第二十八話「二歩先へ踏み込め!」

 戦闘は、新政府軍の先頭にいた川村純義らの薩摩兵と、稲荷山に布陣していた会津勢とが遭遇したことにより始まった。
 遭遇戦といっても、稲荷山の部隊はしっかりと陣地を構築しており、薩摩兵は敵陣の正面に飛び出してしまったような形であった。
 元々、新政府軍は夜襲を仕掛ける予定で前進していたが、敵陣近くに到着した時には、既に夜明け近い時間になっていた。
 伊地知がそのまま払暁攻撃を仕掛けるかどうか決めかねている内に、軍勢の先頭にいた斥候部隊が敵軍と交戦を始めてしまった訳だ。
 「敵の数は! 多いか!」
 突然戦闘を開始した味方の様子を見て、川村が叫んだ。
 まもなく、斥候部隊の河野彦助隊からの伝令が川村のところへ走りよってきた。
 「敵の兵数は我が隊の数を上まっておりますが、敵は全て旧式装備の模様。河野様は踏みとどまって交戦しております」
 「そうか、ではすぐに後詰めを出そう。朝敵どもに格の違いを見せてくれる」
 川村は、自信有り気に拳を握り締めた。
 日が少しずつ昇り始めていた。
 小銃の発射炎が目立たなくなり、人の姿がはっきりと見えるようになっていく。
 それに従って、稲荷山に布陣している軍勢の陣容も、段々と分かり始めてきた。
 (予想より多いようだな…)
 川村は唇を噛んだ。
 新政府軍の装備の優秀さは勿論知っているが、兵力の乏しさも知っている。
 いかに装備でこちらが優れていても、数倍の兵力を持つ敵を相手にすることは、攻撃面でも防御面でも大きな問題になるだろう。
 これを少しでも解決させるには、自軍の兵士を無駄なく運用し、敵の兵士をなるべく働かせないことに限る。
 その為にはどのような策を採るのが一番いいか…
 「て、敵だ!」
 だが、川村の思案は、配下の兵の狼狽した声で遮られた。
 即座に声の方向に顔を向ける。
 「川村様! 左から敵が!」
 「うろたえるな。敵の数は」
 「よ、よくわかりませぬが、後方から支援している部隊もいる模様で…」
 「ということは、侮れぬ数か」
 「はっ、恐らくは」
 「やむを得ぬ。すぐに伊地知様に後詰めの要請だ。それと、支援している敵を砲兵隊に砲撃させるよう伝えよ」
 「承知いたしました」


 頭上を銃弾がかすめていく。
 だが、こちらが発砲したところで、敵まで届きはしないだろう。それは重々理解している。
 「ちっ…連中の銃はどこまで飛ばす気だ!」
 木の幹の陰から様子を見つつ、斉藤は敵に向かって悪態をついた。
 薩摩兵の装備は、イギリス製のエンフィールド銃であり、その性能はオランダ製のミニエー銃とほぼ同等である。
 ミニエー銃が、弾に詰めた木栓をガス圧によって押し広げて弾を螺旋に食い込ませるのに対し、エンフィールド銃は、ブリチェット弾と呼ばれる、木栓を使わずガス圧だけですそを広げる弾を使用しているのが特徴だ。
 長州藩がこのエンフィールド銃を七千丁イギリスから購入する際、薩摩藩が仲介に立ったことが、薩長同盟締結に繋がったと言われている。
 犬猿の仲であった両家を結びつけるほどの魅力が、この銃にはあったと言えるだろう。
 「敵の数は少ない、距離さえ詰めれば、後はこちらのものだ」
 斉藤の隣の木に背中を預けている、回天隊の朝倉隼之助が余裕のある笑みを浮かべて斉藤に目を向けた。
 「ああ、連中め、じきに銃など撃っていられなくしてやる。だが、迂闊に斬り込みを仕掛ければ、こちらの損害も大きくなるだろう。何かよい策はあるか?」
 「鉄砲玉など怖くはないが、確かに兵を失うのは避けたい。敵が少しでも浮き足立てば、斬り込む隙もできるだろうが…」
 「…今は、待つべき」
 斉藤と朝倉の会話に、舞の声が割り込んだ。
 「む、川澄君か? どこにいる?」
 「木の上」
 斉藤が見上げると、太い枝の間に脚を掛け、敵陣を見下ろしている舞の姿があった。
 「おいおい、そこは少し危険じゃないか? 連中の鉄砲玉が飛んでこないとも限らんし、足を踏み外しでもしたら骨が折れるやもしれんぞ」
 「大丈夫、ここに飛ばすつもりは無いみたいだから」
 「どこから来るのだ、その自信は…」
 既に慣れたとはいえ、舞の奇抜な行動には、毎度呆れさせられる。
 それで生き延びてきているのだから、それが単に大胆な行動ではないのであろうことは、斉藤も理解してはいるのだが。
 「川澄殿とか申されたか、そなたは何か策でもお持ちなのか?」
 斉藤と舞の会話を聞いていた朝倉が、顔を上に向けて尋ねた。
 舞は、上に向けられたその顔を、じっと見下ろした。
 「無い事は、無いけれど…」
 「それは是非とも聞きたいものだ。噂に聞く、新選組の水鳥の戦が如何なるものか、見てみるのも悪くない」
 「でも…今の私たちにできることは、待つことだけ」
 「待つ?」
 朝倉が怪訝そうな顔をした。
 「しかし、このまま待っていても、連中が銃を撃つのに飽きるとは思えないのだがな」
 「大丈夫、準備は瞬煌隊の人たちがやってくれる」
 「瞬煌隊が、だと?」
 朝倉は、立石山の方に視線を移した。
 「川澄君としては、まず瞬煌隊が前進、砲撃して、敵の銃隊に圧力をかけるのが先だということなのだろう」
 斉藤は、舞の思惑を朝倉に解説してやった。
 流石に、長いこと共に死地を潜り抜けてきた者の思考は探りやすいのであろう。
 相手が舞となれば、それとて必ずしも当てはまる訳ではないが。
 「…でも、その前に」
 舞が後ろに首を向けた。
 「瞬煌隊の手伝いをする必要があるかも」
 「ほう? 何を手伝うと言うのだね」
 舞は南、即ち新政府軍の本隊が居る方角を指差した。
 「…少し掃除をしないと」

 「韮山砲、砲撃準備整いましてございます!」
 「よし、点火用意せい!」
 瞬煌隊の前線では、長井源吾が砲撃の陣頭指揮に立っていた。
 目標は、川村らが指揮する薩摩の小銃隊である。
 既に天野が自ら率いる歩兵隊が左右から展開し、銃撃しているが、川村隊に付随している砲兵の砲撃を受け、十分な火力支援ができないでいる。
 長井はこれをさらに支援するつもりだが、薩摩軍は小銃のみならず、砲の数でも抜きん出ているはずであり、これを旧幕軍が火力で抑制するのは難しいといえるだろう。
 しかしそうではあっても、瞬煌隊等の旧幕府陸軍の部隊は火力で薩摩軍と対抗しうる数少ない部隊なのだ。
 「放てぇ!」
 その老体からは想像も出来ない声量で、長井が叫んだ。
 そしてそれをさらに上回る轟音で、瞬煌隊の山砲が火を噴く。
 砲弾は、敵の前線を越え、川村隊の後方へと着弾した。
 遠くからではあるが、敵が少なからず動揺している様子が長井にも見える。
 当時の砲の射程は短いとはいえ、高地に陣を構えていれば、味方の頭上を越えて砲弾を送り込むことは可能だ。
 逆に、低地から味方の頭越しに砲撃を加えるのはかなり困難である。
 「急げ、次を込めよ!」
 長井は間髪入れず命じた。
 「次は敵の前備えを狙え! 隊長たちに当てるでないぞ!」
 「長井様!」
 爆音が轟く中、長井の家臣が駆け寄ってきた。
 「何事だ」
 「雪兎隊の相沢殿より伝令でございます、『我が隊も前進の用意整った。要請あらば、直ちに前進する』とのこと」
 「やれやれ、会津の若造どもが無理しおって…」
 長井は、歩兵隊が前進する前に天野から聞かされたことを思い出した。
 天野は長井に、会津の雪兎隊が組下に置かれていること、小型の加農砲という珍しい砲を装備していること、歳三からは特に命令を行う必要はないと言われていること、を伝えていった。
 だが、天野は最後に、命令は必要ではないが、少々気になるので長井に監督をして欲しいとも告げていった。
 その理由を聞くほどの時間は長井にはなかったが、天野がわざわざそう言ったからには、重要なことであろうと長井は理解していた。
 「隊長からの命では、捨て置くわけにも参るまいな」
 「いかように伝えましょう」
 雪兎隊が装備しているという、小型の加農砲という物は確かに頼りになるだろう。
 だが、山地に陣取っている現状では、前線部隊に当てることなく砲弾を飛ばすのは難しく、今役立てるのは困難だ。
 「とりあえず、全隊前進の下知が行くまで待て、と──」
 そのとき、大きな土煙が上がった。
 同時に、発射音とは異なる爆音が、激しく長井の鼓膜を揺らした。
