第二十話「錦旗の向こう側に」
早朝、薄い霧がかかっている。
その薄い霧の中、人影が早くも動いているのを確認できる。
ここは会津若松から北東、猪苗代方面の藩境、土湯口に陣を張る会津藩神尾軍の陣である。
指揮官神尾鈴之助も既に起きており、周囲への索敵を怠らない。
何しろ既に、近くに敵がいるのだ。
奥羽鎮撫総督軍は、仙台藩伊達家を中核に、福島藩板倉家と二本松藩丹羽家の兵も合流しているはずだ。
南の方には磐城平藩、中村藩などへの警戒部隊が出ているはずだが、どうにしろ、最初の戦闘はこの神尾軍と仙台方面の敵との戦いになるだろう。
その時、祐一郎が宿営する民家から出てきた。
「…やれやれ、やっぱり慣れない宿営は疲れるな」
筋肉のこった腕を伸ばしながら、祐一郎が言った。
「まあな。しかし、指揮官殿は既に働いているようだぞ」
隣で北川が本陣の方を指さす。
「さすがは洋式兵学の神尾様だ。物見を怠らない、これだな」
祐一郎が感心して頷く。
「そいつは結構だが、一体どうやって戦うつもりなんだ? これ以上進軍するつもりなのか?」
「さあ…だが、これ以上進撃すると敵に遭遇する恐れがある。俺たちとしては、あまり喜ばしくないな」
「そうだな、両軍の被害が拡大する遭遇戦だけは避けたいものだ。死人が増える前に、講和を成立してもらわないとな」
「『遊撃隊』はなかなかの精鋭らしい。守りに専念しても、結構持ちこたえられると思うが…」
神尾が率いる軍は、遊撃隊の180名と雪兎隊の50名を中心とし、そこに訓練がてら投入されている小隊規模の洋式部隊や旧兵制の刀槍兵部隊も加わっている。
士気ということにかけては、刀槍兵もすこぶる高い。
仙台勢も、そうそう容易くは攻められないだろう。
「天下無双の会津兵、そう簡単には陣をあけわたさんぞ」
「そうだとも、なにしろ…って、ぐあっ!」
その時、祐一郎の叫び声がしたかと思うと、その姿が消えていた。
「???」
北川が呆然とする。そして、その視線が下を向いた。
「やっぱり祐一郎君だぁ!」
そこには、どこからともなく現れたあゆに背後から飛びつかれて、折り重なるように倒れている祐一郎。
「………と、とりあえずどいてくれ、あゆ」
飛びついたあゆは、地面に激突しかけた祐一郎の言うままに起きあがった。
「えへへ…嬉しいよぉ」
「あゆ…頼むから、平時にまで奇襲をかけられるのは勘弁してくれ…」
「奇襲じゃないもんっ、いつもみたいに抱きついただけだもんっ」
「いつもこんな風にされてたまるかっ。顔面から地面に突っ込んだら洒落にならないだろうが」
「あ、そうだね。全然気が付かなかったよ」
「そうだね、って…少しは飛びついた後のことも考えろ!」
祐一郎が土を払いながら詰め寄る。
「だって…嬉しかったから…」
「理由になっていないぞ。…大体、どうしてあゆがこんなところにいるんだ」
「ボク? ボクは合戦だから来たんだよ」
「不謹慎な。合戦は見せ物じゃないぞ。巻き込まれないうちに帰れ」
「違うもんっ! ボクだって会津軍の一員だもんっ!」
「………」
一瞬、沈黙があった。
「………悪い、何か聞き間違えたみたいだ。もう一度言ってくれ」
「ボクだって会津軍の一員だもん、って言ったんだよ」
「念のために聞き返すが、それは神尾鈴之助様の麾下にある部隊に所属しているということなのか」
「うん、言ってなかったけど、ボクは『遊撃隊』に所属することになったんだよ」
「………」
「あの日は祐一郎君と別れた後、大変だったんだよ〜。どこに行ったらいいのか、なかなか分からなくて………あれ? どうしたの?」
「…北川、この戦、負けを覚悟していた方がいいかもしれないぞ」
「うぐぅ、祐一郎君、失礼だよっ!」
「しかし…この軍で最強の予定だった『遊撃隊』にあゆがいるんじゃ…」
「大丈夫だもん。ボクだってたくさん勉強したもん」
「いや、勉強云々以前に…」
白虎隊に入れるかどうかも怪しい。
しかし、過去の経験から判断して、祐一郎はその言葉を呑み込むのが賢明だと悟った。
「鯛野屋さんからたくさん洋式兵学の本をもらったから、大丈夫」
「それは、もらったんじゃなくて盗んだんだろ」
「違うもん! ちゃんと鯛野屋さんがくれたんだよっ!」
「どこまで人がいいんだ、あの店主は…」
「立派な人だよね」
「あゆとは違ってな」
「ボクだって立派な役人だよ」
「そいつは町奉行様に決めてもらおう」
祐一郎とあゆの、毎度ながらあまり世間体の良くない会話が一段落すると、今まで機会を見計らっていた北川がようやく口を開いた。
「それで…実際、遊撃隊はどうなんだ」
「遊撃隊?」
あゆが振り返る。
