第十六話「春に散る花」

 慣れている道である。
 近藤・土方にとって、この道は幼い頃からずっと往復してきた道、甲州街道である。
 「近藤さん、日野村に寄ることになるな」
 出発前、歳三は自分の生まれ故郷を懐かしみながら、同郷の近藤と話した。
 馬上にあるその歳三の服装は、洋服に陣羽織、先頭を行く。
 「みんな元気にしてやがるだろうなあ」
 そう答えた近藤は対称的に大名姿である。おまけにその乗り物は大名駕籠、行軍ではなく参勤のような出で立ちである。
 歳三は「戦に行くのにその駕籠は」と嫌がったが、近藤の心境は違う。
 「歳、故郷に錦を飾るんだ。俺が大名になったって事を、村のみんなに見せてやらなくちゃならねえ」
 新選組局長の近藤勇、このような子供っぽいところもある。
 というより、彼はこの子供っぽさが全てであるような男、言い換えれば男臭い豪傑である。
 思えば、故郷に大名姿を見せてやることができただけで、彼の人生は満足すべきものだったに違いない。
 他の新選組幹部は、旗本が用いる裏金の陣笠に陣羽織、これもまた出世者の出で立ちである。
 平隊士は綿入りの筒袖に胴防具、下はズボンに草鞋履き、腰には大小を差し、ミニエー銃を担いでいる。
 他、浅草弾左衛門配下の者で二百名、幕府歩兵の服装で、これまたミニエー銃を担いでいる。
 この日は3月1日、
 同日、板垣退助率いる東山道軍は上諏訪、下諏訪に到達して陣を張っている。
 そして、この時奇怪な詮議が行われているのである。

 出発して三日目、日野村に到着。
 行軍としてはあまりにも遅く思われるが、近藤は「隊の結束のため」と言っている。
 無理もない。何しろ全軍のうち、新選組の者は数十名、残りは見ず知らずの被差別部落の人々である。
 近藤はこれを結束させんと、道中で遊女屋を貸しきりにして、宴会を開くという手を講じた。
 歳三は苦々しく思いつつも、必要事項だと割り切り、自分は独りで酒を飲んでいた。
 まあ、こういう人心収攬の手口にかけては、近藤の方が上である。
 この間、舞と佐祐理もさすがに居づらかったのだろう、近くの神社を宿に借りていた。
 さて、日野村。
 ここには近藤の養父にして天然理心流の先代宗主、近藤周斎がいる。
 そして新選組創設時からの支援者にして、歳三の義兄である佐藤彦五郎がいる。
 近藤は日野泊まりを主張したが、まだ日が高い。歳三は反対した。
 が、結局は近藤の主張するとおりとなった。
 村挙げての歓迎が全軍を出迎えたのである。
 ここで従軍を志願してきた独身次男以下の者四十名を選び、「春日隊」と称して隊に加えることとなった。
 近藤が故郷で浮かれていたのは否めない。そして敵も動いている。
 この日、東山道軍は甲府へと進軍を開始、珍しい、春の雪の中での行軍だった。
 敵の予想外に素早い前進を斥候から聞かされた近藤は、驚いて軍をすぐに発進。
 が、雪に阻まれ、行軍は容易ではなかった…

 この代償は実に高く付いた。
 その夜、東山道軍の先鋒は夜行軍を行い、明け方には甲府城に迫った。
 驚いたのは甲府勤番の佐藤駿河守である。
 味方よりも先に敵が現れ、開城を迫ってきたのだから無理もない。
 「新選組が来るまで、何とか時間を稼げ」
 甲府城側はそう決定し、「事務処理に手間がかかるため、しばしお待ち願いたい」と、使者に言ったのだが…


 ………東山道軍本隊
 さて、前置きはここまでとして本編へと入るが、この日3月4日、板垣の元に斥候が帰ってきた。
 「何? おおくぼやまと?」
 斥候からの報告を聞いた板垣は、開口一番そう聞き返した。
 「大久保大和…谷殿、知っているか?」
 「いや、聞いたこともない。誰か、すぐに『武鑑』で調べろ」
 ちなみに、「武鑑」とは、江戸期の武士必携の書と言ってよいものである。
 全ての大名・旗本の家紋、領地、石高、官位、江戸城内での格(参勤時に詰める部屋で表される)、その他諸々の事項が書いてあり、用途は広い。
 例えば、大名行列がかち合ったとき、先頭にいる者が相手側の家紋を即座に「武鑑」で調べ、殿様に報告する。
 相手が格上の場合、駕籠を降りて礼をしなければならない。
 相手が格下でも、駕籠を開けて挨拶をするのが礼儀だったと言われる。
 他、参勤で田舎から出てきた武士が、江戸城の門前で大名行列を見物しながら、「あれは○○家の行列」だと調べるのにも用いられた。
 登城する大名行列の見物は、一種の娯楽でもあったのである。
 …さて、その「武鑑」で調べてみたが、大久保大和などという名は出てこない。
 「武鑑にも出てこない旗本か。おそらくこの風雲に乗じて取り立てられた出世者だろう」
 「ならば、なおのこと手強いやもしれませぬな」
 居並ぶ土佐の諸将たちは、泰平の世に慣れきった旗本などより、混乱の中から這い出てきた連中の方がよっぽど恐ろしいと思っており、事実そうである。
 「して、その大久保大和とやらはいつ参るのだ」
 「はっ、甲府鎮撫と村々に触れ回りながら急行しつつあり、今夜中には甲府に辿り着くものかと」
 「板垣様、どうなさいましょう?」
 「うむ、直ちに先鋒部隊に城を接収するよう命じろ。城側の引き延ばし工作は無視しろ」
 「はっ、直ちに!」
 この瞬間、甲陽鎮撫隊の思惑は外れたと言ってよい。
 お察しの通り、大久保大和守は近藤勇の変名である。ちなみに土方歳三の変名は内藤隼人、もちろん事情がある。
 新選組は尊皇攘夷浪士たち、とりわけ土佐人が特に憎んでいるからである。
 というのも、新選組が京都で斬った浪士は、土佐が最も多かった。
 中でも、坂本竜馬の暗殺を新選組の仕業と思っているのが大きい。
 こう考えられた背景には複雑な事情があるが、現在では極めて疑わしいと言わねばなるまい。
 実は坂本竜馬の暗殺を目論んでいた人間は、大勢いたのである。
 奇妙なことに、その候補の中に薩摩の中村半次郎という名が入っているのが興味深い。
 大政奉還の立役者である坂本は、倒幕を考える薩摩・長州にはこの上なく邪魔な存在だったのだ。
 …だが、現在言われている候補の最右翼は、京都見廻組の副長、今井信郎である。
 そしてその背後には薩摩の存在があったという噂も絶えない。
 その理由は、維新後にこの男が坂本竜馬暗殺は自分がやったと言い出したのだ。
 それも、その時の様子を克明に語っているのである。
 今井が明治期に西郷隆盛と親密だったことも、この疑いに拍車をかけている。
 さらにこの証言は、元新選組で、維新後にはキリスト教伝道者となった結城無二斎の話とも一致するのである。
 このため最有力候補なのだが、当時の土佐人は下手人は新選組と信じて疑っていなかった。
 とりわけ谷守部(干城)は強硬で、新選組を皆殺しにしようと息巻いている。
 近藤・土方からすれば、とばっちりだと言いたかっただろう。