 土煙で混濁した視界の中、長井はそれをもたらした物の方向を確認する。
 「くぅ、南か!」
 幸い、一発目の砲弾は胸壁の前に着弾した為に被害はない。
 だが、天野が自ら率いていった部隊を火力支援する作戦は、大きく阻害されることになるだろう。
 恐らくこの砲撃は後方を進軍していた部隊からのものであろうが、敵がまだ他にどれくらいの火力を保有しているのかもわからないわけで、その事は、この作戦のみならず、今後の戦闘にも大きな懸念となるはずだ。
 (全体の戦況が優位なうちに敵の火力を減殺しておきたいが…)
 長井は今日の戦で敵に大打撃を与えておく腹積もりであったが、敵の火力はそれも許さぬ勢いで味方に攻撃を加えている。
 そしてこのまま受身に回れば、その勢いはさらに増さないとも限らない。
 「何とかせねば…」
 長井は唇を噛んだが、隊長の天野は既に前線に出ており、ここで作戦と無関係の指示を隊に出せば混乱を招く恐れがある。
 「…長井様!」
 その時、味方の砲が火を噴く音と共に、長井は先ほどの家臣が自分を呼ぶ声に気が付いた。
 「む? おお、無事だったか」
 「無論にございます。長井様もお怪我はござりませぬか」
 「なに、少々土を被った程度よ、大事無い」
 「ご無事で安心いたしました。 …それでは、拙者は直ちに相沢殿からの伝令に命を伝えて参ります」
 「……む、そうじゃ、待て」
 「はっ、なんでございましょう」
 「一つ策を思いついた。御苦労じゃが、相沢殿への伝令のついでに、土方殿へも伝令を頼みたい。それと、相沢殿への伝令も変更じゃ」
 「承りました。して、何とお伝えいたしましょう?」

 さっきから、激しい銃声が聞こえてはきている。
 つい先ほどは、瞬煌隊本陣の方に砲弾も落ちたようだ。
 察するに、どうやら当初よりも戦況はよくないらしい。
 予定通りならば、稲荷山と立石山に布陣している旧幕軍の部隊により、敵は包囲されているはずだ。
 それでもこのような展開になるということは、やはり装備の差が相当大きいということか…
 「相沢! 瞬煌隊本隊の方にまで砲弾が落ちたようだぞ! こんなとこで待機している場合か!」
 「伝令はさっき送ったじゃないか。とりあえず伝令が戻ってくるまで待て」
 「しかし、万が一さっきの砲撃で伝令が負傷でもしていたらどうする! 味方が苦戦しているときに傍観していたとして、一生汚名を着せられることになりかねないぞ!」
 「お前って、見た目によらず心配性だな」
 「そりゃあ、こんな状況にもなればだな…」
 「…とにかく、さっき北川君が言うとおりに伝令を本隊に送ったんだから、もう少しくらい待ちましょうよ」
 香里の提案に、北川も渋々待つことに納得することにしたようだ。
 北川が落ち着かないながらも腰を降ろすのを確認すると、祐一郎は神尾たちがいる左翼陣地へ視線を移した。
 立石山の左翼部隊も既に敵の戦闘と交戦している。
 しかし、左翼部隊の主力は会津兵で、装備は旧式、砲の数も少ないため、積極的な攻勢に出られる状態でもないようだ。
 本来ならば、会津の軍勢を援護したいところだが、瞬煌隊の付属部隊にされている今は、命令もなく勝手に動くわけにもいかない。
 (独立部隊といっても、所詮は若造の集まりか…)
 祐一郎は、ふと自嘲的なことを考えた。
 先ほどの北川の主張にも、一理あることはある。
 だが、今の己の立場では、それを受け入れるわけにもいかない。
 ほとんど戦闘経験がない五十余名の隊士を指揮下に持ちながら、自ら有効な手立てを打てない自分が、仕方ないこととは分かっていながらも、不甲斐なく感じずには居られなかった。
 祐一郎は、その指揮下の隊士たちに今度は視線をを移した。
 いずれも不安げな表情をしているが、それほどの動揺は見られない。
 まだ敵から直接攻撃を受けたわけではないし、一応仙台との戦闘は経験しているのだから、相応な様子ではあるが…。
 「名雪、大丈夫か」
 何もしないでいることに、なんとなく耐えられなくなった祐一郎は、一旦胸壁を離れ、銃を抱えて加農砲に寄りかかっている名雪の傍へ歩み寄った。
 「あ…うん、大丈夫だよ」
 名雪は、まだ余裕がある表情で、祐一郎に頷いた。
 「祐一郎も、大丈夫? 隊長さんだからって、あんまり余裕をなくしたらダメだよ?」
 意図しての発言なのかどうかはわからないが、名雪に言われて、尋ねた当の本人があまり大丈夫ではなかったことに気づく。
 祐一郎は、またしても自嘲的な笑みを浮かべることとなった。
 「ああ、俺のことなら大丈夫だ。安心して構えてな」
 内心を反映した発言とは言いがたいが、祐一郎は確信を持ってそう言った。
 「うん、私は祐一郎を信じてるから」
 相変わらず名雪は祐一郎に疑念を抱くことがない。
 普段はただ照れ臭くなるだけのような発言だが、この時の祐一郎にとっては、これから隊士たちを率いて敵陣に踏み込むことに対して、大きく後押ししてくれる発言でもあった。
 「…そうか、助かるぜ」
 真面目な表情で祐一郎が答えると、名雪もそのままの笑みを浮かべた表情で、頷いた。
 「相沢様!」
 その時、伝令が駆け込んできた。
 無論、砲弾で負傷などしていない。

 「…本当に、土方様がそう命じられたのか?」
 「はい、土方様は暫く考えられた後、長井様の提案そのままに命じられました」
 「長井様の提案か」
 北川にせっつかれて送り出した伝令だったが、祐一郎の予想を超える返答を、彼は運んできた。
 それは北川の予想の範疇も越えたものであったであろうが…
 「どうだ相沢、俺の言うとおりにして正しかっただろう」
 「…まぁ、そういうことにしておいてやる。それで、その命令は今すぐに開始か」
 「はい、長井様は急を要するとおっしゃっていました。直ちに向かって欲しい、とのことです」
 「…と、いうことだ。直ぐに出陣するぞ。隊士たちの準備はどうだ」
 「歩兵たちの準備は万端だぜ」
 「砲の準備も整ってるわよ」
 北川と香里が答えた。
 それを聞いて、祐一郎はうなずく。
 「よし、雪兎隊出陣するぞ! 目的地は南、薩長の砲兵陣地だ!」
 「おお!」
 先ほどまで不安げな表情をしていた隊士たちが、威勢のいい掛け声を上げて立ち上がる。
 彼らとて、伝令が戻ってきたときから、既に出陣の覚悟はできている。
 やはり自分の杞憂だったのか、と祐一郎はふと思った。
 目の前にいる、自分の組下の隊士たちは、十分に自信に満ち溢れているではないか。
 少しの安堵と、少しの昂揚感を得た祐一郎は、その彼らに歳三から命じられた内容を伝えるために再び口を開いた。
 「これより我々は、土方様からの命に従い、この立石山の陣地に向けて砲撃を行っている、薩長賊の砲兵どもを叩く! …だが、この作戦は非常な困難を伴う、皆には覚悟してもらいたい」
 祐一郎がそう言うと、流石に隊士たちの表情にも再び不安の色が見えた。
 だが、祐一郎は続ける。
 「我々にとって、これだけ大規模な戦、それもほぼ単独で行う作戦は、初めてだ。だが、土方様も、この作戦を立案した長井様も、我々の実力を信用してくださっていればこそ、まだ若い我々に、重要な作戦を任せて下さるのだ。我々は自信を持って、これを引き受けるぞ!」
 「そうとも、我ら雪兎隊は殿からも直々に期待をかけられている隊なのだ。如何なる戦であろうと、何ら臆する必要などないぞ!」
 祐一郎の言葉に続いて、北川が自信満々に同意を示す。
 「まぁ、臆している場合じゃないのは確かね」
 「うん、みんなで戦えば、絶対大丈夫だよ」
 香里と名雪も、二斤加農砲を転がしながら、続けて同意する。
 「よし、では作戦の内容を説明するぞ」
 祐一郎は再び頷いて、視線を南に向けた。
 「長井様の砲兵隊が、敵の中央軍に向けている兵力の一部を新手の砲兵陣地に向けて下さる。その間に、我等は隘路を通って迂回し、敵の砲兵陣地を側面から叩く」
 「しかし相沢様、いくら側面から叩くとしても、我々雪兎隊だけで兵力が足りるのでしょうか…」
 隊士の一人が不安げな声を上げる。
 雪兎隊は僅か数十名の寡兵なのだから無理もない。
 「我等の目的は、敵の砲の働きを止めることだ。長井様の狙いは、この加農砲で敵の大砲を破壊することにある。敵の砲の数が正確に分からない以上、全てを破壊することが出来るとは限らないが、少なくとも我等が攻撃を加えれば、敵は砲撃どころではなくなるはずだ。その目的さえ達成すれば、我等は撤収する」