「うん、みんないい人だから、とっても居心地いいよ」
心の底から、笑顔であゆは言った。
「………」
「………」
「………」
「…?」
「…相沢、お前の言うとおりかもしれないな」
「やっぱりそうか…」
「うぐぅ、言っている意味がよくわかんないよ…」
「気にするな、内部の話だ」
「ボクだって内部だよお」
「…まあ、考えるほど辛くなる話はいいとしてだ」
「だから言っている意味がわかんないんだよぉ…」
あゆの非難を無視して続ける。
「話を戻すが、これから神尾様はどうするつもりだ?」
「神尾様だって遭遇戦は避けたいだろう。この辺りで陣を固めるだろうが…」
「それなら、ボクは土嚢(どのう)を集めておくのがいいと思うよ」
「…え?」
祐一郎と北川が、まさか発言するとは思っていなかった、あゆの顔を同時に見る。
「あゆの口から『土嚢』などという画数の多い言葉が…」
「ボクだってそれくらい知っているもん」
「…ちゃんと意味もか?」
「当たり前だよっ!!!」
「まぁ落ち着け、二人とも。…で、月宮殿、土嚢を集めてどうしようと言うんだ」
「うん、胸壁を作るんだよ」
「またあゆの口から…」
「相沢は少し黙れ」
「………」
「…で、土嚢で胸壁を作るのか?」
「うん、分解、構築が簡単にできるからね。神尾様もきっとそう言ってくると思うよ」
「そうか…」
北川がしばし考え込む。
その隙を見て、祐一郎が手を挙げた。
「…なあ、なんで急にすらすらと単語が出てくるようになったんだ?」
「勉強したからね」
「そういうものか…」
「そういうものだよ」
「相沢、俺は洋式兵学を知らないが、陣を固めるのには土嚢は重宝しそうだぞ。土嚢を集めれば、この戦、勝てる!」
「…お前も楽天的だな。まだ何もしていないってのに」
「北川君の言うとおりだよっ」
あゆも嬉しそうに手を合わせた。
楽天的な二人に、祐一郎は苦笑せずにはいられなかった。
「まぁ、そうか…あゆもひょっとしたら当てになるかもしれないし…」
「大丈夫、ボクも射撃くらいは余裕でできるよ」
「やけに自信たっぷりだな、初の戦だってのに」
「毎日触っているからね」
そう言って、もう見慣れた背中のゲベール銃に触れる。
(そら、もう盗んでから3ヶ月だからな…)
祐一郎は深く納得する。
「祐一郎君をびっくりさせるような戦いをしてみせるもん!」
何か自信にあふれるあゆは、そんな祐一郎のうなずきを見て、グッと拳を握って意気込んでいた。
北川はふと、異常なまでに祐一郎に入れ込んでいる(ように見える)あゆに疑問を感じ、首を傾げた。
「雪兎隊の方はおられますか!」
その時、本陣の方から歩兵が一人、叫びながら駆けてきた。
「俺が隊長の相沢だ。 何か神尾様から御用か!」
「あ! 軍議を開かれるそうで、至急集まって欲しいとのこと!」
「承った!」
………会津軍本陣
「では、ここで決戦を!?」
評定が始まって早々、指揮官神尾の言葉に、各隊長が驚きの声をあげた。
「そうだ、敵は既に目と鼻の先にいる。こちらとしては、野戦陣地を構築する時間が欲しい。直ちに作業に取りかかるのだ」
「しかし…野戦陣地とおっしゃられても、一体我々は何を…」
「その点は抜かりなく、近郷の村から土嚢を集めてある。これを前線に積み上げるのだ」
神尾が、あゆの予想通り、洋式兵学仕込みの野戦陣地構築のノウハウを各隊長に教授する。
祐一郎本人はと言えば、何か悔しそうに、神尾が教授のために動かす手を見ていた。
「この陣地をもってすれば、仙台勢を追い返すこともできる。だが、忘れてはならぬぞ」
神尾が、一層真剣な顔になり、一同を見回す。
「敵は錦旗を前線に押し出して向かってくるだろう。確かに、錦旗のふもとにいる奴は紛れもない敵だ。手加減無しで追い返せ!」
普段の神尾からは想像も付かない威勢で、各隊長に痺れるような印象を与えている。
祐一郎には、むしろその事実が彼の神経を高ぶらせた。
「…だが、間違ってはならん。その錦旗の向こう側には、我々の味方がいる。このことを胸に刻み込み、敵を恐れず、敵の憎悪をかき立てず、あくまでも賊敵を領内から追い出すのだ!」
「おおっ!」
神尾が期待するところは、今回も仙台行きの時と同じ、錦旗の向こう側にいる星や吉崎といった面々である。
彼らが米沢藩を仲介とした和平に応じてくれるか否かが、会津の運命を決することとなるだろう。
もし失敗すれば、わざと本腰を入れていないこの部隊は全滅間違いなしである。
だが、「まずそれはないだろう」と、会津藩は考える。
繰り返すようだが、会津には無理して抗戦する意志はない。降伏という形を取っても、朝敵として討たれるのを避けようとしている。
