第九話「信義あり」

翌日のことだ。
祐一郎は名雪と共に神尾家の屋敷へと向かった。
神尾家は藩内でも上士に数えられる家であり、相沢家や水瀬家よりも格が上である。
当然、門構えも立派であるものなのだが…
「…ここでいいのか?」
祐一郎がその門を見て言う。
「多分…表札にも『神尾』って、書いてあるし…」
名雪も自信なさげに答える。表札という決定的な証拠を目にしても、まだ二人の疑いは晴れない。
無理もない。確かに敷地は広かろう、だがその構えは随分とまた荒れている。
多少狭いとはいえ、水瀬家の整いようからすれば雲泥の差である。
「きっと…江戸生活が長かったから、国許の屋敷は手が届いていなかったんだよ。」
「それは…無いと思うぞ。」
いくら江戸詰とはいえ、一度も国許に帰らないなんてことは、足軽や中間ならともかく、
上士の身分である神尾家にはあり得ない。
「第一、確か神尾様には国許に家族がいると聞いたことがあるぞ。」
「でも、こんな所に…?」
確かに門と外塀だけを見れば、人が住んでいるとは思わないであろう。
「あれ…? そういえば、神尾様は江戸で御内儀を亡くしているはず…。てことは、国許には…」
「御母堂様がいらっしゃるんだね。」
「だが…ここは御母堂様と呼ばれるような方が住むところなのか?」
「意外に徳が高そうな人が住んでいるんだよ、こういう屋敷にはね。」
「いや、こういうところには、慈悲深い尼さんが貧民救済をしているのが精一杯だと思うぞ。」
「それでもいいことだよ。」
「まあ、確かに…」
それに、祐一郎たちにとっては大したことでもない。
屋敷がどうあれ、神尾は一応見知った相手である。
「なんでもいいから、入るとするか。」
「そうだね。」
名雪も同感のようで、祐一郎はためらうことなく、門番のいない門を押した。
「相沢祐一郎でございます、只今参上いたしました!」

…と、まあ、このような感じで神尾家の屋敷へと入ったわけだが、
門ほどは、屋敷の周りは荒れていなかった。
どうも屋敷に近づくほど手入れがされているように思える。
というより、屋敷から離れるほど手入れが雑になっていると言うべきか…
(人に見られる外側を綺麗にした方がいいような気がするが…)
祐一郎はそう考えたが、そこのところは事情があるのだろうということで片づけた。
江戸詰で一緒とはいえ、神尾鈴之助本人とは今回のことまでほとんど関係がないのである。
ということは、何も知らないとほぼ同じであった。
「こちらでお待ち下さい。」
神尾家の小者は、二人を一間に案内すると、自分の主人の元へと向かった。
二人が通されたのは、ちょうど屋敷の南東側の隅に当たる部屋である。
ちょうど陽が程良く差し込んでおり、障子を開ければなかなか風雅なものが目に飛び込んでこよう。
だが、二人が通されて間もなく、足音が聞こえてきた。
そして目の前の襖が開かれる。
「おお相沢、よく来たな。」
「はい、神尾様もご健勝で何よりです。」
祐一郎と名雪が深々と頭を下げるのを見て、神尾は一度頷くと二人と対面して座った。
「まあ、挨拶などどうでもいい。喉が渇いておろう?」
「え? ああ、いや、それほどには…」
「まあ、遠慮するな。」
と言う神尾の片手には、ご丁寧に鉄瓶がぶら下がっている。
神尾は棚の陰にあらかじめ置いてあった湯飲み茶碗二つを取ると、自分の前に並べた。
神尾は手慣れた手つきで鉄瓶からそれに注ぎ入れる。
どうやら香りからして茶、それも抹茶のようだ。
「さ、二人とも遠慮せず飲んでくれ。」
「はい、それでは…」
祐一郎と名雪は目の前の抹茶に手をのばす。
二人とも滅多に抹茶を喫することはないが、この品格ある香りにはさすがに魅力を感じる。
香りに誘われるまま、二人は茶に口を付けた。
………どろり
「ぶおっ…!」
思わずうめく。
かろうじて吐き出すことはこらえたが、直ちに、身体の命ずるまま、茶碗を口から離した。
「か、神尾様…これは…」
「うむ、江戸前の蕎麦つゆを参考にして試してみたのだが、これがなかなか美味でな。」
(どこが…)
満足げに頷く神尾を前に、祐一郎は半ば呆然としていた。
江戸前の蕎麦つゆは、みりんと醤油を混ぜ、それを半分に煮詰めているため、極めて辛い。
まさか茶を煮詰めたと言うことはないだろうが…
「祐一郎〜…」
「あ、名雪…」
隣で名雪が何ともいえない困惑ぶりを呈していた。
「…お茶が喉にからみつく。」
「そのからみつきを楽しむのが茶道だ。」
