第五話「その少女」

草深い丘・・・遠くに望む会津若松の城・・・村・・・山・・・
全てが幻想的に見えそうなこの丘で、密やかに会話が行われている。
その声の主は茂った草に隠れて確認することはできない。
もっとも、この地に足を踏み入れる人間など年を通して片手で事足りるくらいだろうか。
無論、その日も異邦人が進入してくることはなかった。
(・・・本当にいくのか?)
(・・・・・・)
分厚い雪が一層彼らの姿を捉えさせない。
ただ冷ややかに風が草をなびかせているのみだ。
(・・・ならば止めまい。束の間のそれを信じるのみじゃ)
(・・・・・・)
(・・・行け。そなたの身に降りかかるであろう苦難、乗り越えてそなたの信義を果たすが良い)
わずかに草が動く音がする。
だが、それさえも風邪の音にかき消され、自然の一部となる。
(我らもできる限りのことはしよう・・・)
そして、一際強い風が吹いた。


「撃つよ〜」
名雪の間延びした声が調練場に響いた。
ドドォーーーンッ
それに続いて火薬音が響き渡る。
さらに続いて向こうに煙が上がる。
すかさず測量器を持った藩校子弟たちが動き回る。
「・・・・・・」
祐一郎は渋い顔でそれを見守っている。
慌ただしく彼らがひとしきり動き回ると、頃合いを見て香里が声をあげる。
「次弾、装填するわよ。」
「・・・待て」
祐一郎はそれを止める。
「・・・・・・どうしたの?」
「なあ・・・やっぱり、これじゃあ、駄目だぜ。」
祐一郎は顔をしかめて隣の北川に言う。
が、北川は至って普通の顔だ。
「・・・問題があるのか?」
「問題も何も・・・見ろよ、これじゃあ、敵に弾を届かせるまでにこちらが潰されちまう。」
「まさかそんなことはあるまい。」
「だってよ・・・」
と言いながら、書き留めた記録を見る。
いずれも四斤山砲の平均射程に遠く及ばない。
「敵はこんな旧式砲、使ってないぞ。」
「いや、旧式とはいえ、天下の名城大坂城陥落に一役買った大筒だぞ。」
(やっぱり骨董品・・・)
北川の口から出た言葉に、祐一郎は心中溜息をついた。
「敵との射程差が問題だろう。フランキやカルバリンとは時代が違うぞ。」
「砲というのは弾を込めるのに時間がかかる。しかも一発撃つごとに弾を込めなければならない。
 その間に砲を前進させれば済むことではないか。」
北川も鉄砲方として雄弁する。
祐一郎としても反撃したいところだが、双方実戦経験がない以上真実味が無くなってしまう。
「前進ってな・・・その程度で埋まる長さじゃないぞ。これは。」
祐一郎はパンパンと記録紙を叩きながら言う。
「砲を押すのは、平地ならまだしも山地では容易なことではなかろう。」
「それならば運用段階で考えればよい。こちらにも新式砲があるのだからな。」
「それなら・・・」
と、言いかけて、祐一郎は止めた。
新式砲などほとんど手元にはない。いくらそれを回せと言っても無理な話だ。
所詮は予備隊の訓練。主力が上手く活用してくれさえすればそれが現段階での最良のことだ。
「・・・いや、なんでもない。」
「まあ、会津士魂にかかればその程度のことはものの数ではないわ。」
はっはっは、と北川は笑っているが、祐一郎は口元に笑みをこぼしただけだった。