 …さて、甲陽鎮撫隊はその日のうちに笹子峠を越して、駒飼という地に着陣。
 ところが、思わぬ知らせが入る。
 「官軍、甲府城を占領」
 この報せに隊は動揺した。次々と脱走者が現れ、兵の数も士気も低下する一方である。
 「会津から援軍が来ると皆に言え」
 近藤は虚報で兵を繋ぎ止めようとしたが、効果が薄い。
 見かねた歳三は、馬の用意をさせ、近藤に提案した。
 「近藤さん、俺はこれから神奈川へ行って来る」
 「何? これから戦だって時に、何を言ってやがる」
 「このままじゃ、戦にならねえよ。幸い神奈川には幕府歩兵の部隊があるそうだ。これに援軍を求めてくる」
 「なるほど、そいつは名案だ。すぐに頼む」
 神奈川にある幕府歩兵というのは、「菜葉隊」と呼ばれるもので、詳細はよく判っていない。
 千六百名ほどの兵力だったようだが、庶民上がりの者で組織され、その青い歩兵服から「菜葉隊」の呼称があるという。
 隊長、構成員、戦果、経過、全てが謎の部隊である。
 さらに歳三、残っている新選組幹部の中で、信頼できる者を捜した。
 「倉田君」
 「はい、何でしょう?」
 新参の兵たちの前で踏みとどまるように呼びかけていた佐祐理さんに、歳三は声を掛けた。
 「いいか、俺はこれから神奈川へ援軍を要請してくる。そこで、倉田君に任せたいことがある」
 「なんでも言って下さい」
 「俺の直接指揮下にある兵の指揮を、倉田君に任せることにした」
 「ふぇ…? 佐祐理に任せちゃうんですか?」
 「そうだ。まだ隊を預かっていない幹部の中で、信用できそうなのは倉田君だけよ」
 「あははーっ、佐祐理なんかよりも指揮ができる人は一杯居ますよーっ」
 「いや、ここは倉田君しかいねえ。川澄君と野村君(野村利三郎)を付けるから、頼んだぜ」
 「副長がそこまでおっしゃるなら…はいっ、頑張りますっ!」
 「よし、訓練通りにしてくれればいい。それから川澄君の意見があれば、採ってみるのもいいだろう」
 歳三は、舞が持つ戦場での知恵というものを見抜いていた。
 喧嘩師として、何か通じるものを感じたのだろう。
 「じゃあな、俺は急がなくちゃならねえ」
 佐祐理さんに指揮権を委託すると、歳三は馬を駆け、元来た甲州街道を戻っていった…

 実はこの3月4日、理不尽な詮議を受けたある男たちが処刑されている。
 代表の男の名は相楽総三、赤報隊一番隊隊長である。
 罪状は、「官軍の名を勝手に騙り、庶民から米穀を強奪した」というものである。
 だが、そのような事実は確認されていない。
 彼らが村に掲げた「年貢半減」が新政府の事情に合わなくなったため、それを中止、呼び戻したわけだが、自分たちの行動が正義と信じる相楽は、それに応じなかった。そのため、偽官軍とされた。
 相楽からすれば、自分が建白して認証されている「年貢半減令」を、今になって中止せよとは、「御一新」の大義名分に傷を付けるものだと考えて当然だろう。おまけに公卿(岩倉具定、具視の息子)までひっかついでいるのだから、偽も糞もあったものではない。
 ちなみに、二番隊と三番隊は命令に応じて引き返したらしい。
 ただ相楽だけが処刑された。それも、切腹ではなく斬首という形で。
 彼もまた、「壮士」。この物語の前書きで述べた、「無頼」の志士である。
 この事件は庶民たちの先行きに暗い陰を落としたが、実はこれが「壮士」の悲劇として初めてであるわけではない。
 このことは本編とは関わりないが、作品のテーマ上、触れねばなるまい。
 鳥羽・伏見の戦いが終わり、将軍慶喜が大坂を脱走した翌日、すなわちこの物語が始まった1月7日、既に混乱の兆しはあった。
 御所に「外国事務総裁」という官職が誕生したのである。
 先日まで、「幕府は洋夷を迎え入れた。攘夷のために倒幕せねばならない」と叫んでいた新政府の、ふてぶてしいまでの変わり身であった。
 本気で尊皇攘夷を考えていた者達は絶望し、憤慨した。
 この陰謀は公卿の岩倉具視が中心となって実行し、筋書きは薩長によって書かれたものである。
 攘夷家たちの彼らに対する憤激はすさまじく、岩倉が最も信頼していた男で国学に長じていた玉松操(みさお)という老人は、このことを知るや、岩倉にあらん限りの罵声を浴びせ、隠居してしまった。
 彼は「王政復古の大号令」を執筆し、官軍の錦旗も彼が図案を考えた。歴史の教科書に載るような部分に、重く携わった人物である。
 さすがの岩倉も申し訳なく思ったのか、玉松の息子に男爵の位を贈っている。功臣とはいえ、その息子に爵位を贈るのは異例のことだ。
 攘夷家には公卿や国学者が多いが、彼らは「攘夷は倒幕のための口実であったか」と叫び、政府の要人たちに詰め寄った。
 しかし、要人たちとて説明できるはずがない。今日の我々には、薩長がもとより攘夷など考えていなかったのは明白だが、表面上はおくびにも出していない。
 どう繕っても、理屈では説明できないのだ。ただ「時勢だ」としか、彼らには言えない。
 それだけに攘夷家はその怒りを収めることができない。その怒りは充満を続けるしかないのだ。
 そしてまた、それでも純朴に新政府を信じ続けたものもいる。
 相楽総三も国学と兵学を学んでいたが、彼もその一人である。
 攘夷を信じ、「攘夷の先駆け」と称して中山道を進み、結局裏切られて斬首された。
 彼ら純朴な攘夷家は、既に死ぬ運命が決まっていたと言ってよい。
 その前兆が、1月11日に起こった。神戸で行軍中の岡山藩兵が、行列に割り込んできたフランス水兵を制止しようとして発砲。近くにある諸外国の領事館からも警備兵が駆けつけ、一時騒然となった。
 続いて、2月15日、ついに死者が出た。
 堺にフランス軍艦から士官・水兵が大勢上陸、市中に侵入し、乱暴狼藉を働いた。
 これに対し、攘夷を信じる土佐藩兵が出動、発砲し、フランス兵に死者三名、負傷者七名が出た。
 フランス側は激怒し、早速「外国事務方」に恫喝を仕掛けてきた。
 これに対する新政府は、なし崩し外交を行っていた幕府以上の腰抜けぶりを見せ、平謝りに謝って土佐藩士二十名に切腹を命じた。「妙国寺事件」と呼ばれる事件である。
 この処分を聞いて絶望した国学者、三枝蓊(さえぐさしげる)が2月28日、同志と二人で英国公使パークスの行列を襲撃、大勢のイギリス騎兵を斬ったが、未遂に終わった。
 共犯者は、土佐藩士であるはずの後藤象二郎(パークスに同行していた)にその場で斬られ、三枝は捕縛され、斬首。
 さらに協力者として、数名が隠岐島送りとなった。
 三枝は尊皇攘夷を唱えながら、最後は国賊となって死んだ。
 彼ら「壮士」の命を捨てての抗議が終わるのは、熊本で起こった「神風連の乱」の時である。
 果たして、彼らは英雄なのか、それとも時勢を読めなかった愚人なのか。はたまた、散ることでその美しさを新政府の要人たちに見せつけたのか。
 だが、少なくとも維新の春に散っていった彼らの名誉は、まだ回復されていない。