「…そうなの?」
未知の茶を喫した名雪はやや涙目であった。
「私…茶道はダメみたい。」
「いや…それは…」
とっさの嘘を言ってしまったが、名雪のためにも真実は教えなくてはいけないと祐一郎は思ったが、
その先は、ここでは言わない方が良かった。
一方、神尾はもう一つの茶碗にその抹茶をもう一杯注ぐ。
「いかがかな? 喉の潤しにはなったであろう。」
「こんなに濃厚な茶を飲んだら、逆に喉が渇きますよ!」
「そうか? 旨いはずなのだが…」
そう呟きながら、神尾自身も未知の抹茶をどくりと飲み干す。
「まあ、あやつもそんなことを言ったしな…」
「あやつ、とおっしゃいますと?」
「おお、そうだった、そうだった。だが、その者の説明をする前に、今回呼んだ子細を説明せねばな。」
そう言って、神尾は何やら新しげな書物を取り出す。
表紙には「新兵制案」と書かれている。
「これは…?」
「うむ、この度、我が会津松平家の編成を変えようと思ってな。」
「編成を…?」
「そうだ、現在の弓組、槍組といった編成を廃し、洋式兵学に基づいた編成に変える。」
「洋式兵学に基づいた…」
「まだ煮詰めている段階だが、その為には小銃の一新が必要だ。」
神尾はそう言うと、「新編成案」をぱらぱらとめくり、その中の一行を指さす。
「ざっと…少なくとも三千挺、これだけの新型小銃が欲しい。」
「さ、三千挺ですか?」
「左様、中途半端に編成し直しても意味がないからな。」
「ですが…それだけの小銃をどこから…」
祐一郎の疑問はもっともなことだ。
江戸ではわずかしか買い集めることができなかったミニエー銃である。
三千挺用意するとなると、再び外国商人か幕府陸軍士官と交渉しなくてはならない。
幸い、江戸の方では幕府歩兵の装備が多少会津にも手にはいるようになっていると、
江戸残留組の方から連絡が来ている。
だが、それだけで足りるかどうか…
「うむ、そこでだ。幕府との交渉は江戸に任せておき、我らは別を当たる。」
神尾は自信たっぷりに答えた。
「別を…それはどこで?」
「仙台伊達家だ。」
仙台藩五十六万石、伊達家が江戸期を通じて治めてきた領地である。
藩政改革に成功した雄藩であり、藩内の洋式化は薩長に比肩するほどである。
江戸から国許に帰ってきたときにも、江戸詰の人間はこの藩に期待していたのだが、
実際にはそれは叶わなかった。
もともと藩というものが互いに干渉することを嫌うということもあるが、
仙台藩の政治というものが固形化しており、積極性がなかったことも挙げられる。
藩論は現在佐幕派だが、仙台藩は上士階級の支配が徹底しており、
組織全体としての藩論に活発さがない。
浪人が主役となって京で暴れ、百姓町人が歩兵となっている長州藩とは対称的な雄藩である。
だが、実は薩摩も同じ様に上士階級が支配的なのだが、これも機を改めて話題にする。
ともかく、仙台藩に会津に協力するという姿勢がなかったのである。
だが逆に言えば、こちらから持ちかければ協力を得られる可能性がある。
神尾はそれに賭けようと言うのだ。
「仙台藩士で星恂太郎、この男が墨人より直接兵学を指導されていると聞いてな。
 交渉次第では、協力を得られるかもしれぬ。」
墨人とはアメリカ人のことである。
「なるほど…それで、拙者にも同行せよと。」
「そうだ。城でのそなたを見て、とりあえずそうすることとした。」
「それで……名雪は一体何なのでしょう?」
祐一郎は名雪の方に目を向けて言う。
名雪の方も、さっきから話が無関係な方に流れているような気がしていたが、
神尾はあたかも当然のことであるかの如く、
「名雪殿にも同行してもらう。」
といった。
「………はい?」
「なにを妙ちきりんな顔をしておる。そなたの隊の幹部ではないか。」
「か、幹部ですか?」
神尾の目から見れば、そうと言えるのかもしれない。
だが、祐一郎が指揮しているのは予備隊であり、
失礼ながら、所属しているのは戦力になるのかも疑問な面々である。
しかも、幹部というなら、名雪よりも北川の方がそれらしいだろう。
「しかし、我が隊は正式なものでは…」
「隊長のそなたがそれでどうする。大きな声では言えないが、
 私は現在の主力部隊を信用しきってはおらん。今の立場より、新兵制下での立場を考えよ。」
「新兵制下………」
それは何やら大きな期待を寄せたくなる言葉であった。
「いいか? 幕府歩兵で言えば、そなたは『歩兵頭』、名雪殿は『砲兵差図役』になるのだぞ?
