第七講義 「南京事件とは?」

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前口上

「南京事件」が何かご存知でしょうか。
いわゆる「南京大虐殺」を思い浮かべる方が大半だと思います。
それはそれで正解です。
しかし、歴史的に「南京事件」と呼ばれるものは一つではないのです。
それは、「南京大虐殺」とは全く無関係におきた事件です。
これについて、「つくる会」の教科書には、少しだけ触れられています。
ただし、非常に勘違いしやすい部分なので、注意して下さい。
まず、「つくる会」では、1927年に起きたものを「第一次南京事件」、1938年の「南京大虐殺」を「第二次南京事件」と呼んでいます。
一方、この「第一次南京事件」を「第二次南京事件」や「第三次南京事件」と捉える考えもあります。
これについてはまた後ほど。
とりあえず、本当にあったのかどうかも分からない第二次は置いておいて、第一次南京事件がどんな事件であったのか、多くの方はご存知ないでしょう。
今日はその第一次南京事件について述べてみたいと思います。

なぜ、今までこの事件は歴史教育の場で語られなかったのか。
それは、この事件が直接的に全面戦争を引き起こしたのではないこと、そして善悪で片付けられる問題ではなかったからだと思います。
(何よりも、自虐史観にとって都合が悪い内容だったからということは容易に想像がつきますけれど)
そもそも、歴史に善悪を持ち込むことは非常に無駄です。
かつての元国は、異民族支配のために、抵抗した都市は住民を一人残らず殺し尽くすという制度を敷いておりました。
それは、限られた人間で広大な領土を支配するための手段でした。
今の感覚では、それはとても非人道的なことに思えます。
しかし、当時の歴史的情勢から考えればそれは合理的な選択であり、現代人に元国を口汚く非難する人間は皆無です。
善悪とは、今生きている人間の感覚であり、それで当時の状況を評価することは、目を曇らせることにしかなりません。
歴史は常に、事実を客観的に見なければならないのです。


発生経緯

第一次南京事件の背景をまずは説明しなければならないでしょう。
当時の南京には、日本は勿論、欧米列強国の領事館が存在しました。
当時、中国の排外運動は苛烈でした。それは教科書でも習ったことだと思います。
そして、当時はまだ満州事変すら起きておりません。
すなわち、日本の軍隊の影響力は南京において皆無でした。
そんな中、中国は袁世凱死去により、軍閥同士の内乱状態に陥っておりました。
無政府状態に陥った中国での居留民の安全が脅かされるようになり、英米はそれを非常に危惧していました。
一方、当時の日本は幣原外交の時代でした。
幣原外相が中国に対して宥和政策を採っていたのは歴史教育でも語られているところです。
そして、当時は日本人の間でも欧米列強に対する反感は強かった。
(ワシントン条約以降、明らかに国力で欧米に劣っていた日本の反感と恐怖は容易に想像が付きます)
そんな中、広東軍閥の蒋介石率いる北伐軍が南京へ進軍してきたのです。

北伐軍の南京突入が近い、と判断した日本領事館は、揚子江を哨戒中だった海軍の駆逐艦に警備を要請しました。
(当時の揚子江は国際水路でした。)
一方、日本人居留民も戦闘に巻き込まれるのを恐れ、領事館内に避難していました。
南京市外ではなく、領事館内に避難していたということから、北伐軍が南京に突入したとしても大規模な戦闘はないと考えていたことがわかります。
まして、軍閥とは無関係の外国領事館が攻撃を受けるということなど、想像もされていなかったはずです。
実際、領事館を警備をしていた海軍の水兵も、荒木大尉率いるわずか11人でした。
そして、1927年3月24日、時刻は午前7時という朝、日本領事館に突如北伐軍の兵士たちが突入してきたのです。
兵士たちは、領事館の人間、日本人居留民に対して暴行を加えました。(暴行の詳細についてはこちらを参照してください)
被害は、日本領事館のみならず、英米をはじめとする各外国領事館にも及びました。
このときに被害を受けたなかった領事館は、ドイツとソ連のみだったとされています。

このとき、揚子江を通過中だった日本の船会社の船舶が、北伐軍の攻撃を受けます。
この船舶を護衛していた駆逐艦の水兵一名がこのとき死亡しています。
日本だけでなく、英米にも死者が発生していました。
この北伐軍の暴虐に憤慨した英米は、揚子江より海軍を用いて南京市に砲撃を加えました。
暴行を加え続ける北伐軍への警告を意図したものでした。

