第二十二話「幕臣たちの見解」

 慶応四年四月十一日、江戸には雨が降っていた。
 この日は極めて歴史上重要な日である。
 というのも、この日の正午、江戸城が開城されることになっているのだ。
 受け取るのは薩摩の海江田武次(信義)、木梨精一郎の参謀二名が率いる薩長他五藩の兵である。
 また、それと同時に、幕府方にとっては劣らず重要なことがある。
 上野の寛永寺に蟄居していた前将軍徳川慶喜公が水戸に移る日でもあるのだ。
 寺を出る時さえ、蟄居中の身らしく、午前三時の真夜中に、静かに出て行ったのである。
 それを護衛する彰義隊、精鋭隊、遊撃隊の面々は、その憔悴しきった主人の顔に涙しないものはなかったと聞く。
 だが、実はその直前に起こった騒動がある。
 先述の松平太郎と榎本武揚が、江戸城に篭城して官軍に抗戦しようと密かに動いたのである。
 それを事前に耳にして驚いたのが勝海舟と慶喜公だった。
 慶喜は二人を寛永寺に呼びつけ、「卿らの武力行動は、わが頭(こうべ)に白刃を加えるのと同じである」と諭して篭城を取りやめさせ、一方の勝海舟は、幕府海軍の艦隊を引き渡すよう要求する官軍に対しては、それは難しいとはぐらかしてしまった。
 決して勝海舟も勤皇の人間ではないのだ。
 こうして、榎本の幕府海軍は江戸湾に艦隊を有したまま官軍に無言の圧力をかけ、松平ら幕府陸軍は「江戸脱走計画」なるものを練りだしたのである。
 …そして、元新撰組の面々もこの計画に乗っていた。


 この日の早暁、歳三を始めとする元新撰組の者たちは、雨の降る中、江戸を発った。
 目指すは市川の宿場、そこに幕府歩兵の部隊が集結することになっている。
 「………」
 歳三は、見納めとなるであろう江戸を眺めつつも、終始無言であった。
 その江戸も、雨に霞んで、はっきりと見ることは出来ない。
 京都で武名をとどろかせた新撰組も、多くの脱落者を出し、今この場にいる者はわずかだ。
 まして隊発足の時期からずっと従っている者など数えるほどしかいない。
 しかし、流山の投降からも歳三は行動していた。
 悲惨な末路を迎えた旧友近藤の様子を何とか知ろうとしたが、それに関する情報はまったく入らなかった。
 さらに四月四日には、勝海舟を訪ねている。
 その内容は不明だが、ほぼ間違いなく近藤の助命を願ったものであろう。
 なぜ不明かといえば、勝海舟側の記録には「四月四日 土方歳三来る」の一行しかないのである。
 新撰組など、既にそのような存在になっていたのであった。
 歴史的大流から見れば、もはや何の影響力も持ち得ない…そんな存在だ。
 それは、これから行動を共にするはずの幕府の仏式歩兵から見ても同じである。
 洋式兵学を学んだ幕府陸軍はエリート士官たちの軍隊、対する新撰組は筋目も怪しい浪人剣術家たちの集団。
 旗本出身の陸軍士官たちの目には不気味な殺人集団に映ったことであろう。
 近藤が敵の手に落ちた後、歳三たちが江戸に帰ってきたとき、江戸城内にいる恭順派の反応が冷たかったことにもそれが分かる。
 素直に官軍の前に殲滅されることを望んでいればこそ、幕閣は大金を出して支援してきたのだ。
 京都であまりに人を殺しすぎた新撰組は既に完全な邪魔者、それは主戦派の側からしても異質な集団に映る。
 「………副長」
 「…ん、どうした、川澄君」
 「私は、新撰組だから」
 「? 何を言っている?」
 舞が突如発した言葉に、歳三が振り返った。
 「私は、幕府軍がどうであっても、新撰組だから」
 「おいおい、もう新撰組は終わったんだ。これからは幕府歩兵の頭が指揮官だ」
 「旗本たちが何て言っても…私は副長の組下だから」
 「川澄君?」
 「あ、佐祐理も同じですよ」
 いかなる状況でも明るさを失わない佐祐理さんが、舞に同調する。
 「佐祐理たちは、副長が行くから奥州に行くんですからーっ」
 「………」
 「副長、私もそれは同じです」
 普段は寡黙な齋藤一が、口を開いた。
 「副長は、どんな時でも自分の信じるように、我々に命を下してくださればよいのです。今までそれが一番正しかったのは、この場にいる皆が知っていますよ」
 「………そうかね」
 再び、歳三が歩き出す。
 その顔は常日頃変わらぬ仏頂面。
 しかしその心中には、静かに燃える決意があった。
 (もう、薩長なんかには降れねえ。何があろうと、意地にかけて、闘いぬいてやる。…隊の連中のためにも)
 歳三は、敵の手に落ちた旧友近藤の顔を思い浮かべた。
 (近藤さんよ…生きているのか死んでいるのかもわからねえが、お前さんの仇は、地の果てまでも戦って、絶対に俺がとってやる。命に代えてもな。しかしよ…他の連中まで、これ以上連れて行っていいものかね、近藤さん。こいつらを死なせるのだけは、どうにも忍びねえんだがよ…)

