序の章

慶応四年一月七日



・・・・・・江戸に近いとある宿場

「準備は出来たか?」
襖を開いて聞く者がある。
「俺は出来た。」
部屋に正座する武士、その背中には内に秘める悲しみがあった。
声にはそれを感じ取ることはできない。
だが、その武士が必死に感情を押し殺しているのはわかる。
「そうか・・・じゃあ、行くか?」
「ああ・・・」
そう言うと、男は静かに立ち上がり、二人して宿の階段を下りていった。
手早く、勇ましく。
冬の寒空の下、一歩外に出ると、宿の外には一団が出来ていた。
いずれも旅姿である。
「皆の者! 聞いてもらいたい!」
一団の中で、ひときわ身分が高そうな武士が声を張り上げる。
「既にお聞きになっていると思うが、伏見で幕府が敗れた。」
一同が静まり返る。
「殿を初め、我が会津松平の者たちも懸命に戦われた。だが、武運つたなく、賊徒の手に錦の御旗が渡ってしまった。」
一同の顔は暗い。弱いながらも降り続ける雪が、その雰囲気をさらに重くしていた。
「もはや惰弱な旗本など当てにならん! かくなる上は国許に拠り、今一度、大義を我らの手に取りかえすのみ!」
「おおっ!」
旅装束が叫んだ。
「国許には既に連絡を付けてある。我らで国元の防備を固め、大坂より殿と上様が戻られ次第、
 これを迎え、今一度、戦いの狼煙を上げるのだ!」
「殿と我ら会津の名を汚す者は、断じて許すべからず!」
「そうだ、そうだ!」
一同に激しい活気がわき上がる。
「相沢、国許なんて久しぶりだな。」
「・・・そうだな。ちょうど・・・七年ぶりくらいか。」
相沢と呼ばれた武士、眼はこの喧噪にはない。
雪が降る、重苦しい空、そこに彼は何を見ているか・・・
(父上・・・)


・・・・・・大坂城

江戸では、会津藩士たちが勇ましい声をあげていたが、
ここ大坂城では、彼らには寝耳に水、いや、彼らにとっては寝耳に地鳴りとでも言うべき
驚愕の事態が発生していた。
「おい! 今言ったことは本当か!」
突如、城内の一室に怒号が響いた。
「・・・本当だ。」
包帯を肩に巻いた男が、布団から半身を起こして言った。
「上様も、会津中将様も、もう、この城にはおられねえ。」
「昨日の夜にわずかな供回りと共に脱出なされたそうです。」
傍らの医者が付け加える。
「何だってんだよ・・・俺は伏見で会津や桑名の者たちが誰よりも勇敢に戦ったのをこの目で見てきた。
 幕府歩兵も藤堂や彦根の連中も、逃げるか裏切るかの体たらくだったってのによ。
 それを何だ。その会津の主君が家臣を置いて、とっとと江戸へとんずらってか!?」
「歳、言葉を慎め。」
「近藤さん、こんなことを俺はゆるしゃしねえよ。」
怒号はとどまるところを知らない。
だが、彼はしばらく怒号を吐いた後、神妙な顔つきになった。
「・・・良順先生、局長と総司を頼む。」
「承知いたしました。」
彼は医者にそう言い残すと、部屋を出ていった。
(こんな・・・こんな馬鹿な話が・・・)
彼は廊下を荒々しく歩いていく。
「副長」
と、聞き慣れた声がかかった。
「副長、御大将の件はご存じで?」
「ああ、今聞いた。」
「何だ、ご存じでしたか。・・・で、これからどうするのでしょう?」
「俺はどこまでもやるよ。」
「はは、流石は副長だ。しかし、私が聞きたかったのは、この後の隊の予定ですよ。」
「ああ・・・済まない。」
彼は少しばかり赤面し、さらに少しばかり考えた。
「とりあえず、上から何らかのお達しがあるだろう。予定はそれまで何とも言えん。」
「そうでしたか。」
「永倉君、隊士の動揺は?」
「いえ、これと言った動揺はありません。」
「それはよかった。まだ戦いは終わっちゃいねえ。常に気を引き締めさせておけ。」
「負け戦の後ですからねえ・・・」
そうぼやきながら、永倉は元来た廊下を戻っていった。
「・・・副長」
「ん?」
また、声がかかった。
まるで物の名称でも呟いたような声。
「・・・・・・」
「ああ、川澄君か。どうかしたか?」
「・・・・・・局長は」
「近藤さんは大丈夫だ。怪我も一月で治るそうだ。」
川澄はそれを聞いても表情を変えない。
彼はそれを見て、一瞬怪訝そうな顔をしたが、すぐにニヤリとした。
「案ずるな。倉田君の左手もすぐに治る。半月もすれば使えるようになるだろう。」
「・・・・・・(こくり)」
「倉田君の傷は不幸中の幸いだった。薩長の弾雨を浴びて、左手の甲だけで済んだなら儲けものだ。
 あの後、切り込みに参加していたら鬼籍に入っていたかもしれねえ。」
「・・・・・・私は無傷。」
「そいつは俺も同じよ。お互い鉄砲玉にまで嫌われているらしいな。」
「・・・・・・」
彼は笑ったが、川澄は笑わない。
もっとも、今の大坂城で笑う気分になれる奴などそうそうはいないだろう。
川澄の場合は性分だろうが・・・
「・・・許せない。」
川澄が突如呟いた。
「許せない・・・か。倉田君の仇討ちでもしようっていうのか?」
「・・・・・・(こくり)」
「俺は喧嘩師だからよ。薩長相手にどこまでも喧嘩をやってやる。どこまで戦を共にするかはしらねえが・・・」
彼は川澄に向き直った。
「同じ薩長相手の喧嘩だ。新選組として共に戦おうじゃねえか。なあ?」
川澄は頷いた。
共に死地をくぐり抜け、仲間も敵もひっくるめた屍を越え、剣客が京を駆け抜けた。
それは彼らの青春でもあった。
庶民には、青春を犠牲にした哀れな若者と映ったことだろう。
だが、彼ら自身はどう思っていたか、それを知る術はない。だが・・・
「だがよ。」
彼は最後に付け加えた。
「もう、俺たちみたいな剣術屋の出る幕じゃねえかもしれねえな。」
「・・・・・・」
「これからは洋式でやってやるさ。」
彼は懐から懐中時計を取り出し、刻みつつある時間を確認した。
川澄は澄んだ冬空を無表情に見上げていた。