 「ということは、我々歩兵は、この加農砲を護衛すればよいのですな」
 雪兎隊の歩兵たちの中でも、歩兵指図役相当の北川に次いで歩兵たちのまとめ役となっている隊士が口を開いた。
 名は三枝半兵衛、上級藩士の次男坊で、普段から落ち着いた雰囲気を出しているが、まだ年は十八だ。
 とはいえ、祐一郎たち幹部を除く隊士たちは皆十六から十八才の藩士子弟たちで構成されているから、彼らの間では年長者である。
 「そうだ、こちらとしては、なるべく敵に見つからないようにしたいからな。可能ならば、敵に見つかることなく砲を破壊し、混乱している間に撤収したい」
 「分かりました。しかし、それはなかなかに難しいですな」
 「ああ、だから恐らく多少の撃ち合いは覚悟しなければならんだろうな。その時は、お前たちの出番だ」
 「承知しました」
 「まぁ、安心して俺たちに任せておけ、相沢。薩長の兵などに遅れはとらないぜ」
 三枝の返答に続けて、北川も再び自信たっぷりの態度を示す。
 「期待はさせてもらうぜ」
 あながち世辞でもない気持ちで、祐一郎はそれに答えた。
 「されど相沢様」
 再び、三枝が手を上げた。
 「ここは我々にとっても地勢に堪能な土地ではござりませぬ。そのような隘路、如何にして通るのですか」
 「その点については、土方様が把握しているようだ。土方様自ら先導なさるわけにもいかぬから、誰か案内役をつけて下さるんだろう」
 「案内役?」
 話を聞いていた名雪が、その言葉を反復する。
 「その案内役の人とは、どこで合流するの? 合流するまで、待機していた方がいいのかな」
 「いや、その辺りのことは、土方様の陣地の方で聞くことになっているそうだ」
 「そうなの? なら、他の陣地の人たちのためにも、急いで行かないとね」
 名雪が真面目な顔になって頷いた。
 「ああ、そういうことだ。それじゃあ行くぞ!」

 「わかったな? 途中、万が一敵に遭遇したら、何に先んじても後退するのだ。その場合は、砲を無事陣地に戻すことだけを考えたまえ」
 「はぁ…副長のおっしゃる策はよくわかりましたけれど、そんな大切な任務を佐祐理に任せていいんですか?」
 斉藤に命じられて旧幕軍の陣地に残されていた佐祐理さんは、突如歳三に招集されていた。
 元々出撃した部隊と本陣との連絡処理をするために残っていたのだが、これはあくまで新選隊としての任務である。
 だから、歳三の元へ呼び出されるという事自体、想定外のことであったのだ。
 「生憎、倉田君以上に任せられそうな人物が居なくてね。その人物を引き抜かれる斉藤には悪いけどな」
 「あははーっ。斉藤さんがそんなこと気にするわけないじゃないですかーっ。本陣には佐祐理よりも働き者の人たちが居るんですから」
 「そうかい、なら安心だ。こちらの任務は、働き者だからといって任せられるものじゃあないからな」
 そう言って、歳三はしたり顔で佐祐理さんの肩を叩いた。
 佐祐理さんは、少し困ったような笑みを浮かべてそのしたり顔を見ていた。
 「土方様、雪兎隊がお出でになりました」
 そこへ歳三の小姓である市村鉄之助がやってきた。
 「お、来たか」
 市村が指差す方向を見ると、雪兎隊が独特の形状をした二斤加農砲を曳きながら急いでこちらへ向かってくるところであった。
 その一団から、祐一郎が一人歳三達の元に向かって駆けてくる。
 「ご苦労、相沢殿」
 「とんでもございませぬ。我ら雪兎隊に名誉の場を与えてくださり、光栄にございます」
 「名誉の場かどうかは、お前さんたちがこれからどう働くか次第だけどな」
 「重々承知しております」
 祐一郎は恭しく頭を下げた。
 「まぁ、とりあえず今は急を要する。本当なら俺がお前さんたちを先導したいところだが、生憎の怪我でな。この倉田君に先導を任せることにした」
 「よろしくお願いしますね、祐一郎さん」
 「先導のこと、何卒よろしくお願いいたします、倉田さん」
 歳三同様に、恭しく頭を下げてくる祐一郎に、佐祐理さんは再び困惑の笑みを浮かべた。
 「あはは、組下の方でもないんですから、そんなに改まらないでください。佐祐理でいいですよ」
 「え、それは流石に…」
 「いいんですよ、祐一郎さんは舞が気に入った方なんですから」
 「…川澄さんが?」
 当然ながら、祐一郎には舞に気に入られるような心当たりはない。
 佐祐理さんにそう言われたところで、そう簡単に納得はいかないだろう。
 「舞が人を気に入るなんて、なかなか無いんですよ。だから舞が気に入るような人は、佐祐理にとっても信頼できる人なんです」
 「いや、でも、俺は川澄さんに気に入られるようなことは別に…」
 「佐祐理にもよくわかりませんけど、舞はいつも見た目や行動以外のものからも判断しているみたいですから、もっと別の何かを祐一郎さんから感じたんですよ」
 「う、うーん…」
 そのように抽象的なことを言われても、祐一郎にはさっぱりわからない。
 かといって、佐祐理さんがでまかせでそんなことを言っているようにも見えず、祐一郎は返答に窮するより他になかった。
 「生憎、その疑問を解消しているだけの時間がねぇんだ。敵の大砲が下にいる歩兵たちに目標を変えねぇうちに、片付けてくれ」
 「は、はい。直ちに出発いたします」
 「それじゃ、行きましょうか、雪兎隊の皆さん」
 佐祐理さんの場違いなまでに明るい笑顔が雪兎隊一同に向けられた。
 その余裕ある立居振る舞いに、若い雪兎隊隊士たちは内心、戸惑いと共に感嘆したという。

 「掃除とは、何のことだね」
 と朝倉が舞に重ねて質問してから暫くして、瞬煌隊の陣地近くに官軍の砲弾が落ちるのが見えた。
 思わぬ敵の出現に、新選隊のみならず、諸隊の者たちも少なからず動揺しだしていた。
 「斉藤殿よ、純義隊の連中が今にも先走って斬り込みそうな勢いだぞ」
 「本陣に砲撃を受けているのを見てしまったからには仕方ないが…今はまだまずい」
 「こちらの鉄砲じゃ、打って出たところでいい的になる、と。…では川澄殿よ、本当に薩長どもの砲撃が始まっちまったわけだが、我々としてはその掃除に向かうべきと思うかね」
 朝倉に問われ、相変わらず木の上から状況を見ていた舞が、再び下を向いた。
 「私たちがここを離れるわけにはいかない…少なくとも半分の兵は残して、一斉攻撃の機に備えないと」
 「なるほど、斬り込みを成功させるには、一斉攻撃の機しかないだろうな。だが、我らの兵を半分に分けた数では、敵の砲兵陣地を制圧するのはいささか難しいかもしれんぞ」
 「まずは、物見にやった隊士からの報告を聞かないと…」
 「物見? いつの間に送ってたんだ、見た目によらず手際がいいな」
 「……」
 朝倉の褒め言葉らしき言葉には答えず、舞は北に視線を向けた。
 「…斉藤さん」
 「ん? どうした?」
 「後詰めが来る…」
 「後詰めだと? どこの隊だ」
 「わからない…旗を伏せてる」
 だが、やがて木の枝の間から見慣れぬ形状をした砲が見え始めると、流石にピンときた。
 「…会津の隊みたい」
 「会津だと? そいつはまた一体……ひょっとして、例の雪兎隊の連中か?」
 斉藤の問いに、舞はコクリと頷いた。
 「…先頭に佐祐理も居る」
 「なにぃ? 倉田君には本陣に残るように命じておいたはずだぞ。それがなんで会津の連中と一緒にこっちへ来ているんだ」
 「きっと、副長の命令」
 「ああ…なるほど、それ以外には考えられねぇな。そうでなければ、本陣が砲弾で壊滅でもしたか」
 斉藤は、少し呆れたような笑いを浮かべた。
 「やれやれ、副長にも困ったものだ。何かといえば倉田君に重要な役目を任せたがる」
 「でも、斉藤さんもそれを分かってて佐祐理を残した」
 「…まぁ、否定はできねぇな」
 斉藤がため息を吐くと同時に、舞が枝から一呼吸で降りてきた。
 その動きはしなやかで、着地の時にもほとんど物音を立てない。
 それを何気なく見ていた朝倉も、思わず「ほう」と声を漏らした。
 「佐祐理」
 「あ、舞」
 雪兎隊の先頭に立っていた佐祐理さんは、舞の姿を見つけると、草や木の陰にかがんでいる隊士の間を堂々と掻き分けて近寄ってきた。
 「…どうしたの」
 「副長にね、雪兎隊の人たちを先導して敵の砲を片付けてくるように言われたの」