 歳三たちが市川の宿場に入ると、江戸脱走組の歩兵や幕臣、会津・桑名等佐幕派の藩士たちがおびただしい数で旅籠や寺院を占拠していた。
 その中を、宿場の住人たちは大騒ぎしながら駆けずり回っている。
 大名行列が通るときにはこれくらいの人が通過することもあるだろうが(もちろんその時は旅籠や寺院には泊まらないが)、全員がものものしく武装した集団となると、その雰囲気も随分違う。
 しかもその構成員は礼儀を心得た武士ではなく、やくざ者や博打打ちといった血の気が多そうな連中が大半の歩兵なのだから、宿場の人からするといつ騒動が起こるか気が気でないだろう。
 「はぇ〜っ、すごい人ですねー」
 「まだまだ薩長相手に戦ができるってわけだ」
 「………(コクリ)」
 その、人でごった返す中を、新撰組の一行が通る。
 それは、おびただしい数の人を斬った者のみが放つ殺気により、この中でもやはり異様なものに見て取れる。
 路傍にたむろする歩兵たちも「何でえ、あの連中は」と囁きあっているが、歳三たちが行李に入れて運んでいるものの中身を目にすれば、そのような口をたたく者は居ないだろう。
 その行李の中身は、新撰組の象徴、「誠」の隊旗である。
 流山ではついにはためかなかった旗だが、これからの戦では大いに士気を鼓舞してくれるであろう。
 「しかし、こうも人が多いと、どこが本営かわかりゃしませんねえ」
 「そうだな、どいつか知ってそうなやつに聞いてみるとしよう」
 「あ、あの方なら知ってそうですよ」
 そう言って佐祐理さんが指差したのは、士官服を身につけ陣笠をかぶった長身の男である。
 どうやら配下の歩兵たちを集め、何か喋っているようだ。
 「そうだな、あの格好からして大層な御身分の旗本だろうから、本営の場所くらいは知ってるだろ」
 「じゃあ、佐祐理が聞いてきますねーっ」
 「…私も行く」
 そう言って、舞と佐祐理さんが男の方に歩き出すと、長身の男が振り向いた。
 「ふぇ…?」
 佐祐理さんがキョトンとする。
 「おや、私めに何か御用ですかな?」
 その男は、意外にも老人であった。
 しかし、佐祐理さんが見まごうのも無理はなく、老いを感じさせるのは皺の刻まれた顔と手の皮膚のみ、遠目にはとても老人とは思えない。
 「あ、はい。本営の場所をご存知ではないかと思いましたので」
 「本営ですかな。それなら拙者もこれからそちらに戻る途中でござれば、ご一緒いたそう」
 「そうですか、助かります」
 「………(コクリ)」
 舞も頭を下げる。
 「ほう…」
 それを見て、突然、老人が感心したような声を上げた。
 「どうかしましたか?」
 「いやいや、こちらの方は相当剣に長けた方とお見受けいたしたが、お二人でこちらへ参られたのですかな?」
 「いえ、あちらにいる方たちも佐祐理たちの仲間です」
 そう言って、佐祐理さんは待っている歳三たちを指差した。
 「ほほう、ではいずこかの道場の…おや?」
 老人は、ふと目を凝らして佐祐理さんが指差す方を見た。
 「…お嬢さん、あちらの方に挨拶をさせていただきませぬかな?」
 「あ、はい、わかりました」
 と、佐祐理さんが老人を連れて歳三の方へ戻ってくるのを見て、歳三が佐祐理さんに声をかける。
 「おっ、本営の場所はわかったかね?」
 「副長、こちらの方がご一緒していただけるそうですーっ」
 「そうかね、それはありがたい」
 そう言って、歳三が老人の顔を見たときである。
 「おお、やはり!」
 老人が再び感嘆の声を上げた。
 「?」
 「御貴殿は…もしや、土方歳三様ではござらぬかな?」
 「いかにも俺は土方だが…」
 「いやいや、長州征伐のときに京都で一度お見かけしたが、まさかかように直接話す機会があろうとは思わなんだ」
 「あ、ああ…」
 突然の、老人の反応に、歳三も周囲の隊士たちも呆気にとられる。
 「申し遅れたが、拙者は長井源吾と申す。第十四歩兵連隊と、それを中核とする瞬煌隊の副長を勤めておる」
 「寄合席格の土方歳三です」
 陣笠を取って挨拶してきた長井に、歳三も幕臣としての礼儀を交わした。
 「本営では、あの土方が来るということで大層な評判ですぞ」
 「へぇ…それは意外な話ですな」
 歳三が苦笑する。
 その全てがありがたい評判だとは思わなかったのだろう。
 そんな歳三の心を見抜いたのか、長井が一言付け加える。
 「とりわけ会津や桑名から来た者たちの間では、土方殿を軍の頭取にしようと言う者もいるようですな」
 「はは…この俺を大将に、かね」
