐一郎の強い語調に、香里の言葉が止まった。
 しかし、祐一郎は香里の返答を待つ。
 「………そう、生きて戻れる保証のない戦よ。でもね…」
 そこまで言ったときだった。
 今まで、か細い糸を張るように保たれていた香里の表情が、嗚咽と共に崩れた。
 「でも…あの子には、保証どころか希望を持つことすら許されないのよ! あの子が消えていなくなってしまうことは、もうどうすることもできないの! あたしや父上がどれだけ足掻いてみたって…」
 「…何だって? それは…どういうことだ」
 予想だにしない香里の言葉に、祐一郎は驚きで半ば呆然として問い返す。
 「あの子は…もう、一年と生きられる見込みがないの。あたしは、その現実に耐えられなかった。日に日に弱っていくあの子を見ていることができなかった…。いなくなってしまうのが分かっているのに普通に接する事なんて、とてもできなかった…」
 香里は、涙の中一言一言絞り出すようにして、今まで押し込めてきた現実を口にしていく。
 認めたくなかった現実を、口にすることで認めていかなくてはならない香里はどれほど辛いことだろう。
 「それでも、父上はまだ頑張ったわ。この間の仙台行きだってそう。会津の医者で駄目なら、仙台に来ている蘭学医に頼るしかないって言って………でも、それも駄目だった。父上が頑張れば頑張るほど、あの子の目前に非情な現実が突きつけられていくのよ! そんなの…そんなの耐えられない!」
 「そうか…だから栞は…」
 仙台の夜に会った栞の姿が、昨日の普請現場で見た栞の姿が、脳裏に浮かぶ。
 その二回の間に非情な現実が突きつけられても、栞は祐一郎にその笑顔を見せていた。
 「あたしは…耐えられなくて…あの子のことを避けて………」
 「…しかし、栞は耐えられるのか?」
 「………」
 「栞は、屋敷を抜け出し、調練場に忍び込んでまでいる。誉められたことじゃないが、栞は香里の姿を、たとえ見るだけにしても、見ておきたかったんじゃないのか? 栞からすれば、香里は紛れもない姉上様じゃないか。出陣の見送りさえ満足にすることができないなんて、栞には耐え難いことなんじゃないのか?」
 「でも…あたし…あの子に何を言って、どんな顔をして、屋敷を出ればいいの? 今さら、あたし…」
 「立派に、そして普通に、姉として振る舞えばいいじゃないか。栞は、香里が元気に働きを見せている姿がみたいんじゃないのか?」
 「働き………そう…ね。父上だけが立派な出陣をしていたら、あの子は…余計に辛いでしょうね」
 「………」
 「でも…あの子、何のために生まれてきたの…? ただ…戦火の陰に埋もれて消えていくだけなの?」
 「消えていくだけ…いや、それは違う。栞は栞で意義ある生を探し求めている。それは…香里次第とまでは言わないが、香里にも十分できることはあると思うぞ」
 「そうかしら…もうじき消えるしかない、あの子に…意義ある生なんて…」
 しかし香里は、いつもの毅然とした顔に戻って、顔を上げた。
 無理をしているのは明白である。
 「相沢君、あたしは屋敷に戻るわ。歩兵服も着ないといけないし」
 「…そうだな、それがいい」
 「…じゃあね」
 香里は、祐一郎と視線を合わさないようにして、番屋から出た。
 一見毅然としてはいるが、それすらもどこか虚ろって見える。
 祐一郎は、それ以上言うことはできずに、ただそれを見送っていた。
 「………」
 「………あの…」
 「え?」
 突然聞こえた声に、祐一郎が驚いて振り返った。
 「あの………一体、何事で…」
 さっきまで寝ていたはずの、見張りの中間が、やや呆然とした様子で尋ねてきた。
 「………見ていたのか?」
 「あ、いやその、途中から…」
 あの状況で、隣で寝ていられる方が不思議だ。肝心な部分をばっちり見られたことだろう。
