架空なる前書き

ここに一つの文献がある。
幕末、正確には明治初頭も含むが、その当時の歴史を記録したものだ。
主題は「戊辰戦争見聞」である。
その大まかなところは、ペリー来航よりの尊皇攘夷気運の高まりに始まり、
旧幕軍の投降により、名実ともに明治新政府が樹立したところで終わる。
だが、その過程には、歴史的に画期的な現象から、血みどろの戦いまで、様々な事件が生じた。
その中に名を書き記すものに奇兵隊がある。画期的な現象であり、紛れもなく戦争の一翼を担った存在である。
これは長州人が武士から庶民まで一丸となって幕府と戦うという歴史的な瞬間の象徴である。
このような団結は国内初と言えよう。
戦国の世まで戻れば一向宗徒の団結もこれに似ているが、これは宗教的団結である。
長州という国家(土地)意識が彼らを団結させ、烏合の衆の幕軍を破ったのだ。

そして、幕末には同じ事件がもう一つ起こった。
長州とは正反対に位置し、思想、風土、立場、全てが異なる土地である。
だが、彼らは国家(土地)意識の下団結し、武士から庶民までが敵と戦ったのだ。
その土地の名は、会津である。

おそらく会津を含め、幕府方として最後まで薩長に抵抗し続けた者達を、
時の将軍慶喜は、「無頼の壮士」と呼んだ。同時に慶喜は彼らが臣従する主君でもある。
その「無頼の壮士」たちは、主君のため、幕府のために不利で壮絶な戦いを繰り広げた。
だが、奇妙なことに、当の慶喜はひたすら恭順、自分に忠実な者を「無頼の壮士」と呼んだのだ。
慶喜だけではない。勝海舟や山岡鉄舟ら恭順派幕臣達も、「無頼の壮士」を江戸から遠ざけようとした。
彼らも辛かったに違いない。圧倒的不利な時勢の中でも幕府のために戦ってくれる勇士を冷徹に捨てなければならなかったのだ。
彼ら恭順派は、時勢に従った。その動きを責めることはできない。
「無頼の壮士」という言葉の中にも、慶喜の苦悩が垣間見られる。
主君の命に従わず、江戸の命をあやうくしかねない「無頼」の輩だが、
忠実に、勇敢に戦う「壮士」でもあったのだ。
「壮士」というものは、時勢に従って消えていく者なのかもしれない。
維新の狼煙を上げた「壮士」、剣を振り、危険を賭した浪士達もまた、その一人であった。
彼らは新政府樹立の大まかな流れができると共に、不必要な存在となった。
不必要で、言うことを聞かせにくい「無頼」の志士を、尊皇派は切り捨てた。
佐幕派の「壮士」もまた、そういう運命であったのかもしれない。
彼らは、時勢に逆らった。
軍事学的に圧倒的に不利であった薩長に、伏見で幕府を潰走させるほどの力を持たせた時勢にである。

ここに一人の会津藩士がいる。
名を相沢某という。
会津藩の一藩士に過ぎぬ彼は、いかにして明治政府と戦い、歴史に名を埋没させていったのか。
彼は「無頼の壮士」の一人である。
雪国会津の勇敢なる壮士、
すなわち、「雪の壮士」である。

第一話「東進」

奥州街道を、むしろをかぶせた荷駄の一行が行く。
昨日から降り始めた雪は、勢いを増しながら、一行の視界をさえぎろうとする。
街道の脇から眺める民衆は、その一行を複雑な思いで見守っていた。
彼らはその一行が何をしようとしているかを薄々感づいている。
一部の者なら、むしろをかぶせた荷駄の中身がなにかも見当が付く。
それは、北関東、東北へと火の粉を降らせようとするものなのだ。
だが、彼らは内心応援している。
将軍のお膝元で働く民衆は、自然と将軍への敬愛を持っていった。
その将軍に心から奉公しようとする目の前の集団を応援するのは当然のことであった。、
「参ったな・・・この雪だとどうしても荷駄が進まない。」
笠と蓑で身体を覆った相沢が、先を行く同僚に言った。
「祐一郎、国許ではこの程度では参らぬぞ。」
そんな頼もしい返事が返ってくる。
「はいはい・・・何でもいいから進めばいいんでしょう? そのくらい簡単ですよ・・・」
「わかってるじゃないか。」
白い溜息をつきながら、彼はむしろの中のものに軽く触れてみた。
冷たい金属の感触がする。
(頼むぜ・・・俺の四斤山砲)
四斤山砲、彼が務める大砲方の自慢の一品である。
韮山の反射炉で作られた、比較的新しいものだ。
四斤とは4ポンドのことである。この重さは装填する弾の重さのことをさす。
歩兵に随伴できる大砲であり、既に鳥羽・伏見でも使用されているものである。
一行には他にも諸々の荷駄がある。
その中身の大半は、来るべき決戦に備えての装備の数々である。
だが、彼には・・・いや、江戸詰の者の全員には、一抹の不安があった。
手に入れるべき肝心の装備が、あまり手に入らなかったのだ。
やはりここで必要なものというものは、同時にどこかでも必要としているものなのだ。
(だが・・・正直、これじゃあ厳しいな)
重い荷駄を押しながら、彼は自分の職務を少しばかり考えていた。