 「……」
 舞が斉藤の方へ振り返った。
 「願ってもない話だな」
 やっぱりといった様な顔をして、斉藤は頷いた。
 「ふぇ? どうしたんですか?」
 「なに、丁度いいから、倉田君と会津の若造たちに掃除を任せてみようかと思ってな」
 「掃除、ですか?」
 佐祐理さんは小首を傾げたが、すぐにその意を悟った。
 「あ、そういうことですか。でしたら、佐祐理と祐一郎さんたちに任せてください」
 と、そこに、少し離れて行軍してきた雪兎隊の一同も現れた。
 「どうかしたんですか、倉田…じゃなくて、佐祐理さん」
 「あ、祐一郎さん。すみません、急がないといけませんよね」
 「ああ、いや、別に急かしたつもりはないんですが」
 「おっと、待ちたまえ、倉田君」
 斉藤が呼び止めた。
 「なんですか、隊長?」
 「俺たちも頭上を飛んでる鉄塊を早く掃除してもらいたいのでね。我々からも兵をつけよう」
 「よろしいのですか?」
 これには祐一郎が驚いた。佐祐理さんが先導しているとはいえ、中身は雪兎隊という会津の青二才の集まりだ。
 それに旧幕軍の部隊長が兵を付けると言ってくるのだから、随分な高待遇である。
 「わざわざ副長が倉田君に任せた役目だしな。それに、お前さんたちだけじゃ俺とここにいる連中がちと不安だ」
 「う……」
 「あはは、大丈夫ですよ、祐一郎さんたちはちゃんとした訓練を受けているそうですから」
 「もっとも、殺し合いと調練は別物だがね」
 朝倉が、木の幹に背を預けながら割って入った。
 予想外の声に、祐一郎も思わずその声の主を見る。
 「これは御無礼、名を名乗ってなかったな。回天隊を取りまとめている、朝倉隼之助だ」
 「会津松平家家臣、相沢祐一郎と申します。我が殿より雪兎隊と申す隊を預かっております」
 「このような姿勢で失礼。別に貴殿たちの実力を疑ったわけではないのだ。ただ、その様子ではさほど戦を経験してはいないのであろう?」
 「ええ、まぁ…戦としては、これが二度目となります」
 「二度目か。ならば、一度経験しているだけでもだいぶ違うことが分かるであろう」
 「はい、緊張はいたしますが、初陣ほどのものではありません」
 「それならばよい。…だがな、戦ってものは、時に無間地獄の様相を呈することがある。戦には膂力(りょりょく)も智力も大事だが、それよりも、如何なる地獄も走り抜けられる心が肝要である。それは勇敢さとはまた異なるものだ」
 「心でありますか」
 祐一郎は、仙台藩との戦のことを思い出した。
 あのときは、ほとんど軽く当てられた程度の戦であったが、それでも味方から何人もの死傷者が出て、また同様に、敵にも銃弾を撃ち込んだ。
 銃創から血を噴出し続ける兵の姿は、容易に忘れられるものでもない。
 雪兎隊隊士の多くも同じ思いだろう。
 まして彼らはまだ若年なのだ。
 「初陣がどんな戦だったか私は知らぬが、これから貴殿らが攻撃をしかける相手は、生半可な心で勝てる相手ではない。それだけは心に留めておけ」
 「はい、ご助言感謝いたします」
 「無駄死にはするな」
 朝倉はそう言うと、再び視線を敵側に向けた。
 「……」
 祐一郎は辺りを見回した。
 各所に散らばって、御家人、旗本や陸軍歩兵たちで構成された、幕府兵たちの姿がある。
 彼らは江戸からこの白河まで新政府軍と戦い続けてきた者たちである。
 中には、京都から戦ってきている者もいるだろう。
 彼らが初陣を体験したのも、ついこの前のことであろう。
 しかし、今や幾度もの戦を経験した精兵である。
 彼らは地獄のような合戦場をどのように走り抜けてきたのだろうか。
 祐一郎は恐怖と責任感の間で、幕府兵たちが乗り越えてきた戦に思いを馳せた。
 それは幾ばくか祐一郎の恐怖を和らげてくれるであろうか。
 「…物見が帰ってきた」
 ふと、舞の呟きが聞こえた。
 「物見?」
 佐祐理さんが怪訝そうに見ると、南の山の方から歩兵服を着た新選隊隊士が一人、小走りにこちらへ向かってくるのが見えた。
 やがて隊士は息を切らせつつ、舞の元へ到達した。
 「…報告」
 「は、はい! 敵は丘に砲を引き上げて、こちらに砲撃しておりました! 数は三門、長州の家紋でありました!」
 「周囲は?」
 「長州兵が何人か周辺に立って居ましたが、数は少なかったようです! 砲の数が確認できる距離でも見つかりませんでしたから!」
 物見の報告を聞いた舞は、この隊士を短く労うと、少し考えてから、振り向いた。
 「何かいい策でも思いついたかね?」
 斉藤が尋ねる。
 「…私も佐祐理たちと行って来る」
 「なにぃ? 川澄君が斬り込みに参加してくれなくてどうする」
 「佐祐理たちが心配だから」
 「いや…気持ちはわかるが、川澄君の腕を引き抜かれるのはちょっとな…」
 斉藤が渋い顔をした。
 「まぁ、外の者が口を挟みたくはないが、今は砲の掃除も重要なことだからな。いいんじゃないか?」
 そんな前置きをして、朝倉が再び口を挟んできた。
 「あはは、申し訳ないです斉藤さん。でも、舞は言い出したら聞きませんから、ここは許可してあげてください」
 斉藤の渋りに、さらに佐祐理さんが止めを刺した。
 「…やれやれ、あまり俺を困らせないで欲しいものだな。川澄君、君の隊を引き連れて倉田君と雪兎隊に合流したまえ」
 「……(コクリ)」
 「ありがとうございますね、斉藤さん」
 「その代わり、確実にアレを何とかしてもらうからな? これで砲弾の下敷きにされちゃあ、いくらなんでも俺が浮かばれん」
 「それは大丈夫ですよ。ね、祐一郎さん」
 「え? あ、はい、お任せ下さい、長州の兵など速やかに排除してやります」
 「それじゃあ、斉藤さんの為にも、すぐに向かいましょうか」
 佐祐理さんは、相変わらずの気軽さで、祐一郎たちに出発を促した。
 祐一郎も異存なく頷き、隊士に向き直る。
 「雪兎隊、進軍するぞ!」
 「……」
 祐一郎の命令と同時に、舞も無言で片手を挙げた。
 その無言の号令により、新撰隊の二十数名の者が立ち上がる。
 「では祐一郎さん、こちらから行きましょう」
 「はい、お願いします」
 佐祐理さんに先導され、祐一郎たち雪兎隊と、舞に率いられた新撰隊隊士の一部は林の中に消えていった。
 「……ふむ」
 それを後ろから眺めていた、朝倉が声を漏らす。
 「あの若い連中に任せるというのは、少々気が引けるな」
 「そうかね? 俺はこう見えて、結構連中の働きも信頼しているんだがね」
 朝倉が意外そうな顔で、斉藤を見た。
 「そいつは思いもよらぬお言葉だ。俺の目からすれば、どこから見ても素人の連中だったと思うんだが。まぁ、川澄殿も居ることだし、今回の掃除はきっちり果たしてくれるだろうとは思うがね」
 「なに、素人連中なのは確かさ。そこはあの幼さを見れば一目瞭然よ。だがね、俺が信頼しているのは、朝倉殿の言った心という奴だよ」
 「ほう?」
 「あの雪兎隊とやら、あの若さで、仙台まで行って洋式調練を受けてきたそうだ。会津の侍の中でも、随分と見上げた奉公の心だと思わないかね」
 「ふむ、その奉公の心が戦に肝要な心と通じる…と」
 なるほどその考えは理解できた。
 今残っている味方こそが、徳川家への奉公の心の強さによって戦い抜いてきた連中だという事実が何よりの証である。
 「連中にとっては、必死で守りたいものの為に戦をやってるのさ。俺はその魂を、連中から感じ取ったわけよ」
 「なるほど、その点に関しては、我々よりもむしろ強いかもしれんな」
 朝倉が頷いた。
 既に幕府が瓦解した今、幕臣であった彼らが戦い続けるよりどころは、忠誠心であったり、誇りであったり、様々である。
 だが、彼らはそれぞれその目に見えぬものを必死で守ろうと戦っているのだ。
 その心は強い。
 だが、会津武士たちは、それに加えて故郷というものを守ろうとしている。
 朝倉はその点に頷いたのであった。
 「それからな、朝倉殿、俺たちとてまだまだ若いんだ。若い者は同じ若者を信頼したくなるというものじゃあないかね?」
 「なるほど、それもご尤もだ」

 砲の音が近い。
 この丘を上れば、長州の砲兵陣地だろう。
 祐一郎は自然と唾を飲み込んだ。
 急な坂の下であるここは、中腹の林を挟む丘の上からは見えないだろう。
