第二十三話「引き金を引く者」
「…これはどういうつもりだ」
奥羽鎮撫総督府本営の一室で、世羅修蔵が畳の上に書簡を一つ投げ出した。
「案外、連中の動きが早かったということだな」
大山格之助が投げ出された書簡を拾いながら言った。その書簡は、会津藩の謝罪降伏を認めるよう求める嘆願書である。
しかもそれと同じものが、会津藩本人からのも含め、奥羽諸藩からの嘆願書がまとめて送られてきている。
この日は閏四月十一日だが、その前の四月二十六日に会津から降伏の使者が総督府に来ており、既に戦闘は終息している。
それだけでも、会津藩を取り潰すつもりの世羅と大山には不愉快なことだ。
しかしながら、会津藩を取り潰したがっているのは薩摩と長州だけなのが実情ということもあり、なかなか思惑通りには進まないのである。
長州内部でも、広沢真臣のように会津の討伐を望まない者が居るから、それがなおのこと世羅には腹立たしい。。
「奥羽の腰抜け侍がまたでしゃばりおって…」
世羅がいらいらしながら別の嘆願書を握りつぶした。
「どうする、とりあえず九条様に言上しておくか」
「こんなもの、即刻却下に決まっておる。伝える必要などあるまい」
「…世羅殿、事はそう簡単には運びませぬぞ。いずれにせよ、上参謀の方々と相談する必要があろう」
「ふむ…」
世羅がうなずいたが、その顔は不快そうである。
「…どちらへ行かれる?」
イライラしながら立ちあがった世羅に対し、大山が嘆願書を読みながらたずねた。
「会津に密通している輩を取り締まって参る」
「仕事熱心なことですな」
世羅はそれ以上何も言わず、廊下を荒々しく歩いて去っていった。
残された大山は、じっと嘆願書を見ている。しかし、既にその文章は大山の目に文字として映ってはいない。
(…そう、事は簡単には運ばぬのだよ、世羅殿)
手の和紙を見ながら、大山の口元が緩んだ。
遠ざかる世羅の足音が、庭の木から木の葉を一枚落としていった。
多くの人間は自分とその周囲に危険が迫ることを好まない。だから平和を望む人が多いものである。
しかし、人には常に争いが歩み寄っているのも事実だ。
他人との接触が社会を構成している以上、社会に生きる限り、他人と争い、それを調整して生活していかなければならないからである。
争いの形はさまざまだが、その多くは足音を立てずに近づいてくる。
家主はその日に強盗が侵入してくることを知らないし、居直り強盗はその家に実は家主がいることを知らない。
争いの足音が聞こえるためには、家主が家におり、同時に空き巣がその家に忍び込む事実を知らなければならない。
赤アリの前方10cmに黒アリがいるとして、二匹がそのまま進めば争いが起こるとしても、アリにとって10cmという距離は遠く、その時には、アリは争いを察知できていない。
そして互いが察知したときには、既に回避はできない状況になっている。
その時点で察知できるのは、高い視点からその光景を眺めることができる者でなくてはならない。
しかし、仮に人間がその現場の横を通ったとしても、その光景に気づくことはあまりないだろう。
人間にとって足元の10cmは、注視するには小さすぎると思われるからだ。
よって、アリの争いを察知することができるのは、アリより高く、人間ほど高くない視点を持つものとなる。
しかし、察知するものが誰であれ、実際に争うのはアリである。
争いを察知したものが、必ずしもその争いに関心を払うとは限らない。
会津の空は穏やかである。
先日のような物々しい雰囲気も町にはなく、町の人々はいつも通りの仕事をこなしていた。
祐一郎が目覚めたのも、戦場の陣中ではなく、水瀬家の畳の上であった。
