第二十七話「第一次白河防衛戦」
「その大村とやらは、信頼できる男なのかね」
東山道先鋒総督府軍参謀という長い肩書きを持つ、伊地知正治は部下の薩摩藩士に尋ねた。
「はっ、拙者もしかとは存じませぬが、上野に篭る彰義隊を撃滅するために、わざわざ呼んだ者のようで」
「ふむ…」
大村益次郎、通称村田蔵六、この物語でも久しぶりにこの名を出す。
彼はこの時期、ようやく江戸に呼ばれ、久しぶりに歴史の表舞台へ現れる。
当時の江戸は、官軍の兵士が夜毎彰義隊の隊士に斬られるという、新政府側からすれば、無秩序状態に陥っていた。
しかし、官軍は今なお重度の兵力不足、彰義隊は上野の寛永寺に篭り、多数の砲を擁して完全武装している。
江戸の新政府首脳が対策に困り果てた末に、京都で事務作業をこなしていた大村が呼ばれたというわけだ。
「しかし、その男、元はただの医者というではないか。そのような男が、彰義隊を潰せるのかね」
伊地知は、薩摩の軍事を統括する男である。
ただでさえ戦の事に関しては誇り高い薩摩藩士の中でも、伊地知はその地位に誇りを持っていた。
(軍事というものは、学べば誰にでも出来るようなものではない)
彼はそう自負している。
その点については、大村とも、敵の土方とも、さして認識に差はないだろう。
だが、彼はその誇りゆえに、百姓医者上がりの大村に軍事の才があるとは信じていなかったのである。
「されど、幕府の長州攻めの際、石州口で幕軍を敗走させたのは、この男だそうにございます」
「ほう…それが真なら、確かに大したものかもしれぬな」
伊地知は意外そうな顔をした。
「…だが、相手があの弱兵である幕軍なら、医者風情にも蹴散らせる程度の相手だったのかも知れぬがな」
そう言って、伊地知は喉の奥から低い笑いを漏らした。
だが、すぐに真剣な顔に戻る。
「ともあれ…この命令書は、新政府のものじゃ。例え大村が何者であろうと、これは実行せねばならぬな」
「はっ」
「全隊長を集めよ。直ちに、白河城を攻め落とすぞ」
祐一郎にとっては、予想外の急展開が待っていた。
着陣の翌日、白河防衛軍首脳の元へ『新政府軍、芦野(現栃木県那須郡)より白河へ進軍開始』の伝令が飛び込んできたのである。
会津軍総督西郷頼母、仙台軍参謀坂本大炊(おおい)を中心とする防衛軍首脳は、これに対して篭城せず、迎撃の命令を下した。
相手の兵力はわずか数百、兵力で圧倒的に勝るこちらが山地を先に制圧し、城への街道を進む新政府軍の頭上から弾の雨を降らせようという作戦であった。
その作戦の要、先鋒部隊の中に、雪兎隊は含まれていた。
「神尾様、敵はやはり新型の兵器で武装をしているのでしょうか」
騎馬で白河城から南西に位置する立石山へと移動しながら、祐一郎は神尾に尋ねた。
「間違いないだろうな。情報では、敵を構成しているのは長州・大垣・薩摩の部隊らしい。いずれも、強力な洋式部隊を抱えていることで有名な家だ」
「…きつい戦いになりそうですね」
「それは最初から分かっていたことよ。だが、今のところ、数で勝るのは我々だ。我々が落ち着いて戦えば、最後に勝つのは我らとなる」
神尾は、騎乗したまま、懐から取り出した手帳をめくった。
仙台で星からもらったあの手帳である。
祐一郎が何気なく覗き込むと、そこには伝令・偵察によって集めた情報がびっしりと書き込まれている。
着陣以来、神尾がやってきた仕事が偲ばれる。
「相沢、そなたは右翼部隊と合流せよ」
「右翼? 神尾様の左翼部隊と共に行動していなくてよいのでしょうか?」
「本来ならば、そうしていた方が私としても便利なのだがな。今回は、右翼の幕軍と行動を共にしてもらう」
「はぁ…」
祐一郎は、昨日の夜のことを思い出した。
立石山に布陣する旧幕府軍は、例の土方歳三が指揮をすると聞いている。
これに、幕府歩兵部隊の瞬煌隊や旗本・御家人で構成された純義隊等の諸隊が付くという。
兵力の内訳からいえば、会津兵よりも旧幕府兵の方が多くなるであろう。
会津・仙台の主力先鋒部隊は、そこより南の、稲荷山に陣取っている。