 「無論、旗本の間でもそのような声はありますな。例えば、この拙者も」
 「ほう、あなたも随分な物好きのようだ」
 「物好きで大将を決めるものではありますまい。今までの戦を思えば、ことさらに慎重になるべきでしょうな」
 「そうおっしゃりますが、今回の主力は旗本の方々ですよ。私よりも洋式兵学のことに詳しい人はいるはずだ」
 「戦とは東西の別なきもの。土方殿ならご承知のことでござろう?」
 「………」
 「まあ、それを決めるのは本営での評定。今はご検討なさるにとどめておけばよいでしょうな」
 もっともなことである。
 歳三にとっても、今問題なのは薩長と戦うことと元新撰組の同志たちのこと、それには大将が誰になろうとどうでもよかった。
 「…さて、ではそろそろ行きますかな。我が隊長にもお会いしていただきたいので」
 そう言って、長井は再び陣笠をかぶると、本営があるであろう方向に歩き出した。
 ………
 しばらく歩くと、佐祐理さんが、先頭を行く長井に声をかけた。
 「あの、長井さんのいらっしゃる連隊の隊長さんは、どういう方なのですか?」
 「隊長ですか。そうですな…お心の強い方、とでも申せましょうか」
 長井の答えに、今ひとつピンとこない佐祐理さんは重ねて問うた。
 「どういうところにそう感じるのですか?」
 「しからば…隊長は、深い悲しみを乗り越えられて、ここにいらっしゃるのです。それも連隊長という大役を背負って。それでも、我々組下の者たちには弱音一つ漏らされませぬ」
 「はぇ〜っ、立派な方なんですねーっ」
 「左様、稀代の名将にござる」
 長井は自信たっぷりにそう言い切った。
 「あははーっ、随分心酔なさっているんですねーっ」
 「なんの、拙者がこの年でまだ戦に参るのは、ひとえに隊長が戦い続けられるからにござる。これは己の信念でもあり、また、御先代との約束でもある」
 「…一ついいかい?」
 ふと、今まで黙って聞いていた歳三が、手を上げた。
 「何ですかな?」
 「長井殿が隊長のために戦死するのは己の意思だとして、引き連れる兵士たちはどう思っているのかね?」
 「ははあ…歩兵たちですか」
 長井が少し考えた。
 無論、歳三は先ほどの自問に対する答えを見つけようとしている。
 しかし元来、歳三は他人に意見を求めるような男ではなかった。
 やはり、この男も少し気弱になっているのであろうか。
 「歩兵たちは…なぜ隊長に付き従っていると思われますかな?」
 「? それは自分たちが部下だからだろう、金をもらっているのだから当然のことだ」
 「その通りですな。そしてまた、金をもらわなければ、やめたいときに隊から脱走すれば済むことにござる。もちろん、それは今の御時世での話ですがな」
 幕府が瓦解した今、家名も恩義も持たない歩兵が脱走するなどということは当たり前のことだ。
 「しかしそれでも、ここにいる歩兵たちは我ら幕府の者と戦おうとしておる」
 そう言って、長井は、宿場にたむろしている、柄の悪い歩兵たちを見回した。
 「もちろん、その理由は金のためでしょうな。戦死する危険よりも、彼らは金を求めておる」
 「そんな連中のことに気を回す必要はねえとでも?」
 「まさか左様な! つまり、本質的には拙者も歩兵たちも同じということにござる」
 「同じとは?」
 「拙者も歩兵たちも、戦死する危険を敢えて冒し、目標を求めて戦うことに変わりはござらん。ただ、その目標の質が少々異なるのみ」
 そう言って、長井は歳三の目を見た。
 その目からは、年寄りのものとは思えない気迫を感じる。
 「彼らが己の目標を得ることを、拙者が阻む道理はござりますまい」
 「それはそうかもしれないが…」
 そう言って、歳三は旧友近藤のことを思い出した。
 近藤との別れも、お互いの目標の相違から起こったことだった。
 そしてあの時も、歳三が近藤を止めることなどできなかった。
 「土方殿も、同じでござろう」
 黙った歳三に、長井が再び口を開く。
 「土方殿の後ろにおられる皆様は、全て土方殿に付き従って戦うため、ここにこられたのでありましょう? それ以外、考えられませぬな」
 確かに、そうでないのならば何もこうして新撰組の残骸にいつまでも残っている理由など無い。
 「そうですよーっ。長井さんの考えているとおりです。さっきも副長にはそう言ってたんですよ」
 「倉田殿もこう言っておられる。拙者はかような義心など微塵も無い歩兵どもが部下にござれば、いやはや土方殿が羨ましい」
 「………」
 「我らの連隊の歩兵ですら、戦うのをとめる道理は無いのでござる。まして土方殿が責任を感じる道理はござりますまい?」
 「…そういうものか」