平身低頭している会津を、奥羽鎮撫総督くらいのものが強行的に討伐しようなどとは普通思わないだろう。
あくまでも普通の条件で、別に事情がない場合、ではあるが…。
「土嚢を積み上げると言っても、ただ直線的に積み上げるのではない。敵の攻撃を受けるのに絶好の形というのがある。その要点は…」
神尾は熱心に語っている。
祐一郎はふと東の空を見た。
心なしか、大勢の人間がざわめきながら向かってくる音が聞こえたような気がした。
さて、土湯口に戦闘が迫っているが、仙台側の出陣に至る経緯を少々見ておこう。都合上、多少省略して書く。
前回佐幕派の議論もまとまり、仙台藩はとりあえず総督府の言うとおりに出陣することとなった。
さて、問題はその中身なのだが…
「我ら総督府としては、三好将監殿にも一軍を任せたいが、いかがかな?」
発言をした大山格之助に、仙台藩の代表たちの視線が一斉に向いた。
その目は、当初は予想外の人物名への驚きの、そして次第に嫌悪の視線へと変わっていった。
「大山殿、これは伊達家の軍におけることなれば、口出しは無用に願いたい」
「されど、拙者とて九条様より監督の任を承っておる。官軍としては総督府側の意向を伝えておくのも必要ではあるまいか?」
「無用である」
ギロリと目をむいて、参政の瀬上主膳が言った。
「第一、三好殿は既にお年を召しておられる。戦場へと強いて赴かせることはありますまい」
「昨今の戦というものは、武力だけでするものではござらん。三好殿は、拙者としては適任と思うが?」
「当家の軍勢も西洋風に作られておる。大山殿にいちいち教えられるものではござりませぬ」
こちら青葉城では、軍議が始まってから、険悪なムードが漂っていた。
争乱の種となる世羅は黙っているが、それは己のプライドからくるものであり、いつまた険悪さを助長するようなことをしでかすか分からない。
大山も、仙台人の反感を買うことだけは避けたかったので、あまり強要することができない。
ここはあくまでも伊達家の軍議であり、他藩の軍勢も含めた征討軍としての軍議ではないのである。
仙台藩以外の諸藩は、戦の準備に手間取るなどと言ってきて、出陣が遅れている。
つまり、実質この仙台軍、しかも先鋒部隊だけが当面の軍勢なのである。
どの藩も積極的に兵を出そうなどという形すら見られない。
軍議段階においても、積極的に征伐を主張する者は次席家老久瀬半左衛門ただ一人である。
話題の三好将監は、京都時代に尊攘派の遠藤文七郎と一悶着をやって主君の失脚を招いたとして、国許での実権はない。
では佐幕派の推薦はというと、参政から二人、瀬上主膳と鮎貝太郎平を推している。
久瀬の推した者は、ことごとくこの征討軍から外されている。その焦りからによる大山の発言だったのであろう。
「まあ落ち着きなされ、方々」
と、その時、険悪なムードを和らげるような声が上座から起こった。
「御家老、しかし拙者としてはこの場に総督府の方が監視に来ておられること自体が不満にござる」
瀬上主膳が、声の主に向かって不平を言う。世羅と大山の目をはばかるわけでもない。
その声の主は仙台藩の筆頭家老である。
瀬上を初め、他の者も同じ気持ちのようだが、筆頭家老は瀬上を支持する発言をするわけでもなく、反対側の主君の方へと顔を向けた。
「…殿、我ら家臣一同といたしましては、殿の意向に従いとうござりまする。最後のご決断は殿に」
「しからば拙者も同じく」
「………」
佐幕派の面々は同意して頭を下げるが、久瀬一人が困惑したような表情で座っていた。
「…しからば」
家臣に懇願され、今まで黙っていた伊達家当主、伊達慶邦が口を開いた。
「私としては、この軍勢は皆の意向に従い、瀬上と鮎貝に任せたい」
「ははっ! 仰せのままに!」
伊達慶邦は総督府など意に介さぬ様子で強気に言い放った。
その瞬間、大山の目が怒りからか怪しく光ったが、もはや大山の打つ手は残されていなかった。
一見、問題の重大性にもかかわらず、終わってみれば、軍議はあっさりと終わったような観がある。
だがこの瞬間、数名の運命が既に決していたのである。
「では、明日出陣とし、両将に大隊を預けることといたす」
出陣するのは二個大隊、神尾軍と数では拮抗する。
さて、軍議が決着すると、各人次々と退席していく。
その中で、大山と世羅はまだ座ったままである。また、久瀬半左衛門も。
「…よろしいか」
その時、大山が目の前を通った筆頭家老に声を掛けた。
「一つ、九条様よりお伝えしておらぬ儀がござる」
「ほう? なんであろうか」
「本隊出陣の際には、慶邦公も自ら出陣なさるようにとのことにござる」