 しかし、今から命の獲りあいをしようという相手は、距離にすればすぐそこに居るのだ。
 「さ、祐一郎さん、ここから先は祐一郎さんの采配ですよ」
 「は、はい」
 祐一郎は緊張を隠しきれない声で答える。
 佐祐理さんの先導のおかげで、長州兵の影も見ることなく、ここまでたどり着くことはできた。
 しかし、この先は自らの判断で、敵の眼前に出なければならなくなる。
 それは祐一郎にとって、初めての重責であろう。
 「…私たちは、祐一郎の援護をするから」
 舞が祐一郎に告げる。
 如何に責任の重い役目であろうとも、こんなところでぐずぐずしているわけにはいかない。
 祐一郎は意を決した。
 「いいか、雪兎隊。雪兎隊は二隊に分ける。一隊は北川が指揮してここから左側に向かったところで待機だ。もう一隊は三枝が監督し、加農砲を守る。北川の隊は、加農砲が最初の砲撃を開始したら、こちらに反撃しようとしてくる敵を撃ち、反撃を阻止してくれ」
 「おう、任せろ。退却の頃合はどうするんだ?」
 「敵の砲は三門と分かっている。これを全てこちらの砲撃で沈黙させたら、全隊を砲の周囲に集めて砲の退却を支援する。これが理想だが、敵の砲がこちらの視界の外に後退してしまえば、その時点で俺たちも退却だ。もしくは、敵の後詰めが予想外に多く出てきた場合も、兵力を集結して退却する。囲まれたら相当な被害が出るだろうからな」
 「祐一郎さん、佐祐理たちの新選隊はどうしましょうか」
 「あ、えっと…俺みたいな奴が指図していいんでしょうかね」
 「あはは、問題あるわけないじゃないですかーっ。祐一郎さんは副長の命令で来てるんですよ?」
 「ええ、まぁ…それはそうなんですけどね」
 流石に祐一郎が佐祐理さんたちに命令を出すのは気が引ける。
 そこで祐一郎は新撰隊側の提案を聞くことにした。
 「新撰隊の方々には、右側から援護してもらおうと思っていたのですが、どうでしょう、先ほどの作戦も含め、何か案はありましょうか」
 「そうですねぇ…佐祐理は、加農砲から敵の目をそらすために、砲撃を始めたら新撰隊で右から攻めてみるのもいいかと思います。舞はどう?」
 「…多分、敵はあまり抵抗できない。制圧するつもりで攻めても大丈夫だとは思うけど…」
 舞はちらりと視線を祐一郎に投げかける。
 「ええ、土方様からは、砲を沈黙させたらすぐに撤収するように言われてます。ここを制圧すれば敵はかなり慌てると思いますが、この兵力では、敵が奪還しようとしてきた場合に危険かもしれません」
 「…制圧するまでもないと思う。副長がそう言ったなら、すぐに撤退した方がいい」
 舞はきっぱりと言った。
 「では、新撰隊も、敵の砲の沈黙とともに集結して撤退してください。可能ならば、佐祐理さんのおっしゃった通りに、敵を引き付けていただけると有難いです」
 「…わかった」
 舞はうなずくと、新撰隊の兵を立ち上がらせた。
 「それでは祐一郎さん、また後で会いましょう」
 佐祐理さんがそう言うと、新撰隊の兵は舞とともに移動を開始した。
 敵を引き付けるために、舞たちは雪兎隊とはだいぶ離れたところで待機することになる。
 孤立を避けるためにも、早く攻撃を開始しなくてはならない。
 「北川、任せたぞ」
 「任せておけ、そっちも抜かるんじゃないぞ」
 いつも通りの自信ありげな笑みを浮かべ、北川も三十名ほどの雪兎隊隊士とともに麓をじりじりと移動し始めた。
 さて、祐一郎の手元に残ったのは、名雪と香里を始めとする砲兵に、三枝ら歩兵を合わせた四十名弱である。
 まずはこれを、敵の砲を射界に収める場所まで前進させねばならない。
 「名雪、香里」
 「なに? 祐一郎」
 「俺が先行して敵の様子を見て来るから、後ろからゆっくりと付いて来てくれ。敵に見つからないように、慎重にな」
 「でも…大丈夫、祐一郎? もし祐一郎が見つかったら危ないよ」
 「なに、斥候は隊長が率先して務めないとな。それに見張りもほとんどいないらしいから大丈夫さ」
 それでも名雪は心配顔で何か言いたげに祐一郎を見つめている。
 どうやら、心配性な名雪を安心させるには、もう一手間要るらしい。
 「三枝、俺が先行してる間、砲が敵に発見されたら直ちに敵を撃て。銃声を聞かれるとまずいが、本陣に連絡されるよりはいい」
 「承知いたしました。しかし相沢様、相沢様が襲われた場合はどうすれば」
 三枝の想定は怜悧かつ的確である。
 「それだがな、やはり砲の近くから撃つのはまずい。だから俺が見つかっても、お前たちは身を潜めていろ」
 「ダメだよ祐一郎、危なすぎるよ」
 「まぁ、話は最後まで聞け。一名、砲からも俺からも離れた地点から俺を援護する兵を連れてく。それならいいだろう?」
 「でも…援護が一人だけじゃ、やっぱり心配だよ」
 「あくまでこれは偵察だからな、敵に見つかったら全て水の泡だ。なに、敵の様子さえ確認したらすぐ戻る」
 名雪はまだ心配顔が解けないが、それでもさっきよりは幾分和らいだ表情をしている。
 「それにな、この役目には最適の奴を連れて行く。真琴!」
 「え?」
 思いもよらなかった、という顔を真琴は上げた。
 「真琴、付いて来い、お前が援護だ」
 「な、なんで真琴が行かなくちゃならないのよう」
 「お前がこの中でずば抜けて小さいからな。一番見つかりにくい」
 「小さくないわよ」
 「いや、小さい」
 「小さくない!」
 「相沢様、小さいのはご尤もですが、何もわざわざ沢渡殿でなくてもよいのでは」
 「あんたまで何言うのよ!」
 「いや、三枝、言いたいことはわかるが、俺にも考えがあってな、この選任は任せてくれ」
 「…相沢様がそう言われるのでしたら、手前も異存はござりませぬ」
 三枝は訝しげな顔をしていたが、素直に引き下がった。
 「そういうわけだからな、名雪、安心して後ろから付いて来い」
 「うん…祐一郎がそう言うんなら、わかったよ」
 本当に納得したのか諦めたのかは定かではないが、名雪もようやく頷いた。
 肝心の真琴が不満げな表情を崩さないが、これはまぁ、仕方ないだろう。
 「ほら、真琴、行くぞ」
 「ちょ、ちょっと! ……ま、待ってよ、今行くわよう」
 「弾は込めておけよ。念のため、すぐに撃てる様にしておけ」
 「うん…わかった…」
 そうして、不安げな隊士たちを残し、祐一郎は丘を登り始めたのである。

 「…あいつ、嫌い」
 さて、暫く歩くと、真琴がぼやき始めた。
 「あいつ? 三枝のことか?」
 「さっきも真琴のこと馬鹿にするようなこと言って…普段から真琴のことを子供扱いしてるんだから」
 「三枝本人からすれば、そんなつもりはないと思うがな」
 三枝は調練中に必要なこと以外口にしないから、真琴からすれば、歯牙にもかけられてないという気がするのかもしれない。
 真琴は歩兵の中でも一番年下だろうから、そういう意味では確かに歯牙にもかけてないのかもしれないが。
 「あの態度が悪いのよ。いつもあんな偉そうに……って、大体、祐一郎があんなこと言うからいけないのよ!」
 「俺は本当のことを言っただけだぞ。実際、お前が一番小さいことは事実だしな」
 「真琴はもう大人よ!」
 「誰も大人かどうかなんて言ってないぞ。俺はただ『小さい』と言っただけだ。それは事実だろ?」
 「そんなこと……ないわよ……」
 「ま、それに、そのことは別にどうでもいいんだ。俺が真琴を連れてきたのには、ちゃんと理由があるんだからな」
 「どうでもよくなんか……え?」
 不満気に下を向いて歩いていた真琴は、思わず立ち止まって顔を上げる。
 祐一郎も、歩みを止めて振り返った。
 「さっきも言ったけどな、できれば、真琴が俺を救う、なんていう状況は避けたいんだ。見つからないのが第一だからな。でも、誰か一人援護を連れて行かないと、名雪たちが心配するだろ? それに、雪兎隊の隊士たちは皆、会津松平家の家臣の家の出だ。もし俺が見つかった場合、功を焦って撃っちまうかもしれない」
 「真琴には、よくわからないけど…」
 「そうだ、お前は唯一人、少なくとも松平家の家臣の家の者じゃないだろう? だから、功に逸(はや)ることもない。それで連れてきたんだ」
 「さっきは、砲のところに居ろ、と言ったのに、今度はそんな理由で敵の目の前に連れ出すなんて、祐一郎もいい加減ね」