 「あまり気負いなさるな。一隊を束ねる者は、部下をいかに生き残らせるかを考えるのが責務ではございませぬかな?」
 長井は微笑を浮かべ、再び前を向いた。
 歳三も、再び歩き始めた長井に続く。
 「…もっとも、部下の死に場所がそこでふさわしいかを考えるのも、隊を束ねるものの責務ではありますがな」
 周囲に聞こえないような声で、長井が言った。
 「………」
 歳三も、それ以上問わなかった。

 尋常でない混み具合の宿場を通り過ぎ、立ち止まった長井が指差したのは、とある寺院だった。
 「ここが本営かね」
 「左様、既に士官の者も相当数集まっておるゆえ、ご挨拶なさるがよろしいかと」
 「お心遣い、痛み入る」
 歳三はそう答えたが、別にさして自分に好意を持っているわけでもない人間にわざわざ愛想よくする気もない。
 まして嫌悪感まで抱いているような相手とは、会話すらする気もなかった。
 ただ、話に聞いた長井の連隊長にだけは挨拶しておくべきだろうと思った。
 「あ、長井様、戻られましたか」
 歳三たちが門内に足を踏み入れたとき、一人の旗本が話しかけてきた。
 「小笠原殿か、他の方々は集まられたかな?」
 「いえ、拙者がこれから大鳥さんを出迎えに参るところです」
 「そうか、大鳥殿はまだか。出立には間に合うのかね?」
 「ええ、もうじき船着場に着く頃かと。…ところで、そちらの方々は?」
 「おお、そうじゃった。こちらの方があの土方歳三殿であられる」
 「こちらが新撰組の土方様ですか! お初にお目にかかります土方様、拙者、小笠原新太郎と申します」
 目の前の若い旗本は、無愛想そうな土方に向かって深々と頭を下げた。
 「土方歳三です」
 それにつられ、歳三も言葉すくなに頭を下げた。
 「土方様、歩兵たちの間では予想以上に士気が上がっていますよ。これも土方様の勇名があればこそです」
 「………」
 「拙者はこれより大鳥様を出迎えに参りますが…土方様は、この軍の指揮を執られる気はないのですか?」
 「いえ、そんな気はありませんが」
 「しかし、皆の評判では土方様を頭取にしたいという声も多く、拙者としても、実戦経験がある土方様が頭取として適任と思いますが」
 「いや、私は………伏見で負けている」
 「あれは土方様の負けではありませぬ。幕軍全体が敗れたのですよ」
 「それに、私は剣の時代の人間だし、今回の戦はほとんど初対面の方ばかりだ。私が大将として出る幕じゃない」
 歳三は、淡々とした声で言う。
 「………土方様がそこまでおっしゃるのなら…わかりました」
 小笠原は残念そうな顔をしたが、無理に説得しようとはしてこなかった。
 「それでは土方様、長井様、後ほどまた」
 「うむ、気をつけてな」
 小笠原は一礼をして、本営を出て行った。
 歳三はしばらくそれを眺めている。
 「…どうですかな土方殿、拙者の言うとおりでござったろう」
 「………」
 「拙者としても、大鳥殿では少々指揮官としては不安なのですがな、考え直しては下さらぬか」
 「私は」
 歳三は、少し言いかけて、止まった。
 脳裏に京都時代の自分の姿が浮かぶ。
 近藤を局長として支えるために、冷酷無比な鬼と言われ、数々の残虐な行為を行ってきた自分である。
 ひたすら新撰組という組織を作り上げ、守ってきた。
 それは、副長として、歳三が考える使命であった。
 「…大将になる男ではない」
 やがて歳三の口から出た言葉は、さっきから繰り返している言葉である。
 しかしこの時は、今までとは違う重みがあった。
 「分かり申した、土方殿。拙者も、無理に強いるべきではありませんな」
 長井も何か感じ取り、申し訳なさそうに答えた。
 「しからば、大鳥殿が来られるまで、わが隊長にお会いいただけませぬかな?」
 「それは構いませんが…」
 「我が隊長も、土方殿にお会いするのを楽しみにしていらっしゃいます。ささ、早く参りましょうぞ」
 長井は急にせわしくなり、先にたって歳三をせかす。
 「はぇ〜っ、長井さんは隊長さんのこととなると、突然はりきりますね〜」
 「並の心酔ぶりじゃなさそうだな」
 「長井さんは副長をうらやましがっていましたけど、向こうの隊長さんも副長くらいに立派な方なんでしょうねーっ」
 「俺みたいな奴なら、あまり会いたくはねえな」
 「あははーっ、副長も珍しく謙遜するんですねーっ」
 「いや、謙遜じゃないんだが………」
 「…とりあえず、行く」
 「あ、待ってよ舞ーっ」
 「………」
 この二人は、状況を問わず元気だった。
 「まあ、とりあえず行きましょう副長」
 「…そうだな。島田君、他の者たちを休ませてくれたまえ」
 「承知いたしました」