・・・・・・会津若松城下の屋敷

「お母さん! それってどういうことなの!?」
「・・・・・・」
雪に埋もれた城下町にも叫び声が上がった。
「たった今、江戸から急使が来たそうよ。伏見で幕府が敗れたって・・・」
「私が言っているのは父上と伯父上のことだよ!」
「・・・・・・」
その母子は、たった今来たお城からの使いの言葉に混乱していた。
 「水瀬様の奥方の秋子様ですね?」
 「ええ・・・そうですよ。」
 「先ほど江戸屋敷から急使が参られまして・・・その・・・幕府が負けたそうです。」
 「それは困ったわね・・・」
 「いや、その・・・水瀬様が・・・行き方知れずだということで・・・」
 「・・・・・・え?」
 「いえ、まだお亡くなりになったことを確認したわけではございませんので、その・・・」
 「・・・・・・」
 「・・・あ、もう一つ申し上げますと、相沢様も行き方知れずだそうです・・・」
しどろもどろの使者が言ったことはそのようなことだった。
だが、伏見の戦場で行き方知れずだということは、ほぼ九割で討ち死にを意味する。
使者の口上は、夫と義理の兄の喪失を意味しているのである。
耐え難かった。
だが・・・彼女は持ち前の芯の強さをここで見せた。
「京に行くときから・・・覚悟していたことでしょ?」
「でも、お母さん! 父上は・・・」
「名雪、待ちましょう。だから狼狽えては駄目よ。」
彼女は娘を見た。
娘の方もそれに気圧される形となった。
「・・・わかったよ。待つことにするよ。また・・・」
「でもね、もう一つあるのよ。」
「もう一つ?」
「江戸屋敷詰めの人が国許に戻られるそうよ。」
「え、会津若松に・・・?」
「そうよ、だから祐一郎さんをお迎えする支度をしなくちゃね。」
「祐一郎が帰ってくるの!?」
娘はたちまち笑顔を取り戻し、縁側に飛び出した。
そして、あの頃と変わらない雪空を見上げ、往事を思い出していた。