「おはようございます、祐一郎さん」
「あ、秋子さん、おはようございます」
廊下で普段通りの挨拶が交わされる。
会津の水瀬家には、再び平穏な時間が戻っていた。
もっとも、全てが以前のままではない。
「膳の支度はできてますよ」
「ありがとうございます」
祐一郎は頭を下げ、襖を開ける。
なるほど、そこには見慣れた面子が並んだ光景がある。
具体的には、半分眠った従姉妹、偽名の少女、背中に銃を背負った同心、などだ。
「って、なぜあゆがここにいる!」
「おはよう、祐一郎君」
右手の箸を止めながら、あゆが呑気に答えた。
「なんで朝っぱらからあゆの顔を見ないといけないんだ…」
「祐一郎君、ちょっと失礼だよ」
そう言って、むっとした顔になる。
「朝から他人の家に押しかけて飯を食う奴も、十分無礼だぞ」
「押しかけたわけじゃないよ、お呼ばれされたんだよ」
「お呼ばれ…?」
「うん、見回りをしていたら、そこの通りで秋子さんに会ってね」
「ああ…もうわかった…」
祐一郎はそこで全てを理解し、あゆの口を制した。
「食事は大勢でした方が楽しいですからね」
いつの間に入ってきたのか、秋子さんが後ろから締めくくった。
「しかし、なんでこんな朝早くからあゆは見回りなんてしているんだ。町奉行所だって、まだ開いてないんじゃないか?」
「ボクはいい町同心だからね」
あゆの返答は、祐一郎の疑問を解消してくれるものには程遠かったが、さしたる興味もなかった祐一郎はそのまま味噌汁をすすった。
「祐一郎君は、今日暇なの?」
祐一郎は、あゆの問いを気にするわけでもなく味噌汁の香りと味を楽しみ、御椀を膳に置く。
「馬鹿言え、雪兎隊の訓練はなくても、大砲方のお役目はある」
「そうなんだ…残念」
「なんであゆが残念なんだ」
「今日は祐一郎君と遊びに行こうと思っていたからね」
「………」
飯をかき込んでいた、祐一郎の箸が止った。
「…あゆは今日非番なのか?」
不審そうに、あゆの着ている紋付を見る。
「ひばん?」
「不思議そうな顔をするな。今日は休みの日なのか、と聞いているんだ」
「それなら大丈夫だよ。ボクの仕事は特別だからね」
「特別?」
「うんっ、ボクの仕事は、いつでも好きなときにやっていいんだよ」
「………」
焼き魚をつついていた箸が止った。
「どうかしたの?」
「いや…」
祐一郎はまじまじと目の前の同心を見た。
「あゆはやっぱり…」
閑職に追いやられているんじゃないか、と言いかけて、祐一郎は口をつぐんだ。
「何かな?」
「いや、失礼な気がするから、やめておこう」
「言いかけておいてずるいよ〜」
不満そうなあゆをよそに、祐一郎は焼き魚をつつき直した。
「でも、もうすぐ祐一郎君にも暇もできるよね」
「どうしてだ?」
「戦も終わったし、祐一郎君もお城のお役目が片付いたら、お休みももらえるんだよね?」
「まぁ…な」
雪兎隊も、戦が当面なくなれば、解体ということになるだろう。所詮は予備隊であり、正規軍ではない。
わくわくしたあゆの目を前に、祐一郎は曖昧に答えた。
「もう仙台の人たちと戦わなくていいんだよね?」
「米沢の方たちがうまくやってくれるだろうからな。もう戦にはならないだろ」
「じゃあ、お休みになったらどこかに遊びに行こうねっ!」
「気が向いたらな」
「ダメだよ、今ちゃんと約束しないと」
「そんなこと、俺の知ったことか」
「うぐぅ、いじわる…」
口を尖らせるあゆ。
そのとき、祐一郎からそらしたあゆの目に、隣でちびちび飯を食べる真琴の姿が映った。
「ねえ、真琴ちゃん」
「え?」
突然、声をかけられた真琴が、驚いて顔を上げた。
「真琴ちゃんも、祐一郎君と遊びに行きたいよね」