 長井が新撰組の面々を連れて行ったのは、本営の寺院の中でも奥まった一室であった。
 士官たちがやかましく動き回っている本営内の中で、その一室だけがひっそりとしている。
 「ほう、随分妙なところに隊長さんがいるんだな」
 「物静かな方なんですねーっ」
 「左様、隊長はいかなる時においても冷静沈着でいらっしゃる方なのです」
 「………それは、この場合関係あるのか?」
 「まあまあ、とにかくお会いいただければすぐにでも分かること」
 長井はさっきから同じようなことを繰り返している。
 別にもうろくしているわけでもなさそうだが。
 「隊長、戻りましてございます」
 部屋の障子の前で、長井が中へと呼びかける。
 「…どうぞ」
 「失礼いたします」
 長井が障子を開いて部屋に入るのに続き、歳三、斉藤、舞、佐祐理さんが入る。
 「隊長、土方殿と新撰組の方々をお連れいたしました」
 「…ありがとうございます、長井さん」
 老体の長井が丁重に挨拶する相手は、確かに連隊長のフランス士官服こそ着ているが、その中身は女性、しかもかなり若い。
 「…驚いたな。まさか、かように若い女子が、長井殿があれだけ心酔なさっている連隊長とは」
 「連隊長が小娘で、意外でしたか?」
 「まあ、確かにそうだな。長井殿の話し振りでは、もっと老練な武将かと思っていた」
 「世の中、実際に見て、自分の思ったとおりということは、あまりないものです」
 若い連隊長は、歳三の素直な感想に、表情も変えずに淡々と語る。
 「あなたが土方さんですね? 私は、第十四歩兵連隊長と瞬煌隊指揮官の天野美汐といいます」
 「ふぇ? 隊長さんはあの天野家の方なんですか?」
 「左様にござる。隊長は三河以来の旗本、天野家の方にござります」
 「私の家は、庶流の中の庶流ですけれど」
 天野は、あくまで冷静に、平易に、話している。
 「そういえば、上野の山には彰義隊が篭っているようですが、その頭目も天野といいましたな」
 斉藤が、ふと口にした。
 「ああ、そういえば、天野八郎、とかいったか」
 「…いえ、その方は天野の家の者ではありません」
 「あの天野八郎という者は旗本ではござらぬ。公事宿の主人のせがれで、ただ勝手に天野の姓を名乗っているのみにござる」
 「そうかい、では俺と同じような奴ってわけか」
 「土方殿は代々土方の姓でござろう。あの者の父は大井田吉五郎という者にござりますれば、大井田と名乗るのが筋にござる」
 「長井さん、別にあの方は私どもの天野の姓から名乗っているとは限りませんよ」
 「たとえそうであっても、遠慮するのが礼儀でござりましょう。天野家が名門の家柄であることを公事宿の息子が知らぬわけがござりませぬ」
 「しかし長井殿、今の世に偽名ははびこって当然のものだと思うが?」
 「いえ、長井さんは、本当はそのことが腹立たしいのでなく、一人息子を彰義隊に盗られたことが腹立たしいのです」
 歳三の発言に対し、天野が振り向いて言った。
 「ほう、そうなのかね」
 「はぇ〜、長井さんの息子さん、彰義隊に連れてかれたんですか?」
 「そうではありませぬが、あのたわけ、拙者が止めるのも聞かず、あのような連中と行動を共にすると言い出しまして…」
 長井は渋い顔になり、愚息への文句をつける。
 「しかし、彰義隊も幕府への忠心から上野に篭っているのであれば、そこまで御子息を非難しなくても…」
 「土方殿、あの連中に志などありませぬ。ただ頭を寄せて騒いでいるのみにござる」
 「でも、町の人たちからは評判いいみたいですよ?」
 この時期、彰義隊は渋沢成一郎を中心とする元一橋家家臣の一派と、天野八郎を中心とする旗本の一派とでたびたび争いが起きていた。
 やや現実主義的な渋沢成一郎(後に事業家になる男だから、当然といえば当然だが)のやり方に対し、義心一筋の天野八郎が反抗し、ついには頭取の渋沢一派を追い出してしまった。
 渋沢追放後の頭取は大身旗本で気骨ある男として知られていた池田大隈守が就いたが、天野八郎が実際には彰義隊を束ねるようになった。
 ちなみに渋沢成一郎は、関東地方で官軍と戦うが敗れ、榎本武揚の艦隊に身を投じて、函館まで向かうことになる。
 幕府の瓦解後、江戸の治安は悪化の一途を辿っており、新撰組発足当時の京都にも似た状況であった。
 そこで彰義隊の見回りが行われ、町人たちから大いにありがたがれた、というわけである。
 もっとも、官軍が江戸に来たあとは、江戸市中で少数の官軍兵士をよってたかって切り刻む事件が相次ぎ、その規律のなさを露呈することになるのだが。
 「たとえ評判がよかろうと…あの者たちでは、薩長に勝つことはできませんな」