大山の発言に、隣の世羅が驚いたような目で大山の横顔を見た。「聞いていない」という意味であろうか。
「左様か、承知仕った」
大山に多くを答えようとせず、また大山の返答を聞こうとする様子もなく、筆頭家老は廊下へと出ていった。
大山の言葉の意味について察しているのかいないのか、とにかく大山とそれ以上会話することを拒否していた。
その態度までが仙台の意志のようであり、大山は不快だった。
「…大山殿」
隣の世羅が口元を不敵に緩めて声を掛ける。
「これで、拙者の正しさがお判りになられたであろう。これからは、もっと強硬的にやりましょうかな」
「………」
確かに大山の目的は達成されなかった。
だが、かといって世羅のやり方では何も解決しない。むしろ総督府に危機をもたらすであろう。
大山は万事休する形となった。
もっとも、征討軍を出すことはできたのだから、とりあえずよしとすべきなのかもしれないが。
「…参謀殿」
二人も立とうかという時、最後に残っていた久瀬半左衛門が大山たちに声を掛けた。
「…後のことは、お頼み申した………」
疲れた声で、意味深な台詞だけを残し、久瀬は廊下へと出ていった。
世羅は一人首を捻る。
「………あの男、今何を言った?」
世羅が大山に尋ねる。
「………」
大山は答えない。
ただ、いつの間にか何事かを考えていた。さすがに何を考えているかまでは分からないが。
「…残りの手駒は、一つか」
そして呟いた。その目は、もはや必死を通り越して決死のものですらあった。
『後から思えば、あの時点で戦争(会津戦争)は避けられなくなっていた。新政府も会津側も、譲歩できない条件が重なり合っていたのだから。さらに両者が必死で策を講じていたものだから、それを加速させてしまった』
当時は仙台町奉行所同心の野老山が、「戊辰戦争見聞」の作者にこんなことを語っている。
『しかし、それにしても、あまりに多くの者が死にすぎた。死ぬ必要のない者が死にすぎた。勤皇派に身を置いていた私にも、それが誰のせいかなどと軽々しく結論を出す気にはなれない。薩長の連中は調子に乗って、白河以北(東北地方)は一山百文などと抜かしているそうだが、連中が言うことは軽薄以外のなにものでもない』
さて、時間を祐一郎に戻す。
日が高く昇る頃には、土湯口を固める土嚢の胸壁群が完成していた。
神尾の思惑通り、その配置はなかなか巧妙だ。
様々な角度で、入り組んだ形に配置された胸壁群は、一つの胸壁に攻撃をしかけてきた敵に四方から銃弾を浴びせることができる。
元は薩摩軍が伏見で使用していた作戦だが、畳の胸壁よりも耐久性に優れた土嚢は、長期戦にも十分持ちこたえられる。また、火に強いのも魅力だ。
で、祐一郎たち雪兎隊が受け持つのは、会津側から見て左翼の4ヶ所の胸壁である。
祐一郎はその最前線の胸壁に使い慣れた火縄式青銅砲を配置した。
射程が短い当時の砲は、最前線にあるのが常識である。
「祐一郎」
胸壁の出来映えを眺めていた祐一郎に、名雪が話しかけてきた。
「どうした」
「…仙台の人たち、今日攻めてくるのかな」
「はっきりとは言えないが…斥候からの報告ではすぐそこにいるそうだ」
「ここからは全然見えないけど…やっぱり、いるんだね」
名雪の表情は不安に満ちていた。
その心は祐一郎にも十分理解できる。
「いやだな…仙台の人たちと戦うの」
「俺だってそうだ」
「星さんや吉崎さんも、敵の中にいるのかな」
「あの人たちは、たとえ出陣していたとしても、こちらのことを分かってくれているはずだ。そんなに心配するな」
「うん…」
だが、そう名雪に言った祐一郎当人、不安で仕方がない。
それ以上説得力のある言葉を思いつくことができなかった。
「総督府もしたたかな真似をするわね…」
その時、香里が敵に文句を言いながら祐一郎たちに近寄ってきた。
「あっ、香里。大筒の支度はできたか」
「ええ、弾も火薬も十分あるわよ」
「よし、これで万全だな」
「…万全って言っても不安ね」
「まあ、相手が相手だからな」
「でも、仙台に会津を攻めさせるなんて、総督府の思い上がりもいいところだわ」
「確かに、まるで闘犬をさせられている気分だ」
「…でも、仙台の人たちも本気でわたしたちを攻めてこないよね?」
覚悟を決めている香里と祐一郎の姿を見て、名雪がわずかな望みを口にする。
しかし、それにすら祐一郎は首を振った。
「いや、向こうには『朝敵』という脅迫がかかっている。主家のためなら、本気で攻めてきて当然だ」
「…『朝敵』の脅迫は、私たちも一緒だけどね」
「………でも、こんな戦、わたしたちも仙台の人たちもやりたくないのに…」