「・・・こいつはどうしてこうも楽観的なんだ。」
そう思わずにはいられない。
「・・・聞こえてるぞ。」
「え・・・なに、誉め言葉さ。」
「・・・そうか?」
「そうだ。さあ香里、次弾の装填だ!」
祐一郎も士気高揚で何とかすることにした。
彼もまた、会津藩士なのである。
・・・・・・・・・
「・・・そろそろ終わりにするか。」
祐一郎が日の位置を見ながら傍らの北川に言う。
「そうだな。ゲベール銃の操方もあるしな。」
「それはお前の仕事だな。」
「・・・今まで散々手伝わせておいて、俺には押しつけるのか?」
「だってお前はここの担当だろ。手伝って当たり前だ。」
「それはお前も同じだぞ。」
「俺は大砲方だ。」
「俺だって鉄砲方だ。」
しばらく北川とたわいもない議論を交わしていると、向こうから香里がやってくる。
「あんたたち、そんなところで痴話喧嘩やってないで調練を進めなさいよ。」
「痴話喧嘩とは失礼な。俺はこうして高度な弾道学の研究をしていたんだ。それをこいつが・・・」
「俺のせいにするのか!」
「・・・どっちでもいいわよ。それで、もう昼みたいだけどどうするの?」
「あ・・・」
痴話喧嘩ではないことをはっきりさせたかったが、そういわれて祐一郎は思いだした。
「よし、飯だな。」
「そういえばそんな時間だな。」
「それでは飯・・・って、ここではどうするんだ?」
あいにく弁当を持ってきていない。
朝の様子では名雪も持っていないだろう。
(名雪はどうするんだろうな・・・)
ここが初めてではない名雪なら何か知っているかもしれない。
尋ねれば何か分かるだろう。
その時、
「祐一郎〜」
と、都合良く名雪がこっちに来る。
「お、間合いがいいな。」
「?」
祐一郎の言葉に名雪は首を傾げたが、気にせず続ける。
「祐一郎、お昼はどうするの?」
「・・・手の内は無しってところだな。」
「だったら、私と来る?」
「やっぱり何かいいところを知っているんだな?」
「うん、調練場を出たところにいいお店があるんだよ。」
「なるほど、それは名案だ。」
詳しい話を聞かずに頷くのは(名雪だけに)やや危険だったが、かといって選択の余地はない。
祐一郎と名雪が頷きあっているところへ香里と北川が現れる。
「名雪、今日はどうするの?」
「門の所のあそこにするよ。」
「そう、だったら私も付き合うわ。」
「俺もそうしよう。」
というわけで、四人でその店へ向かうこととなった。
(香里と北川が居るなら大丈夫だな・・・)
心中、失礼なことを考えながら祐一郎は解ける気配さえ見せない雪を越えて門へと向かった。
そして・・・それは意外に遠かった。

「や、やっと着いた・・・」
行きとは別の道順となったため、雪が踏み固められていない道を通る羽目となった。
もっとも、遠回りをしても良かったのだろうが・・・
「足跡、足跡・・・」
名雪はこちらの道が好みだったようだ。
「門に着くだけで苦労したわね・・・」
香里が雪まみれの足を見て溜息をつく。
「さすがに調練場を横切るのは大変だな。明日からは何か考えるとしよう。」
「俺もそうする・・・」
北川の意見に同意しつつ、名雪の言うそれらしい店を探す。
(あれか・・・?)