日本側の無抵抗政策

英米が艦砲射撃による警告を加えようとする前に、
北伐軍が南京に接近している段階で、居留民の安全を憂えた英米が日本も共同介入に加わるよう要請していました。
しかし、幣原外相は、これを拒絶します。
英米に対して幣原外相は
「中国と全面戦争になれば、中国の拠点を全て制圧するのにどれだけかかるか分からない。中国に大きな利害関係がある日本は協力できない」
という趣旨の回答を行いました。
これは、当時の情勢を反映した、リアリストの回答のように思えます。しかし、幣原の採った政策は大きな問題となるのです。

日本領事館が北伐軍兵士に突入を受ける前日まで、領事館正門には荒木大尉らによって機関銃座と土嚢が設置されておりました。
それが森岡領事の「北伐軍を刺激しないように」との指示で撤去されたのです。
また、警備の水兵たちにも、武装解除を命じます。
後になって、森岡領事はこれを独断の指示だったと証言していますが、ではなぜそもそも海軍への警備を依頼したのかが疑問となります。
恐らく、幣原が英米の介入要請を断ったため、それに連なる指示が南京の日本領事館にも伝わっていたのだと思われます。
こうして、日本は北伐軍に対して「無抵抗」の態度を取ることで、平穏に南京占領を済ませようとしたのです。
しかし、現実には日本領事館に北伐軍の侵入を許すことになりました。
このとき南京には500人以上の日本人が居たとされますが、南京市内の日本人住居は全て暴行略奪の対象となりました。
朝から始まった暴虐は、昼前になって、北伐軍の指揮官らしき男によって、一時制止されましたが、その後も略奪は続きました。
日本人が北伐軍の暴虐から解放されるのは、午後四時に英米海軍が南京への砲撃をする中、日本海軍の決死隊が到着して日本人を砲艦まで避難させたときでした。

暴行略奪は、最初北伐軍の兵士によって始まりました。
しかし、排外の機運が高まっていた中国人市民たちは、この兵士たちの暴行に加わり、領事館や日本人住居に対して暴行略奪を加えたのです。
それに対し、日本人はただただ耐えるだけでした。
警備隊も武装解除された11人のみ、唯一の防御設備だった機関銃座と土嚢も撤去されており、中国人の大群に対し、なんらなす術はなかったのです。
警備隊を指揮していた荒木大尉は、軍人でありながら何ら抵抗することが出来なかったことを恥じ、救助に来た砲艦の上で自殺を図ります。

これは明らかに国際法に反する行為でした。
本来ならば、日本は直ちに北伐軍への抗議を行うべきだったでしょう。
しかし、幣原外相はそれをしませんでした。
それどころか、対中国との外交を有利に進めるため、被害の実態を隠蔽し、英米に責任の一端を押し付けようとしました。
領事館内で婦女子が中国人によって強姦されたという噂は根強くありましたが、その事実も外務省は否定しています。
この事件で死亡した日本人も、公式には駆逐艦の水兵一名しか発表されておりません。
結局、国際的には、この「第一次南京事件」を起こしたのは、北伐軍に紛れ込んでいたコミンテルンの陰謀と認定されました。
日本側もそのように判断し、蒋介石への追求は避けたのです。
元々中国軍閥と衝突が激しかったイギリスは、領事までもが殺される寸前だったこの事件をきっかけに、コミンテルンの親玉であるソ連との国交を断絶しています。

当然、事件の一報を聞いた、当時の日本国民は激怒しました。
野党からも、政府の対応の不手際を追求されましたが、追求されたのはあくまで日本政府の責任でした。
しかし、首謀者が中華民国だろうとコミンテルンだろうと、
日本人の中国への反感は、この「第一次南京事件」を契機に激しく燃え上がり、幣原外交への批判は急激に高まることになるのです。
というのも、この中国に対する「無抵抗政策」の失敗は、これが初めてではありませんでした。
ここで、この「南京事件」を第二次や第三次と呼ぶ根拠が出てくるのです。

1913年の南京事件

1913年当時、中国は孫文による第二革命軍と袁世凱の中華民国臨時政府との間で戦闘が行われていました。
第二革命軍は大敗し、臨時政府軍の将軍であった張勲は、革命軍を追撃して南京に進軍します。
このとき、臨時政府軍により、一ヶ月余りに渡って日本人商店が襲撃され、日本人10数名が死亡しています。
日本人商店は、中立の証として日章旗を掲げていましたが、それにも関わらず中国軍の略奪を受けたことで、日本本土の世論は紛糾しました。

