第八話「その少女から」

さて、前話をお読みになっていただけたなら、とりあえず政治の表舞台はおわかりになられたことだろう。
この稿からは、いよいよ風雲急を告げてきた会津を描くこととなる。
時間は少々前後する。
木戸が蔵六に上洛を促す書状を送る数日前のことである。


調練が始まって数日が経つ。
装備は著しく旧式ながらも、祐一郎は無論のこと、名雪たちも上達が目に見えてきた。
藩校日新館の子弟たちも、それなりの兵士になってきている。
澄み切った青空に、ゲベール銃の射撃音が響き渡ったときである。
「よし、今日の調練は切り上げることにする!」
…と、言ったのは祐一郎ではない。また、北川でもない。
「三木様、どうなされました?」
祐一郎の上司である三木本九郎だ。
反射炉普請の監督をしているはずだから、ここに来るのは珍しいことだ。
「いや、神尾殿からそなたを屋敷に呼ぶように言われてな。」
「神尾様から? えっと…俺、なんかしましたか?」
「いや、私は何も聞いていないが。」
祐一郎は手にしたゲベール銃を持ち替えて、空いた手を顎に当てた。
神尾は江戸詰という点では共通しているが、役目は全く異なっていたため親交がない。
強いて挙げれば、江戸から荷駄を運んでくるときに多少相談しただけである。
「まあ、行けば分かるだろう。明日来るようにとのことだ。」
「承知いたしました。調練はいかがいたしましょう?」
「北川殿に任せておけ。あいつの都合が悪ければ、訓練は取りやめてもかまわん。」
「いいんですか?」
「こんな装備で調練しても、大した効果はないだろう。」
「言い切りますね…」
「いや、言い換えよう。この装備で連日調練しても、あまり役には立つまい。」
「…あまり変わってない気もしますけど。」
「気にするな。」
「まあ…そんなことは別にどうでもいいんですが。」
「それじゃあ、頼むぞ。忘れたりなどしたら、私が御家老より叱責されるからな。」
「大丈夫ですよ、俺の仕事は確かですから。」
「うむ、その言葉を信じよう。」
そう言って、立ち去りかけた三木だったが…
「ああ、一つ忘れていた。そなたの従姉妹、何と言ったかな…」
「え? 名雪のことですか?」
「ああ、そうそう、水瀬名雪殿だ。神尾殿が、名雪殿も一緒に連れてくるようにとのことだ。」
「ええ!? なんで、名雪を!?」
「しらん。私も尋ねたが、『都合がいい』としか言われなかった。」
「はあ…」
「まあ、言われたとおりにしておけ。御家老から出た話だそうだからな。」
そう言い残して、三木は普請現場に戻っていった。
残された祐一郎は、混乱することしきりである。
(わからん…何で、名雪を?)
別に良からぬことを考えているわけではなさそうだが、気にはなる。
「どうしたんだ? 三木殿と話をしていたようだが…」
顔を上げると、北川の怪訝そうな顔があった。
「ああ、お前か。悪いが、明日の調練の指揮を頼む。」
「なんだ、この寒いのに蔵掃除でも命じられたか? 殊勝なことだ。」
「そんなことするか。神尾様に呼ばれたんだ。」
「神尾様? 江戸の勘定役だったとかいう奴か?」
「そうだ。」
城でのこともあるのか、北川は神尾に対してぞんざいな言葉遣いである。
北川の心は熱い会津士魂の固まり…のはずだ。
やや頭の固い国許の藩士を非難するような言葉を吐いた神尾に、多少の嫌悪感はあろう。
だが、当の神尾は長沼流軍学の達人である。
十分、国許の藩士から支持されるべき男だ。
「何でも屋敷に怪しげな男を抱えているとか…」
「怪しげな男?」
北川の言葉に、祐一郎も思い当たることが多少ある。
江戸屋敷にいたころ、神尾が日々同じ場所に出かけているという噂があった。
そこが何処かは厳密には聞いていないが、
その噂を聞いてからしばらくして、祐一郎は神尾と会うこととなった。
会ったといっても、上司の三木に付き従って会っただけだが、
その時、神尾の屋敷の庭にいた男の姿を祐一郎は覚えている。
明らかに浪人者、前髪を垂らした男だった。
何をしているのかよく分からなかったが、一目で剣客だとは分かった。
庭をゆらりゆらりと歩き回る姿、それはまさしく、