 「いい加減と言うな。俺にだって色々考えるところがあるんだ」
 「祐一郎の頭じゃ、そんなに考えたってしょうがないのに」
 「うるさいな、俺はお前を信頼しているから連れてきているんだぞ」
 言ってから、何か祐一郎は不自然な言動をしてしまったような気がした。
 「…信頼って……何よ、そんな…」
 一方、思いもよらない単語でさっきの発言を集約され、真琴は少しうろたえた。
 「さっきから祐一郎少し変よ、気持ち悪いこと言うし」
 「褒めておいて、それはないだろうが。俺はただ……」
 「……ただ?」
 ただ、手元に置いておきたくなった、そんな言葉が祐一郎の脳には浮かんだが、この場でそれを言うのは、彼には躊躇われた。
 そんなことを言ったって、真琴にまた気味悪がられるだけだろう。
 祐一郎はそう思い、言葉尻を濁した。
 「…いや、なんでもない……そんなことより、さっきの話が重要なんだ」
 祐一郎は再び歩みを進めた。
 真琴も言葉尻を別段追求することなく、それに従う。
 「真琴には、くれぐれも慎重に動いてもらいたい、さっき言った通りな」
 「何をすればいいの?」
 「いいか、俺が敵の様子を見ている間、お前は周囲に敵が来ないかを見張っていればいい。もし敵が来たら、俺に石でも投げて報せろ」
 「石はどんな大きさでもい…」
 「小石だ、これくらいのな、それ以上は許さん」
 指で形を作り、真琴の発言を制する。
 真琴は少し残念そうに頷いた。
 「それで、報せたらどうすればいいの?」
 「さっきも言ったとおり、敵に見つかるのが一番まずい。俺が敵に気づくのを見届けたら、お前はずっと隠れていろ。何があってもだ」
 「え…でも、それじゃ…」
 「大丈夫だ、俺も見つからないようにやり過ごす。万が一感づかれても、俺が敵に知らされる前に何とかする。いいか、銃は絶対に撃つんじゃないぞ」
 「じ、じゃあ…祐一郎が襲われても、真琴には何もしないでいろっていうの?」
 「そういうことだ。だが、もし、本当に危なくなったら…そうだな、そのミニエー銃で敵を殴りつけるか銃剣で刺せ。万が一俺がやられたりしていたら、そのときは撃ち殺すんだ。そして、そのまま名雪たちの元へ戻って退却するよう伝えればいい」
 「……」
 冷静にそんなことを喋る祐一郎を見ながら、真琴は押し黙った。
 「…なに、まずそんなことにはならんさ。砲の並びを確認したらすぐに戻る」
 祐一郎は、真琴の肩に手を置いた。
 既に、丘の上の集落は目前になっていた。
 「いいか、俺はそこから敵の様子を見る。お前はこの太い木の陰に居ろ。何かあったら、俺に石を投げる。これくらい以下の大きさのな」
 最後の部分を改めて強調して、祐一郎は真琴の目前に手を出した。
 二人の前には、周囲のより少し幹が太い木があり、地面は背の高い草が茂っている。
 ここなら、確かに敵に見つかりにくい。
 「…うん、わかった」
 真琴は祐一郎の手を見ながら、顔を縦に動かした。
 しかし、それ以上のことは言わない。
 尤も、元よりそれは祐一郎にとって予測していたことである。
 真琴の顔を見届けた祐一郎は、真琴を残して丘の上へとさらに進み始めた。
 なるほど、聴覚を前方に集中させてみれば、間近にいる敵の会話も聞こえるような距離にいるようだ。
 祐一郎は、背丈の高い草の中に身を沈め、地を這う。
 「隊長! 本隊より伝令です!」
 「またか!? 今度は何だ!」
 「先備えが引き続き苦戦中、さらなる後詰めを求む、とのことです!」
 「馬鹿を言うな! これ以上よそに出せる兵力など残っているものか!」
 「し、しかし、これは本隊よりの指示でありますが!」
 「知るか! 薩摩の連中が苦戦しているのなら薩摩の連中で何とかすればいいであろう!」
 敵の指揮官らしき男が、怒鳴り散らしているのが聞こえる。
 ただでさえ砲の爆音で聞こえにくいというのに、それに加えてこの怒りようである。
 さぞかし本人は大声を上げているのだろう。
 「ご苦労なことだ」
 祐一郎は低く呟く。
 やはり遭遇戦となったことで、敵の中にも相当な指揮の乱れがあるようだ。
 となれば、この策略も実行が容易になるわけで、祐一郎にとっては喜ばしい限りである。
 その為にもまずは、地面に身体を這わせたまま、前へ移動しなくてはならない。
 さて、舞の斥候からの報告によれば、砲は3門とのことである。
 この偵察の目的は、その3門を同時に射界に収め、できれば敵が容易にそこから脱せられないような位置を把握することにある。
 瞬時に敵の砲を全て沈黙させられるか、それがこの作戦の要であり、全てなのである。
 「いいから、これ以上後詰めは出せぬ、と薩摩の伊地知とやらに伝えて来い!」
 「し、承知しました!」
 草の隙間から、忌々しげに抜き身の刀を振り上げる敵指揮官と、後方へ駆けていく歩兵の姿が見えた。
 そして、その手前には、整然と並べられた山砲が三門。
 「僥倖だ、この配置ならば手間取ることなく片付けられるな」
 祐一郎はニヤリとしてその周辺へと視線を移す。
 見れば、視認できる歩兵は全て砲の操作をしているようだ。
 指揮官が兵力不足を喚いていたのも、本当のことらしい。
 これならば歩哨が少ないと舞の斥候が言っていたのも頷ける。
 コツ
 そのとき、祐一郎の頭に何かがぶつかった。
 「…いてぇな」
 ぼやきながら後ろを見る。
 これが自然災害でないのならば、真琴しかないだろう。
 「……?」
 真琴が、必死に祐一郎から見て右の方を指差している。
 ただならぬ様子に、祐一郎も嫌な予感を覚えた。
 そのまま草の中を這いつつ、太い幹の下に張り付く。
 背中を幹に預けたまま、祐一郎は顔を真琴の指す方向へ向けた。
 果たして、黒い人影が近づいてくるのが目に映る。
 「…なんてこった」
 祐一郎はここに来て我が身の不運を嘆く。
 間違いない、あれはほとんど居ないと思っていた長州の歩哨だ。
 隊の安全ばかりに気をとられ、己の安全を見失ったか、と祐一郎は唇を噛む。
 それほど無駄な時間をすごしたつもりはなかったが、近くに来られては仕方がない。
 祐一郎は、真琴に隠れるよう合図を送り、自らは再び草の中に身を沈めた。
 だが、祐一郎の服は黒い士官服である。
 草の中に溶け込むわけにもいかず、幹の下にしゃがみこみ、幹に張り付くしかない。
 (…気づくなよ)
 祐一郎は心の中で念じる。
 そして、ひんやりとした幹の温度を感じながら、祐一郎は幹に響く足音に耳を向けた。
 それはだんだん近づいてくる。
 足音から察する限りでは、向こうはまだ祐一郎にも真琴にも気が付いていないようだ。
 祐一郎は深く息を吸い、呼吸を整える。
 敵が近くに来れば、呼吸音ですら命取りになりかねないだろう。
 足音は、ゆっくりとした歩調で、既に背後の木のすぐそばまで来ている。
 祐一郎は呼吸を止めた。
 そして、幹に食い込まんばかりに、背中を張り付ける。
 足音の歩調は、変わらない。
 祐一郎は横目で、その主を確認しようとした。
 視界に、黒い歩兵服を着た脚が入ってくる。
 腰には刀が一振り、その前には、前に抱えている西洋銃の銃床、抱える腕は銃を下から支えており、引き金には指をかけていない。
 その脚は、祐一郎の視界に入っても、歩調を変えることなく、前へと進んでいく。
 祐一郎の呼吸は止めたままだ。
 時間的にはほとんど一瞬のことであるが、祐一郎には気の遠くなりそうなほど長い時間に思えた。
 歩哨は、祐一郎の右側を通り、段々遠ざかろうとしている。
 そして、祐一郎がそろそろ肺に留めた空気を解放しようかと思ったときであった。
 ガサッ
 歩哨の腰に結いつけられていた弾薬入れが、地面に落ちた。
 歩哨の脚が止まった。
 祐一郎の心臓は、悲鳴を上げんばかりに収縮した。
 歩哨はそれを拾うために、こちらへ振り返るだろう。
 たとえ幹に張り付いていたとしても、この男の、この敵兵の目は、ごまかせない。
 恐ろしい、身体は恐怖で硬直する。
 敵は目の前にいる。
 ここで自分が見つかるわけにはいかない。
 この敵に見つかることは、許されない。
 見つかることは、怖い。
 この敵と自分との間には、およそ二歩ほどの距離しかない。
 この忌むべき敵との間には、二歩で足りる距離しかない。
 この倒さねば危険な敵との間には、二歩踏み込むことで足りる距離しかない!