もし、敵が正面から攻めてくるならば、この稲荷山が激戦区となるだろう。
「土方殿が率いる部隊は、これまで幾度もの戦をくぐり抜けてきた部隊だ。強敵を相手にするのに、これほど心強い味方はおるまい」
「確かにそうですが…」
「そなたたちは、私の手足のように動いてもらう部隊だからな。土方殿たちから、色々と学んでもらわねばならぬ」
「しかし、ここは戦場ですよ。まして相手は強敵です。本気で戦うのが最優先ではござりませぬか」
「本気で戦えば、その間に自然と学べるものだ。その折に最も大切なのが、優れた手本であろう。土方殿はそれに最適だ」
「その点に異存はありませぬが…」
祐一郎は、理解したような、まだ納得がいかないような、不可解な気分だった。
それでも、神尾がそう命じるのなら、祐一郎はそうするつもりである。
要は、本気で戦えばいいというだけのことなのだから。
………
立石山と言っても、山というよりは小高い丘のようなものである。
しかしその丘が、実際の戦闘では高い効果をもたらす。
人間の戦いとは、実に紙一重なところで行われているものなのだろう。
「副長」
胸壁構築作業中の隊士たちを眺めている歳三に、舞は声をかけた。
歳三は振り返って言った。
「普段通りだな、川澄君は」
「戦に備える心構えは、どんな戦いでも変わらない」
「そうだな、川澄君なら尚更そうかもしれん」
「?」
「川澄君の強みは、常に変わらぬ冷静さを持って戦えることにあるからな」
「………」
「ま、本人は気づかないことかもしれねぇな。だが、川澄君の剣が神業であることと同時に、その剣をいつ何時でも繰り出せるということが、川澄君の強みであることは事実だぜ」
「…でも、それは鍛えていれば当然のことだから」
「剣客に限らず、人というのは皆そうありたいと思っているものだ。だが、なかなかそうはなれねぇものだぜ」
「………」
「ま、それはいいとしてだ。何の用だ?」
「あ…」
舞は、本来の目的を思い出して、やや俯き気味になっていた顔を上げた。
「会津から部隊が来た」
「ふむ、左翼にかね?」
「いえ、こちらに」
「何だと? 聞いてねぇぞ、そんなこと」
「でも、現にもう来てる、すぐそこに」
そう言って、舞は後ろを指差した。
歳三は、その方向に目を向けた。
「ん? あいつは昨日の若侍じゃねぇか?」
「はい」
「なら、先にそう付け加えて言ってくれると助かる」
歩き出しかけたところで、歳三は尋ねた。
「どうも予定外の援軍みてぇだが、川澄君にとって、あの援軍はどうかね?」
「…どうって?」
「川澄君にとって、あの援軍は喜ばしいかね?」
おかしなことを尋ねる、と舞は思った。
笑みを浮かべて尋ねる歳三本人も、そう思っていたかもしれない。
舞は、暫く考え、こう答えた。
「役に立つかはわからない。役に立つなら有益な援軍だし、逃げ出すだけなら士気を低下させる厄介者」
京都での経験から、純粋に導き出した返答である。
だが、歳三とてそんな今更な返答を聞きたくて尋ねようと思ったわけではないだろう。
「でも…」
「でも、何だ?」
歳三が、興味深げに重ねて尋ねた。
「…少し、仕事が増えるかも」
「仕事……仕事、ね。なるほど」
「…大したことじゃない」
舞はそう答えた。
妙な質問で尋ねてみた歳三も、とりあえずは予定外の援軍の元に行くのが先である。
「とりあえず、俺はあの若侍に会ってくるが…川澄君も行くかね?」
舞は黙って頷いた。
………
「土方様、会津松平家より援軍に参上いたしました」
「奇遇なもんだな。お前さんが俺たちの陣へ来るとは」
歳三の前に跪きながら、祐一郎は指揮官への挨拶をした。
「しかし、突然どういうわけだね。俺は何も聞いてねぇんだが」
「拙者も突然神尾様に命じられたのですが…今日は土方様の下で戦え、と」
「神尾殿が? …あの方も強引なことをする」
「ご迷惑でしょうか?」
「いや、構わんよ。俺もお前さんには少々興味があるからな」
「え?」
「なに、相沢殿のどの辺りが特別なのか、知りたいだけさ」
そう言って、歳三は後ろの舞を見た。
だが、舞は無表情に援軍の集団を見ているのみである。