 まあ、隊自体が小さいとはいえ、隊長としての立場は同じと思え。」
「隊長…」
長州藩が新しく作ったこの言葉に、何やら新鮮な響きと役目を感じずにはいられなかった。
何より、祐一郎には「歩兵頭」という言葉が頭に響いた。
(俺の立場はそこまで大きくなっていたのか…)
祐一郎は心中武者震いをする思いであった。
…もっとも、歩兵頭となれば一個連隊は預かる身の上であり、祐一郎の立場とは遠く離れている。
名雪にしても差図役と言うより一般の砲兵である。
だが、この際そのようなことはどうでも良かった。
「それで…いつ出立を?」
祐一郎は興奮を抑えながら尋ねる。
「明日だ。」
「え? 明日には出かけるの?」
「薩長賊が既に準備を整えている以上、うかうかしておれん。」
「承知いたしました。」
急な展開に名雪は驚いていたが、祐一郎は既に勇み立っている。
神尾はその姿に軽く頷くと、再び茶をどくりと飲み干した。
「…それで、さっきの『あやつ』のことだが。」
「ああ、はい。」
正直、今となっては祐一郎にはどうでも良かったのだが…
「今回の仙台行きにはその者にも同行してもらう。」
「え?」
と、なれば話は別だった。
北川と話していた「怪しい男」のこともある。
「それは…」
「うむ、私が江戸から連れてきた者だ。…よいぞ、入れ。」
「!」
いつからそこにいたのか、東側の障子の向こうに「あやつ」がいた。
東から陽が射している以上、影が見えるため、気づいてもよさそうなものだが、
不覚にも祐一郎も名雪も気が付いていなかった。
するすると障子が開き、祐一郎が江戸屋敷で見た前髪の男が控えていた。
身なりは歴とした士分の格好であったが、やはり殺伐とした気配を漂わせている。
「私が側に抱えている剣術者、国之崎往次郎だ。」
紹介された前髪の剣術者が頭を下げる。
当然、祐一郎と名雪もそれに続く。
「拙者、剣客の国之崎往次郎、仙台行きでご一緒させていただく。」
と、眼光鋭い顔で祐一郎を見る。
その時、祐一郎の前にある物に目が止まった。
その途端、国之崎の目に哀れみが入ったように思えた。
(なんだ…?)