 さて3月5日、近藤とて虚報を撒いていただけではない。
 兵力不足を補うために、甲州で兵士を現地徴募した。
 もともと、甲府城に入城したら現地徴募して千人以上の軍勢を形成する予定であった。
 だが、甲府城を奪われ、「新政府有利」の状況である以上、なかなか人数が集まらない。
 それでも甲州百万石に野心をたぎらせた若者が二十人ほど集まってきた。
 近藤はその一人に甲州徴募組の指揮を任せ、勝沼という宿場に関所を作らせた。
 装備はミニエー銃、幕府からは五百挺ももらっており、数には余裕がある。
 そして、近藤自身は本営を前進させることにし、柏尾山に陣を構えた。
 兵が乏しいのに前進したわけは、この山が天然の要害だからである。甲府盆地を見下ろす形となり、地形的には実に有利となる。
 さらに近藤は野戦陣地の構築を始めた。
 街道の橋を落とし、砲二門を丘陵に据え、柵を植える。だが、重大な問題があることに、まだ彼は気づいていない…

 一方の板垣は次々と情報を収集していたが、一向に大久保大和の正体は分からない。
 その人数も、数百人から千を越えるというものまで、まちまちである。
 「とにかく攻めてみないことにはな」
 新選組への憎悪をたぎらせる谷守部がそう言った。
 もし、敵が新選組局長近藤勇だと知ったら、一にも二にも、攻撃、皆殺しを主張していたに違いない。
 彼は西南戦争の時に熊本籠城戦の指揮を執った男だが、やはり軍の指揮には並々ならない才能がある。
 前線将校としてなら適任だろう。
 「こちらには三千の兵がある。状況から見て、こちらが不利になることはあるまい」
 「しかし、二万の援軍が向かっているという情報もあるぞ」
 「ならば尚更、早期攻撃を仕掛けようぞ。今なら我らが、気構えからしても、有利であろう」
 「……」
 しばらく板垣は考えた。
 この男もまた、一軍の将としては優秀な男である。
 「よし、直ちに攻撃準備をせよ」
 「ははっ!」
 「それで…指揮はどなた様に執らせるので?」
 「我が藩選りすぐりの指揮官どもをぶつけてやろう。大久保大和とやらに、目にもの見せてくれるわ」
 そうして板垣は、指揮官五人を選出した。
 谷守部、片岡健吉、小笠原謙吉、長谷重喜、北村長兵衛、
 いずれも板垣が信頼する、組織化された軍人である。
 「板垣様、鳥取の河田様が…」
 選んだところで、側近の男がおずおずと口を開いた。
 「どうした、河田殿が何か言ってきおったか」
 「はぁ…それが、『我が鳥取に是非とも名誉の機会を』と、おっしゃられまして…」
 鳥取藩は、鳥羽・伏見まで沈黙していた藩である。
 その鳥取の志士である河田佐久馬は、その不活発さを自分の力不足によるものだと思い、ここで功を上げようと考えたのだ。
 だが…
 「はっはっは、何を言っておる。鳥取の旧式装備などで戦っては、屍の数を増やすだけだぞ」
 組織化され、装備も新式になっている土佐藩兵に比べ、鳥取藩兵は火縄銃にゲベール銃、時代遅れの観は否めない。
 板垣は一笑に付した。
 「それに………」
 と、言いかけて、板垣は口をつぐむ。
 「それに…どうなさった?」
 谷が怪訝そうな顔でその先を促す。
 「いや、私はあの河田という男をそれほどの者とは思っていないのでな…」
 いいにくそうに、板垣は言った。
 だが、それに谷が同調する。
 「あの手の男は使いにくかろう。ああいうのは、自尊心さえ満足させてやれば、どうにでもなるものよ」
 「ふふ…まあ、別にどうでもいいことだがな。まあよい、後詰め役を命じて、お茶を濁しておけ」
 「ははっ!」
 この板垣、後の自由民権運動家のころの板垣とは多少異なり、結構冷徹なことをやっている。
 例えば、甲府城を接収する折に、軍勢を先に入れずに、関所で留め置いた旅人を先に城下へ入れた。
 城下に地雷や爆薬が仕掛けてあるのではと疑ってのことと言われる。
 幸い、何事もなかったのだが…
 いやはや、戦場とは時に非人道的なことが平気で行われるものである。まあ、必要事項と割り切るしかあるまい。