・・・所変わって会津若松、ある町役人の狭い家で、一人役人が読書に耽っていた。
外は一面の雪、当然家の中だって寒いものだ。
彼女はそんな寒さを気にもとめず、一心不乱に書を読みふける。
文字にすれば、儒学者が手本とするような光景である。
「コムパクニー・・・? うぐぅ、何のことか分かんない・・・」
頭を可能な限りに働かせ、何とか読み進もうとするが、なかなか思うとおりには行かないようである。
まあ、カナ表記とはいえ、結局のところは異国語である。
理解の速さだって日本語には遠く及ばない。
追われ、逃げ帰ってから読みっぱなしだったあゆは目を一時離すことにした。
代わりに傍らの物を手に取る。
問題の品である。
布で綺麗に磨かれた銃身を持つ、美しいゲベール銃だ。
ゲベール銃、正確にはインハンテリー・ゲベール、蘭語で歩兵用小銃の意味である。
ゲベールにはこれ以外に騎兵用のカラベインという銃身を切りつめた物もある。
原型はつい石式(火打ち石を打ち付けて着火する)で、現在は雷管式に変わっているが、それでも既に世界の主流の銃ではない。
争乱の臭いが絶えない欧州で銃の新旧交代が盛んになっているこの時期、既に過去の銃と化している。
鳥羽・伏見ではこれを装備していた会津は、薩長に武器で圧倒されているのだが、
国許ではそんなことを知る由もない。
ましてや一介の町同心に過ぎないあゆには、ゲベール銃操作方法が「歩兵心得」に書かれている以上、
これが洋式兵学の現状と考えても致し方あるまい。
しかも、国許では火縄銃が主力である。ゲベール銃も斬新な姿に見えたことだろう。
「・・・あっ、そうだ!」
突然、あゆが叫んだ。
ぱたぱたと棚に駆け寄ると、その中を懸命にあさる。
苦労して数点布を見繕い、それを抱えて歩兵心得の前に戻る。
その表情は期待感に満ちあふれている。
湯飲みに一口付けると、歩兵心得を左手に取り、右手を懸命に動かし出した。
その手は器用に何かを・・・
「うぐぅ、難しい・・・。」
町役人とは苦労の絶えない仕事のようである。


「・・・歩兵心得?」
会津から遠く離れた大坂城、ここでも一人の男が同じ書物を手にしていた。
「ええ、幕府の陸軍所で刊行した歩兵操典ですよ。洋式戦術を知りたいのならお役に立つと思います。」
歳三の隣に座る松平太郎が喜々としながら説明した。
松平太郎、つい先日、幕府の陸軍歩兵頭になったばかりである。
旗本出身の男だが、他の惰弱な旗本とは毛色が異なり、外国人からもその勇壮な気風を評価されている。
歳三に好意的な会話をしているが、彼は、伏見で大奮戦した歳三に、少なからぬ尊敬の念を持っている。
「ははあ・・・なるほど。いくつかカナ表記になっているのは蘭語ですな。」
「ええ、そうです。」
「とすると・・・このソルダートは我々で言う平隊士ですかな。となれば、コムパクニーは組のことになりますな。」
「これは驚きました。蘭学の知識無しで理解なさるとは。」
太郎が感心する。
「なに、和文の中なら当て推量でも大体当たるものですよ。ですが・・・」
と、歳三はあゆと同じ「ゲベール銃操法」の項に目を留めた。
「これはゲベール銃の操作法ですな。」
「そうです。」
「こいつは伏見でも会津が持っていたが、薩長にはまるで歯が立たなかった。新式銃の操法が判る物はありませんか?」
「う〜ん、これは阿蘭陀で八年前に作られた物ですからね・・・手元には今のところこれしか。」
「まあ、組織のところは十分役に立ちそうです。」
歳三はそう言って、書に目を落とした。
そこに帰航の日取りを知らせに現在の最高責任者である若年寄並で陸軍奉行の浅野美作守が現れた。
歳三も太郎もそれを聞きにこの大広間に集まっているのだが、歳三は「歩兵心得」に目を落としたままだ。
ちなみに歳三が居る席は、この大広間でも上席の方である。
それもそのはず、新選組副長ともなれば、大御番組頭格である。
武州の百姓が、今や大御番組頭に上り詰め、幕府を救おうとしている。
洋式の喧嘩で、である。

