第六話「記憶喪失」

すっかり陽も落ちていた。
曲がりなりにも人一人を背負い、慣れない道順を、時折雪に足を取られながら、歩いてきたのだ。
「ただいま戻りました。」
祐一郎は門をくぐりながらそう言ったが、既に源助の姿は表になかった。
そのまま玄関へと向かい、草鞋を脱ぐ。
廊下にも人影はない。
祐一郎は疲れ切った足をやや引きずるように、廊下を歩く。
そして、襖を開け放った。
「あ、お帰り、祐一郎・・・わっ、祐一郎、帰りに狩りに行ってきたの?」
「これが獲物に見えるのか。お前は。」
「・・・人間?」
「そうだ。ああ・・・参ったな。どうしたものか。」
「部屋を一間空けようか?」
「頼む。」
「うん。」
名雪は状況をそれなりに理解したのか、落ち着いた様子で廊下へ出ていった。
そこに、秋子さんが土間の方から現れる。
「・・・随分、大物を仕留めたのね。」
「だから狩りに行ったんじゃないんですって!」
「冗談ですよ。」
名雪と同様、むしろそれ以上に落ち着いた構えを、秋子さんは見せる。
「すみませんけど、一間借りさせてもらいますね。」
「大丈夫よ。」
何が大丈夫なのかは分からないが、とりあえず承諾は受けたようだ。
祐一郎は秋子さんに一礼すると、廊下へと踵を返した。
「名雪、どこだ?」
「こっちだよ。」
言われた方に行ってみると、名雪が廊下で待っていた。
祐一郎もすぐにそちらへ向かう。
「悪いな。」
「ううん、構わないよ。」
事情一つ聞かないで、怪しげな人間のために一間空けてしまう胆力はさすがだ。
だが、それは果たして胆力によるものなのか・・・
祐一郎はとりあえず考えるのは後にするとして、背負いっぱなしだった少女を布団に降ろす。
だいぶ揺らしたはずだが、起きる気配すらない。
「よっぽど、疲れてたんだね・・・」
「いや、腹が減っていたみたいだぞ。」
「そうなの? じゃあ、食事の支度をしなくちゃ。」
「いや、しばらくは起きないだろう。」
「・・・そうみたいだね。」
少女の寝顔をのぞき込んで、名雪が納得する。
「とりあえず、事情を聞かせてよ。」
「聞かせるようなことはあまりないと思うが・・・」
まあ、それでも可能な限りは説明しておくべきか。
祐一郎と名雪は少女をそこに残し、再び中央の間へと戻っていった。
・・・・・・・・・
「・・・それで、一方的に殴りかかってきて、一方的に気絶・・・というわけなんだ。」
「端折りすぎ。」
「そうは言っても、それしか話すことはないんだぞ。」
「何か心当たりはないの?」
「ないです。顔に見覚えすらありません。」
先ほどから祐一郎は夕餉の膳の前で、事情をつとに話していた。
名雪も秋子さんも膳に手を付けることなく聞いており、源助も廊下に控えながら聞いている。
「でも、あの子は恨みがあると言ったんでしょう?」
「確かに言いましたけど、絶対に人違いですよ。」
「そうだとは思うけど。」
国許に帰って早々恨みを買うことはまずありえない。
それは分かっているだけに、謎めいている。
「こうなりゃ、叩き起こして拷問にかけてやりますよ。」
「そんな残酷なことしたら可哀想だよ。」
「いや、あいつは俺を殺そうとしていたんだぞ。余計な情けは油断に繋がる。」
「そうは言っても、まだ子供じゃないの。」
「いえ、忍びの類に年齢はかえって目くらましになりますよ。」
「どうみても忍びには見えないけど・・・」
「変装にだまされるな。」
「・・・とにかく、目を覚ましたら問いただしてみましょう。」
祐一郎の強硬論を秋子さんが押しとどめる。
「まあ、とりあえずはそうですね。そしたら、あいつの勘違いが分かり、焼き印でも入れて追い出せばいい。」