 …さて、こちらは柏尾山、野戦陣地を固め、歳三が連れてくる予定の援軍を待っている。
 十倍近い敵と対峙するのは非常な恐怖だったが、忠義の士を自負する新選組は撤退する気などさらさらなかった。
 「………」
 その中、舞が甲府盆地を見下ろしている。
 関所を構築している甲州徴募組が宿場にいる。これが前哨兵である。
 舞が立っているのは山の西側の前線、佐祐理さんが委任された部隊三十人と、島田魁指揮下の部隊が中心となって守備している。
 総勢百名足らず。果たして守りきれるかどうか。
 中央には近藤他、古参新選組幹部たちがいる。だが、歳三と違い、近藤は洋式兵学になれておらず、鳥羽・伏見の時も大坂にいたので参加していない。つまり近代戦としては初体験なのである。
 しかもまずいことに、近藤の包帯は取れていない。刀を振るうにも片手となろう。
 だが、二尺以上ある日本刀を片手で振り回すなど、相当な馬鹿力が必要となる。やはり小銃が頼りとなろう。
 「舞、何してるの?」
 後ろで佐祐理さんの声がした。
 「………物見」
 舞は、穏やかな姿を見せている甲府盆地に鋭い視線を注ぎながら、警戒を緩めることなく言った。
 「みんな、一生懸命陣地を作ってくれているから、きっと数日は持ちこたえられると思うよ」
 そう言う佐祐理さんの手は、柵を植えたのだろう、泥だらけである。
 舞の手はと言えば、いつの間にやったのだろう、これもまた土に汚れている。
 「………今日、来る」
 「え? 今日?」
 唐突に舞が言った。
 「……今日中に、攻めてくる。早く備えないと…」
 「本当に?」
 こくり、と舞が頷いた。
 おそらく、構築作業中に何か不安に襲われたのだろう、作業の途中で物見に来たに違いない。
 「はぇ〜、困ったね。副長が戻ってくるまで持ちこたえられるのかな…」
 「……局長が生きているなら、大丈夫」
 確かに近藤と歳三が生きている限り、新選組の核は潰れない。
 歳三が援軍さえ連れてくれば、いつだって反撃できるのだ。
 「とにかく局長に報せないと…!」
 と、佐祐理さんが言ったときだった。
 ドドォォーン!
 爆音がこだました。
 はっ、と振り返った佐祐理さんの目に、白煙が漂う勝沼の宿場が見えた。
 ついで、何かが地面にぶつかる音。明らかに砲撃であった。
 「敵です! 皆さん、戦闘の準備を!」
 「………」
 舞は黙って銃を担ぎ、剣を抜いた。
 甲州戦争、そして甲州戦争唯一の本格的合戦、勝沼の戦いの始まりである。