「俺たちはともかく、仙台には勤皇派の連中もいる。あまり期待しすぎるもんじゃない」
「うん………」
「私たちはもう佐幕派の代表なんだから、ね、名雪」
「そうだけど…」
祐一郎と香里に促され、名雪もしぶしぶうなずいた。
野老山が言ったとおり、事態は加速しながら変転している。
3月から既に、関東を追われた旧幕府関係者が会津藩主松平容保に面会を求めるというようなことが相次いでいる。
どの者も、戦争となれば会津が中核となって戦うだろうと読んでいるのだ。
その中には、北関東で大敗して越後方面へと向かう途中の「衝鋒隊」もいる。
これはあの坂本竜馬を暗殺した元京都見廻組の今井信郎と、幕府陸軍で元歩兵連隊指南役頭取の古屋佐久左衛門とで創設された洋式部隊であり、仏式山砲四門を所有し、旧幕府軍でも最強と言われた部隊である。
ちなみに古屋は、勝海舟が「あの男を江戸から出してはいけなかった」と悔いたほどの逸材であったと言われる。
その衝鋒隊、創設当初は旧幕府歩兵で構成された部隊であったが、戦闘で兵力が消耗したために緊急的に兵力を補充したところ、ならず者が大量に集まった集団と化し、行く先々で強盗強姦を日常茶飯事に行う鼻つまみ部隊となってしまっている。
それでも、隊長や士官は歴とした幕臣であるから、容保に対する礼儀は欠かさない。
このように、もはや幕府亡き今、会津は反新政府の中核と見られているのである。
「…ん、なんだ?」
突如、本陣の方からざわめきが聞こえてきた。
「斥候が帰ってきたのかしら」
「だとしたら…もう、来るのか?」
「覚悟しておいた方が良さそうね」
「覚悟なら、とっくにできたさ」
「さすがは隊長ね。頼りにしているわよ、相沢君」
「こう言っちゃ何だが、いざとなったらそっちの砲の方が主力と思っていた方がいいぞ。そこのところ、よろしく」
「私は訓練通りにやるだけよ」
「そうしてくれるとありがたい。…さて、北川の方は用意いいか?」
「ああ、全隊士万全だ」
「よし、それでは…」
「………っ!」
その時、青銅砲をぼんやり眺めていた真琴が、小さな叫びをあげた。
皆の視線が集まる。
「どうした真琴、なにか…」
「来る…」
「来る、って…」
「全軍、戦闘隊形を! 敵の攻撃にござる!」
一騎の騎馬が隊列の後ろを駆け抜ける。
だが、祐一郎にはその騎馬を見る間はなかった。
プスッ
目の前の土嚢に、鉛玉が突き刺さった。その穴から煙が立ち上る。
「敵!? 雪兎隊、撃ち返せえ!」
午後二時頃、仙台軍の小部隊が身を隠しながら土湯口の守備隊に接近、左翼と右翼に銃撃をしかけてきた。
それと同時に、街道を正面から本隊がひたすらに押してくる。もちろんその先頭には、輝かしい錦旗。
「討って出るな! 守り抜け!」
神尾の声が響いた。
雪兎隊の右には遊撃隊がいるが、その前線にある胸壁にいる兵士は果敢にも身を乗り出して敵の姿を探している。
「…祐一郎」
「なんだ、真琴!」
雪兎隊から数回の射撃が行われると、火薬の炸裂する中、真琴が隣の祐一郎に尋ねてきた。
「…敵が見えないんだけど」
「…やっぱり、お前にも見えないか」
「本隊は見えるんだけど…」
真琴の言うとおり、視界の開けた街道にいる本隊は胸壁から見える。
だが、山間部に展開していると思われる敵は、その姿をなかなか捉えることができない。
「くそっ、やっぱり銃か!」
祐一郎が舌打ちする。
そう、ゲベール銃の二倍以上の射程距離を誇るミニエー銃は会津側の射程外から次々と弾を撃っている。
どうも、山間部の敵は支援に徹して、街道にいる敵が前進してくる予定になっているようだ。
「祐一郎、砲はいつ撃つの?」
名雪が丸い砲弾を手にしてのんびりと尋ねる。
「まだだ。神尾様から、向こうが撃つまでは撃つなと言われている」
「うん、わかったよ」
「…でも祐一郎、いくら相手が仙台でも、敵に撃たれ始めたらもう遅いんじゃないの?」
「わかってないな、真琴。俺たちの砲なんて、どうせ敵より先に撃ったってとどきゃしないんだよ」
「そ、そんなことわかっているわよう!」
「…でも、確かに仙台側もまだ砲を撃つ様子じゃないわね」
仙台勢の前線には、四斤山砲と思しき物がこちらに向いているのが見える。
「そうだな。やっぱり、今日はまだ本格的に攻めてこないのか…」
「そうだといいね」
とは言ってもだ。
既に左翼と右翼は中央部隊の支援ができる状態ではなくなっている。
このまま銃撃戦を続けていては、いたずらに疲弊するばかりである。
「しかし…こいつは予想以上に厳しいぞ…」
祐一郎は土嚢の隙間から敵を見た。
錦の旗が否応なしに目に飛び込んでくる。
と、頭上をミニエー銃の弾が数発飛び越えていった。