祐一郎はその視線を追ったが、そこにあるのは茶碗だけだった。
(………)
祐一郎はとっさに視線を国之崎に戻す。
だが、国之崎は既に冷静な表情で神尾の方を向いていた。
(やはり油断ならぬ奴…)
北川の忠告通りの気がした。
「…国之崎、酒臭いぞ。」
「え? いや、お母上様に飲まされまして…」
「また母上も昼間から酒などを…きつく言っておかなくてはな。」
二人は何気なく会話をしていたが、祐一郎と名雪の二人は目を丸くして聞いていた。
(昼間から酒を飲む御母堂様…)
何やら門の荒れ具合も頷けるような気がした。
残念ながら、「戊辰戦争見聞」には神尾家の御母堂様に関する直接の記述はない。
だが、その人物は推して知るべしである。
どうやら神尾と国之崎の会話も一段落ついたようである。
「国之崎は見事な剣の使い手でな。まるで剣が意志を持って動いているかのようであったわ。」
「ははあ…」
神尾は身振り手振りを交えて雄弁するが、祐一郎には想像もつかない剣である。
「そのように見事な剣とは、どこの御流儀でいらっしゃるので?」
「我が剣は父祖伝来のものにして天賦のもの、流儀などござらん。」
あたかも決まり文句の如くそう言い放つ。
要は家に伝わる秘剣だと言いたいのだろうと祐一郎は思ったが、それは同時に、
(怪しい男…)
の印象を一層強めることにもなった。
「父祖伝来の…それでは生まれはいずこで?」
「生まれついての旅の身、生国などない。」
これもまた決まり文句の如しである。
(ますます怪しい男…)
父祖伝来の剣を持ちながら、生国もない。祐一郎にとっては十分怪しい。
流派も生まれも分からないような男を、神尾は側に置いているのだろうか…
不安に駆られた祐一郎は、国之崎に聞こえないような小声で神尾に尋ねる。
「…あの男、一体何者です?」
「? あやつの言っているとおりではないか?」
「何も言ってないですよ…神尾様は何者かご存じなのでしょう?」
「しらん。江戸の道場でたまたま見かけただけだ。」
「………」
北川が言う、「薩長の間者」の危険性まで現れた。
当然、祐一郎の不安は増す一方である。
「国之崎さんって、すごい人なんだね。」
「え?」
「だって、どこの流儀にもつかないで、旅の中で剣を磨いたんだよ。すごい人だよ。」
(また、呑気なことを…)
一方、名雪は本心からこの男に感心しているようである。
祐一郎は「それこそ危ない」と言いたかったが、呑み込む。
「これが父祖伝来の生き方、誉められたことではない。」
国之先は手で名雪を制しながら言う。その物腰に油断というものが微塵もないのだ。
(大体、国之崎などと……ん? くにのさきゆきじろう?)
祐一郎は口の中でその名前をもう一度繰り返す。
(国の先行き…あからさまに尊皇志士の偽名じゃないか…)
田舎の農民上がりの志士は名字など許されていないために偽名を称す。
偽名とはいえ、志士の間ではそれが通称となるのだ。
まさか間者がそのような偽名そのままで来るとは思えなかったが、何しろ怪しい男である。
祐一郎は神尾に膝をにじりよせ、一層声を潜めて話しかける。
「神尾様、このような明らかに偽名の男などを…」
だが、祐一郎がそこまで言ったときだった。
「相沢殿。」
「え? あ、はい…」
国之崎が祐一郎に呼びかけたのだ。
「相沢殿は『信義』という言葉をご存じか?」
まるで祐一郎が神尾に話した言葉が聞こえていたかのように、国之崎は話し出す。
祐一郎もしまったと思ったが、物理的に聞こえているはずがない。
名雪にも聞こえていないようで、突然の国之崎の声に驚いている。
ともあれ、祐一郎としては答えねばならない。
(馬鹿にしてやがる…)
祐一郎は突然の呼びかけに対してこう感じた。
「信義 一旦約束したことを、破らずにその通りに実行すること」(三省堂 新明解国語辞典より)
まさしく会津士魂の根幹そのものではないか。
「信義とは、士道においてもっとも重要であることではないのか?」
国之崎もそれは承知のようで、祐一郎の答えを待つことなく続ける。
「いかにも。俺はそう考えている。」
何やら呑まれたような気分になった祐一郎は内心不快であったが、それは隠して答える。
「それならば、それは信念というものにも勝るのではないか?」
「…そうなるだろう。」
信念とは多分に個人的なもの、主従関係を第一とする士道において、
信念に信義が勝るのは当然のことだと言える。
「拙者…神尾様にこれ以上なき恩義がある。すなわち拙者には信義を果たす義理がある。
 拙者が神尾殿に対して信義を全うする以上、仮に拙者が勤王の志士であったとしても、
 それは信義という至上の存在の下には、全く意味を為さないのではないか?