 中間は何と言えばいいのか分からない様子で、祐一郎に答える。
 ひょっとしたら、逢い引きの類に思われたのかもしれない。
 …いやむしろ、逢い引き以外の可能性を考える方が難しい。
 「だ、誰にも申しませんからご安心下さい…はい」
 どうやらその通りらしい。
 万が一一家を預かるべき会津藩士が逢い引きしたなどと噂を立てられれば、あの世で先祖に合わせる顔がないだろう。
 「いや、そんなもんじゃなくてだな………いや、待て」
 そこで、祐一郎が、はたと考える。
 「そなた…どこの屋敷の中間だ?」
 「は、はい、神尾様のお屋敷に仕える者です」
 「やはりそうか、それでは少し頼まれてはくれぬか?」
 「へ?」
 「神尾様に伝えて欲しいことがある」
 「それはよろしゅうござりますが…」
 「では頼む。言付け人は、雪兎隊の相沢祐一郎と伝えてくれ」


 「急げ、名雪!」
 「うー、そんなこといっても、召集の刻限が早まったなんて聞いてないよ〜」
 水瀬家の屋敷、玄関口がにわかに慌ただしくなってきた。
 初めにフランス士官服に身を包んだ祐一郎が飛び出し、また玄関へと振り返る。
 真琴も歩兵服を着て、祐一郎に続いて出てきた。
 「そらそうだ。さっき決まったんだからな」
 「ひどいよ〜」
 「まあ、そう言うな。これも大義のためだ」
 「出陣の日くらい、きちんとやりたいよ…」
 軽く口を尖らせながらも、しぶしぶ名雪は玄関を出る。
 もちろんその後ろには秋子さんもいる。
 「頑張ってきて下さいね、三人とも」
 「うん、祐一郎がいるから大丈夫だよ」
 「帰ってきたら、御馳走作って待っていなくちゃね」
 「うん!」
 出陣の朝にこのような会話をしている屋敷も、会津若松中探してもそうそう見つかるまい。
 しかし、真琴や祐一郎にとっても、屋敷に仕える者達にとっても、これが普通なのである。
 「真琴も身辺気を付けるのよ」
 「あ…うん」
 「身辺に気を付けるのは、むしろ俺の方だけどな」
 「なによう、真琴の鉄砲取り上げておいてーっ」
 祐一郎の指針で、真琴が銃を持つのは訓練時と実戦時だけである。
 行軍中は対象外だとして、祐一郎は真琴のゲベール銃を預かってしまったのだ。もちろん真琴は不満である。
 「祐一郎さんも、気を付けて下さいね」
 「はい、ありがとうございます」
 「名雪のこと、よろしく頼みます」
 「お任せ下さい。いやしくも隊長を務める身なんですから」
 「祐一郎様、お嬢様、奥方様はわたくしどもがお守りいたしますゆえ、ご存分にお働きなさって下さい」
 源助が、箒を手に、年季の入った声で言った。
 「ああ、帰ってくるときには、必ずや堂々たる姿を見せてやるぞ」
 祐一郎はそう言うと、名雪と真琴に出発することを促した。
 秋子さんも、微笑んだままそれを見送る。
 それは、どこかあの仙台行きの日に似ていた。違うのは、真琴が最初から付いていることと、背中に担いだゲベール銃ぐらいであった。

 「…祐一郎、こっちでいいの?」
 「ああ、そうだ」
 「でも…調練場はこっちだよ」
 召集場所へと向かう途中、名雪が祐一郎に尋ねた。
 真琴も少なからず疑問に思った様子である。
 「いや、これでいい」
 祐一郎はきっぱりと言い切った。
 「…ひょっとして、何かあるの?」
 「さあな」
 「気になるよ…」
 と、その時である。
 名雪が唸りながら考えていると、突然目の前に歩兵服の一団が現れたのだ。
 「わっ、何!?」
 「な、何なのよう!?」
 突然のことに驚く名雪と真琴。
 町中でいきなりこんなものが現れれば、そりゃ誰でも驚くだろう。
 しかし、祐一郎だけは落ち着き払っている。
 「…やれやれ、何とか間に合ったか」