(相当の使い手…)
の姿であった。
北川がそれを知っているということは、神尾はその男を国許まで連れてきたことになる。
「神尾様も、また物好きなことを…」
「相沢、その男が何者か知っているのか?」
「いや、遠目に見ただけだ。何者かはさっぱりわからん。それどころか名前も知らない。」
「まあ、危険なことはないだろうが…間者かもしれん、しっかり観察してこいよ。」
「俺の役目はそんなことじゃないって…」
祐一郎はそう言ったが、確かに何者か分からない男は不審な者だ。
もっとも、神尾は知っているのだろうから、不審人物ではあるまい。
だが、祐一郎たちは知らないのだから気にはなる。
(まあ…とりあえず、何者かだけは尋ねておくか。)
祐一郎のこの時の意志はそんなものだった。
「祐一郎〜。」
そこに、いつも通りに名雪がやってくる。
「お、名雪、ちょうどいいところに来たな。」
「え? どうかしたの?」
「ああ、明日神尾様のお屋敷に参ることとなった。」
「神尾様? 誰、それ?」
無理もない。国許では無名なのだから。
「江戸で勘定役だったお人だ。国許で軍の洋式化に務めておられる。」
「へえ…それで、そんな人が、祐一郎に何の用なの?」
「それはわからん。」
「なんだ相沢、用件も聞いてないのか?」
「まあ、三木様経由で言われたことだからな。」
「見かけによらず、いい加減な奴だな。」
北川の独断が口にされたが、気にせず続ける。
「じゃあ、明日の調練は祐一郎はいないんだね。」
「俺だけじゃない、お前もだ。」
「俺もか?」
「お前じゃない、名雪だ。」
「え…? 私?」
「そう、名雪。」
「相沢、あまり従姉妹をからかうものじゃないぞ。」
「誰がこんな訳のわからんからかい方するか。本当に言われたんだっつの。」
「でも…何で私が?」
「知っていたら、教えている。」
祐一郎としても半信半疑である。
明日、恥をかかされるんじゃないかと内心冷や冷やしているのだ。
「うん、よくわからないけど、とりあえず分かったよ。」
「よし、じゃあ………」
と、ここで祐一郎が固まる。
祐一郎の言葉を待つ名雪も固まる。
「……どうしたの?」
「…刻限を聞いていない。」
「え?」
「…三木様に聞いてくる。」
そう言って、祐一郎は反射炉普請現場に向かって走り出す。
「あ! 祐一郎、今日は日新館に寄るから、一緒には帰れないんだよ!」
背中に名雪の声がしていた。
「承知!」
振り返ることもなく、祐一郎はそう叫んだ。


その後のこと、祐一郎は一人帰路を歩いていた。
そろそろ見慣れてきた町の風景を横目に、祐一郎はのらりくらりと歩く。
江戸では、こんなにのんびりとした生活はなかった。
もちろん調練は忙しい。だが、それも江戸での頃と比べれば大したことではない。
束の間のこととは知りながらも、祐一郎はその日その日を楽しんでいた。
「お?」
と、祐一郎が足を止める。
視線の先にあるのは古物商だ。
「いらっしゃいませ、お侍様。」
「少し見させてもらうぞ。」
祐一郎は、むしろの上に並べられた物の前にしゃがみ込む。
別に大した物が並んでいたわけではなかったが、こんな事すら祐一郎には楽しめることだった。
思えば、祐一郎には江戸での生活は少し忙しすぎたようだ。
古物商など江戸にもわんさか居るはずである。
…だが、祐一郎の中にはいまだに会津若松への嫌悪感がある。
それは拭おうにも拭い去れない嫌悪感である。
そこまで深いものでありながら、祐一郎には理由が分からない。
幼い頃の記憶に残っていない部分にそれがあるような気はしているが、
一向にそれを思い出す予兆すらなかった。
(一体、何であったか…)
祐一郎は思い出そうとするが、その度になぜか鳥肌が立つ。
あたかもその記憶を思い出すのを拒んでいるかのようだ。
「そいつは五十文で結構ですよ。」
「え? あ、ああ…」
古物商の言葉で我に返る。
どうやら祐一郎は商品を手にしたままぼんやりとしていたようだ。
別に買う気もなかった祐一郎は、手中にあった鈴を置こうとしたが…
(はて? 何で俺はこれを手にしていたんだ…?)