 砲撃をしたのは北村率いる砲兵隊、砲二門を先頭に、わずか数名で前進したらしい。
 砲撃をすると、関所内の敵兵は全て逃げ失せていた。その数、わずか二十名ほど。
 「前哨兵はこれだけか」
 指揮を取る谷守部が、呆気にとられたように呟いた。
 四斤山砲が一回火を噴いただけで、関所はもぬけの空となってしまったのだから無理もない。
 「これならば、本隊の数とてたかがしれよう。全軍前進せよ!」
 一方、近藤の本陣も手を打った。
 民家に火を放ち、煙幕の役割と、敵が銃隊を潜ませることができないようにするのだ。
 だが、結局はこの作戦は裏目に出た。
 この煙が陣地の位置を敵に教えることになったのである。
 谷がこれを見逃すはずもない。
 「敵は柏尾山だ! 叩きつぶせえっ!」
 五人の指揮官は三方向から攻め上ることとなった。
 谷と北村は街道から、小笠原と片山は正面、長谷は東から攻め上る。
 近代的に組織化されているから、その動きはすこぶる軽快だ。全軍、寸分の乱れもなく、山の周囲に取り付いていく。
 その数、約二千。
 ………
 「来やがったか…全員、柵を固めろ! 一兵たりとも通すんじゃねえぞ!」
 近藤の怒号が飛ぶ。だが、その近藤にも焦りは隠せない。そもそも怒濤の勢いで押し寄せる大軍を通さないでいられる術など、兵法上存在しない。
 (早く戻ってきてくれ…歳)
 思わず後ろを見るが、昨日の夜発った歳三がこんなに早く戻ってこられるはずがない。
 再び前を向くと、腰の「虎鉄」を抜いた。
 江戸の浪士徴募の時、高い金を出して買い求めたものだ。再びこの関東の地で振るわれることとなろうとは、「虎鉄」自身が思っていなかったことだろう。
 「うおりゃ、追い返せえぇ!」
 刀を使い慣れぬ左手で掲げ、再び吠えた。
 ………
 「皆さん、横に列を作って下さい。人数が少ないですから、無闇な斬り込みは避けて下さいね」
 佐祐理さんが、配下の兵たちに呼びかける。
 だが、大半は本職は兵士などではないものたちであり、既に震えている。訓練も未熟で、どこまで当てになるか分からない。
 「我々が声をあげて前線に立てば、おのずと付いてきますよ、大丈夫です」
 そう言ったのは、平隊士の野村利三郎、江戸へ帰る船中、沖田の世話をしていた男である。
 今は歳三の命で佐祐理さんの部隊に付けられている。
 「銃の射程は長いですから、恐れずに撃ち続けて下さい。いいですね?」
 「おう!」
 やはり威勢のいいのはごく一部。だが、彼らの後ろには白刃を手にした舞がいる。
 舞は無言だったが、その目は「逃げたら斬る」と語っているように兵たちには思えた。逃亡を阻むには絶好である。
 …といっても、当の本人は立場上たまたまその位置にいたというだけに過ぎないのだろうが…
 ある意味、舞はこういうところでも損をしているのかもしれない。
 「よう、佐祐理さん。準備はいいかい?」
 そこに現れたのは佐祐理さんと同じ監察役も務めた島田魁、共同戦線を張ることとなる部隊の指揮をしている。
 「はい、こちらは大丈夫です。何処から来ても狙い撃てます」
 「よし、おそらく敵さんは山を包囲してくるにちげえねえ。援軍は期待できねえぞ」
 「覚悟してます」
 二人とも伏見ですさまじい戦闘を経験している。敵の実力というものを熟知しているはずだ。
 「なに、こちらにも今度は立派な大砲に小銃がある。遅れはとらねえさ」
 「あははーっ、今回は斬り込みする必要がないといいですねーっ」
 「この程度の人数じゃ、必要でもできねえだろうよ。敵を近づけねえようにするこった」
 島田がそう言ったとき、再び砲声がした。
 「どこだっ!」
 「山の正面です! 赤の連中が攻め上ってきます!」
 「赤…やはり土佐か。全員、胸壁から逃げるんじゃねえぞ!」
 叫びながら、島田は自分の隊へと戻っていった。
 「局長…大丈夫かな」
 「大丈夫、あの程度じゃ死なない」
 舞が断言する。
 確かに砲声こそしたが、本格的な銃撃の音はしてこない。まだ先鋒が侵入してきただけなのだろう。
 問題は次にどこが来るかだ。
 ドドドォォーーン!!!
 突如、間近で爆音がした。
 「!!!」
 二人は咄嗟にふもとを見る。二人の後方で、砲弾が斜面に激突した。
 「て、敵だあぁぁぁ!!!」
 「うぉぉぉぉぉぉ!!!」
 双方の喚声が入り乱れ、敵の歩兵が攻め上ってくるのが見えた。その数、おおよそ五十。
 「敵の先鋒です! 何とか短時間で押し戻して下さい!」
 言い終わるや否や、
 ズダダダァーーー!!!
 ミニエー銃の射撃音がこだました。
 「くっ!」
 土佐兵の組織化された火力網は、驚くほど素早い動きで射撃し、突撃してくる。
 射撃法には各藩に特徴があり、土佐兵は射撃するとすぐに突撃を仕掛けてくるのだ。
 対して、こちらの歩兵は一発撃てば退き、もう一発撃てば退くという有様で、じりじりと戦線は後退している。
 「…行ってくる」
 「えっ、ちょっと舞…!」
 佐祐理さんが止めるより先に、舞は前線へと駆けていた。
 「川澄さん!」
 もう一人、走りながら呼び止めるものがあった。
 「……市村君」
 歳三の小姓で市村鉄之助である。もちろん佐祐理さんの指揮下に入れられている。
 「私もお手伝いします!」
 「……わかった」
 舞は頷いた。目的は、後退する兵を止めることだ。
 「退かないで!」
 舞が叫んだ。だが、その声も敵の砲撃にかき消される。
 「くそっ、こっちの砲は何をやっているんだ!」
 市村が、恨めしそうに丘陵を見上げる。そこにあるはずの砲二門は、まったく活動をしていないようだった。
 「どうなっている…」
 だが、考えても詮無きことだ。二人は前線に近寄ると、再び怒号をあげて兵をくい止め始めた。
 ……ちなみに、この時味方の砲は、確かに射撃をしていた。
 だが、困ったことに砲撃手が未熟で、口火を切らずに撃たれた弾は、爆発せずにただ斜面に沈むばかりだった。
 近藤のみならず、歳三にとっても大誤算だ。あまりにも、兵士が未熟すぎたのである。
 「敵の砲は役にたたんようだ。構わず突っ込めぇ!」
 谷守部が叫ぶと、本隊がすさまじい勢いでのぼり始めた。
 既に前線の後退は激しく、柵も用をなしていなかった。
 「まずい…どうしましょう?」
 「やるしかない…」
 「やるしかないって…何をです?」
 「利三郎たち新選組の顔をみんな集めて」
 「え…は、はいっ!」
 舞に言われ、鉄之助は直ちに野村利三郎たちを捜しに行った。
 残った舞、背中のミニエー銃を手にすると、この戦闘で初めて構えた。
 たちまちその銃口が火を噴き、迫る土佐兵一人の右肩から血を吹かせた。
 だが、所詮一人。舞は銃を降ろすと、目の前にいた兵士二人の肩を叩いた。
 「あなたたち二人、ついてきて」
 「へ…あっしらが?」
 兵士二人が振り向いた。
 「そう」
 「川澄さん! お連れいたしました!」
 そこに鉄之助が駆けてくる。その後ろには新選組の面々がいる。もちろん槍を手にした佐祐理さんも。
 だが、その数は十にも満たない。
 「舞、これだけでできるの?」
 こくり
 「…敵の前進を止めるから」
 それだけを言うと、舞は一気に斜面を降りだした。
 「あ、舞! じゃあ、後は任せます」
 佐祐理さんは弾左衛門配下の男にそう言うと、剣士たちを率いて舞に続いた。

 「谷さん、こりゃ、落ちるのは時間の問題ですねえ」
 本隊を突撃させた谷は、後方から柏尾山を眺めていた。既に山のあちこちから煙が立ち上り、その姿はまさに落城寸前の城である。
 「しかし、甲州の押さえがこの程度とは…幕府はもう駄目ですな」
 「とっくにそうだ」
 と、側近と語らう谷の目に、妙なものが飛び込んできた。
 「…あれは、鳥取兵?」
 鳥取藩池田家の家紋が、林をはさんで、一瞬見えた。
 「そんなはずはないでしょう。鳥取藩は勝沼の宿場を制圧している予定ですから」
 「じゃあ、なんだあれは。………まさか!」
 みるみる谷の顔が紅潮していく。もともと気の短い質でもあり、一度怒ればすさまじい。
 直ちに伝令役を呼び、怒鳴りつけた。
 「河田の馬鹿にところに馬を出せ! 宿場に戻れと伝えろ!」
 「……? た、谷さん!」
 「なんだ! こんなときにどうし…?」
 と、怒りに燃えていた谷の目が固まった。
 味方の先頭、先ほどまですさまじい前進をしていた自軍が、何やら乱れている。
 「ちっ…北村は何をやっている!」
 「い、一体何がどうしたんでしょう…」