左側の通りにある小料理屋を見つける。
軒には「食事処」とお世辞にも達筆とは言えない筆で書かれた看板がかかっている。
当たり前だが、筆の巧さで飯が旨くなるわけではない。
しかも武骨な会津藩士には風雅を肴に酒を飲むことすらさほど必要ではない。
(まあ、無難なところか・・・)
店構えから見ても、それなりに繁盛はしているようであり、士分のものでも問題がない店のようでもある。
だが、ここで名雪は意外な行動を示した。
「祐一郎。私、こっちの店にもよりたいんだよ。」
にも、と言ったが、まだどの店で飯を食うかも言ってないのに名雪は反対側に指を指す。
これもまた看板がかかっている店で、「甘味処 百花屋」と書かれている。
「って、おい、これ菓子屋じゃないか!」
「うん、ここの苺大福がおすすめなんだよ。」
「俺は昼飯を食いたいんだ!」
「いいじゃない。美味しいことは確かなんだから。」
「いや、だからだな・・・」
名雪に加勢してきた香里に振り返ろうとした祐一郎だったが、
名雪が最初に言った言葉を思い出す。
「・・・そういえば、『ここにも』って言っていたな。」
「そうだよ。お昼御飯はそこの料理屋だよ。」
「・・・まさか、菓子で昼飯を済ませるとでも思っていたのか?」
北川の言葉に、祐一郎は答えられない。
「もしそうだったら、笑ってやるが?」
「・・・いい。」
が、北川は気前よく祐一郎に笑い声を浴びせながら料理屋に足を向けた。
太っ腹な男だ。
「俺は先に入っているぞ。席を取っておこう。」
北川の背中を見送ると、名雪が祐一郎の手を引っ張る。
「苺大福、苺大福〜」
名雪は謎の小唄を口ずさんで幸せそうだ。
「言っておくが、今日の俺は文無しだぞ。」
「・・・え?」
「すまないが、立て替えてくれないか?」
「・・・・・・苺大福」
「・・・・・・飯が先だ。」
「・・・・・・・・・」
沈黙が訪れる。
別に睨み合っているわけではないのだが、奇妙な雰囲気が漂う。
香里の方も心得ており、呆れ顔で再び溜息をついた。
「・・・あんたたち、数十文のことでもめないでよ。ほら、私が立て替えるから。」
「お、さすがは香里。気が利くじゃないか。」
「・・・さすがって、さっき知り合ったばっかじゃないの。」
「数刻訓練すれば分かってくるものだぞ。そういうものだ。」
「苺大福〜」
「・・・・・・二人とも平和ね。」
まったくだった。


その日の夕刻・・・
「ただいま。」
調練を終えた名雪が帰ってくる。
ゲベール銃の操方はかなり面倒くさく、名雪は半分も理解したつもりがなかったが、
祐一郎は適当に切り上げさせたのでさして遅くもならずに屋敷に帰ることができた。
「お帰りなさいまし。」
源助が出迎える。
「相沢様はどうなさいました?」
「祐一郎は大砲方の話し合いだよ。」
「左様でしたか。」
そこに秋子さんがやってくる。
傍目にはその姿は平然としているようだが・・・
「お帰りなさい、名雪。」
「ただいま。」
「祐一郎さんはどうしたの。」
「大砲方の話し合いだよ。」
「そう、それで名雪・・・・・・調練はどうだったの?」
「うん、祐一郎も一緒で楽しかったよ。」
「洋式調練ってのは、楽しいものなんで?」
源助が驚いたような声をあげるが、
「目新しいんだよ。」
と、まあ、名雪の口からは無難な答えが返ってくる。
「それじゃあ、夕餉の用意をしなくちゃね。」
秋子さんは藩士夫人でありながら自ら食事の支度をするほどの料理玄人である。
そのためか、屋敷に住んでいる使用人は源助しかいない。
だが、名雪もそれに慣れているため不自由を感じたことはない。
・・・と、秋子さんが奥に戻っていくのを名雪が複雑な目で見つめている。
「・・・・・・・・・」
「お嬢様、どうかなさいましたか?」
「源助さん、お母さんどうかしたの?」
「どうか、と申されますと?」
「なんか、ちょっといつもと違うんだよ。」
どうやら名雪は秋子さんの微妙な会話の間に異常を見つけたようだ。
だが、それは極めて微少なものだ。
現に源助の方は全く気づいた様子はない。
「そうですか? 私にはいつも通りに見えますが・・・」
「私の気のせいかもしれないけど・・・お母さんに何か今日あった?」
「今日は・・・ああ、御弓奉行の折島様がお見えになられました。」
「・・・折島様が?」
「へい、何か半刻ほど程話し込んでいたようですが・・・」
父の上司が今になって母を訪ね、半刻話し合うとは妙なことだ。
名雪も何か不吉なものを感じたが、考えたことで分かるはずもなかった。
「何があったか聞いておきましょうか?」
「いいよ。お母さんなら大丈夫だと思うよ。」
源助が聞いたところで答えてくれるとは思えないし、名雪もそれほど憂えることではないと思った。
確かに秋子さんは強い母ではある。
だが・・・

その時、祐一郎は屋敷に帰るついでに城下をぶらぶら歩いていた。
大砲方の話し合いもさしたることもなく終わった。
冬の夕陽を向こうに望み、忙しく今日最後の仕事に精を出す町人たちを眺める。
その慌ただしくも和やかな風景は、どこか懐かしい。
だが、その風景にも祐一郎は何かを思い出すことはなかった。
(もしかしたら、七年前もこんな風景を見ていたのかもしれないな・・・)
祐一郎はしばらく町並みを歩いてはみたが、ついぞ見覚えのあるものを見かけることはなかった。
そうこうしているうちに日没も近い。
(そろそろ帰るか・・・)
そう思ったときだった。
(?)