「特別って……何のことです?」
「こっちの話さ、気にするな。まあ、とりあえず、仙台で鍛えたという部隊のお手並みを今日は拝見させてもらおうか」
「いえ、そんな…新型の装備を擁し、幾度の戦を乗り越えてきた、幕府の軍勢と比較するようなものでは…」
祐一郎は慌てて頭を振る。
だが、歳三は真面目な顔をして言った。
「そいつはちと俺たちを買いかぶり過ぎだな。俺たちの装備だって、それほど見栄えのするもんじゃねぇ。元々歩兵部隊だった隊はそれなりの装備を持っているが、そうじゃない隊は今も旧式装備のままだ。今日相手にする連中にだって、ちょっと前にやられたばかりさ。」
「はっ………されど、やはり当家の兵たちの間でも、土方様の隊の評判は相当なものです。宇都宮城での采配は、我が隊の者も聞き及んでおります」
宇都宮城での采配とは、歳三が少数の兵で、新政府軍が制圧していた宇都宮城を陥落させた戦いのことである。
この戦闘で、幕軍の中における歳三の評判も、一層高まることとなった。
しかし、宇都宮城攻めの時の相手は旧式装備の敵が中心だったが、宇都宮城からの救援要請に応じて東山道軍が送り出した援軍は強敵だった。
この時に送り出されたのが、甲州戦争の折に戦った鳥取の河田佐久馬と、今回の相手である薩摩の伊地知正治である。
河田の率いる鳥取・土佐藩兵の軍勢は、新型装備の幕府歩兵相手に苦戦し、白兵戦に持ち込んで辛うじて幕府歩兵部隊を後退させることになったが、伊地知らが率いてきた薩摩・長州・大垣藩兵の軍勢は流石に強かった。
一時は大鳥圭介による宇都宮城内からの砲撃を受けて大きな被害を出したものの、新政府軍は城を包囲して激しい砲撃を仕掛けた。
これにより、大鳥や歳三までもが負傷し、宇都宮城を放棄して日光へ退却することになったのである。
歳三が負ったこの時の傷は、まだ完治していない。
だからまだ自ら先頭に立って敵と戦うことはできないのであるが、それでも彼は前線に残ろうとしているわけだ。
この戦いは、城の防御力に翳りを感じさせる合戦だが、この宇都宮城の戦闘は、日本におけるそんな潮流の到来を象徴している戦いであると言えよう。
「俺は喧嘩師だからな」
歳三は、言った。
「戦をするのが俺の仕事さ。だが、まだ俺には薩長相手に、誇れる戦をやってねえ。そんな風に誉めそやされるわけにはいかねえよ」
「例えそうだとしても、土方様が見事な戦をしたことに変わりはありませぬ。それができるという事実だけでも、私には敬服に値します」
「ふむ、まぁ、褒め言葉は有難く受け取らせてもらおう」
歳三は、微笑を浮かべて頷いた。
そして、祐一郎の後ろに居並ぶ雪兎隊士たちを見る。
(隊士は藩校の子弟どもということだが…本当に若いな)
歳三は、市村鉄之助のことを思い出した。
年齢的には、彼と大差ない者たちであろう。
歳三は祐一郎の顔に視線を戻し、再び口を開いた。
「…それで、お前さんたちはどうするつもりかね?」
「えっと、それはつまり…」
「俺の指揮下に完全に入って戦うつもりかね、それとも、隊としてはそちらの指揮官殿の命令に従って戦うつもりかね?」
「もし土方様さえよろしければ、指揮下に加えていただけると助かります」
「そうか、承知した」
顔から微笑を消して、歳三は頷いた。
「では今から、お前たちは俺の指揮下に置かれている兵達と同様に扱わせてもらう。勝利の為、薩長賊を打ち破る為、生き残る為に、力の限り奮戦しろ」
「はっ」
「雪兎隊は洋式装備の部隊であったな?」
「主要な装備はやや旧いゲベール銃でありますが、一部はミニエー銃を装備しており、砲は領内で新たに製造した加農砲にござります」
「なに、加農砲?」
歳三は、少し驚いた様子で、雪兎隊の砲を見た。
わずか一門だが、確かにその砲は並みの砲ではないと、歳三は気づいた。
「…こんなものを会津の領内で作っていたとはな」
歳三は、二斤加農砲に歩み寄り、間近にそれを見た。
「ま、まだ試作なんですけれど、物は確かです!」
砲の傍らにいた名雪が、緊張した声で言った。
「ほう? それは期待させてもらおう」