 「彰義隊の連中も、この江戸に士道の在ることを期待しているのだろうが…」
 「もはや旗本たちに、士道など残ってはおらぬ。士道の残る場所は、もはやこの国には一つしかござらん」
 その場所、奥羽。
 心の中でその地の名を唱えた歳三に、あの永倉や原田たちと別れた夜のことが思い出された。
 奥羽へと向かう歳三たちと別れた彼らも、江戸で戦うという。
 その後、どうなるというのか。
 「しかし長井殿、ここを発てば、御子息が彰義隊と共に討ち死にするのを止めることはできなくなりますぞ」
 「それもまた、宿命にござる。せがれが選んだ道なれば、それを止める権利は、拙者にはござらん」
 「しかし………」
 「土方殿、せがれも分別のつく年にござる。…己の最期にふさわしい場所は、判断できるように育てたつもりにござる」
 「………」
 「しかしそうなると、我が長井家も拙者の代で終わりのようですなあ…。されど恩義ある幕府と共に潰えるというなら、それもまた本望にござろう」
 長井は、僧のように落ち着いた表情で、歳三に語っていた。
 (そうか…やはり長井殿はこの戦で死ぬつもりなのか…)
 何十年もの間生きてきて、ここで死を覚悟した長井源吾の心境は、歳三にもわからない。
 舞にも、佐祐理さんにも、そして長年行動を共にしてきたに違いない天野にもわかることではないだろう。
 もっとも、死を常に覚悟する者の立場としては、歳三は誰よりも理解できるのであろうが。
 「…さて、そろそろ評定が始まる刻限にござろう。隊長、土方殿、お支度を」
 「………はい」
 「あ、ああ…」
 そう言いながら、長井は一人で立ち上がった。
 「拙者は先に参り、評定の集まり具合を確かめておきましょう。土方殿も、支度が出来次第、評定の方へ」
 「わかった。また後ほど」
 長井は頷き、再び障子を開いて戻っていった。
 一方、天野は座ったまま立ち上がろうとしない。そのまま、長井の開けはなった障子を見ている。
 「長井殿は…既に覚悟なさっているようだな」
 「………でも…」
 歳三の呟きに、今まで黙っていた舞が口を開いた。
 「…辛そうな、目をしてた」
 「そうか?」
 「私には…そう見えた」
 「長井さんは…他人には諦めているように装っていますが、密かに彰義隊の方に足を向けていたみたいなんです」
 天野が、舞の方へ顔を向けて言った。
 「最近は自ら上野に赴こうとはしませんが、今でも度々人を送ってはいるみたいです」
 「そうか、やはり長井殿も…」
 彰義隊、義を彰らかにする隊、そこに居続ける事は、限りなく死に近いことである。
 官軍と伏見で死闘を演じてきた新撰組の面々ならば、誰しも頷くことであろう。
 それはまた、第二次長州征伐の凄惨な戦場を体験してきた天野も、そして長井源吾当人も、認めざるをえない事実である。
 そして、限りなく死に近いことでは彰義隊に劣らない、この江戸脱走組。
 そこに所属する長井源吾もまた、いつ死んでもおかしくない身である。
 長井の息子もまた、己の信念のために彰義隊に身を寄せながら、父親と同じ気持ちを抱いているのかもしれない。
 そんなことを考えると、歳三の心は一層沈痛なものになる。
 「土方さんは………乗り越えられましたか?」
 「…なに?」
 いきなり問われた歳三が、思わず天野の顔をじっと見る。
 「近藤様はまだ亡くなられたわけではないですが…土方さんには、相当辛かったと思います」
 「………」
 いきなり旧友の名を出された歳三は沈黙する。
 しかし、その表情はみるみる不機嫌になっていく。
 近藤の惨めな投降以来、歳三は近藤のことに触れられるのをひどく嫌った。
 (近藤がどんな思いで敵に下ったのか、よその連中などにわかるものか)
 歳三にはそんな腹があったのかもしれない。
 今回もまた例外に漏れず、歳三は不機嫌な顔、そして目つきで、天野を睨み付けた。
 しかし天野は、
 「…私にも、わかります。大切な友人との別れに抗えないのは、とても辛いことですから………」
 こう、歳三に言った。
 その、天野の真剣に憂う表情に、歳三の不機嫌さも少し緩んだ。
 「天野殿も、何か………」
 そういいかけて、歳三の頭に長井が言った言葉が浮かんだ。
 (長井殿は、天野殿が深い悲しみを乗り越えてここにいる、と言っていたが…)
 もう一度、天野の顔を見る。
 しかし、その表情からは、歳三のことを憂う感情以外を読み取ることは出来なかった。
 それは、己の感情を押し殺しているようにも見える。
 「…土方さんは、乗り越えてください」
 天野は、その表情のまま、歳三を見据えた。
 「私は、こんな風になってしまいましたが…土方さんは、どうか強くあってくださいね」