「焼きなんて入れないの。」
「まあ、冗談だが。」
とりあえず、祐一郎としても穏便に対処する気になったようだ。
「案外、祐一郎のとんでもない過去が明るみに出たりしてね。」
「そんなはずはない。慎ましく暮らしているからな。」
「江戸での生活はどんなものか分からないよ。」
その時、控えていた源助の方から声が上がる。
「それでは、皆には私から伝えておきましょう。」
「頼むわね。」
「そうだ、源助さん。あいつが今夜どんな凶行に及ぶか分からない。警戒は怠らないでくれ。」
「・・・祐一郎、疑り深いよ。」
「用心深いと言え。」
「まあ、警戒ぐらい、何てことありませんよ。おまかせ下さい。」
源助は三人に深々と礼をすると、自室へと戻っていった。
「それで・・・今夜はどうするの?」
「そうだな。奴の身元を知ることができれば少なくとも敵か味方かは分かりそうなものだ。」
「じゃあ、私も協力するよ。」
「そうしてくれるとありがたい。」
とりあえず、祐一郎と名雪で少女の身元を洗うこととなった。

「何にもないね・・・」
それが、手荷物を改めた名雪の感想だった。
全くもってその言葉通りである。
見つかったのは一つの紙入れただ一つ。
しかも中身は一朱銀一枚と正体不明のがらくたばかり。
擬装間者だとしても、あまりにも持ち物が無さ過ぎる。
「うーむ、見事なまでに身元を隠匿しているな。」
祐一郎は畳の上に並べられたがらくたを手に取る。
(何でまた折れ釘なんかを・・・)
もしやと思って、いろいろ試してみたが、何の変哲もない釘だった。
「隠匿するくらいなら、わざわざ祐一郎の手に落ちるようなことはしないと思うけど・・・」
「捨て身の一計だったとか。これなら返り討ちにあっても誰の指図か分からないだろ。」
「・・・捨て身で殴りかかるの?」
「そういう流派なんだろう。」
「そんな無謀なことする武芸者いないよ。」
祐一郎は危険性を弁じ立てるが、名雪は懐疑的だ。
「だって・・・竹刀だこもないし、面擦れもないし、二の腕だって細いし・・・」
「・・・・・・・・・」
「どう見たって、他人の命を狙うような子じゃないよ。」
「いや、でも確かに俺には言ったぞ。」
「それは明日聞けばいいよ。」
「まあ、そうだな・・・で、こいつを泊めるのか?」
「お母さんに聞いてくるよ。」
「・・・いや、その必要はない。」
「そう?」
さっきの会話で結論は出ていた。聞かずともわかることだ。
「仕方ないな・・・」
「うん。」
祐一郎は渋い顔だが、名雪は満足げな顔をしている。
祐一郎はそんな名雪にいささか疑問を感じるのを禁じ得ない。
「名雪、明日俺が死んでいたらこいつの仕業だぞ。」
「うん、わかったよ。」
「・・・本気で答えるな。」
「?」
祐一郎は気鬱する方ではないが、さすがに命を危ぶんだのは初めてである。
おまけに調練の後である。肩や足に疲労が溜まっていることは自覚しているのだろう。
祐一郎はもう一度刃物が手荷物に仕込んでないか確かめ、自室へと戻っていった。

・・・・・・・・・
(・・・・・・・・・)
祐一郎は暗闇で目を開いた。
障子の方に目を向けてみたが、夜明けが近い刻限とは思えなかった。
(疲れているのにな・・・)
祐一郎は目覚めてしまった己を恨みながら再び寝付こうとしたが、ふと気づく。
(厠に行くか・・・)
この寒い中目を覚ましてしまうと、どうも尿意が襲ってくるらしい。
祐一郎は布団の中の熱が逃げないようにすると、ひたひたと襖へと近寄った。
音もなく襖が開く。
そこからさらにひんやりとした空気が流れ込んでくる。
その流れに向かって、祐一郎は足を踏み出す。