 一団の後ろから、北川が馬に乗って現れた。
 「いやあ、悪いな北川」
 「指揮官の神尾様に言われちゃ、聞かないわけにはいかないだろ」
 「これも大義のためだ」
 「どうだかな…言っておくが、俺は何も神尾様から聞いていないぞ」
 「いいさ、北川は副隊長として存在していればいい」
 「…俺の努力は報われるのか?」
 「報われるともさ」
 祐一郎は北川との会話もそこそこに、北川が後ろに連れている馬にまたがった。
 よくよく見れば、連れてきた一団も雪兎隊の面々である。
 「えっ? えっ? 祐一郎、どういうこと?」
 「なに、ちょっと出陣を彩ってみようかと思って」
 「ちょっと、真琴に分かるように説明してよーっ」
 「まあまあ、ここは黙って見ていてくれ」
 そう言って、名雪と真琴を合流させた雪兎隊は、祐一郎の先導で朝の街を行軍していった。
 ………
 「よし、全体ここで止まれ!」
 「祐一郎〜、一体何…あれ?」
 「相沢、ここは…」
 「そうだ」
 祐一郎が、満足げに頷く。
 真意を理解しかねる隊士たちは、一様に顔を見合わせた。
 「…こんな刻限に何事よ」
 屋敷の中から、物音を聞きつけた香里が出てくる。
 「香里、出陣の刻限だぞ」
 「まだそんな時間じゃないわ。…大体、どうしてわざわざこんなところに来ているのよ」
 「隊長の特別な計らいで、我らが隊の出陣式はここで行うぞ」
 「えっ!」
 これには隊の人間の方が驚いた。
 訳も分からないまま召集を早められた隊士は、戸惑いっぱなしである。
 「これは…一体何事か!?」
 その時、屋敷の中から美坂家の者達が出てきた。
 その先頭にいるのは蔵役藩士美坂兵庫、言うまでもないが、香里と栞の父である。
 「香里、これは一体…」
 「…あたしもわかりません」
 「あっ!」
 その時、美坂家側の後方から声が上がった。
 「祐一郎さん、どうしてこんなところにいるんですか?」
 「よお、栞。なに、こいつは出陣前の余興さ」
 「…余興にしては派手すぎますね」
 「そうか?」
 「世を騒がせた罪で、切腹させられますよ」
 「世を騒がせた罪なら、俺なんかよりももっと重罪の連中がいるぞ。今日はそいつらを追い返しにいくんだからな」
 「それもそうですね」
 栞はのどかに笑った。
 「…さて、香里。出陣の用意はいいか?」
 「それは別にいいけど…」
 「では、直ちに装備を持って隊に合流だ!」
 「え、ちょ、ちょっと待って…」
 香里は慌てて屋敷に駆け込む。
 それに代わり、美坂兵庫が祐一郎のところに近寄ってきた。
 「相沢殿! これは一体…」
 「これは美坂様」
 祐一郎は速やかに下馬し、美坂家の当主に頭を下げる。
 「娘さんは拙者どもが責任を持って預からせていただきまする。ご安心を」
 「そ、それは構わぬが…」
 美坂兵庫も祐一郎の真意が読めず、困惑している。
 それを見て、そこに栞が近寄ってきた。
 「…祐一郎さん、私の事は言わないで下さいって言ったじゃないですか」
 「あー、悪い悪い。まさか栞が香里の妹とは思わなかったから…」
 「祐一郎さん、ひどいです。せめて雪兎隊の隊長とだけでも教えて下さい」
 「今度からそうしよう」
 「…反省しているんですか?」
 「栞も屋敷を抜け出したことを反省したのか?」
 「私は大丈夫ですから」
 「いや、そんな道理は…」
 と、言いかけてやめる。
 香里の話が、祐一郎の頭の中で首をもたげていた。
 しかし、祐一郎が言葉に詰まっていても、栞はただキョトンとしていた。
 「…支度できたわよ」
 「おっ、そうか。では出陣式だ」
 香里が出てきて、祐一郎もまた馬に飛び乗る。
 ここに至っても、祐一郎の真意を察する者はどれほどいるだろうか。