「だああ、畜生! これが仮にも味方のやる攻撃かよ!」
北川が反撃することもままならない様子で仙台を非難する。
「誰も連中は味方などと言っていないぞ。敵は、追い返すものだ」
「そんな表面上の理屈はどうだっていい! こうなりゃ、こっちも本気で戦うしかない!」
「北川…少し冷静になれ」
「戦場で冷静になんぞなっていられるか! 早く砲を使え、砲を!」
「だからまだ敵が撃っていないんだって…」
「関係有るか!」
「…やっぱり、隊長向きじゃないわね、北川君」
「お前は冷静すぎるんじゃないのか、美坂」
「戦場で冷静さを失わないのが士官の心得よ」
「そうだよっ、冷静さが大事なんだよっ」
「そう、人を束ねるのは冷静な…って」
北川に諭そうかというところで、祐一郎が、何やら混じっていた声に、思わず後ろを見た。
「…やっぱり、今のはあゆか」
「うんっ、祐一郎君が大変そうだったから来てみたんだよ」
あゆが、姿勢を低くしながら祐一郎の顔を見ていた。その手にはまだ煙無きゲベール銃。
「お前な…自分の持ち場を戦闘中に離れる奴があるか!」
「うぐぅ…でも、ボクの胸壁は後方にあるから暇なんだもん…」
「暇ってなあ…」
と言っている側から、銃弾が顔の側をかすめる。
「と、とにかく、何とかいい方法を考えるんだ。この状況を打開する方法はないか」
「…何とかって言っても、守るばかりのわたしたちにできることなんてないと思うよ」
「名雪の言う通りね」
「そりゃ、そうだけどな…でも、このままってわけにもな」
「あっ、その点は問題ないよ」
「おっ、あゆに何かいい方法があるのか?」
「ボクじゃなくて、本陣の方で誰かが何かの打開策を神尾様に言っていたんだよ」
「誰かが何かの、じゃ何にもわからんな…」
「…でも、斬り込むとか何とか…」
「………何?」
その頃本陣では、この一方的な状況を打破せんと、刀槍兵の指揮官たちが神尾に進言しているところだった。
「神尾様、このままではこちら側に負傷者が出る一方にござる! 斬り込んで接近戦に持ち込むしか策はござらん!」
「左様、身を隠している敵兵を倒すにはこれしかござらん。直ちに斬り込みの下知をお出し下され」
「…待て待て。御家老の言葉を忘れたか。ここで斬り込みなど行えば、戦闘を激化させるだけではないか。我々に務めは、あくまでも時間稼ぎである」
神尾が興奮している指揮官たちに諭す。
その傍らには国之崎が黙って控えているが、その手は既に太刀の柄へとかかっている。
「そのようなことを言っている場合ではござらん! 現にこちら側の士ばかりがうち倒されているのですぞ!」
別に国之崎は彼らを威圧しているわけではないが、詰め寄る者達も会津藩士、なんら臆するところ無く神尾へと詰め寄っている。
「だが、どうやら敵は突撃を仕掛けられないようではないか」
「…それは、まだ向こうの用意が調っておられぬからでしょう」
「いや、我らの築きし胸壁はそう易々と攻められるものではない。だからこそ、敵は外周を切り崩そうとしているのだ」
「なれば、それを防ぐためにも斬り込みを仕掛けるべきにござろう!」
「とにかく、斬り込むとしてもそれは敵が一度突撃を仕掛けた後にやるのだ」
「しかし、それではあまりに悠長…」
刀槍兵は何もできない状況だから、彼らの言い分も尤もなことではある。
だが何しろ今、米沢藩を仲介とする和平を探っている最中なのだから、仙台と本格的に交戦状態になるのだけは絶対に避けたいのである。
…しかし、あくまでも仙台は和平の動きを知らないはずである。
彼らの方針は、早期に会津が降伏できるようにして、相互の被害を最小限にしようというものである。
すぐ背後に総督府の軍監がいるのだから、戦わないわけにはいかないのだ。
と、その時である。
一人の刀槍兵指揮官が意外な発言をした。
神尾の手帳に書かれていることによれば、その指揮官の名は大崎又十郎(伝未詳)という名になっている。
「聞けば、国之崎殿はかなり剣を遣われるというではないか。国之崎殿に斬り込みの陣頭指揮を執っていただけば、仙台の小部隊などは敵に値しませぬ」
ここで国之崎が初めて顔を上げた。
「いかがであろう。やってくれぬか」
大崎にすれば、国之崎に名誉の機会を与えて、その主人の神尾を納得させようかというつもりもあったのかもしれないが、国之崎にそんなつもりが無いのは明かである。
「…俺は、断る。俺は神尾様の身辺を守るためにここにいるのだ」
「されど、このまま敵の攻撃を甘んじて受けていれば、結果的に神尾様の身を脅かすこととなろう」
「大崎殿、おやめなされい。国之崎に強いるべきことではない」