このとき、在留日本人の安全を守るため、陸軍を派遣すべきだという意見も高まりました。
しかし、当時の法制度では、軍隊を動かすことは容易ではなく、また、外務省は中国側を弁護します。
牧野外相は、中国による日本への無法な行為であることを認めながら、事情(内容はかなり意味不明)があるとして許す余地があると発言しました。
そして、非公開で袁世凱に賠償や責任者張勲の罷免と謝罪などを要求することになります。
袁世凱は要求を受け入れましたが、その実施は必ずしも完全ではありませんでした。
かといって、国民に対して公にしない以上、強制力もほとんど及ぼすことなどできません。
そもそも、当時は国際連盟など存在しない完全なアナーキズムの国際関係です。
強制力は自ら武力や経済力によって作り出さないといけなかったのです。
かくして、うやむやのうちに問題は解決し、国民の中には中国と外務省への不信感が残ったのです。

当時の日本外務省(現実には、外務省のみならずインテリ層全般)の問題は、欧米列強への強烈な反発心、そして下層社会の日本人への関心の低さであった。
当時の日本はまだ韓国併合を果たしたばかりであり、中国大陸は欧米列強国の独壇場であった。
そのため、外務省は中国に進出している欧米列強国は植民地主義を推し進める悪人と断定し、中国人に対して同情的だったのである。
従って、中国軍によって外国人が襲撃されても、日本の外務省は『やむを得ないこと』とみなしていた節がある。
この南京事件においても、襲われるのは外国人だけだと思っていたところがあり、偶発的に中国人が日本人を襲ったが、取り立てて問題とすることではないと判断したのである。
被害にあった日本人の大半が、下層社会に属する人々であったことも大きい。
当時の日本外務省の官僚たちは中国を連携の対象と考えており、欧米と対抗するために友好関係を築くことを目指していたと推察される。
しかし、それは外務省の「支那通」たちの構想であり、日本人の多くは、この事件で中国という国に対しての反感と疑いを持ち始めることになる。

そして歴史はどうなったか

幣原外交は、頑なに中国への軍事力の展開を拒み、宥和政策を採り続けてきました。
それは様々な外交的譲歩にも現れています。
英米は軍事力によって1927年の南京事件の鎮圧を図りましたが、これは国際法的に見てもそれほど問題のあるものではありません。
有力な政府がない状況では、在留邦人を守るのは、本国政府の役目となる以外にないからです。
しかし、当時の中国(そして今も)は、この時の南京事件を、「北伐軍が南京に入城した際に、軍人や民衆の一部が外国人の領事館や居留地に残虐な暴行を行った。それに対し、英米(日本もその中に加わっていたと報道されている)は艦砲射撃で南京を攻撃、中国側に多数の死傷者が出た」と表現しています。
中国側は、英米の攻撃によって中国人に死傷者が出た事件、として認識しているのです。
当然、中国側(しかも軍隊は政府ではなく広東軍閥、中華民国側からすれば、さらにこれはコミンテルンの陰謀と非難できる)に贖罪意識などなかったはずです。

しかし、ちょうど当時、日本側は山東出兵を行っていました。
これは、教科書でも習われたとおり、中国内での反日テロから、在留邦人を守るために行われたものです。
幣原外相の属した若槻内閣は、1926年に第一次山東出兵を行いましたが、これはすぐに撤退しています。
なるべく北伐に干渉しないという幣原外交のセオリーに従ったものでした。
そして、1927年3月の南京事件の直後、日本では金融恐慌が発生し、若槻内閣は退陣します。
代わりに政権を取ったのが、田中義一でした。