歳三はそう言って、この見慣れぬ砲への関心を示したが、同時にこの女性の砲兵にも興味を覚えた。
「しかし、雪兎隊にはまだ女性が居たとはな」
「え? あ、あの…」
不意に歳三から笑顔を向けられ、名雪は戸惑いを見せた。
「仮にもここは戦の最前線であるのに、会津の子女がそれを承知の上でここに来ている。大したものだと思ってな」
「あ、会津武士の娘ですから!」
「…名雪、別にそこまで緊張しなくてもいいんじゃないの?」
「う、うん…」
「ふむ…やはりここは、あの者の出番か」
自分でも何を言っているのかよく分かっていない名雪を見ながら、歳三はあることを思いついた。
「この陣には、そなたらが教授されるにうってつけの人物がいてな」
「我々に…ですか?」
「ああ、洋式の歩兵と砲兵の戦を学ぶには、最高の連中よ」
「連中…一人ではないのですか?」
………
「…それで、私は何をすればいいんでしょうか」
やはり陣地構築中だった瞬煌隊の天野は、歳三からの、突然の申し出を黙って聞いた後、こう答えた。
「受けてくれるか、ありがとよ」
「総指揮官からの命令ですから」
にこりともせずに、天野は言った。
「で、だ。別に特別なことをして欲しいわけじゃねえんだ。この雪兎隊を瞬煌隊と行動を共にさせたいだけでな」
「私が特に指図をしなくてもいい、ということですか?」
「まぁ、そういうことだな。こいつらも会津でそれなりの訓練は受けているそうなんで、そちらの隊に付いてこさせてくれれば、十分だ」
天野は、その雪兎隊の方へ顔を向けた。
祐一郎にはその表情から感情を読み取ることはできなかったが、自分とほぼ同年齢であろうその若い女士官には、親近感を覚えた。
この隊長がどういう人物かはわからないが、立場的に似通ったものを感じたのである。
「雪兎隊隊長、相沢祐一郎と申します、以後よろしくお願い申し上げます」
「元第十四歩兵連隊頭取の、天野美汐です」
天野は普段どおりに挨拶を終えようとしたが、視線が後ろの雪兎隊士たちに向けられた時、その目が驚きの光を持った。
「…相沢さん、とおっしゃいましたね」
「はい」
「あの…少し聞きたいことがあるのですが…」
「はい、何でありましょう?」
天野は少し言い淀んだ。
「…あの、隊士の方々には、準備に戻っていただけますか?」
「え? ああ、はい、わかりました」
少し疑問を感じたが、言われたとおり、祐一郎は後ろの北川に戦闘の準備をするよう伝えた。
「なんだ、作戦の打ち合わせでもするのか?」
「いや、土方様の話し方では、そうじゃないと思うが、天野殿が、何か聞きたいことがあるそうだ」
「天野殿が? …まぁ、何を聞くつもりなのかはわからんが、妙な質問だったら、あまりまともに取り合うなよ」
「いや、それは流石に大丈夫だろう。そんなことを言う人には見えないし」
「それは俺も思う。ま、用心しておくに越したことはないぜ」
祐一郎がうなずくのを見ると、北川は隊士たちを連れて雪兎隊の陣地へと戻っていった。
改めて天野の方を見ると、歳三が天野に何か言って元の陣地に戻っていく姿が見えた。
「それで、聞きたいこととは?」
祐一郎は、独り考え事をしている様子の天野に尋ねた。
「………あの子も、隊士なのですか?」
「へ?」
その質問の内容は、祐一郎には理解できなかった。
無理もないことだが。
「あの子って…誰のことです?」
「女の子です。隊の中でも幼い方だと思いますが…」
「ああ、真琴のことですか。あいつも一応隊士ということにはなっていますよ、不本意ながら」
「真琴…と言うんですね。不本意ながら、というのはどういうことなんですか?」
「上司からの命令でしてね、仕方なくです。…って、なんでそんなこと聞くんです?」
天野は少し俯き、黙った。
祐一郎からすれば、その反応は理解しがたい。
一体、この士官は何が聞きたいのだろうか。
真琴のような、子供が混じっているのが気に入らないのだろうか。
祐一郎は色々な可能性を考えた。
「あの子は…誰の為に現れたんですか?」
また、祐一郎には質問が理解できなかった。
誰の為か?