 肺の空気を解放する、身体の硬直は解けた。
 「…なんだ、また落ちたか」
 歩哨は弾薬入れを拾おうと、振り返る。
 しかし、その目に最初に映ったのは、目を血走らせ、こちらに腕を伸ばしてくる男の姿だった。
 踏み込む、踏み込む、二人の男の間に間合いはなくなった。
 「むぐぅ!」
 祐一郎は、左手で、相手の口を下から塞ぐ。
 そして右手を相手の腰に回すと、右足で相手の足を内側から払う。
 完全に不意を突かれた歩哨は、口をふさがれたまま、仰向けに倒れた。
 祐一郎は、そのまま相手にのしかかる。
 左足は、相手の右腕を押さえつける。
 利き腕さえ自由を奪えば、この歩哨は銃を振り回すことも刀を抜くこともできない。
 「むぐぐぐぐ!」
 歩哨は、必死の形相で叫び声をあげようとし、自由な左手と脚で、己の上にのしかかる恐怖を除けようとした。
 しかし、祐一郎は右手でその左手を押さえ、組み敷く。
 脚だけでは、この状況から逃れられない。
 そのとき、背後で気配が動いた。
 「ゆ、祐一郎…」
 祐一郎は、後ろで聞こえた声に、一瞬視線を遣った。
 真琴が立っている。
 手には、銃剣を取り付けたミニエー銃がある。
 真琴は、その銃で、何をするのか。
 そんなこと、祐一郎に分からないはずはなかった。
 「……」
 祐一郎は、歩哨の左手を押さえつけていた右手を解く。
 それを見た歩哨は、渾身の力をこめた左手で、祐一郎の胴を殴ろうとした、
 「ぐぅ…!」
 しかし、声にならない叫びを上げたのは、歩哨だった。
 祐一郎は、解いた右手で歩哨の左側頭部を強烈に殴打していた。
 歩哨の抵抗が鈍った。
 祐一郎は、そのまま右手を自分の腰に持っていく。
 そして脇差を握った。
 先日、三木から拝領した品だ。
 祐一郎は、それを引き抜き、振り上げる。
 ここに来て、祐一郎は初めて組み敷いた相手の顔を見た。
 まだ若い、年は祐一郎と同じくらいであろうか。
 顔に面擦れの跡もないが、ではこの男は武士ではないのか。
 思えば、会津武士として人並みにしか武芸は心得てない祐一郎が相手にしては、不意を突かれたとはいえ、あまりに容易く組み敷かれたような気もする。
 長州の歩兵は百姓で編成されているという話を、祐一郎はようやく実感したのであった。
 「…悪いな」
 祐一郎は、一言、その男に告げた。
 男の目に恐怖が増したような気がした。
 そして、手の脇差を喉に振り下ろす。
 ズブリ、と肉を貫く感触が祐一郎の手に伝わる。
 おびただしい返り血が、祐一郎に向かって噴出した。
 だが、祐一郎は怯まない。
 そのまま、右へ、外側へと刃を払う。
 歩哨の呼吸する空気が、喉に開いた穴から漏れ、不快な音を立てる。
 歩哨の体内を流れていた血が、地面にも流れ出し、背の高い草を赤く染めていく。
 祐一郎は、刃を止めたまま、じっと歩兵の顔を見る。
 段々と、流れ出る血の勢いが、衰えていく。
 それに伴い、暫くもがいていた歩哨も、動きを失った。
 「……」
 動きの止まったことを確認した祐一郎は、歩哨の口を塞いでいた左手をどけた。
 見れば、喉から逆流した血液で左手は赤く染まっている。
 左手だけではない、脇差を握った右手も、相手を見下ろしていた顔も、上半身を押さえ込んでいた胴も、真っ赤に染まっている。
 しかし、ただそれだけのことだ。
 祐一郎は、呼吸を落ち着けると、立ち上がり、歩哨の遺骸から離れた。
 「祐一郎…」
 真琴が、呆然とした様子で、祐一郎に歩み寄ってくる。
 「ふぅ……真琴、自分が危なくなるまでは隠れていろ、と言っただろ?」
 祐一郎は、平時と変わらぬ様子を装い、真琴に語りかけた。
 「祐一郎…怪我は…してないの?」
 「ああ、俺はかすり傷一つ負ってないぜ。これは全部向こうの血だからな」
 「そう…よかった……」
 真琴はそう言うと、地面にへたり込んだ。
 「……もう…ほんとに…心配したんだから……」
 そして、その憔悴しきったような顔をうな垂れる。
 「……真琴?」
 近づいた祐一郎は、真琴の顔を覗き込む。
 その顔を、真琴は急にキッと睨み付け、
 「祐一郎の馬鹿ぁ!」
 と叫んだ。
 「なっ!? ば、馬鹿、声を抑えろ、敵に見つかったらどうする!」
 慌てて真琴の肩を掴んで、なだめる。
 そこで、真琴の目から涙が流れていることに気づいた。
 「お前……」
 「だって…祐一郎、死んじゃうんじゃないかって、真琴……」
 「……馬鹿、戦なんだぞ、死ぬかもしれないのは当たり前じゃないか……」
 「そんなこと…分かってるわよ……。でも、祐一郎、いつもこんな危険なことしてたら……」
 「そりゃあ、俺は雪兎隊を預かる隊長だからな、責任がある」
 「……いつも…いつもそんなこと言って…隊長だからって何でも背負い込めばいいと思わないでよ!」
 「……」
 真琴が語気を強める。
 声は抑えているが、その感情の高ぶりは、流石に祐一郎にだって分かる。
 「…さっき、真琴のこと信頼しているって言ったじゃない。だったら、もっと真琴を使ってよ。真琴だって同じ雪兎隊の隊士なんだから」
 「そうは言うけどな…」
 「他のみんなだって、きっと同じこと考えているわよ。名雪さんだって、香里さんだって、あの三枝だって、ただ……ただ、一人で戦ってる祐一郎を見ているのは辛いはずだもの……」
 祐一郎は、真琴の胸中を聞き、己の行いを省みた。
 自分は雪兎隊を預かる役目に就いてから、隊のことを第一に考えてきた。
 しかし、その実ただ隊という枠組みについてばかり考えてきたのではなかったか。
 枠組みに係る、己の責務についてばかり考え、真に隊を構成する隊士のことを考えてなかったのではないか。
 「……すまなかったな、どうも俺は本当の隊長の役目というものを見失っていたようだ」
 どうも、いけない。
 色んな人たちの言葉を深く考えすぎたというわけではないが、隊長としての思考が酷く硬直化していたようだ。
 祐一郎は深く息を吐き、己の思考を整理する。
 隊長としての、余裕ある心、それは単なる勇敢さではない勇気を持った心だ。
 延々と続く戦の中で、たった一人生き続けることなど、到底できるものではない。
 朝倉が祐一郎に語ったところには、このような意味もあったのだろうか。
 「真琴、お前の言うとおりだ、俺一人でどうにかなる相手じゃないんだものな、この戦の敵は」
 そう言って、祐一郎は真琴に立ち上がるよう促した。
 「うん……もう、ただ心配しながら待つのは嫌……待つのは……」
 「ああ……だが、もう大丈夫だ、これからはな」
 祐一郎は、そう言って笑みを向ける。
 そして、隊士たちのもとへと歩き始めた。
 相沢祐一郎、彼はまだ青臭く未熟な軍人である。
 自分のことも、周囲で起きていることも、彼には察することなどできていない。
 ただ、愚直に、真摯に、会津藩士としての役目を全うしている。
 しかし、彼はその役目の中で学び、軍人として、一人の人間として、また一歩前進していく。
 そして、やがて気づくのだろう。
 「ゆ、祐一郎! どうしたの!? 怪我してるの!? 大丈夫なの!?」
 戻ってきた祐一郎の姿に、名雪は慌てふためいた様子で駆け寄る。
 「ちょ、ちょっと…大丈夫なの? 尋常じゃないわよ、その血の量」
 「相沢様、敵にやられたのですか! お怪我は!?」
 隊士たちの様子に、祐一郎は頭を掻きながら答える。
 「驚かせて悪いな、でもこれは俺の血じゃない、安心してくれ」
 「で、でも…どうしたの、何があったの?」
 「俺のヘマでな、敵の歩哨に見つかりそうになった。だが、本隊には知られてない、大丈夫だ」
 「祐一郎が怪我してないなら……よかった……」
 名雪はホッとため息をつく。
 そんな名雪に、祐一郎は小声で続けた。
 「……すまなかったな。名雪たちに余計な心配させちまった」
 「本当だよ……血だらけの祐一郎を見たとき、びっくりして心臓が止まるかと思ったんだよ」
 「ああ……俺が馬鹿だった」
 「いいよ、祐一郎が無事で帰ってきてくれたんだから」
 顔も服も真っ赤に染まった祐一郎に、名雪は自然な笑顔で笑う。
 自分が真琴と偵察している間、名雪はどんな思いで待っていたのだろう、それを思うと、祐一郎は心苦しかった。
 「……無事なのはよかったけど、相沢君、偵察の方はどうだったの? 予定通りでいいのかしら?」
 「ああ、そうだったな……みんな、予定通りだ、このまま雪兎隊は砲を前に立てて前進、敵の山砲三門を沈黙させるぞ!」


 先ほどから苛付いてしょうがなかった。
 本陣からは、さっきから何度もこちらの兵力を引き抜けと言って来ている。
 直接命令を出してきているのは長州二番中隊長である梨羽才吉様だが、この作戦の総指揮は薩摩の伊地知という男が執っているらしい。
 薩摩藩の中では名の知れた将らしいが、このお粗末な戦はどうだ。
 ここから見える戦況から判断する限りでは、先頭に居る薩摩四番隊は会津陣地に包囲されてほとんど前進できていないようだ。
 そのくせ、後詰めを、後詰めを、と矢継ぎ早に催促してくる。
 大体、強行軍で兵たちは疲れきっているのだ。
 いくら会津の兵が時代遅れの装備しか持っていないとしても、向こうの方が数は多いわ、地の利はあるわ、ぐっすり眠ってピンピンしてるわ、と状況的には圧倒的に不利だ。
 自分たちは向かいの山に陣地を張っている敵を撃てという命令を実行しているが、仮に向かいの陣地を砲でどうにかしたところで、それでどうなるのか甚だ怪しいものだ。
 しかも敵もそれなりに優れた砲を持っているようで、さっきからこちらに反撃の砲弾が何発か着弾している。
 敵も砲で武装しているならそうと伝えて欲しいものだ。
 まぁ、あの強行軍ではまともに偵察もしていないのではあろうが……。
 「敵の砲撃が止ったようです!」
 「ん? そういえば、そうだな。こちらの砲弾が当たったか?」
 「そういうわけでもなさそうですが…何か問題が起こったのでしょうか」
 問題が起きたとすれば、それは十分にあり得る事だ。
 何しろ、向こうは大して西洋兵法も学んでいないであろう会津の連中だ。
 砲の使い方すら知らなくても不思議はなかろう。
 「……それで、歩兵たちは集めたか?」
 「あ、その件なのですが、見張りに立たせていた兵が一人まだ戻ってきておりませんので…」
 「どうせ引き抜かれるのだ、ゆっくりと待てばよい」
 兵たちも疲れで士気が鈍っているのか。しかし、見張りの兵が戻ってこないというのは面妖な話だ。
 「…ふむ、その兵は陣の周りに―――」
 ドォォォォォン!!!