大広間からは離れた一室、新選組の面々が談合していた。
男三人と女二人、いずれも戦塵にまみれた顔をしている。
「・・・しかし、まさか大将に逃げられるとはな。」
「ああ、俺も信じられんよ。あれだけ京では俺たちを叱咤激励してきた会津候までもが・・・な。」
男二人が溜息をつく。
二番隊組長の永倉新八と、三番隊組長の斉藤一である。
永倉は松前脱藩者で、神道無念流の使い手である。その腕は天才と呼ばれた沖田に勝るとも劣らない。
度胸も並はずれており、局長の近藤が隊で独断専横をやっているとして、抗議文を叩きつけたこともある。
まさしく死を恐れない御仁と言って良い。
斉藤は父が播州明石浪人で、同じく神道無念流の使い手である。
実直な性格で隊への忠誠も強いが、剣の腕も素晴らしく、
京都では三十人以上斬りながら、自分はかすり傷一つ負わなかったと言われる。
二人とも将軍慶喜を初めとする脱走組に、憤り以上に呆然としていた。
「これじゃあ、長州の時の二の舞じゃねえか。」
大きな体を揺らしながら、島田が吐き捨てる。
島田魁、永倉の下で二番隊伍長と、監察役を務めた男である。心形刀流の達人で、その腕はかなりのものだ。
永倉とは道場時代からの旧知の仲である。
ちなみに島田が言う「長州の時」とは、第二次長州征伐のことである。
あの時は長州の洋式部隊に幕軍は大苦戦したが、
その中でもひどい状況であった小倉口で指揮を務めていたのが老中小笠原壱岐守長行であった。
彼は徳川時代を通して最も優秀な学者だと言われ、事実幕政ではその有能さを発揮していた。
だが、ある日小倉城で評定を行おうと家臣が長行を呼びに行くと、もぬけの空であった。
家臣にも知らせず、恐怖に駆られた長行はさっさと船で江戸へ逃げ帰ってしまったのだ。
それが今回は将軍にすり替わっただけである。
それも、京都守護職の会津藩主とその弟で京都所司代の桑名藩主、老中板倉伊賀守などと一緒にである。
新選組や会津藩、桑名藩に言わせれば、二人の主君に裏切られたことになる。
慶喜は東照大権現家康公以来の名将軍と言われていたのにも関わらずである。
所詮、殿様というものは庶民には理解しがたい感覚を持っている者、そう感じずにはいられなかった。
「お陰で脱走者がまた出た。」
「またか?」
「これで・・・六人目か。」
人間落ち目になると、恥も外聞もなくなってしまうのだろうか?
「はえ〜、困りましたね。」
手に白布を巻いた女性が困惑する。
「倉田君、済まないが一度組のものを集めて激励してくれないか?」
永倉が女性に言った。
倉田佐祐理、仙台脱藩者で京都時代に新選組に入隊。監察役である。
隊中切っての知識人と呼ばれたが、他の尾形俊太郎や武田観柳斎のような知識を鼻にかける連中とは異なり
隊内での人気も高く、伊東甲子太郎が分派の誘いをかけてきたときも笑顔でそれを断った。
そんなこともあって、余計に物事を考える知識人嫌いの歳三も佐祐理にだけは信頼を置いていた。
「でも、佐祐理みたいな者が言っても、皆さん付いてきてくれませんよ〜。」
「いやいや、倉田君が一言言えば、脱走者も一瞬で考え直すさ。」
「あははーっ。皆さん、買いかぶりすぎですよーっ。」
布を巻いていない右手を振る。
「なに、激励と言っても、長州の間者が露見したとだけ言えばいいのさ。」
「ふぇ・・・間者ですか?」
「副長がそう言っておけとさ。脱走は士気に関わる。」
「それもそうですね。」
そう言った佐祐理の左後ろ、沈黙しながら正座している女性がもう一人いた。
「・・・・・・・・・汽笛。」
「えっ? 舞、どうしたの?」
「・・・汽笛が聞こえた。」
「そういえば・・・幕府の艦隊が入港しているな。」
「もう江戸へ帰るんでしょうか?」
「大将がいなくちゃ戦はできねえよ。」
「まあ、その辺は副長が評定で聞いてくるだろうよ。」
「・・・・・・・・・」
川澄舞、仙台浪人で出身地が同じ為か、佐祐理とは親友の仲である。
その剣は精妙で、我流ながらその腕は指南免状級である。
「新選組顛末記」(永倉新八著)によると、「其の剣精妙にして水鳥が水面を舞うが如し」とある。
天性によるものか、はたまた鍛錬によるものか。
・・・が、それほどの剣を持ちながらも彼女は一隊を預かってはいない。
つっけんどんなところが多々あり、隊の指揮ができない性格のようだ。
舞は汽笛の音を聞きながら、歳三が自分に言った「洋式でやってやる」という言葉を考えていた。
これからも戦いは続くだろう。その時、自分や佐祐理、他の隊士たちはどうなっているのだろうか。
そして、どこまで戦えばいいのだろうか。
「皆さん、出港の日取りが決まりましたよ。十二日の明け四つに冨士山丸に乗るそうです。」
平隊士が一人、報告に来た。
彼女たちの京都、近畿での生活が終わろうとしていた。
永遠に。

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