何者かの視線を感じ振り返ったが、誰もいない。
気のせいかと思い、再び歩き出す。
・・・・・・・・・
(やはり付けられている・・・)
祐一郎はわざと屋敷への帰路とは違う道を通り、しばらく様子を見ていたが、
何者かが、振り返ったときに角へ隠れる姿を捉えることとなった。
(一体、何者・・・)
祐一郎には付けられるような覚えがない。
たかだか会津藩の一藩士である。そんな男を付けて一体何になろう。
(ひょっとすると・・・薩摩のゆかりの者か?)
まさか江戸から祐一郎ごときを付けてきたとは思えないが、そうなれば少しは心当たりがある。
江戸で薩摩藩の密命を受けた浪人どもが暴れ回っていた頃、
江戸取締に当たっていた新徴隊(庄内藩預かりの浪士隊)と協力して捕縛したことがある。
だが、それとて大勢の中の一人に過ぎなかった。
何故祐一郎を狙うのか。その理由がない。
しかも、それ自体が薩摩の挑発であり、わざわざ恨みを晴らすようなことではない。
・・・だが、何となく顔見知りのような予感がした。
とりあえずその憎体を確かめてやろうと、祐一郎は角のところで待ちかまえることにした。
裏路地の角を曲がると、壁に身を貼り付ける。
・・・・・・・・・
案の定、そいつは現れた。
「・・・・・・」
怪しげな布を頭から身にまとい、殺気を漂わせている。
「・・・やっと見つけた。」
布の奥から聞こえてきたのは、驚いたことに女の声だった。それも随分と幼い。
「俺を相沢祐一郎と知っての狼藉か?」
祐一郎は声に威圧を掛けながらその女に確かめる。
「当然よ。」
そう言って、布をはねのけた。
どんな見知った顔・・・と思ったが、意外にも全く見覚えのない少女だった。
「あなただけは、許さないから。」
「俺はお前なんかに恨まれる覚えはないぞ。」
「そっちにはなくても、こっちにはあるのよ。」
少女は鋭い口調で殺意をあらわにする。
夕暮れの中、睨み合う少女と侍、異様な光景に町人が立ち止まりだした。
祐一郎も黙って討ち取られるほど馬鹿ではない。
右手を脇差しの柄に伸ばす。
ちなみに祐一郎の差料は二尺三寸の打刀に一尺五寸の脇差し、いずれも無銘だ。
相手は少女ではあったが、何しろ白昼堂々と命を狙うような刺客だ。
どんな技を持っているかしれたものではない。
ここに来てなんだが、祐一郎には剣の心得などほとんどない。
一般的な武士が親から教授される程度のものだ。
勿論、会津藩士らしく一通りの武芸はやっている。
だが、そんなもので職業暗殺者に勝てるわけがない。
その証拠に、祐一郎の額には既に玉の汗が浮き出ている。
(まずい・・・やられるか?)
一時は祐一郎も本気でそれを覚悟した。
「覚悟!」
そう言って、少女は打ちかかって・・・いや、殴りかかってきた。
ブンッ!
