第二十五話「加農砲」

 時間にすれば、それほど長いことではなかった。
 しかし、その間に情勢は変わり、一介の無名会津藩士である相沢祐一郎にも行動を迫ってきたのである。
 いや、会津武士であれば、行動を迫られるのも当然と考えていたのかもしれない。
 会津藩士たちがどのような心境でこの戦争に臨んだのか、はっきりと知ることは出来ない。
 とりあえずこの日、祐一郎は久しぶりに調練場を訪れていた。
 最初にこの調練場を訪れたのは、まだ雪に埋もれていた頃である。
 時間にしてみれば、ほんの数ヶ月前のことだが、一藩士の祐一郎にもそれから今までの間に色々なことがあった。
 昼休みなのであろう、訓練の砲声や銃声は聞こえてこない。
 静かで広大な調練場の中を、澄んだ青空の下で歩いていると、今までのことをふと考えてしまったりもする。
 「お、来たか、相沢」
 会津反射炉の前に来たとき、目的の相手、三木本九郎の声で、祐一郎は我に帰った。
 「聞いたぞ、神尾殿の下に付けられるそうだな」
 「ええ、お陰ですぐに白河城の守備に送られるそうです」
 「ふ、これで立派な精鋭部隊として認められた、ということだな」
 「でも、中身は前と同じですよ? あの名雪が砲を曳いているような部隊なんですよ?」
 苦笑いをしながら祐一郎は答えるが、三木は片手を顔の前で振って答えた。
 「いやいや、私から見ても、雪兎隊は立派に前線で戦えるだろうよ。神尾殿の下でも立派に戦えることを、神尾殿自身に認めさせたのだからな」
 「そうでしょうかね…」
 「まあ相沢よ、隊長のそなたが真っ先に自信を持たなくてどうする。部下たちが不安になるではないか」
 「ええ、それはそうなんですけどね」
 「ともあれ、そなたたちの装備に関しては、我ら大砲方も尽力するように指示が出ておる。装備については自信を持ってよいぞ」
 「感謝します。…けど、実際に見せていただかないと、その自信は持てませんね」
 「よかろう。一隊を預かるものならば、それくらい慎重でなくてはならないからな」
 三木は満足気にうなずき、祐一郎を反射炉脇の蔵へと導いた。
 歩きながら、祐一郎は反射炉を見上げる。
 幕府の反射炉に比べれば格段に小型ではあるが、それでも立派なものだ。
 これが、自分たちを含め、前線で戦う者達をどれだけ助けてくれるのか、それはまだ祐一郎にも三木にも未知数である。
 「ここだ」
 そう言いながら、三木は数棟建てられている蔵の中でも、一番新しい蔵の前へ立った。
 三木は自ら蔵の頑丈な錠を開けると、祐一郎に中へ入るよう促した。
 「どうだ、見事であろう」
 「ええ、これはまた、頑丈でよく出来た蔵で…」
 「阿呆、蔵のことなどどうでもよい。そなたに見せたいのはこれだ」
 三木に言われ、祐一郎は蔵の梁から三木の指の先へと視線を移した。
 「え…こ、これは!」
 思わず、足元に置いてあった何かにつまずきそうになりながら、駆け寄る。
 そして、真新しい鋼鉄製のそれに触れた。
 「どうだ、当家の反射炉で作った大筒の筆頭を飾る砲であるぞ」
 「………」
 「これを作るのには苦労したぞ。江戸から技術者を連れてきて正解だったわい」
 「………」
 「…おい、相沢、黙ってないで何か言ったらどうだ」
 三木に怪訝そうな顔をして言われ、祐一郎はようやく振り返った。
 「素晴らしい…素晴らしいですよ!」
 「おお、そうかそうか。気に入ってくれて何よりだ」
 「本当に…これをうちの隊にまわして頂いてよろしいのですか?」
 「勿論だとも。というより、これはそなたらの隊に合わせて作った砲でもあるからな」
 「それは…つまり…」
 祐一郎は、腕を横に広げながら、数歩下がった。
 「この形のことですか?」
 「うむ、そうだ」
 その砲は、不思議な形状をしていた。
 祐一郎が江戸から運んできた四斤山砲よりも、訓練で使い慣れた火縄式青銅砲よりも、印象としては小さく感じる。
 だが、砲身の長さは妙に長い。それでいて、細い砲身である。
 「大砲方の中では、今のところ二斤加農砲と呼んでおる」