なにやら因縁めいたものを感じ、祐一郎はそれを置くことができなかった。
そんな祐一郎を、古物商は笠の下から見つめている。
「いただこう、五十文だな?」
「へい。」
幸い、高い物ではなかった。
祐一郎は笠をかぶったままの古物商の前に、じゃらじゃらと銭を並べた。
古物商は、勘定をしている口の煙管から、一筋白い煙を吐いた。
「へい、確かに。」
顔を上げもせずに言う。
一方、それを聞いて立ち上がった祐一郎の目には異様な光景が飛び込んできた。
町人たちが騒いでいる。
なにやら向こうから必死の形相で駆けてくる者があるようだ。
どうやら、町人姿の男のようだが、走り方が尋常ではない。
(どう見ても逃げ足…)
と、いうことは…
「誰か止めて〜!」
騒ぐ声とは別の声がしてくる。祐一郎には聞き慣れた声だ。
「捕り物でやんすかね?」
「そのようだな。」
古物商の落ち着き払った声とは逆に、聞き慣れた声は必死である。
そして、その声の主の姿が見えてきた。
町同心らしい紋服に、ゲベール銃が一挺、もはや誰かは一目瞭然である。
「うぐぅ、どいて〜」
通行人にぶつかりぶつかりこちらに駆けてくる。
なにやらその姿には先日のことを思い起こさせられるが、今日は逃げる男も付いている。
これを否定する理由は思いつかなかった。
「どうやら今日は本物の捕り物らしいな…」
祐一郎は呟くと、往来の真ん中へ出た。
しかし、同心の必死振りとは裏腹に、同心と男との間合いは離れる一方だ。
「あゆ! 本物なら協力するぞ!」
「あ! 祐一郎君!」
突如往来に現れた侍に、逃げている男の形相が一層ひきつる。
だが、哀れなことに彼には前に走るしか選択の余地はない。
となれば当然、祐一郎の方へと突っ込んでくる。
「ど、どいてくれえええ!!!」
「叶わぬ夢だ。覚悟しろ!」
祐一郎は袖をひるがえすと、男へと歩み寄る。
「うわあ!」
「よし、それでは…」
「覚悟!」
(あれ? それは俺の台詞…)
祐一郎は男を見たが、ひきつった表情に変わりはない。
(では、誰…)
と、考える暇はなかった。
男の前に立ちはだかった祐一郎の目の前に、さらに別のものが立ちはだかったのだ。
「え? うわあああ!!!」
突然の乱入者に、男は間合いを逸した。
「うわあ!!!」
「きゃっ!!!」
(うわ…)
祐一郎の目の前で、すさまじい勢いで人二人が激突した。
澄んだ空に、爽快なまでの衝突音が響き渡った。
続いて倒れ込む音。
その間、まさしく一瞬の出来事で、祐一郎は呆然と眺めていた。
(目から火の出る王手飛車…)
おもわずそう呟く。
当の二人は互いにはじき飛ばされたように倒れているが、男の方はかなり衝撃を受けたらしく、
うめき声を上げながら転がっている。
「さて、年貢の納め時だな、悪党。」
「ううう…」
男は立ち上がれないどころか口も聞けないらしく、手を虚空にふらつかせている。
さすがに祐一郎も哀れに思え、
「お前、大丈夫か?」
とは、一応声をかけてみる。だが、それにも返答はない。
(まあ、ほっとけば何とかなるか…)
祐一郎はそう判断した。
「さて…」
祐一郎は顔を半回転させ、もう一人の方を見た。
「イターイッ! 何で邪魔するのよ、このどぶ鼠!」
「邪魔したのはお前だろうが!」
「私は邪魔なんてしてないわよう! こいつが突っ込んできたのよ!」
「お前が飛び込んできたんだろうが!」
「悪党を肯定するなんて、言うことが無茶苦茶ね、祐一郎は。」
「人の首を狙って飛び込んできておいて、無茶苦茶なのはそっちだ!」
「そ、それは…」
少女が言葉に詰まる。
自信ありげな割に、すぐにボロが出るところは、祐一郎に言わせればまさしく子供である。
(まったくいい加減な奴…)
祐一郎は半ば呆れ返りながらも、少女に向かって手をのばした。
「ほら、立てよ。」
「え…? あ、うん…」
戸惑いながらも、少女は素直に立ち上がる。
「で…何でお前がここにいるんだ?」
首を狙ってきたのは分かっているが、