祐一郎はとっさに下がってそれをかわす。
正直、短刀でも抜いて打ちかかってくるかと思っていた祐一郎は面食らった。
だが、素手となればますます忍びである可能性が高まる。
用心しなければ首の骨でも折られるかもしれない。
と、思っている間に次の拳が来る。
ブンッ! ブンッ!
五発まではかわした。
だが、六発目だった。
ブンッ!!!
少女の拳が一際前に押し出されてくる・・・!
パシッ!!!
・・・祐一郎はそれを右手で止めた。
「ハァーッ、ハァーッ、ハァーッ・・・」
「・・・お前、何やってんの?」
「はぅーっ、もう少しだったのに・・・」
「もう少しって・・・」
試しに拳を止めてみた手があっけなく刺客の攻撃を終了させてしまった。
緊張の面もちで眺めていた町人たちの目にも、とまどいと疑問がありありとある。
「・・・なんだ、仇討ちか?」
「それにしちゃあ・・・」
と、町人たちがこそこそ話している。既に彼らに緊張はない。
「お前、そんな腕で俺を殺そうとしていたのか?」
「きょ、今日はお腹が空いているから力が出ないのよぅ。」
「そうか、そりゃ残念だな。せっかくの暗殺の機会だったってのに。」
「あぅーっ、ほ、本気を出したらあたしの腕はこんなものじゃ・・・」
と、言いかけて、
ドサッ!
「お、おい!」
祐一郎に倒れ込む。
呼びかけてみるが、既に少女は気絶していた。・・・もしかしたら寝入ったのかもしれない。
「・・・・・・えっと」
祐一郎は顔を上げたが、そこには疑惑の目をした町人たちが群がっていた。
「なんだ、なんだ? 仇討ちか?」
「それがいたいけな少女でよ・・・あの若侍、いったいどんなひでえことを・・・」
「仇をとらしてやりてえな・・・おい、あいつをふんじばってやらねえか?」
「どうせ、いたいけな少女を手込めにするような大悪党だ。構うこたあねえ。」
・・・と、話が全く逆に進んでいるようだ。
一体どこから「手込め」などという言葉が・・・
「おいおい、俺は無実だ! こいつが勝手に襲いかかってきたんだ!」
「お前さんが仇だからだろ?」
「俺にはそんな覚えはない!」
「この悪党、開き直りやがった。身に覚えはないとはどこまで汚ねえ野郎だ。」
「だから勘違いだっての!」
祐一郎は釈明するが、聞き入れられる様子はない。
段々と悪意が場に満ちてくる・・・
「あ、お役人が来たぞ!」
「や、役人!? ま、待てよ・・・役人なら話が分かるかもしれないな。」
「お役人様、こいつです!」
と、声がして祐一郎の前に現れたのは・・・
「あれ? 祐一郎君。」
「・・・・・・あゆ?」
あゆだった。
双方、怪訝そうな目で相手の顔を見る。
「どうしたの? こんな幼い少女を気絶させて。」
「人聞きが悪いぞ。こいつが勝手に気絶したんだ。」
「お役人様、こいつを牢へぶち込んで下さいよ。」
物騒なことを言う。
そもそも町同心の権限で藩士を牢に入れることなどできるのだろうか・・・?