田中内閣は第二次・第三次山東出兵を行います。
これは、文民統制による不拡大方針が徹底され、あくまで在留邦人の保護を目的としたものでした。
規律も正しく、展開から撤兵まで秩序正しく行われ、国際社会からの非難もほとんどありませんでした。
しかし、この最中にも、蒋介石の北伐軍による日本人被害は済南事件という形で発生します。(※済南事件の詳細はこちら
日本国民の間に、中国への不信、とりわけ蒋介石への不信が高まるのも無理からぬところでした。
しかも1928年には、その蒋介石が南京国民政府を樹立させるのです。
こうした状況を苦々しく思っていた集団が、関東軍でした。
蒋介石がどんどん勢いを伸ばし、済南事件では日本軍が圧勝しましたが、北伐が終了し、日本軍が撤兵したため、日本はただ殴られただけに等しい状況でした。
蒋介石とは「満州に進出しない」という約束を取り付けましたが、その蒋介石本人に対する信用が関東軍にはもてなかったのです。
この蒋介石の勢いを止められない軍閥勢力への不満、報われない日本軍人たちの働き、中華民国に対してなんら有効な圧力をかけられない日本政府、
こうした中、関東軍は、張作霖を爆殺するという、取ってはいけない手段に走ってしまうのです。
この事件は、かえって軍閥勢力と日本政府との関係を疎遠にし、満州への影響力を失わせることになりました。
軍縮を押し進める中、軍人の存在を蔑ろにし、その結果、中国で日本人の犠牲者を生み出してしまったという過程、
これがかえってこの後の軍部の暴走に火をつけてしまったのです。

一方、英米政府は、南京事件の直後より蒋介石への不信を高めていきました。
アメリカの極東海軍は、蒋介石に対して警告を行い、ハワイから艦隊を呼び集めます。
アメリカ政府も、まさか中国がここまで粗暴な振る舞いをするとは考えていませんでした。
しかし、このような事実を見て、蒋介石への態度をどんどん硬化させていくことになります。
当時のアメリカの国務長官であるケロッグは、
「この事件は共産主義でも軍国主義でも、まして革命でもない、これは昔からの中国である」
という趣旨の報告を議会に行っています。
このときに芽生えたアメリカの蒋介石に対する不信感は、その後も続きます。
日本の関東軍が暴走をはじめても、欧米は満州国を当初は承認する姿勢をみせていました。
リットン調査団が派遣され、日本が国際連盟から脱退しても、欧米は蒋介石を支援しようなどとは考えませんでした。
日本とアメリカの関係が冷却し、日中戦争が拡大を始めた頃になって、米英はようやく国民党軍を支援します。
しかし、それでも援軍を送るなどの軍事介入を行おうとはしませんでした。
欧米が日本の膨張政策に対して積極的な攻撃を行わなかったことの裏には、この南京事件があったことは否定できないでしょう。

失敗をどう評価するか

戦後、幣原外交の評価は比較的高いものでした。
それは、中国への宥和政策、軍縮路線、などが戦後の史観にとって聞き心地のよいものだったからだと思います。
しかし、歴史的経緯を見ると、果たしてそれが正しい路線だったのか、疑問が残ります。
南京事件は、明らかに中国の日本に対するテロ行為でした。
テロリズムを抑制するには、武力によって対応するしかない。
それを日本政府はもっと早く学ぶべきでした。
南京事件の後、日本は上海に海軍陸戦隊を配備します。
これは、アメリカの軍備増強に比べて、非常に小さな軍備です。
上海に配置された海軍陸戦隊は、その後も第二次上海事変の当事者となりますが、少なくとも、それは決して国際的常識から逸脱した派兵ではありませんでした。
幣原外交は軍部の圧力によって崩壊したかのように、現代では教えられています。
しかし、それは全てではありません。
現実には、中国の無法を許した「無抵抗政策」への失望が、反動的に軍部の独断専横を招いた一面もあるのです。

この経緯を、中国が悪いと非難するか、日本が悪いと非難するか、それは簡単なことですが、無意味です。
重要なことは、このような歴史的経緯がこの時代には存在したということです。
戦前の日本史を考える上で、この経緯の存在を念頭に置くことは欠かせないことだと思います。
そうしなければ、表面的な事実から歴史を理解してしまうことになりかねません。
人間は単純に利権への欲望のみで動くようなものではありません。
中国と歴史観を共有することは不可能でも、事実を共有し、そこからどのような判断を導くか、意見を交えることならできます。
歴史教育は、まず事実を教えることです。
歴史にどのような評価を与えるかは、教える側が導くのではなく、事実を教えられた本人が考えることなのです。
これを読んでくださった方々がどのような評価を南京事件に下すのか、城主の関知するところではありません。
もっとも、この文章にすら、城主の歴史観が入っていることも否定はできません。
しかし、個人で評価を下すための事実は羅列したつもりです。
城主としては、この文章で「第一次南京事件」への興味を持っていただければ幸いです。
後は、貴方が興味を惹かれた部分、疑問に思った部分につき、さらなる事実を探求し、考えを導いてください。




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支那事変のページにおいて非常に詳しく書かれております。

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