「え…あ…うん…」
「おいおい、こんな悪徳同心に気を使わなくていいんだぞ」
「べ、別に気を使ってなんかないわよう…」
「ほら、真琴ちゃんだって遊びに行きたいんだよ」
「別にそういうわけでもないけど…遊びに行くって言うんだったら、一緒に行ってあげてもいいわよ…」
もごもごと、真琴が言った。
「うんうん、みんなで遊びに行けばきっと楽しいからね。だからほら、祐一郎君」
「…ああ、もう、わかった。約束してやるよ」
「やったっ!」
あゆが箸を持ったまま万歳した。
「なら、指きりしないとね」
「なんでそんなことまでしないといけないんだ」
「約束したら、指切りはしないといけないものなんだよ」
「そう思うのはお前だけだ」
そういいながらも、あゆが目の前に差し出してきた指に、自分の指も絡める祐一郎。
「早くお休みが取れるといいですね」
その様子を見て、秋子さんが言った。
「そうですね」
指切りを終えた祐一郎も頷いた。
閏四月十五日、祐一郎たちの知らないところで、状況は大きく動いていた。
諸藩の嘆願書を添えて、会津が提出した嘆願書は、総督府によってにべもなく却下された。
もはや新政府に、戦略の方向性を変える気などさらさらなかったのである。
互いに強硬的な態度をとる仙台藩も奥羽鎮撫総督府も、お互いに相手を警戒し、決して相手に懐を知られまいとしていた。
ここ仙台藩の軍事局でも、藩士たちが密談をしている。
「嘆願が却下されたというのは真か」
「ああ、本当らしい。どうやら世羅の奴が圧力をかけてきたそうだ」
「それだけではない。世羅の奴、ご家老と殿を口汚く罵ったというではないか」
「庶民あがりの長州人ふぜいが錦旗を盾に思い上がりおって…いかに朝廷から遣わされたとはいえ、殿への無礼は捨て置けぬぞ!」
「斬るか」
ふと、一人の男の口から出た言葉に、皆が固まった。
彼らの視線は、その言葉を発した男、軍監の柿歯武之進に集中している。
「…それも、悪くはないな」
同調の声が漏れる。
「あの男は、紛れもない君側の奸だ。会津公と朝廷とを争わせようとする、悪逆の徒だ。斬っても、何も悪いことはない」
「しかし…奴は新政府から送られてきた人間だぞ。もし斬られたら、新政府が黙ってないだろう」
「そうだ、我ら仙台藩にまで、火の粉がふりかかるやもしれん」
「だが、嘆願が却下された今、連中は再び、我らのみならず、奥羽諸藩を動員して会津を潰しにかかるだろう。そんなことは認められるか?」
柿歯は、一同を見回す。
「総督府が我らの意を汲み取らぬなら、それを汲み取るようにしてやればよいのだ」
「そのために、世羅を斬ると?」
「総督府にいる兵など、たかが知れている。我らの意にそぐわぬことをすればどうなるか、思い知らせればよいのだ」
「しかし、薩摩の大山格之助とやらは、そう簡単に折れますかな」
「折れなければ、斬るまでよ」
柿歯は、ニヤリとした。
「柿歯殿、やりましょう」
一人の藩士が声を上げた。吉崎伝蔵であった。
「やらねば、奥羽人は長州人と薩摩人になめられたまま生きていかねばならなくなる」
「その通りだ。奴が居る限り、領民は奴の恫喝におびえながら生きていかねばならない。これは領民のためでもあるのだ」
皆、神妙な面持ちで柿歯の話を聞いている。
彼らの顔を、柿歯はもう一度見回した。
「どうだ、我々の手でやらぬか」
「俺は乗る」
一人の藩士が同意を表明した。
「ここで、参加しないわけにはいくまいな」
さらに、もう一人。
そしてさらにもう一人、と、その場に居た総勢十三名が、全員参加を表明した。
「さて、やるなら早くやらねばならぬ。奴が今どこにいるかわかるか?」