屋敷には年季が入っているはずだが、軋みもしないのは建て付けがよいからだろうか。
まだ冬であり、虫の声もしない。
静かな夜である。
途中、己の足音以外の音を聞くことなく厠に辿り着き、用を足す。
(別段、異常はない・・・)
夜のはずである。
だが、この夜は少々異なった。
帰路の途中で物音が耳に飛び込んできたからである。
ガサガサと、何かを漁るような音。
祐一郎は歩みを止め、しばらくその音を聞く。
(この音は、米櫃でも開けているかのような・・・)
台所の土間、祐一郎はそう判断した。
懐に忍ばせてある合口拵えの短刀を左手に持つ。
音を聞く限り、周囲への警戒は薄いようだ。これは祐一郎には都合がよい。
(盗人の類か・・・不敵な)
京ほどではないが、殺伐とした江戸での暮らしに慣れている祐一郎は、盗人への対応も心得ている。
祐一郎は土間の東側から忍び寄り、そっと中をうかがう。
案の定、人影が土間にうずくまって忙しく動いている。
祐一郎は短刀を握り直し、右手で相手を組み伏せられるように構えると、スッと相手の背後に迫った。
それでも向こうが気づく様子はない。
間髪を入れず、祐一郎は首筋に短刀を突きだした!
「痴れ者め! 手向かいすればたたっ斬る!」
「あ!」
一瞬、声がしたが、それは目の前の人影によるものではない。
では、誰か?
だが、それを考える暇もなく、
「キャアアアアアアアアア!!!」
甲高い絶叫が屋敷中、いや、往来にまで響き渡った。
「どわっ!!!」
予想外の盗人の反応に、祐一郎の方が一歩退く。
だが、かろうじて短刀は落とさずに済み、祐一郎はそれを構え直した。
「だ、誰だっ!」
祐一郎は再び人影に対して声を掛けたが、盗人からの返答はない。
「ゆ、祐一郎様っ。」
「え?」
一瞬聞こえた声が、どこからか祐一郎の名を呼んだが、
「・・・一体、どうしたのよ。」
その時、蝋燭を手にした秋子さんが西側から現れた。
「お、奥様、実は・・・」
そこにはいつからいたのか源助もいる。
「おはようございます・・・」
さすがに名雪も目覚めたのか、ふらりと現れる。
・・・半分は寝ているようだが。
「秋子さん、盗人が屋敷の米を!」
「・・・盗人?」
祐一郎の指さす先を秋子さんが見ると・・・
「あ、あう〜っ、びっくりしたあ・・・。」
「この子って・・・」
「・・・あの子。」
秋子さんと名雪が頷く。
指さした祐一郎も、
「・・・何でお前がいるんだ?」
そう言って、昼間背負ってきた少女をまじまじと見つめる。
「お、お腹が空いて・・・それで、食べ物を探していたのよぅ。」
「お腹が空いていたの? それじゃあ、何か作ってあげるわ。」
秋子さんは何の躊躇もなく土間へ下りる。
「ですが、今食べる物なんて・・・」
「大丈夫よ。」
そう言いながら、土間の片隅の壺へと近寄る。
「奥方様、冷や飯はありますが・・・」
源助が言うが、それは朝飯用の冷や飯だ。
勿論、多少減るくらいは問題ないだろうが・・・
「昨日からなにも食べていないんでしょう? だったら冷や飯では足りないわよ。」
「・・・まあ、それもそうですかね。」
源助も呑まれたように頷いたが、祐一郎は唖然としている。
(何でこの屋敷は浮浪者のために、夜半に飯をこしらえるんだ・・・)
だが、さすがに祐一郎も利口で、
(この屋敷に江戸での常識は通用しない)
と、既に悟っている。
「ふわ・・・ねむいよう。」
「お前は寝てろ。」
「・・・・・・うにゅ。」
当然こちらも常識が通用する相手ではなかった。
名雪は板の間の上に崩れるように座り込むと、寝息を立てながら秋子さんの夜食を待っている。