 その乱れている現場、谷の想像を絶する状況が発生していた。
 乱れの原因は、林からやって来た。
 「……これから敵の横合いに斬り込む」
 「ですが、これだけの数で…」
 「今なら、大丈夫」
 「………」
 舞の声には自信と思われるものがあるが、さすがに野村や鉄之助の顔にも不安がある。それは佐祐理さんとて同じである。
 だが、
 「舞、やろう。やらなきゃ、このまま負けちゃう」
 佐祐理さんは、手にした槍を強く握った。
 「この二人が発砲すると同時に、みんなで一斉に斬り込む」
 そう言って、舞は二人の兵士の肩を叩いた。
 「発砲!」
 舞は叫ぶと、手にした二尺六寸の刀を振りかざし、林から飛び出した。
 同時に射撃音。
 その時、突如横から現れた敵に、土佐兵の一人がギョッとした目で振り返った。
 だが、その兵士も飛んできた銃弾に眉間を射抜かれ、倒れる。
 舞は死体を飛び越え、さらにその先の兵士を横から斬りつけた。
 「うわっ! て、敵が!」
 先鋒の隊長が、狼狽してうわずった声をあげる。
 その時には、舞の刀は既に3人の土佐兵を斬り倒していた。
 「こなくそぉ!」
 土佐兵数名が刀を抜いて舞に打ちかかる。
 「えいっ!」
 そこに、佐祐理さんの長槍が入る。攻撃を乱した土佐兵は、一人、また一人と刃にかかっていく。
 「ええいっ! 何をしておるか! さっさと討ち取れ!」
 先鋒の隊長が白刃を振りかざすも、効果はなかった。
 「川澄さんに続けえっ!」
 野村利三郎たちが、死を決した覚悟で次々と飛び込んでくる。
 彼らが死地に踏み込むたびに、血煙が上がった。
 「佐祐理、砲兵をやろう」
 「わかった!」
 ………
 一方、斬り込みを受けながらも、北村長兵衛が直接指揮する砲兵は逃げもせずに砲撃を続けていた。
 「隊長、敵が迫っていますが…」
 「気にするな。撃ち続けろ」
 北村の砲撃は甚大な効果を上げており、既に守備側の野戦陣地はずたずたになっていた。
 それでも島田魁を中心とする守備隊はなかなか崩れない。
 新選組の怒号が、必死に兵を繋ぎ止めているのだ。
 「隊長…喚声が迫ってきて…」
 「大丈夫だ。じきに下がる」
 ………
 北村が安心している一方、佐祐理さんたち斬り込み隊は先鋒部隊を突破しようとしていた。
 「もう少し…もう少しで敵の砲兵に…」
 「おのれえっ!」
 腹を決めた先鋒隊長が、斬りつけてきた。
 「…遅いっ!」
 舞によってその剣は払われ、同時に胴が佐祐理さんの槍で貫かれた。
 そして、払った舞の剣がそのまま振り下ろされ、とどめの一撃となる。
 「くっ…こ、こんなところで…」
 隊長の屍は、どさりと地に伏せた。
 そこまではよかったのだが…
 「く、倉田さん! 敵が!」
 野村が、返り血を浴びながら叫んだ。
 増えている。
 敵が後方からぞくぞくと迫ってきている。このままでは敵中孤立することにもなりかねないことになってきた。
 「舞、引こう!」
 「………もう少しで…」
 舞は砲兵を斬ることにこだわりを見せたが、戦況を見るや、すぐに振り返って引き上げ始めた。
 敵とて甘くない。舞たちが下がり始めたのを見て、土佐兵たちはすぐさま反撃に移ろうとしてきた。
 しかしそこに、さらに意外なことが起きた。
 「ぬおりゃあっ! 者ども突っ込めえっ!」
 それまで守り一方だった守備隊が、突然突撃を仕掛けてきたのだ。
 島田魁が、佐祐理さんたちの白兵突撃を見て、援護をしてきたのである。
 「舞! 島田さんたちが援護してくれてるうちに!」
 「………」
 佐祐理さんたちは、鈍った敵の反撃をかいくぐり、何とか林に逃げ込んだ。
 一方、島田隊の突撃を前に、北村はようやく砲兵を後退し始めた。
 ………
 「はぁ…はぁ…」
 斬り込み隊一同、息も吐かせぬ剣闘の連続に、へとへとになっていた。
 「みんな…揃ってる?」
 佐祐理さんは、尋ねてはいるが、本当に揃っているなどとは考えているはずもない。
 「三名ほど…」
 野村が報告する。
 「……わかりました」
 佐祐理さんも心得顔で頷いた。
 「………」
 舞は、黙って戦況を見つめている。
 一度突撃を見せた島田隊も、増えてきた敵の前には閉口した。
 もはや、じきに潰走するのは目に見えている。
 「舞、ここも危ないから、早く本隊に戻ろうよ」
 「………」
 こくり
 …だが、頷いたときだった。
 ズダダダダァーン!!!
 思わぬ方向から銃声が轟いたのである。
 「! 背後に敵が…!」
 「倉田さん、川澄さん、早く逃げましょう!」
 一同、頷いて駆けだした。

 「ようし、そのまま進めえっ!」
 鳥取藩兵の指揮官、河田佐久馬は上機嫌だった。
 板垣からの命令に背き、兵を密かに進めていると、突然土佐の先鋒が乱れてくれたからである。
 (汚名を雪ぐ好機…!)
 奇襲隊に狙いを定め、鳥取藩兵は前進した。
 佐祐理さんたちの奇襲隊など、十にも満たない数であるから、数百の鳥取勢にかなうはずがない。
 「わずかな敵を潰すだけで、味方の窮地を救う、と。美味しい話だ」
 河田はニヤリとする。
 実際には、既に戦況は持ち直しているのだから、大した手柄ではない。
 だが、幸か不幸か、この時の河田がそれを知るはずもない。何しろ軍令違反まで行っているのだ。
 …と、
 「うわあっ!」
 先頭の方で叫び声が上がった。
 「どうした!」
 「敵が発砲してきました!」
 「発砲!? 大した数でもないくせに狼狽えるな!」
 「そ、それが…」