「世羅の奴は、今福島の領内にいるはずだ。護衛もほとんどいないはず」
「ふふ…まさか福島で命を落とすとは、世羅の奴も考えておるまいて」
柿歯は不敵な笑みを浮かべたが、そのとき、一人の藩士が不安げに手を上げた。
「しかし柿歯殿、板倉家の御領内で命を狙う以上、ご迷惑をかける訳には参りますまい。何らかの対策を練らねば」
「うむ…この際は、我らの手によるものであることを、自ら宣言するべきであるかもしれないな」
「もとより処罰覚悟で臨むのだ。その程度のこと、なんら恐れることはない!」
吉崎が力強い声で言うと、皆もうなずいた。
だが、そのとき、彼らに幸運の使者が訪れたのである。
「福島板倉家用人、鈴木六太郎と申す」
突如、仙台藩軍事局に駆け込んできた武士は、自らをそう名乗った。
いきなり、話題の福島藩から来たという用人に、軍事局の藩士たちは戸惑った。
「して…我が伊達家に何の御用ですかな」
「実は拙者、総督府の世羅修蔵より、このような密書を預かりまして…」
「密書?」
不審がる藩士たち。
当然であろう、密書は預かったことすら他人には秘するものなのだから。
「ご丁寧にも、『決して仙台人に漏らすな』と言って、渡してきたのです」
「それは…なんと…」
「不審に思った拙者は、飛脚に預けず、自分で開封いたしたところ、このようなことが」
そう言って、鈴木は書面を一同に見せた。
その瞬間、冷静さを装っていた柿歯たちの顔色が変わった。
そこには、『奥羽皆敵とみなす』の一文があったのである。
この文こそ、先ほどまで柿歯と吉崎たちが憂慮していたことを、現実のものとさせることを予告した一文だと言える。
まさに、この先、新政府によってなめられる奥羽の未来を暗示するものだ。
「世羅は、この書状を越後の北越鎮撫総督の岩村精一郎に送るよう命じてきた。北越方面で戦が起きるのは必定にござりますぞ」
「柿歯殿…」
吉崎が、柿歯の顔を見る。
暫く神妙な面持ちで考えた柿歯は、真剣な表情で、鈴木に言った。
「鈴木殿、ちと重要な話がござる。聞いてくださらぬか」
「何をしているんだ、真琴?」
水瀬家の庭でしゃがんでいる真琴に向かい、縁側から祐一郎が声をかけた。
「あ、祐一郎。帰ってたのね」
真琴が振り返る。
だが、祐一郎の視線は、真琴の足元に向いていた。
「…その猫、どうしたんだ?」
真琴の足元には、猫が居た。子猫ではないようで、やけにどっしりとした体つきで、無愛想な顔をしている。
猫とは概して無愛想な表情だが。
「あ、この猫?」
真琴が、猫の頭に手を置きながら、答えた。
「今日、庭に迷い込んできたの」
「ほう、そうか」
改めて、猫をまじまじと見つめる祐一郎。
「しかし、今日迷い込んできたばかりの割には、やけに懐いてないか?」
「真琴の人柄がいいからね」
「あほ、んなわけあるか」
そういいながら、祐一郎も庭に下りる。
「まさか、お前がどっかから連れ込んだんじゃないだろうな」
「違うわよう! 本当に今日迷い込んできたんだから!」
「ふーん…」
祐一郎は猫を不審そうに見る。
心なしか、祐一郎に対して敵意を持っているようにも見える。
「本当はね…」
「ん?」
いきなり神妙な顔になった真琴の顔に、祐一郎は視線を移した。
「本当は、この子に初めて会った気がしないの」
「それは…どういうことだ?」
「わからないけど…記憶をなくす前に会っているのかもしれないの。本当に、この子の方から近寄ってきたし…」
「そうか………といっても、猫じゃなぁ…」
さしたる手がかりにもならないだろう。
「で、この猫、どうするつもりだ?」
「…飼っても、いいかなぁ?」