・・・・・・別の屋敷

水瀬家屋敷からさほど遠くない藩士の屋敷である。
「美坂殿! 江戸から使者がいらっしゃったぞ!」
「ちょっと・・・勝手に庭に入ってこないでよ。」
「気にするな。」
男は自分自身も言葉通り気にする様子もなく、縁側に座り込んだ。
「それで・・・使者が来たからなんだって言うのよ。」
「幕府が負けたそうだ。」
「ふーん、幕府がねえ・・・」
顔にも「どうでもいい」というような表情がありありと出ている。
「幕府がねぇ・・・って、会津も負けたんだぞ。」
「まあ、そうだけど。」
「呑気なことだな・・・会津にも多数の戦死者が出ているんだぞ。」
そう言われて、美坂と呼ばれた武家娘は思いだしたように言った。
「あ・・・名雪の父君がたしか京に行っていたわね。まさか・・・」
「いや、俺は名までは聞いていない。鉄砲方の人名は多少聞いているが・・・」
「・・・北川君、悪いけど水瀬様の安否を尋ねてきてくれる?」
北川と呼ばれた武士は胸を打って言った。
「お安い御用だ。・・・あ、使者と一緒に商人も来たそうだぞ。」
「え? じゃあ、薬を受け取りに行かなくちゃね。」
「受け取りに?」
「ええ、ちょっと頼んでおいたのよ。・・・あの子のためにね。」
声がくぐもる。
「・・・そうか、これで治るといいけどな。」
後ろに振り返りながら、潤之介は言った。
傘をさす。
「・・・江戸詰の連中が国許に帰ってくるそうだぞ。」
「へえ・・・何のために?」
「さてな。よくわからんが一つ言えるな。幕府はもう見限られた。」
「やっぱりね。」
「会津がどうするか・・・まあ、江戸詰の者が今帰ってくるって事は・・・やるんだろうな。」
彼は降り続ける雪空と共に溜息をつき、歩き出した。
武家娘は出かける支度をしつつ雪空を見上げ、溜息をついた。


・・・・・・会津若松城下

二人が話題にしていた商人である。
だが、彼が今話しているのは、十手を持ったお役人である。
「月宮様・・・困りますよ。これはお城にお納めする物なんですから。」
それを聞いたお役人は残念そうな顔をした。
「でも・・・欲しいよ。」
そう言って、物欲しそうな目で荷を見つめる。
なにやらもめているが、実は、今やっていたのは荷改めである。
それがどういうことか、途中でお役人が品定めを始めてしまったのが事の発端である。
「売り物はないの?」
「仕方有りませんね・・・」
商人は仲間の商人に耳打ちした。
耳打ちされた商人は頷くと、荷から書物を数冊取り出した。
「これは江戸から仕入れてきた書物です。これはお納めする物ではないですから大丈夫です。」
「へえ・・・」
目を輝かせてその一冊を手に取る。
そして題に目を走らせた。
「歩兵心得」と書いてある。
「これ・・・何の本?」
「ああ、そいつは幕府歩兵の方から売ってもらったもので、阿蘭陀(オランダ)の戦の仕方が書いてあるそうです。」
「へえ・・・面白そうだね。」
「そ、そうですか?」
そう言って、お役人は中身に目を通す。
ちなみにこの本はオランダ語で書かれた物を幕府が翻訳した物で、オランダ語をカナ表記にした物が多数有る。
「これ・・・頂戴。」
読みながら言う。
「はい、わかりました。」
お役人は片手で紙入れを取り出し、商人の手に銭を乗せた。
と、渡した手が止まる。
「これ・・・」
彼女の目が止まったのは、「ゲベール銃操法」の項である。
というのも、そこにある挿し絵は火縄銃とは全く違う外見であり、
何より今さっき欲しがっていた商品である。・・・いや、商品ではない。
「・・・どうなさいました?」
「・・・・・・・・・」
彼女はもう一度、荷改めをしていたゲベール銃を手に取った。
それは磨かれ、美しい輝きを放っていた。
「これ・・・どうやって手に入れたの?」
「こいつですか? これは幕府歩兵頭の方が、『もう要らないから』と言って、売って下さった物です。」
「・・・・・・・・・」
握る手に力がこもった。
「・・・月宮様?」
ダッ!
突如、彼女は駆けだした。
「あ!」
「あとで銭は払うよ〜。」
「お、お待ち下さい、月宮様!」
呆然とするその他の商人を置いて、雪の降る街を二人が駆けていった。
しかも追いかけているのは商人、追いかけられているのは役人。
何とも奇妙な光景であった。
「ボクだって御用の筋だもん!」
「そんな理屈、無しですよ!」
追いかけられる彼女はどちらに曲がるかを考えながら、視界の霞む雪空を見上げていた。


・・・・・・城下から離れた山中

役人と商人が追いかけっこしている中、この山は静けさに包まれていた。
そこに立つ者一人。
西の空を見上げている。
「来る・・・薩長が。そして奴が。」
立つ場所は草原。
雪の混じった風が草を濡らしている。
ここからは城下と隣の集落が見える。
一人がその中に立っているその光景は、とても神秘的だった。
「薩長だけは、許さないから。」
身の凍るような寒さの中、雪空にそう呟いた。


雪が降っていた・・・
戦いに染まった雪が降り積もっていた・・・
雪に埋もれた城下町で・・・
今も降り続ける町で・・・
俺は・・・一人の少女と出会った・・・

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