 「加農砲…ですか?」
 「左様、加農砲のことは、江戸大砲方を勤めたそなたなら、知っておるな?」
 「はい」
 加農砲と区分される砲は、一般には砲身が口径の二十倍以上長い砲を指している。
 砲身が長いために、仰角が小さく、弾道は低く直線的に描かれる。
 また、命中精度は一般的に高く、射程も長くなる。
 しかし、当時の加農砲は歩兵に随伴するように作られていない。
 祐一郎が怪訝そうな顔をしたのはこのためで、当時加農砲といえば、艦載砲や沿岸の砲台用に作られており、巨大な大砲というイメージがある。
 三木が二斤加農砲と呼ぶこれは、厳密には口径の二十倍も砲身は長くなさそうだが、それでも長い。
 「そなたたちは、正規部隊とはいえ、正規軍の編成からは独立した部隊だ」
 「はい」
 「部隊としての役割も、正規部隊とは異なるものになるであろう。独立した作戦を遂行するにおいて、この加農砲は役に立つはずだ」
 「…そういうものなのでしょうか?」
 「まぁ、私も神尾殿に言われたことをそのまま言っているだけなのでな。詳しいことはわからん」
 「ただの受け売りだったんですか…」
 「何も言わないよりはマシであろう?」
 三木はそう言っておどけた様子を見せつつ、祐一郎の肩に手を置いた。
 「ともあれ、これよりそなたは私の下から離れるわけだ。神尾殿の下でも、しっかりな」
 「はい…三木様、長きに渡ってお世話になりました。この身に代えても当家を守り抜く覚悟で戦って参ります」
 真面目に戻った三木の方へ向き直り、祐一郎はきびきびと答えた。
 三木はそれを聞いてうなずくと、自分の小刀を鞘ごと引き抜き、祐一郎の前へ差し出した。
 「大砲方の上役としては、短筒の一丁でも餞別に送りたいものなのだが、生憎そのように大層なものは手元にはなくてな」
 「…ありがとうございます」
 祐一郎は少し驚きながら、恭しくその小刀を両手で受け取った。
 「もう一度言うが、そなたは隊長だ。名雪殿たちを、しっかりと守るんだぞ」
 「はい」
 「…さて、元上司としてやっておくべきことは、これくらいかのう」
 三木は微笑み、再び二斤加農砲の脇に立った。
 「三木様、重ね重ねお手数かけました。この砲、大切に使わせていただきます」
 「うむ、我ら大砲方の苦労が詰まった大砲だ。自分の命よりも大切に使えよ」
 「意にそぐえるよう、努力はします」
 「ほどほどに、な」
 今度は、二人同時に笑みを浮かべた。


 一度目的が決まれば、そのための対応はいち早く行われねばならないものである。
 水瀬家においても、慌しく出立の支度が調えられていた。
 「名雪、もう支度はできたの?」
 「ううん、まだ…」
 「早く支度しないと、寝られないですよ」
 「うん…がんばる」
 出立の準備に疲れた表情をした名雪を、秋子さんは普段と変わらない表情で眺めていた。
 「こっちは終わったぞー」
 玄関口の方から祐一郎が入ってくる。
 「なんだ名雪、まだ終わってなかったのか」
 そう言って、畳の上に散乱している、名雪の未だまとめられていない荷物を見た。
 「うん…見つからないんだよ」
 「見つからない? 何が?」
 「服だよ」
 「服? 歩兵服のことだよな?」
 「うん、一着足りないんだよ」
 祐一郎は、少し考えて答えた。
 「念のため聞くが、今日洗って干してあるやつは別だよな?」
 「……あ…」
 名雪が、二秒ほど遅れて、思い出したような声を上げた。
 「すっかり忘れていたよ」
 「…やれやれ」
 「でも、これで解決ですね」
 それぞれ違う意味で安堵のため息を吐く二人を見て、再び秋子さんが口を開いた。
 「そうだ、真琴の奴はどこにいるか知りませんか?」
 「真琴? さっきは部屋で荷物をまとめていたみたいですけど…」
 「ちょっと、終わったか見てきますよ」
 廊下に出ると、祐一郎は縁側を通って真琴の部屋へ向かった。
 真琴の部屋の障子は少しだけ開いている。
 隙間から祐一郎が覗くと、真琴が畳の上に座っているのが目に入った。
 「お、真琴、いたか」