「はぁ・・・」
祐一郎は緊張からの解放と、常識を超越した空気に溜息をついた。
そして、源助の姿に気づく。
「・・・そういえば、さっき『あ!』って言ったのはお前か?」
「へい、そうですが。」
「なんで、あそこにいたんだ?」
「へ? そりゃあ、祐一郎様が警戒するように御命じになられたからじゃあございませんか。」
「・・・台所で盗みを働くのを黙認しているのが警戒か?」
「まだ物を盗んだわけじゃあ、ございませんので。」
「・・・そうか。」
食べ物を食べるのはどこの誰だろうと勝手なのだ。
やはり、使用人もどことなく浮世離れしている感がある。
そうこうしているうちに、秋子さんが夜食をこしらえ、奇妙な食事が始まった。

「・・・これ、なんですか?」
祐一郎に食欲はなかったが、事件の当事者が寝るわけにもいかず、付き合うことになった。
「秘密です。」
「・・・・・・・・・」
祐一郎は目の前にある「物」に箸を付けようか付けまいか迷っていた。
(どうやら漬け物の類らしいが・・・)
その正体は分からない。
とりあえず、その正体を知るであろう屋敷の住人の様子を見る。
「おそれ多いことで。」
と、源助はさっきから控えっぱなしだ。
「どんどん食べて下さいね。」
秋子さんは、楽しそうに眺めている。
「・・・くー。」
名雪は・・・寝ていた。
(・・・わからん。)
祐一郎は仕方なく、これも同じく正体不明の少女に目を向ける。
「・・・・・・」
少女は黙って冷や飯をかき込んでいる。
さっきまでの叫びようなど微塵も感じさせない沈黙ぶりである、
祐一郎はその姿に虫の居所の悪さを覚えたが、まだ向こうの話すら聞いていない以上、
とりあえず様子を見るしかなかった。
「・・・・・・・・・」
祐一郎も沈黙しながら、少女の箸の動きを見る。
(・・・付けないか。)
何故か知らないが、少女の箸は冷や飯ばかりかき込んでいる。
その時、
「これ、どうだった?」
秋子さんが少女に尋ねる。
「う、うん・・・」
少女も曖昧な返事を返す。
どうやら、問題の漬け物らしきものについての質問のようだが・・・
「遠慮しないで食べて下さいね。」
曖昧な返事に対して深く尋ねることなく、秋子さんが微笑む。
そして、祐一郎の箸の行き先は決まった。
(それならば・・・)
祐一郎の箸は、冷や飯をかき込みだした。
少しばかりかき込んだところで、少女の顔を見る。
相変わらずのだんまりだ。
「おい、明日になったらとっととあきらめて帰れよ。」
「・・・・・・」
結局、少女が曖昧な返答以上のことを喋ることなく、夜食は終わった。


翌朝、
祐一郎と、間違いなく眠っている名雪は多少雪の減った道を走っていた。
「おい、名雪! 危ないから起きろって!」
「・・・・・・くー」
「くそっ! 仏にすがるしかないっ!」
祐一郎は必死に名雪の手をつかみながら駆ける。
二日連続の強行軍を、昨日目撃していた町人たちは何とも言えない表情で眺めている。
さすがの祐一郎も、これには恥ずかしさを覚える。
それに加えて、眠った名雪を引っ張りながら走っているのだ。
(くそ・・・とんだとばっちりだ。)
祐一郎は心中我が身を嘆いた。
だが、日も沈んだら間もなく床につくような名雪を夜半に起こせばこうなることも至極当然のこと・・・
と、いうのがまかり通ることも祐一郎には嘆くべきことだったのだろう。
同時に、祐一郎にはあの少女のせいだという気もしているが、
朝、顔を合わせることがなかった以上、いや、そんな暇もなかったが、
とにかく、責めることも追求もできずに、今、ここを走っている。
(帰ったら・・・ただじゃ済ません!)
