第一講義「日本の剣術」

TOP以外から飛んできた方へ…http://mikawa-b.hp.infoseek.co.jp/

刀と月も書いていることだし、最初は日本の剣術、とりわけ戦国から江戸末期にかけての流派を
知っている限りご説明いたしたく思います。結構取りこぼしがあると思いますのであまり鵜呑みになさらないで下さい。

剣術の流転

天真正伝神道流

室町時代に飯篠長威斎家直が生み出した兵法の古流。剣術のみならず、槍、棒、軍法、薙刀など多くの武術を含めて、
体系化した総合武術。多くの剣客を生み出しており、塚原ト伝が新当流、有馬乾信が有馬流、諸岡一羽が一羽流を分流した。
幕末には15代目が香取神道流を唱えた。

念流

南北朝時代の剣僧、念阿弥慈恩が鎌倉地福寺の神僧、栄祐から秘伝を教わって創始したという。
三代目は教授の体系を「念流正法兵法未来記」にまとめた。
樋口定次の馬庭念流が分流し、念流の正統となった。他にも彦根藩の荒川念流、柳河藩の家川流がある。
馬庭念流は幕末に若い千葉周作と危うく野試合をやりそうになったこともある。

一刀流

近世剣術の主要流派。伊藤一刀斎景久が創始。一刀斎は生涯諸国を回って修行した兵法家だった。
孫の俊定が大垣藩に仕えて唯心一刀流を創始。門人神子上典膳は徳川家康に召し出され、小野忠明と改名して
秀忠の剣術指南を務めた。その小野派からは多くの流派が分流し、四代忠一からは中西子定が出た。
中西派からは浅利又四郎、寺田宗有、白井亨、高柳又四郎、千葉周作などの幕末の著名な剣客を生み出した。

新当流

天真正伝神道流を学んだ塚原ト伝が創始した流派。父から鹿島中古流、養父から天真正伝神道流を学び、
剣、薙刀、槍の新当流を起こした。鹿島新当流、ト伝流ともいう。
諸国を渡って、伊勢の北畠具教、足利将軍家の義輝、義昭の兄弟、甲府の山本勘助に指南した。
また、門人松岡兵庫は徳川家兵法指南となった。

陰流

一四八七年、愛洲移香が創始した剣術。九州中心に広まり、倭寇の間で学ぶものが多く、明の兵書にも記述がある。
子の宗通が関東の佐竹氏に仕えたことから関東に広まる。
その後、江戸期には多くの分流が生まれ、全国に広まった。

新陰流

上泉伊勢守信綱が創始した近世剣術。信綱は陰流、念流、新当流などを学び、源家古流軍法も学んだ。
当初は、上杉氏についていた上野の長野氏に仕えて、「上野の一本槍」と呼ばれた。
長野氏当主の業正は武田晴信(信玄)に「業正が生きているうちは上野に入れぬ」と言わしめた猛将だが、
業正死後、武田氏に長野氏が滅ぼされると諸国を廻り出す。
途中、北畠具教、足利将軍家、丸目長恵、柳生宗厳、宝蔵院胤栄などに指南した。晩年は上野に戻ったという。
多くの分流を生み、中でも柳生宗厳(石舟斎)は柳生新陰流を生み出し、徳川家に息子宗矩と共に兵法指南役として仕えた。
孫の利厳は尾張徳川家に兵法師範として仕えた。他、宗矩の息子で十兵衛三厳、利厳の息子で連也斎(兵助)が有名。
以後、江戸、尾張の二大宗家において、将軍家御流儀として全国に普及した。

タイ捨流

上泉伊勢守に京で指南を受けた丸目蔵人佐長恵が創始。丸目は九州肥後の相良家に仕えた。
殺人剣、活人剣の相伝を受け、自ら工夫を加えてタイ捨流と改めた。タイ捨は一切の迷いを捨てるという意味で、
タイはどのような漢字でも真意を表せないとして仮名書きにしたといわれる。江戸期は人吉藩を中心に広まった。