 祐一郎が障子を開けて声をかけると、真琴はそのままの姿勢で振り返った。
 「なに? どうしたの?」
 「いや、荷物がまとめ終わったか、確認だ」
 「それならもう終わったわよ」
 真琴が得意気に答える。
 その頭には、先日の猫が居心地よさげに目を閉じている。
 「そうか、ならいいんだが…」
 祐一郎はそこまで言って、改めて猫をまじまじと見た。
 「ほんとに居ついちまったな…こいつ」
 「よっぽど真琴のことが気に入ったのね」
 「危機感がないというか、見る目がないというか…」
 「どういう意味よう」
 真琴の抗議をよそに、祐一郎は縁側から真琴の部屋に入ると、障子を閉めた。
 「で、真琴、この猫どうするんだ?」
 「どうするって?」
 「俺たちは明日から戦場に行くんだぞ。猫を連れて行くわけにはいかないだろう」
 「? この子は真琴と一緒に行くに決まってるじゃない」
 さも当然のように、真琴は答えた。
 それに答えるかのように、猫が太い声で一声鳴いた。
 「おいおい…本気か? せめて秋子さんか源助さんに頼む方が…」
 「でも、この子は行きたいって言っているわよ」
 「何を根拠に…」
 祐一郎は呆れたような顔をしたが、真琴は大真面目に言っている。
 「大体、戦闘が始まったらどうするつもりだ。前にも言ったが、猫を守る為なんかに割く戦力はないぞ」
 「この子は大丈夫、いざとなったら自分で森にでも隠れるわよ」
 「…それって、捨ててるも同然じゃないのか?」
 「違うわよう。この子はそんなに馬鹿じゃないもの」
 「いや、この猫が馬鹿とかそういう問題以前に、会津若松の猫を白河まで連れて行った上に、森なんかで放したら、とんでもなく酷薄な仕打ちだぞ」
 「この子だって、それくらい覚悟の上よ」
 自信たっぷりに真琴が答える。
 祐一郎は再び呆れ顔になったが、真琴が猫に同意を求めると、猫は再び太い声で鳴いた。
 その様子を見ていると、まるで本当に同意をしているように思えてくる。
 「とにかく、この子が自分から付いて来たいって言ってるんだから、祐一郎は心配しなくていいの」
 「うーむ………」
 祐一郎は渋い顔をしながら、もう一度猫を見た。
 (まぁ、会津若松を出る頃までには、自分から逃げ出すかな…)
 そう考え、祐一郎はひとまず真琴に任せようかと思っていた。
 「祐一郎は知らないでしょうけど、この子、すごいんだから」
 「すごい? どの辺が?」
 「この子、一度も餌をねだったりしないの」
 「ほう」
 「あげれば少しは食べるけど、自分から欲しがることはないのよ。きっと、外で自分で餌を捕まえて来てるのね」
 「意外だな、こいつ絶対飼い猫だと思ってたが、案外たくましいんだな」
 真琴の頭にいる猫は、再び目を閉じて無警戒そうにしている。
 これだけ見ていると、とても自力で餌を全て賄っているようには思えない。
 「まぁ、それが本当なら、それほど心配しなくていいんだけどな」
 「大丈夫よ、真琴にはわかるもの」
 「お前が今まで物事をまともに理解していたことなんてあったっけな…」
 「またそういうこと言うーっ!」
 座ったまま、真琴は祐一郎に向かって拳を振り下ろしたが、頭の猫は微動だにせず目を瞑っている。
 易々と真琴の拳をかわしながら、祐一郎はそんな猫に感心した。
 (こりゃ、本当に大した猫かもしれないな)
 そう思うと、祐一郎は少し安心することが出来た。
 「なに笑っているのよう!」
 知らず知らずのうちに笑みがこぼれていたようだ。
 祐一郎は再び拳を振り上げた真琴を置いて、するりと部屋を抜け出した。
 「ま、猫は真琴に任せる。明日は早いから、あまり夜更かしするんじゃないぞ」
 「え…あ、うん…」
 祐一郎の意外な言葉に、一瞬真琴も戸惑った。
 「じゃあな」
 「あ…待って!」
 そのまま障子を閉めようとした祐一郎を、真琴が慌てて引きとめた。
 「なんだ?」
 「その………ありがとう、この子のこと」
 「なに、俺は何もしてないさ。それより、いくらたくましくても、ちゃんとその猫の世話をするんだぞ。…あと、名雪に近づけないようにな」