 轟音が、響いた。

 「命中! 一門破壊!」
 「急げ! すぐに次の弾を籠めろ!」
 完全に不意を突いた二斤加農砲の初弾は、敵の山砲に命中し、弾け飛んだ。
 ちょうど近くに居た指揮官らしき男も爆風で跳ね飛ばされたのが見えた。
 突然のことに、敵はまだ状況が掴めていないだろう。
 「籠めたよ、祐一郎!」
 「狙いを定めろ、次は隣の砲だ!」
 「了解、任せておきなさい」
 香里が砲身を二門目の山砲に向ける。
 敵もようやく今までとは違う砲撃を受けたことに気づき始めたようだ。
 慌てながら、小銃を持ち、構え始める。
 「捉えたわ」
 「よし、加農砲、放て!」
 ドォォォン!
 二発目が火を噴く。
 直進する砲弾は、狙い通りに隣の山砲に直撃した。
 「ぐわぁぁぁぁぁぁ!!!」
 中空に敵兵が舞う。
 装填中の弾でもあったのか、敵の弾薬に誘爆し、さらなる爆発を引き起こしたようだ。
 「敵がこっちに気づいたぞ、次弾急げ!」
 雪兎隊の存在に気づいた長州兵たちが、三門目の山砲を後方に下げ始める。
 そして、歩兵たちが家屋の影から発砲を始めた。
 「三枝!」
 「承知いたしました。……歩兵隊、構え!」
 三枝の命で、草陰で横に展開した隊士たちが小銃を構える。
 「砲を下げようとする兵から狙うのだ……撃て!」
 ダダダダダダァーーーッ!
 頭上を掠めていく銃弾とは反対方向に、雪兎隊の銃弾が飛ぶ。
 それを受け、砲の周りに居た兵たちがバタバタと倒れていく。
 敵兵に動揺が見られたが、砲を放置するわけにはいかない。後方からの援護射撃を受けながら、敵兵が再度砲を下げようと近づく。
 それと同時に、さらに後方から騒ぎを察した敵がこちらへ近づいてくる。
 「急げ、来るぞ!」
 「ぐあっ!」
 敵の弾を受け、隊士が一人苦悶の声を挙げる。
 「大丈夫か! 下がって血を止めろ!」
 その時、同時に祐一郎たちの左右から激しい猛射が起こった。
 今度は援護射撃をしていた敵兵たちもバタバタと倒れる。
 北川隊と、新撰隊の支援だ。
 「三門目、捉えたわ」
 「よし、今だ、放て!」
 ドォォォン!
 三発目の砲弾が、山砲の車輪を砕き、砲身をひしゃげる。
 大きく歪んだ山砲は、バランスを崩し、地に大きな音を立てて転倒した。
 「よし、全隊集結!」
 祐一郎が合図の笛を吹く。
 「名雪、香里、砲を後退させるんだ、三枝は横隊を維持、敵を近寄せるな」
 「うん、分かったよ」
 生き残った長州兵たちから、散発的ながら反撃の銃弾が飛んでくる。
 砲兵陣地が敷かれていた広場は、おびただしい血と、爆風に吹き飛ばされた死体、そして硝煙の匂いに満ちている。
 (…凄惨だな)
 これが己の下した命令の結果か。
 一瞬、そんな考えがよぎる。
 しかし、そのようなことを考えている余裕はない。
 「相沢様、敵の本隊のお出ましです」
 見れば、敵の後方から隊旗を掲げた部隊が接近している。
 今度の増援は正式な命令によって出されたものだろう。
 これと正面からやりあうのはいかにも危険だ。
 「相沢!」
 北川の声だ。
 既に北川隊の兵は、三枝の歩兵隊の横に展開し、銃撃を行っている。
 「砲撃が遅いぞ! 俺たちがどれだけ待たされたか…」
 「文句は後で聞く。負傷者はいるか?」
 「む、こっちに負傷者はいない。そっちはどうだ」
 「二名負傷した。三枝たちに運ばせるから、北川たちは代わりに援護を頼む」
 「分かった、任せろ」
 「あ! 祐一郎さん!」
 振り返ると、反対側から佐祐理さんが来ていた。
 「佐祐理さん、そちらは無事ですか?」
 「はい、皆さん無事ですよ」
 「……」
 その背後に立っていた舞も、うなずく。
 「さて、これからが佐祐理たちのお役目ですねー」
 「思ったより敵の増援が早かったようで、ちょっと危険かもしれませんが…」
 「あははーっ、これくらい、どうってことありませんよーっ」
 「はは…頼もしい限りです」
 新撰隊の百戦錬磨の兵たちは、祐一郎のみならず雪兎隊にとって本当に心強いであろう。
 「小隊、展開!」
 佐祐理さんの命令一下、新撰隊の部隊は左側に横隊を組む。
 そして、慣れた手つきで使い古されたゲベール銃に弾を篭め始めた。
 「三枝、負傷者を連れ、加農砲と共に本陣へ下がれ」
 「承知いたしました」
 「よし、雪兎隊、これより自ら殿軍を務めつつ後退するぞ! 敵は多いが、恐れるな! 我らには新撰隊の精鋭が共に付いている!」
 「おお!」
 緊張していた雪兎隊隊士たちも、戦い慣れた新撰隊の姿を目にし、活発さを増していく。
 長州兵も展開して激しく攻撃してきているが、まだこちらの軍勢の全容がつかめていないらしく、積極的に前進してこようとはしない。
 砲を連れて攻め込んできたのだから、相応の威容を持った軍勢だと思ったとしても、無理からぬところだ。
 しかも、先ほどは左右から激しい銃撃を浴びせられたのだ。
 どこに伏兵がいるかもわからない。
 祐一郎は後方の様子を見た。
 加農砲を急いで曳いて行く名雪たちの後姿と、それを守りつつ後退していく三枝隊の様子が見えた。
 砲は十分に下がった。
 「よし、我々も後退するぞ! 5人横隊を組み、発砲しつつ一列ずつ後退だ!」

 「長井様、どうやら敵の砲兵陣地が沈黙したようです」
 「うむ、予定通りじゃ」
 遠眼鏡を覗く歩兵の言葉に、長井は当然とばかりに頷いた。
 「今のうちに負傷者の手当てを急げ。砲は引き続き隊長たちの前進を支援せい」
 あの会津の若造たちは上手くやったらしい。
 土方歳三の協力もあったであろうが、それでもあの者たちの功績は大きいことに変わりはない。
 自分は何もしていないが、これで土方に頼まれた役目、その狙いは果たすことができたであろう。
 「長井様! 敵の様子が!」
 「む? おお、やっと始まりおったか」
 長井は歩兵より遠眼鏡を受け取り、覗き込む。
 稲荷山の会津軍と交戦している敵部隊が激しく動揺している。
 無理もない、稲荷山と立石山に向かって陣地を敷いていた敵に、さらに横腹から朱雀隊の旗を掲げた部隊が苛烈な攻撃を加えているのだ。
 「流石は会津武士どもよ、勇猛果敢な策を行いおる」
 その様子を見て、長井は満足げな笑みを浮かべた。
 「ようし、全軍突撃が始まる! 砲兵、前進せい!」
 長井の号令とほぼ同時に、会津軍本隊の稲荷山陣地から狼煙が上がった。
 そして、稲荷山陣地、さらにこの立石山の前線部隊からも、地鳴りのような喚声があがり始めた。
 総攻撃の始まりである。
 ……
 旧幕府軍が機を制したきっかけは、朱雀隊の日向茂太郎が敵の様子を見て大きく迂回、南湖付近より攻撃を加えたことだった。
 これにより、伊地知ら新政府軍は三方より包囲攻撃を受ける形となり、慌てて退却命令が下されることになった。
 時間にしてみれば、そう長い戦ではなかったが、新政府軍の被害は甚大であり、元々従える兵の少なかった軍勢は、ほうほうの態で本陣を敷いていた芦野へと逃げ去った。
 この戦いで、新政府軍は、大垣藩の部隊長他、士官にも死者を出し、完敗を喫することとなる。
 雪兎隊は負傷者数名ながら死者はなし、見事な勲功を挙げ、神尾や会津軍指揮官らからその働きをたたえられた。
 命からがら逃げ戻る新政府軍指揮官の伊地知は、思いのほか会津軍が強いことを痛感し、己の認識の甘さを悔いた。
 圧倒的な兵力差を覆した鳥羽・伏見の戦いによる驕りがあったのだろう。
 伊地知は本陣に逃げ帰った後、江戸の政府に向けて援軍を求める書状を送っている。
 しかし、旧幕府軍は白河城を守り抜いただけで、この地方の新政府軍は未だ健在である。
 後日、伊地知からの書状を受け取った江戸の大村益次郎は、このような意味の返書を送った。
 「そちらにある兵と弾薬の数ならば、勝てるはずである」
 会津の者たちは、このようなこと、知る由もない。

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