 すなわち、拙者が勤王志士であるかなど、懸念する対象にはならない、と思うが?」
鋭い眼光がほとばしる顔からは想像もつかないほどの多弁であった。
「………」
祐一郎の方も押し黙らざるを得ない。
どうにも詭弁のようなところがある。
だが、話しぶりからすれば、この男に神尾に対して信義があるのは確かのようである。
それだけで、祐一郎には十分に思えた。
「御無礼致した。お許し下され。」
祐一郎は頭を下げる。だが、国之崎の反応はまた意外なものであった。
「御無礼? 何を言う、相沢殿は拙者に対して何ら無礼な発言などしておらぬではないか。
 これからもよしなに頼み申す。」
「…え?」
国之崎の頭も深々と下がる。だが、祐一郎には逆に疑問が残る。
確かに祐一郎の発言など国之崎に直接聞こえているはずがない。
では、一体どうして…
(やはり、油断のならぬ男…)
頭を下げながらも、祐一郎はその警戒心だけは捨てることができなかった。
「二人とも、暫しの旅路、よろしく頼むぞ。」
「国之崎君、よろしくね。」
神尾と名雪の二人は実に楽観的なものであった………
……後世のことだが、こんな話がある。
「いやあ、あの男を最初に見たときは、確かに驚いた。
 私も散々京都で手練れと渡り合ったものだが、あのような男は見たことがなかった。
 その剣は見たこともないような動きをしてな。
 近藤先生や土方さんとは違う、どちらかというと沖田君のような剣だった。
 天才性の剣とでも言ったらいいのだろうかね。
 あの男には身体からほとばしるようなものがあった。だが、殺気でもないんだな。
 不思議なものだったよ。」(山口五郎翁談より)
後に、国之崎を見た者が語った言葉である。
どうやらこの男の正体を正確に知る者はいなかったようである。
当時いなかった以上、現在の我々が正確に知る方法などあるまい。
想像するしかないであろう。
…さて、神尾家の屋敷から退出する折のことである。
国之崎が祐一郎に尋ねた。
「相沢殿もまた、薩長と戦うのであろう。」
「当然だ。」
「俺は信義のために戦う。相沢殿はいかなる理由からで?」
「俺は………俺も、信義、これを守るためだ。」
「信義…それは、いかなるものに対する信義ですかな?」
「主君、それ以外にあるまい。」
「さて…本当にそうだろうか? その主君は、徳川か、会津か。」
国之崎の意外な問いかけに、祐一郎の顔が再び固まった。
(俺の信義…幕府に対するものではないはず、それでは藩のためか?
 いや…己の意地…もしくは……この若松の地か?)
「いや、深くは考えなされるな。深く考えるべきことではないのであろう。」
国之崎は祐一郎の答えを待つことなくそう言うと、静かに門の中へと戻っていった。
その門が閉じられても、祐一郎の頭は同じことを考えていた。
(この地……馬鹿な、俺はこの地が嫌いだ。それだけは確かだ。だが…)
思い詰めたような表情をしている祐一郎に、名雪が不安そうに話しかける。
「祐一郎、どうしたの? 何かさっきからおかしいけど…」
「…いや、大丈夫だ。帰ろうか。」
「うん。」


帰りがけのこと、二人は水瀬家屋敷から出てくる人影を目撃した。
「あれ……何者だ?」
祐一郎が指を指しながら隣の名雪に尋ねる。
初老の男、身分的には上士の分類に入ろうか。
「あれは………折島伸十郎様だよ。」
「折島……どういう御仁だ。」
「お父さんの上役なんだよ。御弓奉行だからね。」
「ほう…しかし、なんでまた今になって…」
祐一郎は呟いたが、それに対する名雪の返答はなかった。
名雪も、名雪なりの思考を張り巡らせていたのだろう。
「おお、名雪殿、お久しぶりじゃな。」
「…え? あ、はい、お久しぶりです、折島様。」
手を挙げて近寄ってくる折島に、名雪が頭を下げる。
相沢もとりあえず会釈はする。
折島は名雪の父親のことを二三話すと、
「名雪殿も何かと大変だろうが、気にすることはない。拙者と秋子殿に万事任せておけ。」
と言って、胸を打つ。初老とはいえ若々しい。
「は、はい…」