「しかし神尾様、いずれにしろ斬り込み時には国之崎殿にもご参加願いとうござる。お許しいただけまするか?」
「…その心配はいらん」
大崎の執拗な要求に、国之崎が耐えかねたような声をあげた。
「これはまた、いらぬとは面妖な。この現状では、いずれ必要になるのは必定!」
「少なくとも、今日は要らぬ」
「いや、そう申されるが、戦は先の分からぬものなれば、今日崩れぬとも限るまい」
「…まあ、とりあえず黙ってみていて下され」
国之崎は、太刀の柄から手を離して、大崎の目を見た。
「今日は、ありませぬ」
「…左様か。それほどまでに申すならば致し方ない。今日は国之崎殿の進言を信じるとしよう」
大崎の言葉に、指揮官たちもしぶしぶ頷いた。
「ですが、もし深く攻め込まれる事態とならば、特別な御裁断無く斬り込むこともあり得ると、ご承知願いまする」
「それは致し方あるまい。だが、あくまでも守備の一角が崩れるような事態にならぬ限り、斬り込むことはならぬ。よろしいな?」
「承知仕りました」
…大崎たちは、ひとまず去った。
しかし、全面戦争の事態と隣り合わせであることはまだ確実である。
「…神尾様、あの方々のこと、大丈夫でしょうか」
「なに、その時はその時、味方を信じるのみよ」
神尾はそんな事態を憂える様子はかけらもなく、国之崎に笑いかけた。
国之崎も口元のみでそれに応じる。
「…仙台の刀を受けるのも、薩長の餌食となるよりはましであろう…」
「………はい」
再び本陣は落ち着いた雰囲気となった。
依然、銃声が絶え間なく聞こえてくる。
「…今日は、大丈夫のようだな」
「………はい」
一方、こちらは錦の旗を目の前に持つ陣、仙台軍大隊長瀬上主膳の陣である。
「…うむ、そう易々とは行かぬか」
瀬上が土湯口の会津勢を眺めながら言った。
「鮎貝殿はどうしておられる」
「はっ、一度正面から攻撃を仕掛けてみるとおっしゃっております」
「…そうか」
瀬上が隣の男を見る。
「それは上々。この大隊も、速やかに攻撃に移っていただければ幸いにござる」
官軍の士官服を着たこの男こそ、総督府から送られてきた軍監である。
お節介にも、伊達家の軍勢が会津を滞り無く攻めているかを監視しているわけだ。
「…お言葉ではあるが、敵の守備もなかなか堅牢にござる。もうしばらく様子を見るべきであろう」
「これはまた、砲を前に二門も並べておられながらの台詞とは思えぬな」
「これも戦略にござる。軍監殿は戦の成り行きさえ御覧になっていて下されば結構」
「………ちっ」
何かにつけ官軍に反抗的な瀬上主膳に舌打ちをし、軍監はそっぽを向いた。
「連絡兵を二人!」
「ただいま!」
その瀬上は、自らの戦術を続行するため、騎兵を二人召しだした。
「山間部に送った小隊に連絡、これより鮎貝殿の大隊が敵陣に攻撃を仕掛けるゆえ、両翼への攻撃を強めるように。なお、敵への接近は厳禁とする。鮎貝殿の隊が引き次第、山間部の小隊も全て撤退すること。以上である」
「承知仕りました!」
瀬上の命を受け、二人の騎兵がそれぞれ反対方向へと駆けていった。
瀬上はそれを真剣な眼差しで見送る。
「…さて、会津松平家の戦、拝見させていただこうか」
そう言って瀬上が足を踏み出すのと、前方の鮎貝太郎平の陣から喚声が聞こえてきたのはほぼ同時であった。
「敵の攻撃が!」
仙台軍の本格的な攻撃を見て、さすがに会津側は少なからず動揺した。
「か、神尾様からは!?」
「まだ砲撃命令は…」
「北川、山間部への攻撃を止め、中央を押し出してくる連中を狙え!」
「そうしたいところだが、隠れた敵の攻撃も激しくなってきやがったぞ」
「でも、まだ敵の砲は火を噴いていないわよ」
「そらそうだが、敵はそろそろ射程圏内だぞ」
雪兎隊の青銅砲は、射程約八百メートルである。
「ということは、やっぱり敵は大砲を使う気がないみたいね」
「どうだかな…」
「そんなことはいいから祐一郎、あたしたちはどうするのよう」
「そんなことは決まっている。敵を銃で追い返すのみだ!」
「…相沢、死ぬ前に砲が火を噴くことを祈るからな」
そうして、雪兎隊の面々は胸壁に取り付いていった。
「…ボクはどうしたらいいかな?」
もう一人残っていた。
「………お前はこの隊じゃないだろ」
「そうだけど…」
「とりあえず、元の胸壁にもど…」
と、言い切らない内に、そこに銃弾の嵐が吹き荒れる。
思わず二人とも突っ伏せた。
「うぐぅ、この様子じゃ、身動きがとれないよ…」
「仕方ないなあ、すぐ隣が遊撃隊だから、とりあえず右側の胸壁から応戦してくれ」
「うん、わかったよ」
面々の配置を済ませ、祐一郎もゲベール銃に弾を装填した。
そして土嚢の隙間から敵の様子を窺う。