 「うん!」
 嬉しそうな真琴の声を聞きながら、祐一郎は障子を閉めた。

 「香里」
 出立の支度を整えた香里が自室から出てくると、不意に後ろから声をかけられた。
 「支度は終わったかね?」
 「はい、父上」
 振り返り、香里は答えた。
 「しかし、本来なら我ら青龍隊が真っ先に戦場へ向かうべきであろうに、仙台との戦に続いて、またもお前たちが先に向かうことになろうとはな…」
 香里の父、美坂兵庫が自嘲的な笑みを浮かべながら呟いた。
 そんな父に向かって、笑みを浮かべて香里は答える。
 「私たちの雪兎隊も正規部隊ですよ、父上」
 「む、そうであったな」
 「私たちも、無意味に仙台へ行ったわけじゃありませんよ。同道した父上ならご存知でしょう?」
 「うむ、まあ、お前たちが立派にお役目を全うできることは疑いないと思うが、娘を先に戦へ送る父としては、どうにも申し訳なくてな」
 「気遣いは無用ですよ、私たちも会津松平家にお仕えするために、毎日『日新館』に通ってきたんですから」
 「そなたにそう言われると、気が休まるわ」
 兵庫は言葉どおりに気の休まったような顔を見せた。
 しかし、再びその顔は眉間に皺を作った。
 先ほどまでの顔とも違う、苦悩した顔である。
 「…どうしました、父上?」
 「いや…」
 一瞬兵庫は躊躇ったが、決意したように口を開いた。
 「栞のことなんだがな…」
 「………」
 途端に、香里の顔が険しくなる。
 父もその表情に気づいたが、そのまま続けた。
 「私は…栞の思う通りに今後を過ごさせたいと思う」
 「…それは…どういうことですか?」
 「分かってはいた事だろうが、まずそなたは明日白河へ行く。そしてこの私も、いつ何時出陣してもおかしくない身だ。そうなれば、この屋敷には僅かな中間と栞だけを残すことになってしまう」
 「けど、あの子…栞は、会津松平家の養生所に預かってもらえるよう、話を通しておいたのではありませんか?」
 「うむ、確かにそうなのだがな………実は昨夜一晩考えたのだが、栞本人にどうするかを決めさせようと思うのだ」
 「………でも、それは…」
 病身の妹が今後どうしたいのか、香里には何となくわかっていた。
 しかし、例えそれが栞の願いだとしても、それを受け入れることが栞の為になるのか、香里にはわからなかった。
 栞がもしその選択をしたら、自分はそれを受け入れる決意ができるのだろうか。
 その自信は、どうしても持てなかった。
 「香里、そなたが心配する理由はわかる。だが、栞の気持ちをここは尊重したいのだ、賛成してくれぬか」
 「…父上は…栞がどんな答えを返しても、それを受け入れるおつもりなのですか?」
 「………そうだな、受け入れるだろう」
 「それが、栞の身によくないことだとしてもですか?」
 父は難しい顔で沈黙した。
 香里が寝床の中で毎夜妹のことを憂えて苦しんだように、この父も娘のことを憂えて毎夜苦しんだのだろう。
 そのことが香里には想像されて、より一層苦しく思えた。
 「…私がこのようなことを言うのも不謹慎なことではあるが………」
 父は、重い口を開いた。
 「この戦は、勝つにしても、厳しい戦になるであろう。一度出陣をすれば、私も、そしてそなたも、生きてこの屋敷に帰ってこられる保証など、どこにもない。出陣の後で、我らが栞に保証してやれることなど、もう何もないのだ。だからせめて、己の身の処し方は、武家の娘として、栞の思い通りにさせてやりたいのだ」
 「………」
 「無論、私が最も望むことは、栞が養生所で治療を受け、全快することだ。だが、その養生所とて…」
 養生所に居たところで快復の見込みはないのは分かっているし、第一、安全すら保証されるだろうか?
 白河では、既に鳥羽・伏見の戦いで行ったような市街戦も念頭に置いた篭城戦の手筈が整いつつある。
 この会津若松がそうならない根拠など、どこにあろうか?
 会津若松に居る限り、危険は去らないのである。
 ならばせめて、己を守る手を選ぶことだけでもさせてやるべきなのではないだろうか?