無理だろう。
「大丈夫だよ。祐一郎君はそんな悪い人じゃないから。」
「へ・・・? お役人様のお知り合いで?」
「うん、だから安心してよ。」
「まあ・・・それなら・・・」
どうやら仇討ちではないような気がしてきた町人たちは、一人、また一人と離れていく。
それを確認して、祐一郎はようやく安堵する。
だが、それで終わりではない。
「・・・参ったな。こいつ、どうしたものか。」
「祐一郎君の関係者なら、お屋敷へ連れていってよ。」
「だから無関係だって・・・大体、七年間帰ってきてない国許に恨みを持った奴がいるわけないだろ。」
「え・・・そうなの?」
「当たり前だ。幼少の頃の恨みで殺されてはかなわん。」
「そうじゃなくて・・・」
「どうした?」
また、あゆの様子がおかしかった。
どうやらあゆの方は別のことで考えているようだったが、祐一郎に分かるはずもない。
「・・・ううん、なんでもないよ。」
「そうか。」
祐一郎も深く詮索はしない。
「それで・・・この娘、どうすればいいと思う?」
「うーん、やっぱり祐一郎君のお屋敷に連れて行くべきだよ。」
「そうは言ってもな・・・」
どこの馬の骨かも分からない少女だ。
まかり間違えば、薩長の間者かもしれない。
「それはないよ。」
だが、あゆはそれを否定する。
「この子、悪い人じゃないよ。」
「また、いいかげんな・・・」
「ううん、ボクには分かるんだよ。」
「役人の勘ってやつか?」
「そうかもしれないね。」
不思議と、あゆがそう言うなら間違いはないような気がした。
「しかし、この子って言うけどお前と同じくらいの年だろ?」
「違うよ! ボクはもっと年上だよ!」
「いや・・・絶対に違うと思う。」
「だって、ボクは祐一郎君と同い年だもん!」
「え!!!」
祐一郎は瞠目した。
(まさか・・・そんな馬鹿な・・・)
祐一郎は一瞬奇跡というものを目にした気がした。
だが、同心を務めていると言うからには・・・
(そうなのか?)
心の中の疑問は消えなかったが、まあ、認めざるを得ない。
「・・・祐一郎君、その叫び声と沈黙は失礼だよ。」
「いや、生類の可能性に驚いたんだ。」
「そんな台詞じゃ誤魔化せてないよ!」
「まあ、それはいいとして」
「よくないよおっ!」
「やっぱり、こいつは連れて帰らなくちゃ駄目か?」
祐一郎は強引さで押し切る。
「それは・・・ダメだね。」
「はぁ・・・分かったよ。」
祐一郎は渋々従う。
(名雪と秋子さん、びっくりするだろうな・・・)
妙な誤解をされることだけは避けたかった。
だが、それも常識的に考えれば無理なことだろう・・・
「それじゃあ、お別れだな。」
「うん・・・」
祐一郎は少女を背負いながら、あゆに手を挙げる。
既に町人の姿はなかった。
「また、会えるよね。」
「そりゃ、そうかもしれないな。同じ城下に住んでいればな。」
「じゃあ、指切りしよっ!」
指切り・・・
祐一郎は差し出されたあゆの指を見つめた。
それは、祐一郎にはひどく小さいものに思えた。
「・・・・・・・・・」
「・・・どうしたの?」
「いや・・・」
祐一郎は片手で少女を支え、片手で指を絡める。
あゆの指は、寒気にさらされ冷たかった。
(指切りか・・・そういえば・・・)
子供の頃に同じ様なことがあったかもしれない。
だが、それは子供にとってはごくありふれたことだっただろう。
別段、過去にそういうことがあってもおかしくはなかった。
だが・・・
「指切った!」
「あ、ああ・・・」
何年ぶりかの指切りに、祐一郎は戸惑いを隠せない。
だが、あゆの指は・・・
「それじゃあ、また会おうね!」
「ああ、また今度な。」
元気よく手を振りながら、あゆは大通りへと戻っていった。
「・・・また会う?」
祐一郎は、あゆと別れてから自分の台詞を妙に思った。
(一体、いつどこで会うと言うんだ・・・)
また、町役人の面倒に絡むのは御免である。
だが、
(まあ・・・それもいいかもしれないな)
少女の微かな息を耳に感じながら、祐一郎は呟いた。
屋敷の方へと足を向ける。
既に陽は山陰に沈みかけようとしていた。
「・・・あれ?」
途中、ふと足を止める。
「・・・なんであゆは俺の歳を知っていたんだ?」
しばらく思い起こしてみたが、当然昨日それを話した記憶は出てこなかった。
「ひょっとして・・・」
祐一郎はそれを考えてみたが、すぐに思い直す。
(まさか、な・・・)
だが、否定することもできない。
七年前の記憶は、思い出せないのだから。

第四話へ   表紙へ   第六話へ

inserted by FC2 system