 鳥取藩勢の先頭、鳥取兵は皆、地に伏せていた。
 彼らはひたすらに、頭の上を通り過ぎる銃弾から逃げようとしている。
 「撃て、撃てえぇ!」
 必死に反撃を試みるが、敵が倒れる様子もない。
 鳥取藩の隊長は歯ぎしりしていたが、うかうかしていると戦闘が終了してしまう。
 「かくなる上は…」
 ………
 「倉田さん、大丈夫ですか?」
 「はい、大丈夫ですよ」
 佐祐理さんから指揮を委任されていた男が、剣士たちの労をねぎらっていた。
 「でも、助かりました。もう、ダメかと思いましたよーっ」
 「………」
 安堵の溜息をついている剣士の中で、舞だけは後ろに展開する銃隊を見ていた。
 佐祐理さん指揮下の銃隊十数名が、ミニエー銃で鳥取藩兵を押しとどめている。
 ここぞと押し出してきた味方が、佐祐理さんたちの危機を救ったわけだ。
 「しかし横から土佐の攻撃を受けては堪りません。頃合いを見て本隊と合流しないと…」
 「そうですね」
 既に敗戦は疑いの余地もない。後はどうやって安全に引き返すかだ。まあ、無理な相談だが…
 「とりあえず、鳥取兵は追い返せそうです」
 確かに、鳥取兵は進撃を止められている。
 彼らの装備である火縄銃とゲベール銃では、銃弾がここまで届かない。
 火縄銃の射程は百数十メートル、ゲベール銃でも四百メートルと言われるのに対し、ミニエー銃の射程は千メートル近くあると言われる。
 距離を保って射撃戦をやる限り、優位に立つことができる。
 「…舞? 怪我でもしているの?」
 さっきから物憂そうな(いつもそうだが)顔をしている舞に、佐祐理さんが心配そうな声を掛ける。
 「怪我はしてない」
 「じゃあ……」
 「島田さんたちが崩れている」
 「えっ!?」
 振り返るが、ここからでは島田隊の様子ははっきりと見えない。
 だが、もしそうだとしたらこれ以上の戦闘は危険である。
 「皆さん! 慎重に本隊と合流します!」
 「く、倉田さん! 敵が!」
 鉄之助の声に佐祐理さんが見ると、鳥取兵が白刃を振りつつ突進してくるのが見えた。
 「この期に及んで…」
 野村が半ば呆れたような声をあげたが、攻められるこちらとしては堪ったものではない。
 あっという間に十数名の銃隊は逃げ腰になり、算を乱して駆けだした。
 「落ち着いて! 密集隊形をとって下さい!」
 佐祐理さんが叫ぶも、効果はない。
 「倉田さん、我々も早く!」
 野村に急かされ、やむなく山頂目指して駆け出す剣士たち。
 だが、無情にも敵の攻撃は手を緩めることはなかった。
 突如、山をかけのぼる剣士たちの目の前を銃弾が通り抜けた。
 「と、土佐兵がっ!」
 横から土佐兵が射撃突撃を仕掛けてきたのだ。
 「うおおぉぉ!」
 「くっ!」
 仕方なく、舞が剣を抜いた。だが、後ろからは鳥取勢が迫っている。
 剣士たちに逃げ遅れた歩兵と土佐・鳥取兵とで、すさまじい白兵戦が開始された。
 斬り込んでくる土佐兵も鳥取兵も、まさか目の前にいるのが新選組の水鳥と恐れられた川澄舞だとは知らない。
 舞は、まさに水鳥の如く山中を飛び回り、たちまち土佐兵二人を斬った。
 佐祐理さんの槍は斬り折られ、腰の刀を抜いて鳥取兵を真っ向から切り下げた。
 野村利三郎も市村鉄之助も、新選組の隊士であることを感じさせる勇猛さで、近寄る敵を切り払った。
 「舞! 後ろ!」
 佐祐理さんの声に、舞が剣を旋回させる。
 「ぎゃあぁ!」
 額を真一文字に割られた鳥取兵が仰向けにぶっ倒れる。
 「こ、こいつ手強いぞっ!」
 思いもよらぬ敵の奮戦に、もともと戦意の薄い鳥取兵はもちろん、勇猛な土佐兵までもが怯んだ。
 既に負傷者も含めれば十名以上がやられているのだから無理もない。
 「下がりなさいっ!」
 その時、舞が敵に一喝した。
 その気合いに押され、思わず敵の足が止まった。
 「………」
 怖気が立つような威圧をかけながら、舞は少しずつ後退した。
 「佐祐理、早く!」
 「うんっ!」
 敵を制しつつ、倉田隊は一気に駆けのぼった。
 舞も、すぐにそれに続く。
 怯んだ敵兵も、我に返ると、逃げる倉田隊に意地の一発を放った。
 それは舞の横をかすめていく。
 「うわっ!」
 歩兵の一人がもんどり打って倒れた。
 「大丈夫!?」
 佐祐理さんが歩兵を抱き起こす。
 見ると、後頭部から血が吹き出ている。もはや助かりそうもなかった。
 「こ…こんなところで…俺は死ぬのか? こ、こんな馬鹿げた戦いのために…ち、畜生め………」
 がくり、と首が落ちる。
 本来なら戦場に立つはずもなかったであろう、被差別部落の歩兵の言葉に、新選組の一同は黙りこくった。
 果たして、勝てるはずもなかったこの戦いをやる必要があったのか…
 「倉田さん、早く本隊へ!」
 佐祐理さんは頷きつつ、思った。
 もはや、地の果てまでも戦い続けるしかないのだと。