 天野の言う「こんな風」を理解するには歳三と天野の面識は十分でなかったが、天野の伝えたいことは、歳三に十分伝わった。
 だから、歳三は答えた。
 「ああ、俺は、大丈夫だ」
 その目は普段の、無愛想だが優しげな歳三の目つきに戻っている。
 「俺にはまだやることが残っているからな、新撰組副長として」
 新撰組は、まだ歳三の中では生きている。それは歳三の死まで、死ぬことはない。
 そう言う歳三を見て、天野の顔にも少し笑みが浮かんだ。
 「…今は、戦に出ている誰もが、それに耐えなければいけないというのに…組下の歩兵たちまでが耐えているというのに…駄目ですね、私は」
 「天野殿が経験した別れがどのようなものだったか、それは俺にはわからないが…天野殿が立派にやっているのなら、それでよいのではないか?」
 「…私は、立派にやっているのでしょうか?」
 「連隊長の責務ってのは、そう楽なものじゃないのだろう? 少なくとも、長井殿は天野殿が連隊長であることに十分満足なさっているようだしな」
 「………」
 そう歳三が言っても、天野の顔はそれほど晴れる様子は無い。
 「まあ、天野殿は今までやられてきたようにやれば、いいのではないか?」
 天野のやり方がどうなのかなど、歳三にはわかるはずもない。
 しかし、長井がそれで満足しているなら、それで悪いようにはならないだろうし、組下の歩兵たちもまた然りだ。
 ある意味では、歳三よりも大人数をまとめている天野の方が、歳三よりも重責に耐えているという見方も出来る。
 しかも、天野は幕府陸軍という組織の人間であるから、その煩雑さは歳三の比ではないだろう。
 「…そうですね、土方さんの言うとおりかもしれません」
 「当面は、そう考えておくことだ。別れの辛さなどというものは、いずれなくなるものだからな」
 歳三は、少し年長者である貫禄を見せ、立ち上がった。
 歳三は、武州の日野村にいた頃から、数限りない別れを経験してきたのだ。しかもその大半は死別である。
 「さて、そろそろ俺たちも行くとしようか、評定へ」
 「はい、そうしましょう」
 天野も、舞や佐祐理さんたちも続いて立ち上がる。
 その顔には、信頼するに足る指揮官への、満足感があった。


 評定の行われる本堂には、むっと熱気が渦巻いていた。
 江戸脱走組の幹部たちが、正面の大きな須弥壇を背に、ずらりと並んでいる。
 幕府の仏式歩兵の指揮官が主だが、会津藩や桑名藩の者もいる。
 神尾に書状を送った、会津の秋月登之助や、戦闘指揮にかけては当世一流と言われ、後には日露戦争でも活躍することとなる、桑名の立見鑑三郎もこの中にいる。
 彼らは身分順に並んでいるが、大御番組頭の歳三は先頭に座っている。
 しかも他の者たちとの談笑に加わる様子もなく、瞑目したまま押し黙っている。
 「大鳥殿が来られたぞ!」
 門の方から声が聞こえてきた。
 居並ぶ諸将も、一斉に声の方を見る。
 本堂にこもる熱気の中に、数名の士官を従えた男が入ってくる。
 「お、圭介だ」
 「圭介がきやがったぞ、これでもう大丈夫だ」
 柄の悪い歩兵たちが、上官を呼び捨てにして囁きあう。
 その大鳥も、別段とがめる風もなく、歩兵の群を押し分けていく。
 「大鳥さん、お待ちしておりましたよ」
 幕臣の一人が立ち上がって出迎え、そのまま自然に、大鳥を上座へと導く。
 と、先頭にいる歳三と目が合った。
 「これは土方殿、お久しぶりです」
 大鳥の挨拶に、歳三は無言で会釈を返した。
 この二人は、江戸城で何度か面識がある。
 歳三からすれば、いつもどおりに振舞っただけだが、そんな歳三の振る舞いに対し、大鳥は顔に不快感を浮かべた。
 もともと、大鳥は歳三に対して好意を持っていない。
 大鳥は、というよりも、幕府の仏式士官たちの多くは、というべきだが、先ほども述べたとおり、剣術集団である新撰組は幕軍の中でも異分子なのである。
 大鳥は歳三の上座に座った。
 大鳥圭介、今は正式な旗本であるが、元は播州赤穂の医者の息子である。
 初め、岡山藩の閑谷学校で学び、その後緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだ。大村益次郎や福沢諭吉の後輩に当たるが、大村益次郎とは面識がない。
 その後、医学から兵学、工学に興味を移し、反射炉建設で有名な旗本、江川太郎左衛門の元に身を寄せる。
 旗本に取り立てられたのは慶応二年だから、この時期から二年前に当たる。
 さて、大鳥を中心として軍議が始まる。
 「我らは宇都宮へと向かうことで既に決定していますが…どうです、今の手勢で無事行けそうですか」
 大鳥の質問に、幕臣が答える。