さっきまで調練にいた祐一郎に仕掛けてきたということは、尾行していたことになる。
それも、調練場からだ。
「まさか…朝からずっと付けていたんじゃないだろうな?」
「そ、そんな暇じゃないわよう。」
「じゃあ、どうして俺の居場所が分かるんだ?」
「それは…その、思い出したのよ。」
「思い出した? 何を?」
と、そこまで言ったとき、もう一人の当事者がようやく現れた。
さっきまでは駆けていたはずだが、既に歩きに変わっている。
同時に辺りには黒山の人だかりができている。
「うぐぅ、速いよ〜」
「お前が遅いんだ。」
「そんなことないもん、この人が速いんだよ。」
と、転がっている男を指さす。
「お前なあ…足が速いからって逃がしているようじゃ、とても町同心なんて務まらないぞ。」
「うぐぅ…」
息を切らせているあゆには反論する気力もなかったが、
かろうじて縄を懐からだし、役目を果たすことはできた。
「ご、御用の筋だから、おとなしくするんだよ!」
と、男に言うが、反応はない。
それどころか既におとなしい。
もはや傍から見れば狂言芝居だった。
「あゆ…いつもこうなのか?」
「うぐぅ、そんな呆れ顔で見ないで〜」
「しかしだな…この様じゃあ、お奉行から何か言われているんじゃないか?」
「ううん、一度もお咎めを受けたことはないよ。」
予想外に、自信たっぷりの答えが返ってくる。
「本当か…?」
祐一郎は相当疑った目であゆを見たが、どうも偽りではないらしい。
この仕事っぷりで何も言われないようでは、よほど城下は平和なのだろう。
もっとも、あゆが熱心だということは言える。
「お褒めの言葉をいただいたこともないけどね。」
「そらそうだ。」
しかし…
(ひょっとして、存在すら忘れられているんじゃないか?)
祐一郎はちょっと心配になったが、さすがに失礼なので言わないでおく。
「ううう…あ、頭が…」
と、そこで男の方が多少回復してきた。
頭を押さえながら、ふらふらと立ち上がろうとする。
「大丈夫か?」
「へ、へい…」
どうにか立ち上がることができた男は、神妙な様子で素直に従った。
町人たちの群がりが、また一段と大きくなっている。
「お前、何をやらかしたんだ?」
「あ、あの、ちょっとした出来心で店先の物をちょいちょいと…」
「またケチな罪でひどい目に遭いやがって…」
男の懐から出てきた盗品と男の様を見比べても、どう考えても釣り合いがとれない。
「申し訳ねえです。銭は後で払いますから…」
(何だかどこかで見たような状況だが…)
祐一郎は苦笑しながらその様子を眺める。
「盗みは良くないことだよ。」
「お前が言うな!」
「うぐぅ、ボクは後で払うもん…」
「それじゃあ、こいつと一緒だな。」
「ボクの場合は仕方がなかったんだよ。」
「仕方ないって…御用のゲベール銃を盗まなくてはいけない理由とは何だ?」
「だって…珍しかったから…」
「あ、あの…話が見えねえんですが…」
「え? ああ、とりあえず、気にしないでくれ。」
「は、はあ…」
男の方も他人のことを気にする余裕など無いようである。
「とりあえず番屋に連れていくことにするよ。」
「ああ、そうしてくれ。」
というより、早く医者に見せた方がいいかもしれない。
脳震盪を起こしたまま、男はあゆに連れて行かれることとなった。
(悪事は割に合わないものだな…)
藩校で教えられたことを、身をもって実感する祐一郎であった。
「勘弁して下さいよ…銭は後で払いますから…」
男は何とか助かろうとあゆにすがる。
「それはできないよ、御役目だからね。」
「そんなことおっしゃられずに…」
「それで、どこから盗んだの?」
「そこのところの店ですよ。ちょうど江戸から来た商人が店を構えている…」
「………」
「いや、盗った物は返しますし、代金も払いますから勘弁して下さいよ…」
「………」
「あの…?」
「反省しているみたいだから、勘弁してあげるよ。」
「へ?」
(って、おい!)