 後世のことだが、こんな実験記録がある。
 ソ連軍が戦闘をシミュレートした実験の一つで、10の戦力と3の戦力を交戦させた場合というものだ。
 結果は、3の戦力がたちまち全滅、10の側の被害は0、もしくは1である。
 ちなみにこの甲州戦争、戦力的には、10:1であると言えよう。
 さて、1の戦力側の本隊でも、さらにすさまじい戦いが起こっていた。
 小笠原謙吉自らが十数名を率いて突撃を仕掛け、永倉、原田といった新選組幹部の部隊を次々と突破していた。
 近藤の本隊にも敵が迫り、近藤は平隊士を引き連れ、左手一本ですさまじい剣闘を始めた。
 この様子は、有名な「甲州勝沼近藤勇驍勇之図」(大蘇芳年画)に描かれているとおり、鬼神のような戦いぶりであったと記録されている。
 「新選組始末記」によれば「近藤は白鉢巻に鎖帷子を着て、二尺八寸の刀で暴れ回っていた」とある。
 二尺八寸の刀を左手一本で扱っていたとなれば、まさしく鬼のような怪力である。
 小笠原謙吉も、自らこの姿を目にして、何者かとその目を疑った。
 これが近藤だと知っていれば、果たして小笠原はどう思ったであろうか。
 彼は槍の名手でもあるが、近代化された土佐兵は槍などというかさばるものは携帯していない。剣を抜いて平隊士と戦っている。
 さて、本隊での戦闘を見て、後方支援に従事していた春日隊も参戦し、激戦となった。
 だが、佐祐理さんたちと同様、次々と増えてくる敵の前にはどうしようもなく、結局は撤退を余儀なくされた。
 「引け、引けえっ!」
 全員、必死で山中を駆けた。
 途中、わずかな兵をかき集めて追撃を何度か防ごうとしたが、そのことごとくで敗れ、八王子まで潰走した頃には兵力は五十人ほどにまで減っていた。近藤は、全軍に解散を命じた。
 わずか一日、甲陽鎮撫隊は壊滅し、甲州戦争は終結した。
 このころ、歳三は菜葉隊に援軍要請を断られ、江戸城まで援軍を求めに馬を走らせていた。
 まさか、既に味方が敗走していようとは夢にも思わない。


 さて、ここで戊辰戦争におけるもう一つの主役となる藩が登場する。
 もちろん、会津の者達とも深く関わることになる藩である。
 だが、それが良い関係だったか、悪い関係だったか、今となっても判断に迷うところである。
 まあ、それはよいとして、その藩の動きは江戸から始まる。
 甲州戦争終結から間もなく、江戸にある譜代大名の屋敷に、一人の家老がいた。
 彼の名は、河井継之助秋義。越後長岡藩7万5千石、牧野家の家老である。
 彼は幼少期から天才的な才能を発揮し、借金の完済、軍制改革などを成功させ、中級武士の小倅から、馬廻役、勘定吟味役、郡奉行を経て、家老職へと上り詰めた。
 その思想は高く、江戸で高名な学者の佐久間象山(暗殺されている)に学び、長崎に遊学して、当時としては奇人扱いされた開明論者となり、第二次長州征伐時には藩を説いて不参加にさせ、京都にいた頃には大政奉還に反対している。
 彼は、この風雲の中、自分の藩をいかに守るか、それだけを考えている。
 今までの行動も全てそれに基づいたものであり、その為にはあらゆる手を講じるつもりであった。
 そして3月9日、ついに本格的な動きが始まった。
 この日、横浜から一隻の黒船コリア号が出港している。
 舟に乗っているのは、河井継之助が束ねている長岡藩の江戸詰組、先の稿で登城禁止を受けた桑名藩主の松平定敬と桑名藩士たち(彼らは幸いにも越後柏崎に飛び地の領地があった)、プロシャ領事の書記官ヘンリー・スネル、その弟でオランダ代理領事のエドワード・スネル、そして大量の米と銭、さらにはおびただしい数の小銃と大砲。
 その中には、R・J・ガトリング博士による発明で、南北戦争で北軍に使われた最新兵器、ガトリング砲もあった。
 これは当時としては類を見ない連射力を持った砲で、記録によれば一分間に200発の弾丸を発射できたらしい。
 南北戦争における最大の進歩は、このガトリング砲を含む、連発機構の発明、そしてそれを可能にした金属薬莢だが、この辺りは直接関係がないので割愛するとしよう。
 さて、この河井継之助、この船の調達主であるヘンリー・スネルとの間に、商談をしている。
 他でもない、積んである武器の商談である。
 もともとプロシャはイギリスと仲が悪い。イギリスが肩入れしている薩長に対抗しようと、プロシャもフランスのように幕府方に消極的ながら肩入れしているのだ。
 河井継之助、さすがに開明論者だけあって、その経済感覚、西洋知識は並々ならないものがある。
 不要の江戸藩邸の調度品を金に換え、その金で新兵器を家老自ら品定めをしながら調達し、さらには米所長岡だけあって豊富な米を相場の高い函館に持ち込んで金に換えるという、現代の投資家も顔負けの働きである。
 最終的に長岡に持ち帰ったのは、大量の武器と二万両の大金だったという。
 いやはや、まさしく天才的な男だったと言えよう。
 さて、その船上のことである。
 「御家老、噂では既に北陸道を官軍が進んでいるということですが…」
 藩士の一人が、混乱極まる情勢を見て、不安げに河井に尋ねてきた。
 「何、心配することはない。国許には書状を送ってある」
 「書状…? はて、何についての書状で…」
 「公用方の植田と里村に送った書状だ。拙者がいないうちに官軍が迫ってきた時の対処法を書いてある」
 「対処法…で、ございますか?」
 河井の自信たっぷりな顔に安心しながらも、藩士はその内容を知りたがった。
 「絶対中立、それだけよ」
 口元に笑みを浮かべ、河井は藩士の顔を見た。
 「はぁ…」
 聞き慣れぬ言葉に、藩士は首を傾げた。
 「絶対中立」、スイスを例に取れば分かりやすかろう。
 河井の目指したものは一種のこれであったと、記録からは推測される。
 だが、それは叶わぬ夢であった。
 情勢、地勢がそれを許さなかった。しかし、彼はひたすらに努力をしていく。だが、努力すればするほど、悲劇の戦いは彼に迫るのである。
 「官軍の指揮官が…話の分かる奴ならよいが」
 河井が、不安を口にする。
 中立など、本来は虚構である。攻撃側と守備側の当事者が認めなければ、そんなものは存在できない。
 関ヶ原の戦いもそうであり、第二次世界大戦でもそうだった。
 だが、河井の見るところ、幕府自身にはもう戦意はないように思われる。
 「幕府が降伏し、そのまま戦争が終結してくれれば、それに越したことはない…」
 河井は、自ら買い求めた武器が、飾り物のままでいられることを密かに願った。
 コリア号は、函館を経由し、新潟港へと向かう。
 彼にとって最後の関東の地を、風景に収めながら…

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