誰の為にもなっていないではないか。
だが、強いて言うのならば…
「その質問はよくわからないが…あいつは俺を殺す為に現れた…みたいだ」
「………」
天野は、その突拍子もない内容の返答を、真面目な顔で聞いていた。
「…驚かないんですね」
「理由自体は、大した問題じゃありませんから」
やっぱり、よくわからない。
祐一郎は、順番に疑問を解決する必要性を感じた。
「で、俺の質問にも答えていただけると助かるのですが。そんなことを聞くのは何故です?」
「…少し気になったので、確認したかっただけです」
「確認するって、何をです?」
「あの子がなぜここに現れたのか、です。でも、それは私が関わるべきことじゃありませんね」
「………」
まだ、祐一郎には、その意味するところがわからない。
だが、何か重要なことが語られているような気もしてきていた。
「お引止めしてすいませんでした。相沢さんも陣地に戻ってください」
「待ってくれ」
祐一郎は、ただ漠然とした感情で、去りかけの天野を引き止めていた。
その言葉の意味を聞くべきだと思って引き止めたのかもしれない。
だが、祐一郎は敢えてこう聞いた。
「天野殿は…もしかして、あいつのことをご存知なのですか?」
「………」
天野は暫し沈黙した後、こう答えた。
「いえ、あの子のことは何も知りません。ですから、私が関わるべきことじゃないんです」
「ならば、なぜ俺にあいつのことを聞いたのです。ただあいつが子供だから気になったというのなら、さっきみたいな質問はしないはず」
「…なぜ、でしょうね。本当なら、気づかなかった振りをするべきだったのに…」
天野は、突然表情を曇らせた。
その反応も祐一郎には予想外であったが、それでも彼には質問を続ける必要があった。
「あいつは記憶を失っているんです。あいつの為にも、何か知っていることがあるのでしたら、何でもいいから教えていただけないでしょうか」
「いいえ、私があの子自身について知っていることは、何もありません。むしろ、あの子が相沢さんの為に現れたというのなら、それを知っているのは相沢さんです」
「俺が知っている? そんなはずはない、俺はずっと父と共に江戸勤番で、会津若松に来たのはあいつが現れる数日前なんですよ?」
「でも、少なくとも、相沢さんが国許に居た時期はあるはずです」
「そりゃあ、ありますけれど…でも、それはもう7年も前のことです。俺だってまだ元服したかしてないかの頃ですし、あいつだって、今以上の餓鬼だったでしょう。そんな時期に、7年越しで俺を殺したくなるほどの事件があったとは、とても思えないのですが」
「相沢さんへの殺意は、それほど大きな問題じゃありません。もし本当にそれだけの感情で相沢さんのところに現れたのだとしたら、あの子はもっと別の方法が取れたはずですから」
「別の方法って…」
「あの子は、記憶を失っているんです。本来あの子が考えていたことを含めて」
「あいつが考えていたこと…? それは一体何なんです」
「それは私にはわかりません。さっきも言いましたが、それを知っているのは相沢さんなんですから」
いくら考えても、祐一郎には天野の言うところがわからなかった。
別の方法、とはつまり、記憶喪失で目の前に現れ、問答無用で殴りかかってくるのではない方法ということなのか。
「…俺には、まだよく天野殿の言うことがわからない。だが、二つだけ俺も確認したいことがある」
「はい」
「最初に、何故天野殿は、真琴のことを気にかけたりなさったのです? もう一つ、なぜ天野殿は、真琴のことを気にしながら、関わったことを後悔なさっているのです?」
「………」
天野は、再び沈黙した。
祐一郎も、辛抱強く天野からの返答を待った。
「…私にも、昔同じような経験があるからです。これが最初の御質問の答えです。そしてもう一つの答えは、その経験が……」
天野は、そこまで言いかけて、口をつぐんだ。
「…いえ、やっぱりこの質問には答えられません」
「何故です? 何か問題があるとでも?」
「少なくとも、この戦場で相沢さんに伝えるべきことではないです」
「どういうことです、それは…?」
とても、嫌な予感がしていた。
本当なら、祐一郎は天野の過去の経験というのを聞きたかったし、聞くべきだったかもしれない。
だが、それを尋ねることは、どうしても憚られた。
それはとても冷酷なことのように思えたし、それを質問することへの恐怖もあった。
「もうすぐ戦闘が始まるようなところで、こんなことを言い出した私が迂闊でした。戦場で最も優先されるべきことは、勝利であるはずなのに、すいません」
「いえ………」
「相沢さん、これは同じ陣地を構える隊の指揮官として言います。相沢さんが今やるべきことは、自分の隊の勝利を目指すことです。…そして、もう一つ私から助言するのであれば…あの子となるべく一緒に居て、守ってあげて下さい」
「………わかった」
祐一郎には、まだよくわからない、真琴が何者であるかも、天野の言葉が意味することも。
だから、祐一郎は天野の言うとおりにしてみようと思った。
それが、どういう形になるかはわからないが、真琴の為になるのであれば。
「それでは、私は戻ります」
「ああ、武運を祈る」
天野は、軽く会釈をして、構築中の胸壁へと戻っていった。
暫くその後姿を眺めていた祐一郎だったが、やがて自分の陣地の方へと振り返った。
と、近くに人が立っているのに気づいた。
こちらを見ているようだ。
「あれは…川澄さんじゃないか」
歳三と共に戻ったのかと思っていたが、そうではなかったらしい。
(…あれ?)