後ろで行われている聞き捨てならない会話に、祐一郎が思わず振り返る。
「そのかわり、自分で商品と代金は渡しに行ってね。」
「へ、へい! それはもう…」
男は一転して元気な声で、頭を下げている。
「おい、あゆ!」
祐一郎はあゆを呼び止めようとしたが、人だかりに阻まれて、それは叶わなかった。
男は小走りに駆けていき、あゆは満足げに反対側へ去っていった。
(やはり奉行から何か言われないと…)
祐一郎は溜息をつくのであった。
見れば、町人たちも劇の終わりを知って帰途についている。
「…さて、俺も帰るか。」
実りのない捕り物劇を観賞した以上、もはやここにいる用はなかった。
屋敷の方へと足を踏み出すが、羽織の端を何者かにつかまれる。
「ちょっと、私の話が終わってないでしょ!」
「んなことどうでもいい。どうせ言うに事欠いての虚言だったんだろうが。」
祐一郎は適当にあしらって、歩を進める。
だが、少女の方は追いすがって離さない。
「嘘なんて言ってないわよう。名前を思い出したのよ。」
「また、いい加減なことを…どうして、名前を思い出して俺の居場所が分かるんだ。」
「そうじゃないわよ。名前を思い出したから祐一郎に教えてあげようと思って町に出て…」
「はいはいはい。」
「ちょっと、真面目に聞きなさいよ! 私の名前は沢渡真琴よ、覚えておきなさいよね!」
「ほう、そうかそうか。思いつきにしてはまずまず上出来だな。」
「思いつきじゃなくて思い出したの!」
「そうか、さっきのぶつかった衝撃で思い出したんだな? じゃあ、もっと殴ってみるとするか。」
そう言いながら、男を殴り飛ばす予定だった拳を反対側の掌で磨く。
「ちょ、ちょっと、何で殴るのよう! ここに来る前に思い出したって言ってるじゃない!」
「そんなもの嘘に決まっているだろうが。じゃあ、あの時どうして『覚悟!』だなんて叫んだんだ?」
「そ、それは…祐一郎のむかつく顔を見たら急に…」
「やっぱり危険人物だ、まだあゆがそこにいるかもしれないから突き出してやろう。」
「わぁーっ!!! そんなことしないで!」
きゃーきゃーわめく少女を連れて帰る侍を町人たちは奇異の目で見つめたが、
不思議とそんなことは気にならなかった。
祐一郎も祐一郎でそれなりに楽しんでいるのだろう。
拭い去れない嫌悪と共に、癒されるような日々もそこにあった。
祐一郎は、わずかながら正体の見えた少女に、新鮮な物でも見るかのような視線を送っていた。
(真琴か…俺に名前を教えるために町に出てきたとは、可愛いことを言いやがる。)
たとえそれが虚言であってもだ。
「お前の嘘はすぐばれるから、謝罪するなら今のうちだぞ。」
「嘘じゃないって言っているでしょ! そんなこと言って、本当は可愛い名前だったから悔しいんでしょ?」
「けっ…名前が可愛いからどうだっていうんだ。」
「私は自分の名前が好きだもの、名前を気に入られるかどうかってことよ。」
「……そうかい。」
確かにそこまで自分の名前を気に入られる真琴が羨ましくないと言えば嘘になる。
祐一郎は無意識のうちに唇を噛んだ。
「…あれ?」
ふと、真琴が足を止める。
「どうした?」
「いま、ちりんって…」
真琴がきょろきょろと辺りを見渡す。
しばらくそれを見ていた祐一郎だが、すぐさま「ああ」と、懐に手を入れる。
「これのことか?」
祐一郎が指に挟んでいるのは先ほど古物商から買った鈴である。
「あ、これ…」
真琴は物珍しげに鈴をつまんで横に揺らす。
いつの時代のものかは不明だが、値段から言ってもそうは古くないだろう。
だが、そこから聞こえてくる音は、どことなく古めかしい響きを持っていた。
ちりん、ちりん…
別に他になにかするということもなく、真琴は鈴を揺らしていた。
「気に入ったなら…くれてやるぞ。」
「本当?」
「ああ、偽名判明の祝儀とでも思え。」
「うん。…て、偽名じゃないわよう。」
「どうせ分からないんだから同じことだろ。」
「う、うん…」
祐一郎から手渡された鈴を、屋敷に着くまで真琴は飽きることもなく揺らしていた。
会津はまだ平和のように思えた。

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