祐一郎は腹にそう決めると、調練場の門を、勢いを弱めることなく、通っていった。
・・・・・・・・・
「・・・名雪、生きてるの?」
「ああ・・・多分・・・間違いないぞ・・・」
息を切らせながら香里の問いに答える。
「ちょっと思ったんだけど・・・」
「ああ・・・何だ?」
「心の臓に悪いと思うんだけど。」
「承知の上だ・・・」
「それもそうね。」
と、香里が答えたとき、
「わっ」
と、後ろで声が上がる。
「・・・気が付いたら、調練場?」
名雪がようやく目を覚ましていた。
当然、驚くだろう。
だが、しかし・・・
「・・・本気で今まで眠っていたのか。」
「え・・・?」
「いや・・・何でもない。」
「相沢君も大変ね・・・」
「今度一緒にやってみるといい。俺の苦労が分かるぞ。」
「私は遠慮しておくわ。」
「賢明な判断だ・・・」
「・・・事情はよく分からないけど、もしかしてひどいこと言ってる?」
「全然そんなことないぞ。」
「ええ、全然そんなことないわよ。」
「・・・あやしいよ。」
「正直、眠った人間を運ばせたことはひどいと思うけどな・・・」
「え? なに? どういうこと?」
「いや・・・なんでもない。」
疑問符を頭上にはためかせる名雪をよそに、祐一郎と香里は足を踏み出す。
「急がないと、今日は石橋が来る日よ。」
「石橋・・・? 石橋って誰だ?」
「筆頭家老の名前くらい覚えておきなさいよ。」
「ああ・・・だが、筆頭家老を呼び捨てにするのもいかがなものかと・・・」
「ほら、くだらないこと言っていないで急ぐわよ。」
「・・・・・・そうする。」
どうも、祐一郎も香里に飲まれている気がしていた。

その日の訓練も滞りなく終えることに成功した・・・のだろう。
途中、名雪が装填順序を間違えて、筆頭家老の前で右往左往する場面もあったが、
北川に言わせれば、
「石橋様にもご満足いただけたであろう、有意義な訓練だったな。」
ということらしい。
まあ、祐一郎にしてもその程度のことは
(織り込み済み・・・)
のことなのだ。
「祐一郎! 帰ろうよ。」
「おう、帰るぞ。」
「それじゃあ、また明日ね。」
「うん、香里も北川君もまた明日。」
祐一郎と名雪は門の方へと歩き出したのだが、ふと見慣れない光景に目を留める。
「あれは・・・何だ?」
祐一郎はそう言っているが、そこで実際に行われていることはさして珍しいことではない。
「槍の訓練だね。」
そう、名雪の言うとおり、珍しくもない槍の訓練なのだ。
だが、祐一郎が声を漏らすのだから、それなりの理由がある。
「俺にもそう見えるが・・・あの指揮官は何者だ?」
祐一郎が指さす先には、すさまじい形相で陣頭指揮を執る男がいた。
歳は祐一郎と同じくらいというところだろうか。
日焼けか雪焼けか、黒々とした肌を持つ若者だ。
手には長槍を持ち、戦国武者と言うよりも現役足軽組頭と形容した方が適当な気もする、
という具合の、まあ、会津藩士らしい武骨者という感じだ。
「槍組頭の斉藤七郎左衛門君だよ。」
「斉藤・・・?」
「うん、『面知らずの槍』って言われているほどの手練れなんだよ。」
「面知らず・・・どういう意味だ?」