 「これより、我ら雪兎隊は仙台方面へ出陣いたす! 殿の名誉とお立場を守るため、全軍奮闘するぞ!」
 「お、おおっ!!!」
 戸惑いながらも、隊士一同声をあげる。
 「砲兵士官、美坂香里!」
 「え、な、何?」
 突然名前を呼ばれた香里は、動揺しながら祐一郎の方を向く。
 そもそも、香里は砲兵士官などという身ではないのだが…
 「士気を揚げるため、我が隊の砲兵小隊を激励せよ!」
 「え、そんないきなり…」
 そもそも、砲兵小隊なんて明解な編成など雪兎隊にはないのだが…
 しかし、隊長の命令ならば仕方ない。
 香里が、どう考えてもキャラに似合わない声で、訓練時には砲の周囲にいることが多い隊士に向かって言った。
 「せ、雪兎隊砲兵小隊、会津若松を守るために、賊敵を打ち払いましょう!」
 「おお〜!」
 砲兵の鬨の声に混じり、間延びした名雪の声も聞こえる。
 と、そこで美坂家の使用人から「天晴れ!」の声が出た。
 これには当の香里自身が驚いてそちらを見る。
 そこには、ようやく何事かを理解した美坂兵庫と、満面の笑みを浮かべた栞の姿もあった。
 そんな美坂家の盛り上がりを見た祐一郎は、ここで最後の一手を打つ。
 「よし香里、出陣の挨拶を屋敷の方々に言って構わないぞ」
 「え…」
 祐一郎の遠回しでわざとらしい台詞に、香里がまたも驚いて振り返る。
 その目を、祐一郎がイヤとは言わせない目で見た。
 香里も観念して溜息を吐く。
 「それでは父上…行って参ります」
 「うむ、身体にはくれぐれも気を付けるのだぞ」
 「はい」
 青竜隊隊士の美坂兵庫は、自分よりも先に戦に出る娘に、不安を押し殺して笑みを見せた。
 「………」
 その隣、香里の顔を不安に、そして一心に見つめる栞がいる。
 香里はしばらく躊躇していたが、やがて覚悟してその目を見る。
 「必ず…生きて帰ってくるから………」
 「………あ」
 「…あたしの…大切な妹を残して、戦死なんてしないわよ…栞」
 「お姉ちゃん…」
 「だから、栞も…忘れずに凱旋を出迎えるのよ」
 「うん、お姉ちゃんも気を付けて…」
 そこまで言うと、香里はゲベール銃を担ぎ直して隊に戻った。
 隊の後方、副隊長である北川が、馬上で「報われたか…」と自嘲気味に笑っていた。
 「よし、雪兎隊出陣!」
 祐一郎が刀を抜きはなって声をあげると、隊士と美坂家の使用人から一際大きな声が上がった。
 「祐一郎さん、頑張ってきてください!」
 栞が笑顔で叫んだ。
 それに祐一郎も頷いて答える。
 「…相沢殿」
 そこへ再び美坂兵庫が近づく。
 「…かたじけない」
 兵庫は軽く頭を下げた。
 祐一郎はもう一度深く頷き、馬を歩ませた。
 背中に美坂家の声援を受けて…。
 ………
 「相沢君」
 しばらくして、香里が歩きながら祐一郎に声を掛けた。
 「…意義有る生き方、あの子にもできるのかしら」
 「戦も個人の生き方も、意義があるからこそ輝くんだ。栞のあの様子なら、大丈夫さ。…あとは、それを保てるか、だな」
 「…そうね」
 香里はいつもの厭世的な(?)表情で頷くと、去り際に「ありがとう」と言って、隊列に戻っていった。
 「祐一郎〜」
 入れ違いに、名雪も走り寄ってくる。
 「やっぱり、隊長は祐一郎だよね」
 「…まあ、いつの間にか、な」
 「うんうん、やっぱり祐一郎は祐一郎だったよ。隊長、頑張ってね!」
 心底嬉しそうに、名雪は、前回仙台に行く途中でも言った、祐一郎には首を傾げたくなる言葉を言って、あっと言う間に戻っていった。
 「………」
 名雪からも感じた。何か、隊の士気の高ぶりを背に感じる。
 遠くに、合流を待つ「會」の字の旗が見えていた。

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