 会津若松城を守る軍勢か、それとも…
 「分かりました、父上」
 香里が意を決して口を開いた。
 「私も、父上のおっしゃるとおり、栞の選択に任せます。…あの子は、十分賢い子ですし」
 「そうか」
 兵庫は頷いた。
 「ありがとうな、香里」
 「礼を言われるようなことではありませんよ、父上」
 香里は、再び微笑を浮かべた。
 「そなたには…その、色々と苦労をかけたからな…」
 「いいんですよ」
 父の言葉を、香里は遮った。
 「今の私はもう、昔の私じゃありませんから」


 そして次の朝はやってきた。
 いつものように涼しい朝の空気の中、いつものように朝の町の喧騒が聞こえてくる。
 いつものように秋子さんは屋敷で一番早く起きており、いつものように名雪は半分眠っていた。
 「それでは秋子さん、行って参ります」
 歩兵服を着た、祐一郎、名雪、真琴の3人は、背中にゲベール銃を背負いながら、水瀬家に残る者たちへ、出立の挨拶をしていた。
 ちなみに、真琴の猫は、脇の大きな袋の中でおとなしくしている。
 祐一郎からすれば、このような状態にされておとなしくしていることが不思議であったが、名雪が側にいる以上、おとなしいに越したことはなかった。
 「うにゅ………いってきます」
 緊張感のない声で、名雪が秋子さんに挨拶をする。
 「名雪はまず足元に気をつけてね」
 「うん…がんばる…」
 これから出陣するとは思えない名雪の様子に、屋敷の者たちは流石に少し不安げな顔をしたが、秋子さんは全く動じる様子がなかった。
 「ほら、真琴も挨拶しろ」
 「え? う、うん…」
 祐一郎に促され、真琴も一歩前に出る。
 「い、行ってきます、秋子さん…」
 「はい、行ってらっしゃい。身体に気をつけるんですよ」
 「わしら使用人一同、奥方様のお世話をさせていただきながら、名雪様と祐一郎様のお帰りをお待ちしておりますだ」
 源助が、使用人を代表して、挨拶した。
 「よろしくお願いします、源助さん。秋子さんのこと、お願いします」
 「へい、お任せ下せえ。命に代えても、屋敷と奥方様はお守りいたしやす」
 源助の頼もしい言葉に、祐一郎はうなずいた。
 「…祐一郎さん」
 「何でしょう? 秋子さん」
 「これで何度目かわかりませんけど………名雪と真琴のこと、よろしくお願いしますね」
 「ええ、お任せ下さい」
 娘に自信を持ち、気丈に振舞ってはいるものの、やはり秋子さんは心配なのだ。
 夫の忠兵衛に続いて、再び肉親が戦場へと向かうのだから、無理もない。
 今の祐一郎にできることといえば、その不安を少しでも取り除こうと努力することだろう。
 「必ず、三人、無事に帰ってきます」
 「私も毎日、三人の無事を祈ってますから」
 ふと、秋子さんの顔が曇ったような気がした。
 それは、祐一郎の気のせいだったのかもしれない。
 しかし…
 「おい、名雪、ちゃんと目を覚ませ」
 「にゅ………あ」
 祐一郎に強く揺さぶられ、名雪の瞼が八割開いた。
 「え、あ………あれ?」
 名雪が、状況をよくつかみきれてない様子で、周囲を見た。
 「そろそろ行くぞ、もう一度秋子さんにしっかりと挨拶しておけ」
 「あっ、うん!」
 名雪が、ようやく覚醒した様子で、頷いた。
 「お母さん、行ってきます!」
 「いってらっしゃい」
 秋子さんは、微笑んでいた。

 今回白河の地に向かうのは、当然雪兎隊だけではない。
 白河防衛隊総督として、家老の西郷頼母、副総督に同じく家老の横山主税、その指揮下に朱雀隊の数個中隊が付随している。
 神尾が率いている先発隊と併せれば、防衛隊の兵力は1000人ほどになるだろう。
 これに仙台藩の部隊、旧幕府軍の部隊を併せれば、相当な大部隊が整えるはずだ。
 そのためか、行軍する将兵たちの顔は、どこか自信がみなぎっている。
 ちなみに、西郷頼母は元々穏健派の家老で、主君松平容保に京都守護職の任が下されたときも辞退するように進言し、一時家老職を罷免された経験を持つ。
 官軍に対しても恭順の意思を持っており、この総督の役目が適当かは少々疑問ではある。
 だが、その忠誠心は疑いないものであり、それを信じ、松平容保も総督に任じたのであろう。
 また、横山主税はまだ二十二歳という若い家老であるが、幕府の遣欧使節に従ってパリ万博にも参加した人物である。
 代々家老職にある家柄で、先代の横山常徳は江戸の三家老として水戸の武田耕雲斎と並び評されるほど有能な人物であった。
 さて、そのような軍の中で、比較的目立たない位置に雪兎隊はいた。
 「各自、銃の点検は終えたか?」
 「ああ、弾薬の分配も終わった。あとはこの砲だな」