「う〜ん、私もよく分からないんだけど、あの槍の相手をした人は皆生きられないって意味じゃないかな。」
「なるほど。だが、実際にあいつに討たれた者はいるのか?」
「いないよ。ずっと国許勤めのはずだもん。」
「それじゃあ、どこからそんな異名が・・・」
「それくらいすごいってことだよ。多分。」
まあ、異名なんてそんなものかもしれない。
この時の祐一郎にはさほど気に留めることでもなかったのだが・・・
「・・・しかし、いやに熱心だな。」
「私も頑張るよ。」
「ああ・・・」
(だが、いくら刀槍を鍛えても薩長には勝てない)
祐一郎はそう考えていたが、あながちそうではないかもしれないとも思っていた。
北川に言わせれば、
「武芸の問題ではない。気骨の問題なのだ。」
ということになろう。
実際、あの斉藤の訓練を見れば少なからず気骨も勇猛になろう。
(国許の者達も・・・やはり正しいのか。)
勿論国許の人間を信用していなかった、というわけではないのだが、
どこか自分とは違うような気がしていた。
だが、杞憂らしい。
祐一郎は何てことはない安心感に、少しだけ歩調を上げた。


その夜、祐一郎と名雪は正体不明の少女と直談判に臨んでいた。
「いい加減、あきらめて身元を吐くんだな。事情次第では首と胴は切り離さないで済ませるぞ。」
「・・・命の保証をしてよ。」
「一方的な事情で人を殺めるのは死罪に値するぞ。」
「まだ、事情なんて聞いていないよ。」
「まあ、そうだが。」
相変わらずの祐一郎の強硬的態度を、名雪は少し危ぶんだ。
「とりあえず、この殺し屋の意向を聞こう。一体、どういうつもりでこの屋敷に居座るんだ?」
普通なら今日のうちにとんずらしておくのが得策だろう。
たとえこの屋敷で討ち果たしたとしても、自らの首を絞めることに他ならない。
やはり捨て身の策かと、祐一郎は思っていた。
「・・・仕方がないから。」
「仕方がないだあ? 殺し屋の分際でなあ・・・」
「喧嘩腰にならないの。」
名雪が再びたしなめる。
「お母さんが言っていたでしょ。この子、記憶がないんだって。」
そう、確かに秋子さんが言うには、この少女は記憶喪失だそうだ。
祐一郎もそう言われて、苦笑を浮かべながらも頷いたのだ。
だが、信用など微塵もしていない。
「信じるのか? 嘘八百まくし立てているだけだぞ。」
「嘘じゃないわよぅ。本当に記憶がないんだから。」
「おまえな・・・俺に遺恨があると言っておきながら、記憶がないなんて支離滅裂もいいとこだぞ。」
「あう・・・」
「ほら見ろ、説明できまい。」
祐一郎は一瞬勝ち誇ったような笑みを浮かべたが、少女はまだ言う。
「ほとんどのことを忘れちゃったけど、たった一つだけ覚えていることがあった。」
少女は神妙な顔で言う。
名雪は無論、祐一郎もつられて神妙な顔つきになる。
「こいつが憎いって。」
「随分勝手極まりなく、かつ都合のいい記憶だな。」
「だって、本当にそうなんだもの。」
「だったら、人違いだ。大体、俺の顔にだって覚えていないんだろう?」
そう言いながら、祐一郎は少女の目の前に顔を突き出す。
「・・・・・・」
「どうだ?」
ぼかっ!