宝蔵院流

柳生宗厳と共に上泉伊勢守のもとで修行した宝蔵院胤栄が創始。また、神道流系槍術を大西木春見に学んだ。
十文字鎌槍専門の流派で幕末まで続いた槍術中最大の流派。門人に高田又兵衛、中村市右衛門がいる。
また、新選組の谷三十郎、原田左之助などもこの流派である。

中条流

室町時代評定衆を務めていた中条兵庫助長秀が念流刀槍術の伝授を受け、中条家に伝わる兵法に組み入れ中条流平法と称した。
槍、薙刀を含めた総合武術で、小太刀を得意とした。一方、武威によって災禍を未然に防ぎ平穏な世の中を求める
道徳的な一面もあった。長秀は越前斯波氏の守護代甲斐広景に伝え、それを大橋高能に伝えた。
さらに高能は朝倉家家臣、富田長家に伝えた。
この後、富田家が中条流宗家となり富田流とも呼ばれて朝倉家滅亡まで一乗谷を中心に広まった。
江戸期は金沢藩を中心に日本海側に広まった。

東軍流

流祖は川崎鍵之助(かぎのすけ)時盛、朝倉家家臣の子とも言われる。
父から鞍馬流を学び、富田勢源(中条流)、天台宗僧侶の東軍権僧正にも剣を学んで、奥義を授かったという。
江戸初期に入り、四代目次郎太夫宗勝が武名を轟かせ、東国諸侯に教授した。
その時奥義を授かった門人がさらに諸藩に伝え、一大流派となった。

天道流

斉藤伝鬼房隆秀が創始したとされる剣・薙刀の流派。塚原ト伝に新当流を学び、鶴岡八幡宮にて霊夢を得て天流を名乗る。
神道流の桜井霞之助に勝ったが、その一党に惨殺される。その後、子と孫によって江戸を中心に伝わった。
剣・薙刀の他に槍・小具足・捕手・手裏剣を含んでいた総合武術。明治以降は薙刀の流派で有名となった。

示現流

鹿児島藩士、東郷重位が創始。丸目長恵の門人藤井続長にタイ捨流を学び、島津義久に従って在京中、
天寧寺の僧善吉に自顕流兵法の奥義を学び、帰国後、金剛経文「示現神通力」より示現流とした。
鹿児島藩にて代々流儀として伝わり、現在に至る。独特の鍛錬方法をもち、独特な気合いで有名。
門人、薬丸兼陳は実践的な野太刀を取り入れ、薬丸流を称した。
幕末の薩摩志士はほとんどがこの流儀であり、薬丸派には人斬りで高名な田中新兵衛がいる。

心形刀流

伊庭是水軒秀明が江戸初期に創始した。秀明は最初、柳生新陰流を学び、本心刀流を志賀秀則に学んだ。
一六八一年、皆伝して翌年江戸の下谷御徒町に道場を構え心形刀流を唱える。形を正しく、心を剛直にする工夫を説いた。
また、江戸三大道場に加え、心形刀流の伊庭道場が四番目に数えられることもあるほど勢力を持った。
幕末の剣客にもちょくちょく名前が出てくる流派で、石坂周造、幕府遊撃隊の伊庭八郎などがいる。
新選組にも島田魁、狛野千蔵、映画「御法度」で有名な加納惣三郎などがいる。
永倉新八も神道無念流の一方でこれを学んでおり、島田魁とはこの関係で古い仲になっている。

二天一流

いわずとしれた剣客、宮本武蔵が開いた二刀流の剣術。生まれは不明だが、父(養父も)と共に無二斎から当理流を学んだとされる。
生涯六十数度の試合に望んで一度も負けたことがなかったといわれる。そのさなか、二刀流に開眼したらしい。
江戸期に入って熊本藩細川家に召し出され、「五輪書」を書いたことで知られる。
円明と称し、はじめ二刀一流を唱えた。武蔵の死後、弟子の寺尾伸行が武蔵の法号から二天一流と改めた。