 北川が、出陣前の興奮を抑えきれない様子で、祐一郎に報告をする。
 「大丈夫よ、砲も問題なしね」
 香里が、真新しい加農砲の陰にかがんだ状態で答える。
 「実戦経験なしの砲だからな。いきなり戦場で使えないなんてのは勘弁だぜ」
 「訓練ではちゃんと問題なかったんだから、よほど酷い道を動かすことでもない限り、大丈夫よ」
 「だ、そうだぞ、北川。まぁ、香里が言うんだから大丈夫だろう」
 「あら、信頼してくれているのね」
 「砲が使えなくて一番困るのは、香里本人だからな」
 「そうね。でも、北川君たちも同じくらい困ると思うけど?」
 「それもそうだな。北川、お前も砲の点検をしておけ」
 「…なんでそうなるんだ?」
 「歩兵差図役としての仕事だろ? 砲があってこそ、歩兵が進めるんだからな」
 「そういうものか…」
 「ああ、そういうものだ」
 祐一郎に言われ、理不尽さを感じながら、北川は加農砲の後ろ側へと回った。
 それと入れ違いに、香里が立ち上がってこちらへ歩いて来る。
 「けど、大砲方もこんなものを私たちのところへ預けるなんて、どういうことかしらね」
 「俺もよくわからないんだけどな。神尾様の指示らしいから、白河に行けばわかることなんじゃないか?」
 「よその隊から変に思われなければいいけど」
 「俺たちだって正規部隊なんだし、そんなことにはならないだろう。この砲以外、結局装備に変更はなかったしな」
 「独立部隊なのに、隊旗もないしね…」
 香里が不審そうな顔をして、呟く。
 どことなく、軍上層部の思惑に対して疑念を抱いているようにも思える。
 「ま、急な話だったしな。その辺りは仕方ないんじゃないか?」
 「…相沢君が言うのなら、大丈夫ね」
 「信頼してくれて光栄だ」
 「隊長を信頼できなくちゃ、部隊はおしまいよ」
 そう言って、香里は笑みを浮かべて砲のところへ戻っていった。
 (香里の奴、いつもより生き生きしているような気がするが…)
 それが北川と同じ理由とも思えなかった。
 と、そのとき、
 「あ、いたっ!」
 背後から、異質な声がした。
 「うわっ!」
 直後、一瞬祐一郎が予感したとおり、肩に強烈な重圧がかかった。
 しかし、祐一郎は経験を無駄にする男ではない。
 一瞬の予感から、即座に防衛行動に移った。
 受けた体重を受け流し、身体をひねって倒れる。
 「ふぅ、危うくまた怪我するところだった…」
 仰向けの状態で、祐一郎は身の安泰を喜んだ。
 「うぐぅ、ボクを下敷きにするなんて酷いよっ!」
 「自業自得だろ」
 「ボクはいつも通りにしただけだもん」
 「それが問題なんだ!」
 祐一郎は身体を起こし、枕にしていたあゆの方へ振り向いた。
 ふと、ぴったりとした歩兵服を着て仰向けになっているあゆの胸部が目に入り、さっきの体勢を思い出して、思わず視線をそらす。
 「もう少しで頭から落ちるところだったんだよっ!」
 さっきまでの体勢のことも、祐一郎の顔の赤らみも気にしていない様子で、あゆが文句を言う。
 「…まぁ、そんなことはいい」
 「祐一郎君が言う立場じゃないよっ!」
 「どうしたんだ、こんなときに」
 祐一郎は、いつも通りに、あゆの文句を無視して話を進めた。
 「え? えっと、祐一郎君たちが出陣するって聞いたから、見送りに来たんだよ」
 「そうだったのか、わざわざ悪いな」
 「祐一郎君たちが出陣するのを、ボクが放っておくわけにはいかないよ」
 祐一郎はあゆの言葉を聞きながら立ち上がり、あゆに手を差し出した。
 「ありがとう、祐一郎君」
 あゆは笑顔でその手に引かれて立ち上がった。
 「それとね、もう一つ、ボクから言っておかなくちゃいけないことがあるんだよ」
 「なんだ?」
 「ボクも、もうすぐ出陣することになったんだよ」
 「え?」
 驚いて、あゆの顔を見る。
 「ボクたちの遊撃隊は、遠野様と一緒に越後に行くことになったから、祐一郎君たちとは一緒に行けないけど…」
 「そうか…」
 あゆも隊に所属している以上、当然予想されるべきことではあったが、なぜか祐一郎はいたたまれない気持ちになった。
 「合戦が終わって、会津若松に帰ったら、今度こそ遊びに行こうね」
 「え? あ、ああ…」
 あゆに言われて、数日前にした約束を思い出す。
 しかし、それもずいぶん昔のことのように思われた。
 「…そうだな、無事に帰って、な」
 「うん、約束だよ」
 果たせる保証のない約束をここでしてしまっていいものなのだろうか。
 祐一郎は返答をしかけて、ふと思った。
 しかし、その約束に絶対の自信を持っている、あるいはそう信じようとしているあゆに、否定的な返答をするのも躊躇われる。
 祐一郎は曖昧にうなずくしかなかった。