祐一郎は挨拶しておこうと思って近寄ろうしたが、舞はそれより早く、スタスタと歩き去ってしまった。
祐一郎を見ていたのは気のせいだったのだろうか。
(さっきの話を聞かれてたわけじゃ…ないよな)
祐一郎は一瞬そう考えたが、舞との間には距離があったし、声が届くことはないはずだった。
舞があそこで何をやっていたのか、暫く祐一郎は考えながら歩いていたが、やがて雪兎隊陣地が近づくにつれ、気にならなくなっていた。
祐一郎には、今少し気になる問題が他にあったのだから、それも当然であったが。
「…どうだ、連中は何か喋ったか」
「いえ、どいつも口が堅く、何も喋りませぬ」
「ちっ………ならば仕方ない、首をはねよ」
「よろしいのですか?」
「あのような連中にこれ以上時間は割けぬ。とっとと片付けよ」
「はっ」
命令を受けた薩摩藩士が去ると、伊地知は忌々しげにため息をついた。
遠路の強行軍の末、ようやく会津領に入ったはいいが、恐らく偵察のために残っていたと思われる番所の兵からは、何の情報も得られなかった。
強行軍で白河へと向かっている伊地知としては、どうしても現地の情報が不足している。
番所の兵を締め上げれば敵情も掴めるだろうと思っていたが、どうもそれは甘かったようだ。
「伊地知様」
不意に声がかけられた。
「川村か、いかがした」
薩摩藩士の川村純義、後の海軍中将で、大正天皇より裕仁親王の養育を命じられることになる人物であるが、このときの彼は、薩摩の下士小銃隊の隊長である。
当時は30代初頭の猛々しい男であった。
「会津の兵どもは、何か喋りましたか」
「いや、何も喋らぬようだ。我らも急がねばならぬゆえ、斬首を命じた」
「よい判断です」
川村は答えた。
彼も、白河城の陥落は早急に解決せねばならない課題だと思っている。
その為には、こんなところで無駄足を踏んでいるわけにはいかなかった。
「兵たちの様子はどうだ」
伊地知は尋ねた。
「流石に、皆一様に疲れている様子ですが、問題にはなりませぬ。この程度の強行軍で音を上げるようでは、薩摩隼人の名が廃れ申す」
「ふむ」
伊地知は、少し考えるような仕草を見せた。
彼は目と足が少々不自由であったが、その軍事的才能に対し、西郷からの信頼と、薩摩藩士からの尊敬を受けている。
川村もまた、同様であった。
とりわけ、川村は宇都宮城攻めの際に自らの策で行った強行攻撃で手痛い反撃を受けている。
汚名を返上する為ならば、彼は手段を選ばないであろう。
「宇都宮から行軍し通しではあるからな…疲れるのも無理はないか。だが、ここが大事なときだ。皆の者にはもう少し気張ってもらうよう、よろしく頼む」
「無論のことです。我が組下の者たちも、自ずから承知しているでしょう。…ただ、申し上げにくいのですが、長州と大垣の連中の間には、些か不満の声があるようでして…」
「やむを得ぬことであろう。だが、連中とて、この度の作戦の重要さを知らぬわけではあるまい。白河まであと少しだ、彼らにもいま少し踏ん張ってもらわねばな」
伊地知がそう言うと、先ほどの薩摩藩士が再び現れた。
「斬首、完了いたしました」
「よし、行軍を再開するぞ。全軍に伝えよ」
「伊地知様」
川村が、再び伊地知の名を呼んだ。
「例え長州や大垣の兵が役に立たずとも、この度の戦では、我が隊の兵のみでも打ち破ってくれましょう」
「期待しているぞ、川村」
その夜、白河城に騎馬が一騎駆け込んできた。
その報せを受け、既に床に就いていた首脳部の面々が、急いで評定の間へ集まってくる。
面持ちは、一様に固い。
「百姓たちからの報せでは、西軍は既に領内に侵入、そのままこちらへと軍勢を進めている模様」
斥候からの報せに、西郷頼母はより一層険しい表情になった。
「それで、国境の斥候からの報せはあったか」
「ありませぬ、恐らく敵の手に落ちたものかと…」
「く…」
若い横山主税が唇を噛んだ。
「どうやら、敵は早朝には我が軍の前線と接触する様子。すぐにでも、各部隊に命令を送りましょう」
仙台軍の指揮官、坂本大炊がそう提案した。
「作戦は予定通りでよろしいですかな?」
「今のところ、当初の作戦通りで構わないだろう」
「私もそう思います」
「では、すぐに」
西郷の命令一下、伝令要員たちが全軍に向かって飛び出していった。
………
夜の闇の中、小銃を持った兵たちがうごめいている。
彼らは、すぐそこに迫った戦闘に、緊張を高めている。
これほどの本格的な戦闘は、彼らにとっては初めての経験である。
各自、声を出すことよりも、己の呼吸を整えることに神経を使っている。