直心影流

江戸中期、山田平左衛門光徳によって創始。光徳は下野国出身で高橋重治の直心正統一流に入門。
柳生門下の一派などの諸流派を学んだ後、帰門して一流を立てる。
三男長沼国郷は竹刀・防具を改良して実践的な稽古を重視し、試合剣術を盛んにする先駆けとなった。
男谷精一郎、島田虎之助、榊原鍵吉、横川七郎などを輩出し、全国的に広まった。

神道無念流

江戸中期に福井兵右衛門嘉平が起こした流派。嘉平は下野出身で牧野円泰の新神陰一円流を二代目野中権内に学んだ。
この一円流は上泉伊勢守の弟子による創始なので、新陰流の流れを組むと言える。
諸国修行をして、信濃の飯綱権現で奥義を得た。一七四○年、江戸四谷で神道無念流の道場を開いた。
竹刀打ち込み稽古を行い町道場を発展させたとされる。何代にも渡って剣豪を出したが、中でも斉藤弥九郎善道は
練兵館を幕臣江川英竜の後援で立てて、江戸三代道場の一つとなった。その道場からは幕末の名剣客を多数輩出した。
多くの道場にも言えることだが、剣術道場であると同時に思想を教える場所であり、志士を多く輩出する。
桂小五郎が有名。新選組にも芹沢鴨とその一派、斉藤一、道場は違うが永倉新八などがいる。

北辰一刀流

中西派一刀流の弟子、千葉周作が創始。中西子定本人とその弟子、浅利又七郎に学んだ。
北辰夢想流を名乗る家に生まれ、そこから北辰一刀流を名乗った。
江戸の日本橋品川町に玄武館を立て、のち、神田お玉ヶ池に移して、
江戸三代道場に数えられた。優れた教授法で剣から抽象概念を一切なくし、型の四十八手を作ったとされる。
急速に全国に広まったが、水戸の尊王攘夷派が最大の保護者だった。坂本龍馬、清河八郎、千葉重太郎、海保帆平、等が著名だが、
新選組にも藤堂平助、伊東甲子太郎、山南敬介などがいる。大正期には真宮寺さくらが有名。

鏡心明智流

江戸中期に創始された剣術。流祖は桃井八郎左衛門直由で、元大和郡山藩士。
諸国を廻った後、戸田・一刀・柳生新陰・堀内などの諸流派の奥義、無辺流槍術を合わせて創始した。
江戸日本橋に道場を開き、四代目の桃井春蔵直正が築地に士学館を建て、江戸三大道場の一つに数えられた。
土佐の武市瑞山(半平太)を始め、全国から門人が集った。
新選組の山崎蒸、人斬り以蔵で知られる土佐の岡田以蔵などもいる。

天然理心流

遠州浪人が創始したとされる武州の田舎剣術。武州は天領で治安が緩く、農民までもが刀をもって武芸に励んだとされている。
気合い(流内では気組と呼ぶ)で相手を制す田舎じみた剣術だが、実戦では強かった。
一方、竹刀での試合は弱く、道場破り的な他流試合では神道無念流斉藤弥九郎道場から人を借りてきたらしい。
四代目宗主(代々近藤姓を名乗るが全て養子で血縁はない)が新選組局長近藤勇で、
土方歳三、沖田総司、井上源三郎がここの門弟である。

柳剛流

心形刀流三代宗主、伊庭軍兵衛直保の子弟である岡田総右衛門が創始した。
なりふり構わない奇妙な剣術で、長刀(なぎなた)を加味したすね切りを使い、他道場から他流試合を断られたという。
尾張藩の大試合で柳剛流の剣客がすね切りで決勝まで進んだとされるが、
千葉周作の次男栄太郎に秘策を練られて負けたとされる。
この大試合には諸説あるが、足を尻まで蹴り上げるようにしてかわすことで倒したらしい。
幕末に流行った剣術で、清水次郎長、松平主税介(家康の六男、松平忠輝(切腹)の子孫)などもこれを得意とした。

(参考 日本史広辞典(山川出版社)」

inserted by FC2 system