「俺に聞かれても困る。とりあえず秋子さんに聞かないとな」
「飼ってもいいわよ」
「って、いたんですか!」
いつの間にか、縁側から秋子さんが二人を眺めていた。
「ほんと!? やった!」
「いいんですか?」
「ええ、賑やかになるのはいいことですから」
「でも、名雪が…」
「それがちょっと困るわね」
全然困ってない様子で、秋子さんが頬に手を当てて言った。
「真琴、名雪には内緒にね」
「うん、わかった」
うれしそうに、猫を抱き上げる真琴。
それをじっと眺める祐一郎。
その祐一郎に、秋子さんが再び声をかけた。
「祐一郎さん、ちょっといいですか?」
「はい、なんですか?」
「折島様から聞いたのですが、遠野様が越後へ行かれるというのは本当なのですか?」
「…ええ、確かにそういう話もありますね」
遠野とは、元江戸家老の遠野凪右衛門である。また、越後というのはこの場合、越後にある会津松平家の飛び地を示している。
越後における会津松平家の領地は、小千谷、水原、十日町、津川等があり、関東において新政府と旧幕軍が戦闘を始めた頃から、この飛び地にも会津松平家は兵を集めているのである。
それは勿論、北越道を進攻してくる北越鎮撫総督軍を警戒するためだ。
「また…戦になるのですか?」
「大丈夫…でしょう」
そういう祐一郎の声にも、自信はなかった。
ほんの数日前と、自分たちの周りの状況は大きく変わっている。
嘆願書が却下されたことは、既に祐一郎の耳にも、秋子さんの耳にも入っている。
皆、口には出さないが、不安にさいなまれ、いつ訪れるとも分からない討伐の魔の手に怯えている。
会津の武士たちは、自分たちで戦を避けることができない、無力感に襲われていた。
彼らが知らない間に、戦は自分から勝手に近づいてきていた。
そして今、彼らがそれに気づいたとき、既にもう回避のために打つ手は残されていなかったのである。
祐一郎は、ため息を一つつく。
真琴は、猫を地面に下ろして、遊んでいた。
「大丈夫ですよ」
もう一度、祐一郎は言った。
「たとえ戦になったとしても、この街も、この家も、俺と家中の者の手で、薩長賊から守りますから」
「お願いしますね」
秋子さんが答えた。
「でも、それ以上に、祐一郎さんの御身体を大切にしてくださいね」
「はい」
「この屋敷を守るのは、私の役目でもありますから」
祐一郎は、真琴と遊ぶ猫をもう一度見た。
猫は、遊びながらも、祐一郎をじっと見つめていた。
ただ、先ほど感じた敵意のようなものは感じなかった。気のせいだったのだろうか。
「この猫も、悪いときに迷い込んできたもんだな」
「でも、祐一郎が守ってくれるんでしょ?」
猫を抱き上げながら、真琴が訊いた。
「猫のことまで、気が回せるか」
「別にいいわよ、初めから祐一郎のことなんて当てにしてないから」
「…生意気な」
祐一郎が舌打ちしたとき、会津若松城へ向かう、屋敷の外を早駆けの馬が走っていった。
水瀬の家に猫が迷い込んできたのは二十日のことであったが、争いは既に、その日の未明に侵入してきていた。
事は、十九日夜に始まる。
場所は、福島城下の妓楼「金沢屋」である。その日、金沢屋では、福島藩による宴席が設けられていた。
「いやはや、本日は、実によい宴であった」
「そうおっしゃっていただけると、何よりでございます」
世羅修蔵が、酔った態で、前に座った侍を労った。
世羅の前に居並ぶのは、福島板倉家の藩士たちである。
「仙台の馬鹿者どもも、素直にこうやってもてなせばよいものをのう」
世羅はそう言って、自分と総督府に対する伊達家の無礼を非難する。
板倉家の家臣たちも、腹の中で世羅の高慢さに対して怒りを抱きながらも、世羅の前ではそれを押し殺していた。