 「…それじゃ、ボク、名雪さんにも挨拶してくるよ」
 「む、そうか」
 あゆはゲベール銃を背負いなおすと、祐一郎に再び笑顔を見せて、後ろを向いた。
 その背中を見ながら、祐一郎は少し己を恥じた。
 隊長として、自分が真っ先に生き残る自信を持たなければ、己の命は無論、隊士の命もおぼつかないではないか。
 三木にも最近言われたばかりのことを、一隊士であるあゆの姿を見るまで忘れていたとは、一隊を預かって戦場に立つものとして、何たる恥であろう。
 (出陣の前に思い出しておいて、よかったな)
 遠ざかるあゆの背中を見つつ、祐一郎は思った。
 「あら、もうあの子とのお別れは済んだの?」
 いつの間にか、また香里が来ていた。
 「…あゆなら、名雪のところに行くと言っていたぞ」
 「ふーん」
 香里は意外そうな顔をした。
 「随分あっさりと済ませてしまったみたいだけど、いいの?」
 「…どういう意味だ?」
 「もし気づいていないなら言うけど、周囲から見れば、貴方たちはただならぬ関係に見えるわよ」
 「勘違いするな、あゆとはただの……そう、腐れ縁さ」
 「腐れ縁、ね」
 香里が疑わしそうに見る。
 「…ま、それならその方がいいかもね。私たちだって、遊びに行くためにここへ集まっているんじゃない訳だし…無事に帰れる保証だって、ね」
 「いや、帰れる」
 香里の台詞に対し、祐一郎は咄嗟にそう言った。
 「まずは各隊士が、そう思ってくれてないとな。俺も隊長として、それを実現させるための、精一杯の努力をさせてもらうつもりだ」
 「………」
 香里は、祐一郎の顔を見た。
 「…あまり、無茶な約束は、しない方がいいものよ」
 「そうはいかない。これが俺の役目だからな」
 「……そう、それなら、お言葉に甘えさせてもらおうかしら」
 香里は遠くへ視線を動かしつつ、答えた。
 「私だって、まだやりたいことがあるんだしね」
 「そう、その意気だ。そうでなくちゃ困る」
 祐一郎が頷いた。
 「さて、そろそろ出陣するみたいよ」
 香里が前方を指差す。
 その方向を見ると、本隊の「會」の字の旗が、動き出そうとしているのが見えた。
 それと同時に、向こうから出陣を知らせる声が近づいてくるのが聞こえてくる。
 「…そのようだな」
 祐一郎は自分の隊の方へと振り返った。
 北川が、隊士たちを整列させているのが見えた。
 その隊士は全て、自分の手に預けられた者たちである。
 それを見て、歩き出す。
 「香里、生きて帰るぞ」
 「ええ、そうさせてもらうわ」
 祐一郎は呼吸を整え、そして、隊士たちの元へ、駆け出した。


 仙台の街は、日に日に不穏な空気が増していた。
 街の人々は、不安な気持ちを隠そうとせず、今日明日の己と家を守ろうと、盛んに世間話をしている。
 それとは対照的に、最も不穏な部分は、ひたすらに平穏さを装っていた。
 その不穏な部分の一つ、仙台町奉行所も例外ではない。
 外塀の周りからは、いつも通りに門番が守っているようにしか見えないが、奉行が居る部屋の周りには、怪しげな中間たちが不自然にうろついている。
 その部屋に、二人の男が居た。
 「…話が違うのではありませぬかな、久瀬殿?」
 部屋に入ってくるなり、編笠を被った侍は、目の前に座った男に問いただした。
 「あの件は元から想定しておった事態だ。だが、それと同時に白河城を会津に制圧させるなどという話は聞いておらぬぞ?」
 「…大山殿、落ち着き下され。拙者とて、まさか瀬上殿らがあのような計略をしようとしていたとは、存知おりませなんだ」
 「それはそなたの不手際であろう。まだこちらの手筈が整わぬうちに、戦を起こされては困るのだ」
 「重々承知しております」
 久瀬は不機嫌な大山に対して、軽く頭を下げた。
 大山もそれを見て、とりあえず久瀬の前に自分も座ることにした。
 「…まぁ、よい。そなたも何も考えてないわけではあるまい」
 「勿論にございます」
 「こうなっては、少々計画の変更が必要となるであろうが…そなたはどのように考えておる?」
 大山は、周囲に部外者が存在していないことを横目で確認し、小声で尋ねた。
 「当方は既に白河へ手の者を派遣してあります。また、ここ仙台でも九条様の件の解決するための策は抜かりなく整えております」
 九条様の件とは、奥羽鎮撫総督の九条道孝の身柄のことである。
 世羅の暗殺以降、九条道孝の身柄は実質仙台藩の手に落ちている。
 仙台藩佐幕派の圧力により、奥羽鎮撫総督府に居る兵は身動きが取れず、大山も身元を隠してこの町奉行所を訪れなければならない状況だ。
 佐幕派の考えでは、奥羽鎮撫総督の権威をそのまま会津とそれを擁護する諸藩連合軍の正統性の証明に使おうとしているので、九条道孝の周りは厳重に仙台兵によって固められている。