 「現在ここに集まっているのは、大手前大隊、第七連隊を中心とする千名と、桑名藩の二百名、それに第十四連隊を中心とする「瞬煌隊」の四百名が主だったところです」
 「ふむ、それに私が連れてきた六百名」
 「小部隊も全て合わせれば、二千五百は軽く超えるでしょう。砲も四門あります」
 「これだけあれば、東山道軍の戦力に比べても遜色ないですな。今後、さらに増えることもあるでしょうしな」
 「はい、ところが、これを束ねるべき人物をどうするかが問題でして」
 兵こそ集まったが、士官たちにはずば抜けて高い身分の者がいるわけでもない。
 大御番組頭の歳三が先頭にいたことが、それを示している。
 だから、明確な指揮官が今は不在なのである。
 「土方殿がいるではないか」
 大鳥が、さらりと言う。無論、本心ではあるまい。
 「いえ、土方殿を頭取に、という案も出ましたが、どういうわけか土方殿は固辞なさりまして…」
 幕臣が歳三のほうをちらりと見る。
 「私は、伏見で洋式の小銃・大砲に負けております」
 歳三は、顔を大鳥に向けて言った。
 「それを学ばれた大鳥殿こそ、頭取にふさわしいと考えますが」
 こう言う歳三。これも本心かどうか。
 「大鳥さん、既に私たちの方で大鳥さんを頭取に仰ぐということを決めておりますから、ここはぜひ御承諾ください」
 「おお、天野殿か。第十四連隊を継がれたそうだが、瞬煌隊の隊長も務めておられるのか?」
 「はい、若輩者ながら、長井さんの支えで何とかやらせてもらっています」
 「おお、講武所の教授である長井源吾殿が補佐しておられるのか。それは頼もしかろう」
 「ん、長井殿は講武所の教授であられたのか?」
 「ええ、長井さんは元々砲術指南をなさっていた方なんです。父とは旧知の仲でしたから、長州征伐の時に当時連隊長の父が長井さんに頼み入って、副長を務めていただいているんです」
 「ほう、やはりただ者じゃなかったのか」
 「本来ならば、私などよりも、長井さんが連隊長になられるべきなのでしょうが…」
 「戦の指揮をする才は、天賦のものだろう。長井殿はそれを天野殿に見出したのかもしれんな」
 「ほう、天賦の才」
 大鳥が関心を示す。
 「ふむ、そうであるなら、ここは拙者よりも、実戦経験も持っておられる天野殿を頭取にするという手もありますな」
 「先ほども申しました通り、私は若輩者ですし、実戦を指揮した経験はありませんから…それに、今は自分の連隊で精一杯です」
 「そうか、そうおっしゃるなら、仕方ないですな」
 天野が丁寧に断るのを見て、先ほどの幕臣が再び口を開いた。
 「大鳥殿、既に決まったことですゆえ、ここは引き受けてもらいますぞ」
 「わかった、恐れ多いことだが、大鳥圭介、この軍を指揮させていただこう」
 「おお、それでは、頭取になっていただけますか」
 大鳥は、大将を務める以上は勇ましく引き受けねばならぬと思い、
 「承知した!」
 と、威勢良く応じた。
 …こうして、頭取の座に就いた大鳥だが、大鳥自身はどうも空気、いわば時勢に乗せられたような感がある。
 もともと大鳥自身は、その技量を買われてかつがれたのであり、当人は至って冷めた性格の男である。
 彼自身、最終的に日光に拠ることは決定事項ではあったが、官軍と意地でも一戦という気持ちではなく、暫く軍を擁して様子を見ようという腹であった。
 薩長を討って幕府のために戦い抜き、武士の意地を貫こうという歳三とは、正反対の考えといえる。
 それでも…
 「副将は、土方殿で決まりですな」
 幹部級の幕臣や会津・桑名の者たちが頷きあう。
 大鳥にも異存がないし、歳三自身、副将を断る理由はない。
 「承りましょう」
 歳三は、言葉すくなに答えた。
 主将である頭取は大鳥圭介、副将は土方歳三、正反対の二人が、江戸脱走組の指揮をすることとなったのである。

 このとき、この場にいる多くの者が勝利を信じていた。
 だからこそここに集まったのだが、彼ら仏式歩兵の指揮官たちは、自分たちの軍勢が官軍に十分対抗できる軍隊であることを誰よりも自認していたし、大村益次郎が決して展開を楽観視しなかったのも、彼ら幕府陸軍の強さを認識してのことだった。
 だが、時勢という見えない波が、彼らを、予想だにしなかった、敗残兵の立場へと追いやっていく。
 ただ一人、土方歳三の頭からは、勝敗のことなど消えていた。
 あるのは意地、それだけである。
 (近藤さんよ…俺はまだ、やれそうだよ。もう少し、薩長の賊軍に目にもの見せてやれそうだ…)

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