一方、名雪は折島の言っていることが分からずに、曖昧な返事を返す。
だが、折島も返答の内容には興味がなかったようで、その話題はそこで終わった。
「そなたは…誰だったかな。」
「え?」
折島の視線は祐一郎の方に移っていた。
祐一郎としても初対面なのだから、折島の疑問も当然である。
「拙者は大砲方の相沢祐一郎と申します。」
「おお、そなたが祐一郎殿か。秋子殿から話は聞いている。
 お父上はさぞご無念であられたことだろう。ご冥福をお祈りいたす。」
「いえ、父上は士道を全ういたしました。悔いは無いものと存じます。」
士道……祐一郎の父は、何に士道を全うしたのか。藩主の容保だろうか。
だが、それでは容保がとった行動はあまりに残酷なことであろう。
おそらく死んだ後になって無念さがこみ上げているに違いない。
「しかし、相沢家もそなた一人になってしまわれたのだな。さぞ寂しかろう。」
「いえ、水瀬家は我が家族も同然、幸いにも寂しくはござりません。」
「ふむ…そうか、確かにそうかもしれぬな。」
折島はちょっと考えるような仕草をしたが、
「邪魔をしたな。それでは名雪殿、祐一郎殿、これにて御免。」
そう言うと、二人が来た道の方を戻っていった。
二人はその背中をしばらく見つめていたが、
「入るか。」
「うん。」
何やら一抹の疑問を残しながら、二人は屋敷へと戻った。

「お帰りなさい、二人とも。」
いつもと変わらぬ笑顔で秋子さんが出迎える。
「ただいま。お母さん、明日仙台に行くことになったよ。」
名雪が毎度のことながら嬉しそうに秋子さんに話す。
折島のことは尋ねようとしない。
「仙台に?」
「うん、祐一郎と一緒にね。」
「そうなんですか?」
秋子さんはその後ろの祐一郎に真偽を尋ねる。
「ええ、まあ。」
「じゃあ、早速支度をしなくちゃね。」
そうとなると、秋子さんの行動は素早い。
源助に何やら買いに行かせると、自分は奥へと入っていった。
「私も支度をしてくるよ。」
「え?」
祐一郎は名雪を見たが、既に姿は廊下の向こうへと消えていた。
(まだ昼前なのにな…)
まあ、旅慣れしていない水瀬家はこのようなものなのかもしれない。
祐一郎も自室へと戻ろうとしたとき、
「……あれは真琴だな。」
縁側に真琴がいた。
「よう、真琴。何やってんだ?」
「え? 池を見ていただけだけど…」
見れば、池の中をのろのろと何かが動いている。
祐一郎はそれが何かは興味なかったが、ぼーっとしている真琴には用があった。
「お前、居候しているんだから、草むしりくらいやったらどうだ。」
「今は冬だから大丈夫よ。」
「…もうすぐ二月だぞ。今からやっても早くはない。」
「庭師のあんちゃんがやってくれるから大丈夫よぅ。」
「そういう問題じゃねえだろうが!」
そう言ってみたものの、
自分だって、相沢家の扶持米はいただいていても、水瀬家にはなにもしていない。
あまり強い立場でもなかった。
「…まあ、いいが、俺と名雪は明日からいないから、秋子さんを手伝うんだぞ。」
「え? そうなの?」
「ああ、明日から仙台だ。いつまでかかるかわからんからな。」
「ふーん…」
真琴は気にしているのかいないのか分からない反応をした。
まあ、祐一郎にとっては真琴の反応などどうでもいいことだったので、
それ以上は言わなかった。
「じゃあな、俺は部屋に戻る。」
「道中、せいぜい気を付けることね。」
「何?」
祐一郎は振り返ったが、真琴は楽しそうに自室へと入っていってしまった。
(せいぜいってなんだ…)
祐一郎は少し気になったが、
真琴なりの心配か、はたまた一種の冗談かということで片づけた。
祐一郎は真琴の部屋の障子をしばし眺めていたが、
耳に入ってきた鳥のさえずりで我に返ると、それ以上何もせずに自室へと戻った。
(洋式兵学でも調べておくか…)
いつの世も下調べは必要なのだろう。
祐一郎は蘭書へと手をのばした。

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