 九条道孝本人の身は安全だろうが、このままの状況が続けば、大山や他の参謀の身は危うくなり、総督府の権威は日に日に失墜していくであろう。
 「九条様の件は、江戸の方でも対策が取られるであろう。今の手勢では、例え奪還しても、その後に困るぞ」
 「無論、正面から奪い取ることは考えておりませぬ。九条様の身の安全が最優先でありますゆえ、こちらはなるべく目立たぬように準備をする所存」
 「ふむ…幸い、九条様の身は当分安全ではあろうしな…」
 「それだけは、確かです。腐っても伊達家の侍でありますゆえ」
 久瀬は、暗に大山へ念を押した。
 「…ともあれ、こちらとしても江戸から連絡がなければ、当面九条様の件には手を出しかねる。この件は久瀬殿に準備を任せてもよいが…白河に送った手の者というのは?」
 「そのことでしたら……与力の津田を覚えていらっしゃいますか?」
 「ああ」
 「あの者と、その組下の者数名を送っておきました。あの者たちであれば、必ずや成果も上がるでしょう」
 「成果というが…数名を送っただけで、どうするつもりなのだ。仮に指揮官の瀬上主膳を殺せたとしても、戦に勝敗にそれほど影響するとは思えぬぞ」
 「大切なのは合戦の勝敗ではありませぬ。我らの第一目的は、当家の佐幕派を駆逐し、殿に考えを改めていただくことでございます」
 「ふむ………」
 大山は顎に手を当てて、考え込むような仕草を見せた。
 「大山殿、拙者は総督府の御為に働かせていただいておりますが、それはまず当家の為です。ゆめ、我らの本意をお忘れになられぬよう」
 「…うむ、勿論だ」
 大山は頷いた。
 しかし、その頷きはあまり好意的なものに思えなかった。
 「しかしそれも、そなたらの働き次第であることも、忘れるでないぞ」
 「…はい」
 久瀬もまた、同様に頷いた。
 「……それに、恐らく白河には、瀬上よりも恐ろしい敵がいるでしょうしな」
 「瀬上よりも恐ろしい敵だと?」
 「敵と申しましても、正体の分からぬ相手です。これは津田に処置を厳命しておりますゆえ、大山殿のご心配には及びませぬ」
 「…ふむ、それならよいが。拙者はこれより庄内方面の薩摩部隊の元へ参ることにしている。後のことは任せたぞ」
 大山が頷きつつそう言ったとき、縁側の方に人の気配がした。
 「御奉行」
 「…どうした?」
 「政吉が参りました」
 庭に現れた中間姿の男の声を聞き、大山が久瀬の顔を見た。
 「政吉とは?」
 「津田の組下の目明しです。少々用件がありまして」
 久瀬はそういって、政吉を連れてくるよう告げた。
 「失礼いたします」
 暫く後、庭に普段どおりの目明し姿をした土蜘蛛の政吉が現れた。
 「これは大山様、ご苦労様でございます」
 「…拙者を知っているのか?」
 「遠くより何度も拝見させていただいておりますからね」
 政吉は、ニヤリと笑みを浮かべた。
 大山も、この男に油断ならぬ気配を感じ取る。
 「…それで、御奉行様、用件とは?」
 「うむ、突然だが、少々厄介ごとが舞い込んでな。同心の金原、知っておるな?」
 「へい、よく存じておりますとも」
 「その金原が、蛇の目の件について、調べているようだが、何か聞いておるか?」
 「へぇ…そいつはあまりよろしくない話ですねぇ」
 「このまま蛇の目の件を野老山に進めさせるのは不都合ゆえ、野老山は白河の津田の下へ送ることにした。それで後のことをそなたに進めてもらいたいのだが…」
 「左様でございましたか。それならば喜んでお引き受けいたしましょう。それよりも…」
 「うむ、その始末の方の件については、そこの庭にいる三名を連れて行ってよい。仔細は、そなたに任せる」
 そう言って、久瀬はいつのまにか庭にいた中間姿の男三名を指差す。
 この中間の正体は、久瀬が裏で操っている勤皇浪士である。
 「承知いたしました。始末は今夜中に…」
 「後の処理のこと、抜かるでないぞ」
 「へい、お任せを」
 そう言って、政吉と中間三名は、何食わぬ顔で奉行所の門の方へと去っていった。
 振り返って座りかけた久瀬に、大山が言った。
 「…しかし、噂には聞いておったが、貴殿もなかなかに恐ろしい男じゃのう。半左衛門殿が蟄居なさって、そなたの鋭さも増した気がするわ」
 「父は拙者より穏やかな人物でしたゆえ…。されど、これも大義の為。大義の為であれば、人はどのような恐ろしいこともためらいなくやれるものです」
 そう言って、久瀬は庭の樹木に目を細めた。

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