「いで! な、なにしやがる!」
突然、少女の拳が祐一郎の右頬を捉えていた。
「やっぱり、間違いない。この面見ると怒りがこみあげてくるもの。」
少女はそう言ったが、当然祐一郎は収まらない。
「こんな危険な奴と同じ屋敷にいられるか! 名雪、即刻町方に突き出すぞ。」
「そんな、可哀想だよ。記憶がない上にたった一人なんだよ?」
「だからそれは嘘にちがいないって。」
「それに町方なんかに引き渡したら、何をされるかわからないよ。」
「この一朱銀入りの紙入れだって、盗難物かもしれないぞ。それに町方に知り合いがいるから・・・」
と、言いかけてやめる。
そもそもここに連れてこさせたのも、その同心ではないか。
「・・・?」
「・・・いや、やっぱりいい。だが、とにかくこんな殺し屋を同じ屋敷には置けないだろう。」
「じゃあ、お母さんに聞いてみる?」
「待て!! あの人に聞いたら速攻で了承が出るに決まってるぞ!」
かくして、祐一郎の必死の主張は一秒で敗北に終わった。
そして、居候がまた増えたのであった。
・・・・・・・・・
「しかし、本当に一瞬で・・・」
「私も驚いたよ。」
この屋敷の人間が驚いているのだから、祐一郎が驚かないはずがない。
秋子さんは二人の去り際に、
「家族が増えて楽しいわ。」
と付け加えた。
それは祐一郎の敗北感を強烈に強めることとなった。
「・・・・・・」
とんぼ返りしてきた二人を、少女はまた不思議そうに見ている。
「記憶がない・・・ね。」
祐一郎が警戒心丸出しで見つめているが、名雪はいつも通り嬉しそうだ。
「でも、一緒に住むからには名前がないと不便だよね。」
「名前・・・・・・あう〜、思い出せない。」
「よし、じゃあ、とりあえずこちらの名前を教えよう。俺は相沢祐一郎、居候の身だ。」
どういう風の吹き回しか、祐一郎が積極的に自己紹介を始める。
一通り言い終わると、名雪の手のひらに自分の拳を乗せる。
「私は水瀬名雪だよ。この屋敷の娘。」
「・・・・・・」
「あ、こら名雪、ちゃんとこいつに順序を渡せ。」
「だって、記憶がないんだって言っていたし・・・」
「自分の名前なんて覚えてないわよぅ。」
「くそ・・・俺からこいつに回せばボロが出たろうものを・・・」
「出るわけない! 本当に記憶がないんだから!」
「さて・・・どこまでそれが保つかな?」
「・・・祐一郎、悪党面になってるよ。」
名雪が祐一郎の疑心暗鬼ぶりに呆れている。
だが、祐一郎とてそれはまだまだ序の口だ。
いつからこんなに疑り深くなったのか・・・それは当人とて知らぬ。いや、記憶にないというべきか。
「まあ、確かに名雪の言うとおり、名前がないと不便だな。」
「便宜上の名前を付けようよ。」
「そうだな、『殺め時雨のお狂』なんてどうだ?」
「あやめしぐれのおきょう?」
「どうだ? 風流心に満ちた名前だろう。」
「菖蒲時雨・・・」
名雪がちょっと考え込む。
「どんな字を書くの?」
「こうだ。」
祐一郎はすらすらと手慣れた筆運びで、雅やかな「殺め時雨のお狂」を書き出した。
ぼかッ!
「いてっ! なにしやがる! 折角いい名前を付けてやったのに!」
「こんな殺人嗜好者みたいな名前はイヤ!」
「事実だけどな。」
「事実じゃない!」
祐一郎はあくまでもこれを推したが、少女はなかなか首を縦に振らない。
・・・まあ、当然だが。
「・・・仕方ない。お前が名前を思い出すまでで手を打ってやる。」
「思い出したら戻して当たり前!」
「とにかく、名前を思い出すまでは殺め時雨のお狂で呼ぶからな。」
「あう・・・み、見てなさいよぅ。絶対に可愛い名前を思い出してみせるんだから。」
「努力で名前が可愛くなるなら、人別帳は用をなさんぞ。」
祐一郎は毒づきながら、自室へと戻っていった。
その途中、
(うむ、我ながら上手く書けた。)
少し、機嫌を直していた。

・・・この日、一月十五日、新選組宿舎と書かれた表札が、ある品川の宿にかかった。
富士山丸から途中下船した一行は、全員、そこにある。

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