「………」
祐一郎も、ただ立っているだけとは思えない速度で打つ心臓の音を感じながら、二斤加農砲の傍にいた。
「相沢君」
「え? ああ、香里か…」
「また、随分と緊張しているわね」
「…まあな。むしろ、お前のその落ち着きぶりの方が異常だと思うんだが」
「それはそうかもしれないけれど、こんな時に緊張しない習慣を作る秘訣を教えている時間はあまり無いわね。…それで、砲に異常は無いわよ、いつでも撃てるわ」
「そうか、わかった。…名雪の様子はどうだ?」
ふと気になって、祐一郎は尋ねた。
「名雪なら、ここにいるわよ。…相沢君以上に緊張してるみたいだけどね」
「…やっぱそうか。おい、名雪」
呼ばれた名雪は、もう一度名前を呼ばれてから、ようやく気づいた。
「え? え、あ、祐一郎、どうしたの?」
「大丈夫か?」
「うー、全然大丈夫じゃないよ…」
「まぁ、そうだよな…」
当の祐一郎だって、そうなのだから。
「まぁ、今後そうならない方法は香里に聞いてくれればいいんだが、とりあえずはこの場を凌ぐことが先決だ。こう暗いとよく見えないが、俺たちの右に布陣しているのが天野殿の瞬煌隊だ」
「う、うん」
「俺たちはとりあえず、瞬煌隊についていけばいい。もし万が一困った事態になったら、瞬煌隊の人について行け。あの人たちのやることを見習っていれば、それなりにいいことはあるはずだ」
「…いいことって何?」
「そりゃあ、いいことだぞ。戦の仕方が学べたり、生き残れたり、だ」
「うーん…生き残れるなら、そうするよ…」
「でも、なるべく前に居る俺たちから離れるなよ」
「うん、なるべく祐一郎と一緒に居ることにするよ」
名雪は、笑顔で頷いて見せた。
「…それは何か違うような気もするが、とりあえず名雪たちはまず自分の身と砲の安全を最優先させてくれ。もし敵の歩兵が近くに迫ってきたら、応戦する前に砲を曳いて逃げるんだ、いいな?」
「うん、わかった」
「砲のことは私たちに任せて頂戴。相沢君たちこそ最前線にいるんだから、自分の身を守ることを優先させてよ」
「ああ、抜かりない」
そう言って、祐一郎は自分のミニエー銃の銃身をカツカツと叩いた。
「じゃ、俺は胸壁のところに行く。ここは任せたぜ」
「ええ」
香里の言葉と名雪の頷きを確認すると、祐一郎はミニエー銃を肩に掛け、歩き出した。
周囲には僅かな篝火しかない。
点々と置かれたその篝火から離れれば、もうそこは完全な夜の闇だ。
本当は、その闇には何百人もの兵士が存在しているはずであるが、彼らは皆なるべく息を潜めている。
周囲からは、早鐘のように鳴っているであろう心臓によって引っ張られている、荒い呼吸の音が聞こえてくるだけだ。
その中を、月とある目印を頼りに歩く。
祐一郎の視界には、回りの篝火より低く、そして少しだけ集中して配置されている篝火が映っている。
あれはこの立石山陣地の前線であり、その胸壁の影に配置された篝火だ。
祐一郎と他の隊士たちがこの戦闘の始まりを迎えるのもそこになるであろう。
「ん?」
ふと、足元に何か柔らかい感触があった。
「何だぁ?」
祐一郎は、足元の暗闇に手を伸ばしてみた。
「なんだお前、こんなとこにいたのか」
祐一郎の手に捕まれて、僅かな篝火の光に照らされたのは、真琴の猫だった。
妙なもので、赤色に光る猫の瞳は、じっと自分を見つめているような気がするものである。
「真琴の奴、肝心な時に捕まえていやがらない…」
そうぼやきながら、祐一郎は真琴の姿を探した。
幸いにも、その姿は近くにあった。
「なんだ、そこにいたか」
祐一郎は、胸壁の影にしゃがんでいるその背中に歩み寄った。
「おい、真琴…」
言いかけて、昼間に聞いた天野の言葉が突然思い出された。
もし天野の推論、いや、あれは推論というものでもなかったが、もしそれが正しいことを言っているのであれば、真琴は何かの目的を持って祐一郎の前に現れ、またそれは祐一郎本人に理由があるという。
そしてその裏にあるのは、あまり考えたくない事実らしい。
「あ、祐一郎」
背後に近寄っていた祐一郎に、真琴が気づいた。
その声には、緊張というものはあまり感じられない。
「お、おう、真琴、どうだ、調子は」
「調子って…真琴はずっとここにいるだけだもの」
「そうだったな…」
そう言って、祐一郎は腕の中の猫を真琴の顔の前に下ろした。
「あ」
「ずっとここにいるだけなら、せめて猫の管理くらいしてくれ。もうすぐここは戦場になるんだからな」
「真琴も探してたのよう。こう暗いから探しようがなくて…」