おおよそ八十の歩兵が木の陰に隠れながら射撃を行っているのが見えたが、相変わらず山間部にいる敵兵の姿は補足しきれない。
しかし、雪兎隊に向かって飛んでくる銃弾は、かなりの数である。
よほど巧妙に隠れているのだろう。
ちらちらとは確認できるものの、常にそれは移動しているために手の打ちようがないのだ。
と、その時中央部で激しい喚声と銃声が起こった。
「かかれえ!」
仙台軍の号令が祐一郎の耳にまで届いた。どうやら、意外に近いらしい。
その号令とほぼ同時に、双方から一斉射撃が行われたのである。
「始まったか!」
北川が胸壁から顔を出しそうになりながら叫んだ。
「どうしよう、祐一郎…やっぱり仙台の人たちが…」
「どうするもこうするも、戦って追い返すのが武士の礼儀だ」
「でもこのままじゃ…」
相変わらず不安にさいなまれている名雪だが、もはや戦況は予断を許さない。
「なに、お互いの砲が火を噴くまでは大丈夫だ。心配はそれからにしろ」
「うん、祐一郎を信じるよ」
名雪は再びゲベール銃を構えた。
山間部の敵と雪兎隊との間を飛び交う銃弾の数は、どんどん増している。
撃っている弾量は雪兎隊の方が多いはずなのだが、敵を倒した手応えがどの隊士にもない。
歩兵指揮の北川は、焦りと発射炎の熱とで汗まみれになっていた。
「やっぱり…押し出すのは街道の敵だけみたいね」
全く前進の気配を見せない山間部の敵に対して、香里が射撃の手を休めて言った。
「相沢、距離を縮めないと俺たちにはどうしようもないぞ」
「そうなんだけどな…あゆ、全然斬り込みが行われる様子がないぞ。どうなっているんだ」
「ボクに聞かれても知らないよお」
「本当に神尾様たちがそう言っていたのか?」
「本陣の方で誰かが言っていただけだよ。神尾様かまではボクもしらないよ」
「やっぱり、神尾様も時間稼ぎに専念するおつもりなのか」
「砲を撃たせないくらいだからな」
「でもなあ…」
「あ! ゆ、祐一郎!」
突然、真琴が慌てた声をあげた。
「なんだ」
「向こうから敵が来てるの!」
「何だって!?」
慌てて胸壁の向こうの様子を見る。
山間部は相変わらずだが、街道方面から十人ほど、左翼方面に前進してきている。
そしてすぐさまそれは撃ってきた。
「おわっ!」
頭上を通った弾丸に、思わず祐一郎ものけぞる。
「これ以上弾が増えちゃ、どうしようもないじゃないのよう」
「大丈夫だよっ。ボクたち遊撃隊があの人たちを抑えるからね」
「今さらになって『遊撃隊』の一員か…」
しかしまあ、あゆの言うとおり、右隣の遊撃隊が直ちに反応した。
雪兎隊も山間部に発砲しながら、そちらの様子を窺う。
その時であった。
「ぐあっ!」
すぐ右隣の胸壁にいた遊撃隊士が銃弾に左肩を射抜かれた。
「あっ!」
その隊士のすぐ側にいたあゆが、思わず声をあげる。
その顔に、血液の飛沫が僅かながら飛び散る。
撃たれた隊士は、痛みを堪えながら、懐から出した布で傷を抑えようとするが、その傷口からは血がどくどくと流れ続ける。
雪兎隊士が一瞬固まった。
「てめえ! くたばりやがれ!」
撃たれた隊士の隣にいた遊撃隊士が、胸壁から身を乗り出してゲベール銃の引き金を引く。
パッ!
血煙が立つとほぼ同時、鉛玉が肉に食い込む音が微かに聞こえ、身体のどこかを撃たれた仙台兵が膝をついた。
そしてその兵士を、別の仙台兵が後方へと引きずっていく。
「………」
僅か一瞬の出来事であったが、雪兎隊の面々は、何か恐ろしいものを見たような様子で、それが終わった後もいた。
いや、実際に恐ろしさを感じていたのか。
今さらながら、彼らは調練場ではなく生の戦場にいた。
彼ら一同、自分たちが今の今まで考えていたことが、全て否定されたような、全て愚にもつかないことだったような、そんな感覚にとらわれていた。
「…手を抜いてやる戦なんて、本当はないのさ」
祐一郎が、いまだ火を噴かぬ青銅砲を見て言った。
思えば、雪兎隊士はいずれも殺人経験はおろか、死の瞬間に触れることも希である。
ただ一人、江戸詰だった祐一郎は、京都詰の藩士ほどではないにしろ、多少は死と近い生活を送っていたが。
「こんな形の戦、三日と続けられるかどうか…」
祐一郎が呟くと同時に、仙台軍の本陣から撤退の合図が響いた。
前進していた仙台兵が、まるで水鳥の群のごとく、揃って去り、山間部の銃声もいつの間にか止んでいた。
「負傷者のいる隊は、本陣まで報告を!」
本陣からの伝令が叫んでいても、雪兎隊だけはまだ仙台側の錦旗を眺めている。
その隣で、撃たれた遊撃隊士が戸板に乗せられて本陣まで運ばれていった。
雪兎隊、一日目の死傷者はなかった。