「さっさと会津を攻め潰し、こんなところおさらばしたいわ。まぁ、数日以内に北越方面軍も動く手筈になっておるし、その日も遠くはないだろうがな」
世羅の言動は、会津のみならず、明らかに奥羽人全てを侮っていた。
最初に出迎えた久瀬が憂いていたことが、このことである。
思うに、どうも世羅は薩長の力を過信していた節がある。
その過信が、奥羽への侮蔑へとつながり、結果的に、奥羽と薩長の関係をさらに悪化させた。
世羅がなぜ薩長の力をそこまで過信していたか、はっきりしたことはいえないが、鳥羽・伏見における、薩長軍の大勝利もそれに影響しているのではないだろうか。
大村益次郎に首をひねらせた勝利に、世羅は自信を得たのであろう。
もちろん、薩長軍は確かに強かった。しかし、自軍の強さについては、大村もしっかり認識していた。
大村は、鳥羽・伏見の勝利の原因を、時勢と見た。
ある意味、世羅は時勢による虚構に騙された一人なのかもしれない。
「世羅様、今宵は妓をこちらでご用意させていただきましたゆえ、本日はここでお休み下さい」
「おお、そうかそうか。では、そうさせていただくかな」
妓を連れ、金沢屋の二階へ上がった世羅は、そのまま床に入った。
用の済んだ板倉家の藩士たちも、床入りを確認すると、店から引き上げていった。
暖簾を下げた金沢屋の周囲は、人気もなく、静まりかえった。
日も改まった二十日未明、その静寂を打ち破る一団があった。
「…皆の者、用意はいいか」
黙って、全員が頷く。
それを見た先頭の男が、金沢屋の木戸を叩いた。
木戸は、何の疑いもなく内側から開かれた。
一団は、その中へと音もなく吸い込まれる。
「店主、奴は?」
「二階にいらっしゃいます」
「そうか、御苦労。ご迷惑をかけるな」
店主から蝋燭を受け取り、一団は二階へと駆け上がった。
「参るぞ」
再び確認を取る男。
そして再び全員が頷く。
次の瞬間、襖が開け放たれ、一団が室内へ流れ込んだ。
「………む……なっ!?」
妓と寝入っていた世羅が、異様な雰囲気に目を覚ます。
寝ぼけ眼に、何が起こっているのか理解しかねているようだ。
「世羅修蔵だな?」
「う、うぬら何者だ! 私は総督府の下参謀だぞ!」
「ならば結構。拙者、仙台伊達家軍監、柿歯武之進である」
「だ、伊達家…だと?」
全裸のまま、世羅は手と足を使ってあとずさる。
「用向きはただ一つにござる。切腹していただきたい」
「…!!!」
恐怖で、世羅の顔が歪んだ。
しかし、世羅も四境戦争(第二次長州征伐の長州側の呼称)で奮戦した軍人である。
枕元に置いてあった拳銃を取ると、襲撃者たちに向けて引き金を引いた。
一瞬ひるむ柿歯ら襲撃者。
だが、不運にも、その拳銃から弾が出ることはなかった。
それを見た柿歯は一瞬で間合いを詰めると、世羅の手から拳銃を奪い取り、部屋の隅へと投げ捨てた。
世羅は、必死に策を考えながら、柿歯に向けて大声をあげた。
「ふ、ふざけるな! うぬら、このようなことをして、ただで済むと思っているのか!」
「貴殿が生きている方が、当家には害がありましてな」
柿歯が、ギラリと白刃を抜いて、世羅に詰め寄った。
「きゃぁぁ!!」
そのとき、今まで恐怖に震えていた妓が、悲鳴を上げた。
切腹の瞬間を見せるのははばかりがあると感じたのか、一団の一人が、その妓を階下に連れて行った。
「さぁ、見事腹切ってくだされ。介錯は拙者がお引き受けいたす」
「そ、総督府を甘く見るな! 仙台も会津と同じ憂き目をみることになるぞ!」
「言ったであろう、貴殿が生きている方が害がある、と。貴殿ごときによって会津松平へ矢玉を放つくらいなら、我らは我らの手で、誇りを持って引き金を引かせていただく」