「でも、すぐそこにいたぞ」
「え、そうなの? ならよかった」
「ああ、幸いにも……って、そうじゃないだろ」
「別にいいじゃない。戦いが始まる前に見つかったんだし」
「ん………まぁ、な…」
どうも、今日の祐一郎はあまり真琴を追及する気が起きなかった。
むしろ、聞きたいことは別にある。
「…なぁ、真琴」
「ん、何?」
猫の頭を撫でながら、真琴が顔を上げた。
「お前は、何者なんだ」
気が付けば、そんなことを口走っていた。
「なによう、急に。そんなこと、真琴が知りたいわよう」
「…真琴は、自分が何者なのか、知りたいか?」
「? どうしたの、祐一郎?」
真琴も、いつもと様子の違う祐一郎の態度が気になった。
「…いや、お前が昔何をしていて、なんで俺の前に現れたのか、真琴は思い出したがっているのか、気になってな」
「うーん…それは、真琴も知りたいけど…」
「けど?」
「前はね、もっと思い出したかったの。前は祐一郎を殺したくてしょうがなかったから、どうしてこんなに殺したいのか、祐一郎がどんなに非道な下郎なのか思い出したかったし、自分が誰か分からないのがとても怖かった。でも、最近はそうでもないの」
「どうしてだ?」
「よく、わからないけど…あんまり祐一郎を殺そうという気がしなくなってきたし、それに、あんまり自分が誰かわからないのが怖くなくなってきたの。理由はわからないけど…」
「それは………」
真琴はよくわかっていないようだったが、祐一郎にはなんとなく理解できた。
秋子さんを初めとする水瀬家の屋敷での生活と、それと並行する雪兎隊の一員としての生活が、真琴から殺意を奪っていたのを祐一郎はどことなくは感じ取っていた。
だが、こう改めて考えれば、温和で大らかな秋子さんの存在、また、真琴を勝手に雪兎隊士とした神尾と、それを献策した国之崎の存在までもが、真琴にとって有利に働いていたような気がする。
天野は、真琴が何か目的を持って祐一郎の前に現れたと言った。
だとすれば、この流れも、記憶を失う前の真琴が考えていた目的を達成する道筋の一部なのだろうか。
考えすぎだとは思ったが、祐一郎にはそれを否定することもできなかった。
「で、それがどうしたの、祐一郎?」
「え? あ、いや…ちょっと気になっただけだ」
「ふーん」
「それより、もうすぐ戦闘が始まるんだ。その猫から目を離すなよ」
「わかっているわよう」
そう言って、真琴は再び猫に目を落とした。
「…真琴、お前はやっぱり、名雪たちと一緒に砲のところにいないか?」
「え、どうしたのよ、急に」
再び、祐一郎の口から言葉が突いて出ていた。
「…そりゃあ、あれだ、やっぱり前線は危ないし、それに…」
「何言っているのよ。真琴だって、ちゃんと今まで歩兵の訓練してきたんだからね!」
「まぁ、そうだけどな…」
「何か祐一郎、気味が悪いわよう。真琴はここに居たいからいいの」
「失礼なこというな。ちょっと心配してやっただけだ」
真琴が不審気な視線を祐一郎に向けたときだった。
猫が、ぴくっと動いた。
「あれ、どうしたの?」
「ん、猫がどうかしたのか?」
祐一郎が視線を落としたその時、
パーン、という火薬の音がした。
咄嗟に、祐一郎は胸壁の向こう、南方に視線を移す。
そして、そこからさらに立て続けに続く火薬の音。
それが何を意味するかは、祐一郎だろうと誰であろうと、瞬時に理解できた。
「北川!」
………
歳三は、自陣の胸壁の傍まで来て、南の様子を伺っていた。
「来たぜ、来たぜ、敵さんたちが」
「本当に遮二無二北上してきたような感じですな。あの様子では、稲荷山の部隊の存在にすら気づいていなかったように見えますが」
新撰隊の隊長である斉藤が、不思議そうに音のする方向を見つめている。
折りしも、夜の闇を押し上げようとする朝日が、東の方角から少しずつ昇り始めていた。
「こりゃあ、うまいことやれそうですね、副長」
「ああ、この様子じゃまだこちらにも気づいてねぇみたいだしな。各隊、出る準備は出来ているか!」
「おう!」
幕軍諸隊の隊長たちが、刀を上に突き上げて答えた。
「よし、瞬煌隊は、とりあえず胸壁から支援だ。俺が合図したら発砲を始めろ。純義隊、回天隊、誠忠隊、新撰隊、馬鹿な薩長賊どもを会津勢と共に挟み撃ちにしてやれ!」
「おっしゃあ!!」
「蹴散らしてくれるわ!!」
直参旗本・御家人からの威勢のいい掛け声とともに、カチャカチャとした音が響き、隊士たちの火縄銃、ゲベール銃に弾が込められた。
「薩長め、行くぞ!」