「我が主君への無礼、我が領内の民への悪行、全てここで悔いるがいい!」
「くっ…!」
世羅は、床の間に置かれた刀へと手を伸ばした。いや、伸ばそうとした。
「世羅殿、腹を切る刀は、我らでお取りいたしましょう」
吉崎が、床に世羅を羽交い絞めにしながら押さえつけていた。
必死の形相で、世羅も足掻く。
「吉崎殿、どうやら世羅殿は、ここで切腹をして畳を血で汚すことに遠慮なさっているようだ。表へとお連れしよう」
「うむ、承知いたした」
「や、やめろ! うぬら!」
世羅の抵抗も空しく、仙台の男たちにより、世羅は階段を下りさせられ、路上へと座らされた。
吉崎が世羅の手に小太刀を握らせ、回りを柿歯以下十二名が抜き身を持って囲んだ。
「さぁ、遠慮なく腹を召されよ」
柿歯が、冷酷に言い放つ。
「お…おのれら………」
小太刀を握った手を震わせ、世羅が呻いた。
その手は、震えたまま、いつまで経っても動こうとしない。
「吉崎殿、世羅殿は切腹の作法を学ばれていないようだ。教えて差し上げてくれまいか」
「分かり申した」
頷いた吉崎が、世羅の右手と左手を握り、身体と両足で世羅の胴を挟み込んだ。
世羅の顔が、背後の吉崎の顔へ向いた。
その目には、絶望的な状況に立たされた者の恐怖があった。
吉崎は、その目を見据え、こう言った。
「世羅殿、切腹とはこうやるものにござる」
そして、世羅の腕を腹に向けてぐいと引っ張った。
「ぐふああぁ!!」
肉を突き破る音とともに、世羅が断末魔の声を上げる。
それでもなお、吉崎の腕から離れ、はいつくばって逃れようとした。
その目には、もはや襲撃者たちは映っていない。
ただ、本能が、世羅を逃がそうとした。
「柿歯殿、介錯を」
世羅の身体から離れた吉崎が、刀を振り上げている柿歯を促した。
「…お覚悟!」
柿歯の刀が振り下ろされた。
ガッ
刃は世羅の骨を断ち、首は路上へと転がった。
己の胴から離れながらも、世羅の首は暫くうめき声をあげていたが、やがてそれも聞こえなくなった。
「皆の者、ご苦労であった」
「柿歯殿、世羅の首はいかがいたそう」
吉崎が、足元に転がる死骸を見つつ、尋ねた。
「このような奴でも、一応武士としてここへ来た奴だ。墓くらい作ってやろう」
そういって、柿歯は世羅の首を丁寧に布でくるんだ。
「遺骸は?」
「町方の者に手配してもらおう。我らもあまりここに長居するわけには参らぬ」
「では、主人にむしろを借りて参るとしよう」
「そうしてくれ」
福島の町はまだ暗かったが、この騒ぎで周囲の家にも目覚めた人がいるかもしれない。
人を殺めた襲撃者である以上、長居するわけにはいかなかった。
金沢屋の主人から借りたむしろを遺骸にかけると、柿歯たちは身なりを正し、福島城下を去っていった。
この事件は、ただちに福島城下中へ伝わり、やがて諸藩へと早馬で伝えられることとなる。
「大山殿!」
奥羽鎮撫総督府本営で、大山格之助は同じ総督府付きの薩摩藩士に声をかけられた。
「なんですかな?」
「聞いたか! 世羅修蔵が福島で何者かに斬られたそうだぞ!」
「ほう、それは真にござりますか」
「…あまり驚かれていらっしゃられるぬようですが、ご存知でありましたか?」
「いえいえ、初耳にござる。これが性分でしてな」
「さ、左様か。ともあれ、参謀の方々でこの件について話し合うそうだ。大山殿も何か考えておいた方がよいぞ」
「ご丁寧にどうも」
大山は軽く会釈して、また廊下を歩いていった。
(思ったより、早かったな…)
渋い表情で、大山は顎に手を当てて考える。
(まあ、よいか…さて、次はどうしたものか)